第1話「出発の朝、あるいは嵐の予感」
王立アルカディア魔法学院への入学は、春の始まりと決まっていた。
アルカディア侯爵邸の出発の朝、レオンは馬車の前に立って、深く息を吸った。十歳で引き取られてから四年。この屋敷での生活にはとっくに慣れたつもりだった。
つもりだった。
「レオン、荷物はそれだけか」
エルフィーナが馬車の脇に立っていた。
旅装は完璧だった。アルカディア家の紋章入りの外套、艶やかな黒髪は一本の乱れもなく結い上げられていた。十四歳になった姉は、どこから見ても完璧な侯爵令嬢だった。
ただし、外套の下に稽古着を仕込んでいることをレオンは知っていた。
「姉上、学院に木刀は持ち込めませんよ」
「剣術の授業があると聞いた」
「それは授業用の木刀を使うんです」
「自分の得物の方がいい」
「……」
レオンは空を見上げた。春の空は青く、清々しかった。
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見送りは盛大だった。
門番のカルロスとヴィクター、護衛のマルクス、騎士団の面々、拾われた子たちが全員、門の前に整列していた。ゴドフリーだけが馬車に同乗する。学院の近くで別れる手はずだった。
「お嬢様、ご武運を」
ハインツが膝をついた。騎士団の全員が倣った。
「ああ」
エルフィーナはそれだけ言った。それだけで十分だった。
ソフィアが進み出た。目が少し赤かった。
「お嬢様、お体に気をつけて」
「稽古は続けるんだぞ、ソフィア。睡眠と食事も削るな」
「……はい」
ソフィアが唇を引き結んだ。隣でルカが袖を引っ張っていた。泣くのを堪えているのがわかった。
エルフィーナはルカの頭に手を置いた。
「泣くな。帰ったら手合わせをしてやる」
「……はい」
ルカの声が震えていた。エルフィーナは何も言わず、ただ一度だけ頷いた。
レオンはその光景を見て、胸の奥が少し痛くなった。
姉は慰め方を知らない。知らないが、手を置く。それだけで、みんな泣き止む。
不思議な人だと、四年経った今も思う。
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馬車が動き出した。
窓から見ると、全員がいつまでも立っていた。ハインツが何か叫んだ。たぶん「ご武運を」だった。
エルフィーナは窓から身を乗り出して手を振った。侯爵令嬢のする所作ではなかったが、誰も咎めなかった。咎められる雰囲気ではなかった。
やがて屋敷が見えなくなった。
エルフィーナは窓から身を引いて、正面を向いた。その顔はいつも通りだった。感傷も、高揚も、不安も、何もない。ただ静かだった。
「姉上」
「何だ」
「……寂しくないんですか」
エルフィーナは少し考えた。
「帰れば会える」
「そうですけど」
「それ以上の何がある」
レオンは黙った。
ゴドフリーが手帳を開いた。馬車の中でも覚書は続くらしかった。
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しばらく走ったところで、エルフィーナが口を開いた。
「レオン」
「はい」
「学院に着いたら、まず何をする」
「挨拶と、部屋の確認と、時間割の把握です」
「稽古場の確認は」
「……それは後でいいと思います」
「先の方がいい。場所を知らないと計画が立てられない」
レオンは息を吐いた。
「姉上、学院は勉強をする場所ですよ」
「わかっている。魔法も剣術も座学も全部やる」
「それは結構なんですが」
「稽古も全部やる」
「……どこにそんな時間が」
「作る」
断言だった。反論の余地がなかった。
ゴドフリーが何かを書き留めた。「お嬢様の時間管理についての考察」とでも書いているのだろうとレオンは思った。
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王都が近づくにつれ、道が広くなった。同じ方向に向かう馬車が増えた。どれも紋章入りで、入学する貴族の子弟たちだろうと見当がついた。
エルフィーナが窓から外を眺めた。
「あの馬車、ヴァレンティアの紋章だ」
レオンは思わず身を乗り出した。金と銀の紋章。間違いなく王家の紋章だった。
「……シグルト殿下も同じ日に」
「そうだろう、同じ学年だ」
エルフィーナの声は平坦だった。婚約者と同じ馬車の列に並んでいるという事実に、これっぽっちも動じていなかった。
レオンは向かいの席の姉を見た。
窓の外を眺める横顔は、相変わらず美しかった。黒髪、黒い瞳、整った輪郭。学院に着けば間違いなく注目を集める。婚約者が王太子だと知れれば、さらに。
そしてそのすべてに、本人は一切興味がない。
「姉上、殿下と学院でお会いしたら、どうするつもりですか」
「挨拶をする」
「それだけですか」
「何かある」
「婚約者ですよ」
「知っている」
「もう少し……その、意識するとか」
エルフィーナが首を傾げた。
「何のために」
レオンは返答に詰まった。
何のために、と言われると。
論理的に答えられなかった。
「……なんでもないです」
「そうか」
エルフィーナは再び窓の外に目を向けた。
王家の馬車がゆっくりと並走していた。
レオンは小さく息を吐いた。
――仕方ない。
学院でも、おそらく色々と仕方なくなるのだろうと、レオンはすでに諦めていた。
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王都の城壁が見えてきた頃、ゴドフリーが手帳を閉じた。
「若」
「はい」
「学院での日々も、どうかよろしくお願いいたします」
それは家令としての言葉というより、一番弟子としての言葉だった。
「……ゴドフリー、一つお願いがあります」
「何でしょう」
「学院での出来事を、覚書に書くのだけはやめてください」
「それは難しいお願いですね」
「なぜですか」
「お嬢様が学院でどのように武術を展開されるか、記録しない理由がございません」
レオンは窓の外を見た。
春の王都が、静かに近づいていた。
どうせ、記録に値することが山ほど起きるのだろう。
――仕方ない。
馬車はゆっくりと、王立アルカディア魔法学院へ向かって走り続けた。




