第18話「第二王子の編入、あるいは劣等感の行方」
二学期が始まって十日目の朝、掲示板に一枚の張り紙が出た。
転入生の知らせだった。
レオンはその名前を見て、少し間を置いた。
エルヴィン・フォン・ヴァレンティア。
第二王子だった。
---
その日の昼、シグルトがレオンを呼んだ。
「エルヴィンが転入してくると聞いたか」
「今朝の掲示で知りました」
「俺も昨日父上から聞いた」
「なぜ今学期から編入を」
「本人が望んだらしい」シグルトは少し間を置いた。「エルヴィンは……難しい子だ」
「難しい、というのは」
「俺への劣等感が強い。幼い頃から比べられ続けてきた。本人のせいではないが、それが積み重なっている」
「殿下はどう接しているんですか」
「俺が何をしても、エルヴィンには兄として見られる。対等に話せない」
「エルフィーナ様への態度は予想できますか」
シグルトはしばらく黙った。
「……最初は警戒すると思う。俺の婚約者として見るだろう。しかしエルフィーナのことだから」
「何かが変わる可能性がある」
「そうだ」
シグルトは静かに言った。
「レオン、エルヴィンのことを頼む」
「私がですか」
「俺では近づけない。しかしお前なら対等に話せるかもしれない」
「……わかりました」
---
翌日、エルヴィンが現れた。
入学式ではなく、授業の前に静かに教室に入ってきた。護衛を廊下に残して、一人で来た。
十三歳、銀灰色の髪。シグルトと同じ髪色だったが、顔つきが違った。シグルトの静かな自信の代わりに、どこか張り詰めた緊張があった。
教室がざわめいた。
エルヴィンは視線を無視して席に向かった。しかしその目が一瞬だけエルフィーナを見た。
エルフィーナはエルヴィンを見ていた。
観察する目だった。
エルヴィンはその目を見て、少し顔を逸らした。
---
休み時間、レオンはエルヴィンに近づいた。
「エルヴィン殿下、レオン・フォン・アルカディアと申します。エルフィーナの義弟です」
エルヴィンはレオンを見た。
「アルカディアの……義弟か」
「はい。何かお困りのことがあればお声がけください」
「兄上から頼まれたのか」
レオンは少し間を置いた。
「頼まれました。しかし私自身も、殿下のお力になれればと思っています」
「なぜ」
「新しい環境は誰でも大変です。私も引き取られた最初はそうでした」
エルヴィンはレオンを見た。探るような目だった。
「お前、養子か」
「はい」
「苦労したか」
「最初は。しかし今は慣れました」
「……そうか」
エルヴィンは少し黙った。
「一つ聞いていいか」
「はい」
「あの令嬢は、兄上のことをどう思っている」
レオンはしばらく考えた。
「信頼できる人だと思っています」
「それだけか」
「今のところは」
「兄上はあの令嬢のことが好きなのか」
「……はい、本気で」
エルヴィンは窓の外を見た。
「そうか」
「エルヴィン殿下、エルフィーナ様のことが気になっていますか」
「……気になるというより」エルヴィンは少し間を置いた。「兄上が本気になれる人間が何者か、知りたかった」
---
その日の午後の剣術授業で、グラハムが言った。
「今日から転入生が加わる。エルヴィン殿下だ」
教室が静まり返った。
グラハムはエルヴィンを見た。
「殿下、実力を見せてもらう。構えを」
エルヴィンは木刀を持った。構えた。
レオンはその構えを見た。悪くなかった。しかしシグルトと比べると、明らかに差があった。
グラハムが短評を告げた。
「基礎は整っている。実戦経験が少ない」
「はい」エルヴィンは短く答えた。
「次の者」
次はエルフィーナの番だった。
エルヴィンはその試合を見ていた。
エルフィーナが動いた。グラハムと二十合打ち合って制した。
エルヴィンの顔が変わった。
驚きではなかった。何か別のものだった。
---
授業が終わった後、エルヴィンがエルフィーナの前に立った。
レオンは少し離れたところで見ていた。
「アルカディアの令嬢」
「はい」
「兄上の婚約者か」
「そうです」
「強いな」
エルフィーナはエルヴィンを見た。
「殿下も悪くない構えをしています」
「兄上と比べれば」
「比べていません」
エルヴィンは少し止まった。
「……比べないのか」
「何のために比べるんですか」
「兄上と俺は、いつも比べられる」
「それは周囲の話です。私は目の前の人間を見ます」
エルヴィンはしばらくエルフィーナを見た。
「……お前は変わった令嬢だな」
「よく言われます」
「兄上がお前に本気になる理由が、少しわかった気がする」
「どういう意味ですか」
「兄上を兄上として見ない人間が、お前くらいしかいないということだ」
エルフィーナは少し考えた。
「殿下を王太子として見ていないということですか」
「そうだ。兄上はいつも王太子として見られる。お前だけが強い稽古相手として見ている」
「それはそうです。殿下は強い」
「兄上が羨ましいと思ったのは久しぶりだ」
「何が羨ましいんですか」
「お前に、そういう目で見てもらえることが」
エルフィーナはしばらく考えた。
「エルヴィン殿下」
「何だ」
「殿下の構えを見ました。修正できる部分があります。稽古をつけましょうか」
エルヴィンは目を丸くした。
「……俺に?」
「はい。基礎が整っているから、修正すれば伸びます」
「兄上の婚約者が、なぜ俺に稽古を」
「強くなりたい人間に稽古をつけるのは当然です。身分は関係ない」
エルヴィンはしばらく黙っていた。
それから、小さく言った。
「……強くなりたいか、と聞かれたら、なりたい」
「では来い。明日の朝、中庭で」
エルフィーナは歩き出した。
エルヴィンはその背中を見ていた。
---
夜、シグルトがレオンを呼んだ。
「エルヴィンがエルフィーナと話していたのを見た」
「はい。明日から稽古をつけるそうです」
シグルトは少し黙った。
「エルフィーナらしいな」
「ええ」
「エルヴィンの顔が、久しぶりに柔らかかった」
「気づいていましたか」
「兄として見ていた。気づかないはずがない」
シグルトは窓の外を見た。
「レオン、エルヴィンはお前に何か言ったか」
「兄上が本気になれる人間が何者か知りたかった、と言っていました」
「そうか」
「それから、兄上を兄上として見ない人間がエルフィーナ様くらいしかいない、とも」
シグルトはしばらく黙っていた。
「……エルヴィンは賢い子だ。ただ、自分のことを過小評価しすぎている」
「エルフィーナ様が変えてくれるかもしれません」
「ああ」シグルトは静かに笑った。「あの人は、そういうことをする」
「意図せず、ですが」
「意図せず、だからこそだ」
---
その夜、ミレーユがレオンに言った。
「エルヴィン殿下、どんな方でしたか」
「劣等感が強い。しかし真剣な目をしていました」
「エルフィーナ様が稽古をつけるんですよね」
「はい」
「また変わる人が増えますね」
「そうなりそうです」
ミレーユは少し間を置いた。
「レオン様、今日のエルフィーナ様、普段と少し違いませんでしたか」
「どういう意味ですか」
「昨日の殿下との話の後から、時々考え込む顔をしています」
レオンは少し考えた。
「……気づいていましたか」
「エルフィーナ様のことは、よく見ています」
「そうですね」
「何かが動き始めている気がします」ミレーユは静かに言った。「ゆっくりと、しかし確実に」
レオンは窓の外を見た。
中庭から素振りの音が聞こえた。
しかし今夜は、途中で止まる間があった。
また考えているのだろうとレオンは思った。
何を考えているかは、まだわからなかった。
しかし変わっていることだけは、確かだった。




