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侯爵令嬢は恋を知らぬまま最強である 〜最強なのに、恋だけがわからない〜  作者: N


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幕間「アルカディア家の、ごく普通の朝」

 アルカディア侯爵邸の朝は、夜明け前に始まる。


 レオンがそれを知ったのは、引き取られた翌朝のことだった。あれから二年が経った今も、変わっていない。


 変わらないどころか、規模が拡大していた。


---


 夜明けの鐘が鳴る前、庭はすでに人でいっぱいだった。


 門番のカルロスとヴィクター、護衛のマルクスとその部下三人、侯爵領騎士団から今週当番の六名、そして屋敷の使用人のうち自主参加の者が七名。総勢十八人が、白み始めた空の下で整列していた。


 全員の視線が、庭の中央に注がれていた。


 エルフィーナが木刀を持って立っていた。


「始めるぞ」


 それだけで、十八人の背筋が伸びた。


 レオンは縁側に腰を下ろし、温かいお茶を飲みながらその光景を眺めた。引き取られた初日は自分も参加していたが、今は記録係を兼ねた観察役に落ち着いていた。参加すると翌日まで筋肉が動かなくなるからではない。……少しはそのせいでもある。


 隣にゴドフリーが座った。手帳を開きながら。


「若、おはようございます」


「おはようございます、ゴドフリー。また増えましたね、参加者」


「ええ。今週から厨房のペドロも加わりました」


「料理人まで」


「お嬢様が『包丁を持つ手つきがいい、剣の才がある』とおっしゃいまして」


 レオンはお茶を一口飲んだ。何も言わなかった。言えることが何もなかった。


---


 稽古が始まった。


 エルフィーナの号令で全員が動く。基礎の型から入り、徐々に実戦形式へ移行する。この流れはレオンも体で覚えていた。


 十分ほどで、最初の脱落者が出た。騎士団の若い一人が、型の乱れを指摘されて課題動作の反復に回された。恥ずかしそうな顔をしている。


「ゴドフリー、今の指摘、書きましたか」


「勿論でございます」


 ゴドフリーの手帳への書き込みは淀みなかった。エルフィーナが何か言うたびに走り書きし、稽古の合間に清書する。この二年でその手帳は三冊目に突入していた。


「ゴドフリー、聞いていいですか」


「何でしょう」


「その覚書、最終的にどうするつもりですか」


「書に纏めて、後世に伝えます」


「姉上は許可していましたか」


「……お聞きしたところ、『好きにしろ』とのことでした」


 レオンは遠い目をした。姉は自分の武術が後世に伝わることに何の感慨もないらしかった。


---


 稽古が中盤に入った頃、屋敷の勝手口から小さな影がいくつか現れた。


 拾われた子たちだった。


 一番年上のソフィアが十二歳、一番下のルカが七歳。今は五人が屋敷に住んでいた。全員がすでに稽古着に着替えていた。


「おはようございます、レオン様」


 ソフィアが頭を下げた。他の子たちも倣った。


「おはよう。今日も早いね」


 ソフィアが少し肩をすくめた。


「お嬢様はもう二刻は動いていらっしゃいます。私たちは子どもだから遅くていい、とおっしゃるので」


 それからきっぱりと付け加えた。


「ただし、睡眠と食事だけは削るなと。それは絶対です」


 十二歳の言葉とは思えなかった。レオンは苦笑した。


 子たちは庭の隅に整列した。エルフィーナが気づいて手招きした。騎士団の稽古の邪魔にならない場所で、子たちの稽古が始まった。


 ルカが型を間違えた。エルフィーナがしゃがんで、ルカの手を取って正しい形に直した。ルカが真剣な顔で頷いた。


 レオンはその光景を見て、何とも言えない気持ちになった。


 姉は身分で人を見ない。騎士団員にするのと同じ真剣さで、七歳の孤児の型を直す。それが当然だと思っている。


 だからこそ、みんなあの人に懐くのだ。


 レオンは自分でそう分析して、それ以上考えるのをやめた。


---


 稽古が後半に入ると、実戦形式の組手が始まった。


 エルフィーナが相手をする番になった。


 最初の相手は騎士団の副長、ハインツだった。三十代半ば、領内では一番腕が立つと言われている男だ。木刀を構える顔は真剣そのものだった。


 レオンはお茶を置いた。


 ゴドフリーの手帳への書き込みが止まった。


 始まった。


 ハインツが踏み込んだ瞬間、エルフィーナはすでに動いていた。軌跡が見えなかった。風が鳴った、と思った次の瞬間、ハインツの木刀が宙を舞い、本人は地面に膝をついていた。


 時間にして、二秒もなかった。


 庭が静まり返った。


 ゴドフリーが静かに書き始めた。手が震えていた。感動で。


「……エルフィーナお嬢様、今の動き、もう一度お願いできますか」


「いいぞ、次の相手を出せ」


 ゴドフリーは頷き、立候補者を指名した。立候補者は覚悟を決めた顔をしていた。


 レオンは縁側で膝を抱えた。


 次の相手が吹き飛んだ。


 また覚書に何かが書き加えられた。


 これがアルカディア家の、ごく普通の朝だった。


---


 稽古が終わると、全員が整列して礼をした。


 エルフィーナは木刀を下ろし、全員を見渡した。


「今日は全員よく動けた。ハインツ、先週より踏み込みが速くなっている」


「ありがとうございます」


 ハインツの声が少し上擦った。レオンはそれを見て、また何とも言えない気持ちになった。


 元騎士団団長のゴドフリーも、歴戦の副長ハインツも、拾われた子たちも、全員が同じ顔をしていた。


 師に認められた顔だった。


 エルフィーナ本人は何も気づいていなかった。


「では朝食にするか、レオン」


「……はい、姉上」


 レオンは立ち上がり、姉の隣を歩いた。


「姉上、一つ聞いてもいいですか」


「何だ」


「今日、また厨房に誰か連れてきましたか」


「ああ。市場で見かけた少年だが、目がいい。少し話したら屋敷に来た」


「……母上に報告しなくていいのですか」


「なぜ」


「……なぜ、ではなくて」


 レオンは小さく息を吐いた。


 廊下の奥から、イゾルデの静かな声が聞こえてきた。


「エルフィーナ、また拾ってきたの」


「目がいい少年だ、母上」


「……ゴドフリー」


「はい、奥様」


「部屋の準備をお願い」


「既に手配済みでございます」


 イゾルデは一瞬目を閉じ、それから朝食の席へ向かった。


 レオンは廊下に立ち尽くした。


 この家に来て二年。


 ――仕方ない。


 レオンはそう思って、食堂へ向かった。


 それ以外に言える言葉が、見つからなかった。

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