第15話「道場開設、あるいは誰も止められなかった」
問題が発覚したのは、夏休みの残り五日前だった。
レオンが朝食の席に行くと、父ガルディアスとエルフィーナが何かを話していた。テーブルの上に羊皮紙が広げられていた。
嫌な予感がした。
「何の話ですか」
「道場だ」エルフィーナが言った。
「道場」
「侯爵家の土地の北端に空き地がある。そこに道場を建てる」
レオンは羊皮紙を見た。見取り図だった。道場の設計図だった。すでにかなり具体的に書かれていた。
「……いつ決めたんですか」
「三日前」
「なぜ三日前に」
「老師の道場が遠い。毎日通うには不便だ。ならば自分で建てればいい」
「自分で建てる、というのは」
「父上が土地を提供してくれる。建設は侯爵家が手配する」
ガルディアスが満面の笑みで言った。
「さすがだ、エルフィーナ。道場を持つとは」
「父上」レオンは父を見た。「止めなかったんですか」
「なぜ止める。さすがな考えだ」
レオンは天井を見た。
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イゾルデを呼んだ。
イゾルデは設計図を見た。エルフィーナを見た。ガルディアスを見た。レオンを見た。
「レオン」
「はい」
「いつから話が進んでいたの」
「三日前だそうです。私も今朝知りました」
「……あなた」イゾルデは夫を見た。「なぜ私に相談しなかったの」
「さすがな考えだと思って」
「それは評価であって相談の答えではないわ」
イゾルデは深く息を吐いた。
「エルフィーナ」
「はい、母上」
「道場を建てる理由を聞かせなさい」
「老師の道場が遠い。学院がある間は通えない。であれば自前の道場があれば稽古の効率が上がる。カイやミレーユ、アロイスも使える。ゴドフリーの覚書の実践場にもなる」
イゾルデは少し黙った。
「……論理は通っているわね」
「はい」
「ただし建設費用と維持費の計算はしたの」
「していない」
「そこが問題ね」
「母上が計算してくれるか」
イゾルデは目を閉じた。
「……ゴドフリー」
「はい、奥様」
「費用の見積もりをお願い」
「既に取り掛かっております」
レオンはゴドフリーを見た。ゴドフリーは手帳とは別の帳面を持っていた。
「……いつから動いていたんですか」
「お嬢様から相談を受けた三日前からです」
「私より先に」
「若より先にお嬢様からご相談をいただきました」
レオンは少し考えた。
自分だけが知らなかった、という事実を確認した。
――仕方ない。
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その日の午後、シグルトが書斎でレオンと話した。
「道場を建てるのか」
「はい。止められませんでした」
「止める必要があったか」
「費用の問題が」
「アルカディア侯爵家の財政に問題はないだろう」
「財政上は問題ありません。ただ」
「ただ?」
「道場ができると、また人が増えます」
シグルトは少し考えた。
「増える、というのは」
「カイ、ミレーユ、アロイスが使う。ゴドフリーが弟子を募集する可能性がある。老師も関わってくる可能性がある」
「……それがエルフィーナの周りの常だろう」
「そうなんですが」
シグルトは静かに笑った。
「俺も使っていいか」
「道場をですか」
「学院の休みのたびにここに来る理由ができる」
レオンはシグルトを見た。
「……殿下、それは」
「エルフィーナに会いに来る口実が増えるということだ」
「正直ですね」
「お前には正直に言った方が早い」
レオンは少し間を置いた。
「……わかりました。歓迎します」
「ありがとう」
シグルトは立ち上がった。
「レオン、一つだけ聞いていいか」
「はい」
「エルフィーナは、俺のことをどう思っていると思うか」
レオンはしばらく考えた。
「信頼できる人、だと思っています」
「それだけか」
「今のところは、それだけです」
「……そうか」
「ただし」レオンは続けた。「姉上が人を信頼するのは、そう簡単ではありません。信頼できる人、という評価は、姉上にとって最上位に近い言葉です」
シグルトはその言葉をしばらく噛み締めた。
「……そうか」
「はい」
「なら、今はそれで十分だ」
シグルトは部屋を出た。
レオンは一人残った。
その顔が、少し複雑だった。
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夕方、カイとアロイスが道場の予定地を見に行っていた。
北端の空き地は、思ったより広かった。
「これだけ広いと、かなりの規模になりますね」カイが言った。
「ああ」アロイスが言った。「エルフィーナの令嬢は本当に、思ったことをすぐ実行するな」
「それがエルフィーナさんですよ」
「貴族の令嬢がこういうことをするのは珍しい」
「アロイス様の家では、こういうことはしないんですか」
「しない。全て段階を踏んで、相談して、承認を得て、それから動く」
「大変そうですね」
「当然のことだと思っていた」アロイスは空き地を見た。「しかし、思ったことを即座に実行できる、というのも一つの力だと気づいた」
「エルフィーナさんから学びましたか」
「……学んでいる。毎日」
カイはアロイスを見た。
「アロイス様、学院に戻ってから変わりますよね、絶対」
「変わるか」
「変わります。いい方に」
アロイスは少し黙った。
「……カイ・ヴェルナー」
「はい」
「俺はお前に謝らなければならないことがある」
「学院での件ですか」
「ああ」
「もう気にしていません」
「俺は気にしている」
アロイスは空き地を見たまま言った。
「お前は正当に入学した。才能がある。俺が身分で判断したのは間違いだった」
「……ありがとうございます」
「礼はいらない。これは俺の問題だ」
カイは少し笑った。
「エルフィーナさんみたいなことを言いますね」
「そうか」
「礼はいらない、って。エルフィーナさんもよく言います」
アロイスは少し間を置いた。
「……あの令嬢に染まっているのかもしれない」
「それでいいと思います」
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夜、ミレーユがレオンの隣に来た。
「道場ができるんですね」
「ええ。止められませんでした」
「止める必要はないと思います」
「そうですか」
「エルフィーナ様がやりたいことを全力でやっている。それがエルフィーナ様ですから」
ミレーユは窓の外を見た。庭でエルフィーナとシグルトが稽古をしているのが見えた。夜になっても続けていた。
「レオン様」
「はい」
「今学期、エルフィーナ様の周りが随分変わりましたね」
「ええ」
「カイさんが弟子になって、アロイス様が変わって、大会があって、剣聖が現れて、道場ができる」
「全部エルフィーナ様が引き起こしたことです」
「本人は気づいていない」
「これっぽっちも」
ミレーユは笑った。
「それでも、私は」
「ミレーユ様」
「わかっています。でも言わせてください」
ミレーユは庭を見た。
「エルフィーナ様の傍にいると、自分が変わっていく気がします。強くなりたいと思う。もっとよくなりたいと思う。それは恋愛とは少し違うかもしれないけれど」
「少し違う、というのは」
「エルフィーナ様のためなら何でもできると思う。でも同時に、自分のために強くなりたいとも思う。エルフィーナ様がそれを教えてくれた気がします」
レオンは黙って聞いていた。
「……ミレーユ様は強くなりましたね。この夏で」
「そうですか」
「大会の時とは動きが違います」
「エルフィーナ様のおかげです」
「ミレーユ様自身が努力したからです」
ミレーユは少し黙った。
「……レオン様は、いつもそう言いますね」
「事実ですから」
「エルフィーナ様も同じことを言います」
「姉上譲りかもしれません」
ミレーユは笑った。今夜は泣かなかった。
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夏休みの最後の夜だった。
篝火を囲む人数は、最初の夜より増えていた。
エルフィーナ、シグルト、レオン、ミレーユ、カイ、アロイス、ゴドフリー、ソフィアたち、そして父ガルディアスと母イゾルデまでいた。
ガルディアスが上機嫌で酒を飲んでいた。
「いい夏休みだったな。さすがだ、エルフィーナ」
「父上、何がさすがなんですか」レオンが言った。
「全部だ」
「全部、というのは」
「こんなに人が集まった。道場もできる。全部さすがだ」
イゾルデが夫の隣で紅茶を飲んでいた。その顔が少し柔らかかった。
「本当に、賑やかな夏休みでしたね」
「そうですね」レオンが言った。
「来年の夏休みはもっと増えるかもしれないわね」
「……覚悟しておきます」
シグルトが静かに言った。
「来年も来ていいか、侯爵夫人」
「もちろんです、殿下。ただし事前にご連絡を」
「わかりました」
カイがアロイスに小声で言った。
「俺たちも来年来ていいですかね」
「俺は来る」
「アロイス様、すごい変わりましたね」
「そうか」
「学院での顔と全然違います」
「……うるさい」
アロイスは篝火を見た。しかしその顔は怒っていなかった。
エルフィーナが立ち上がった。
「明日から学院だ。今夜は早く寝ろ」
「姉上が言いますか」レオンが言った。
「何だ」
「一番遅くまで起きているのは姉上ですが」
「稽古が残っている」
「今夜くらいは休んでください」
エルフィーナは少し考えた。
「……そうするか」
全員が少し驚いた。
シグルトが静かに言った。
「珍しい」
「今日は疲れた」
「何があった」
「道場の設計を見直していた。老師に意見をもらいたい部分がある」
「……稽古ではなく設計の話をしていたのか」
「ああ。老師に文を送った。来週返事が来る」
レオンは空を見た。
星が多かった。
夏休みが終わろうとしていた。
道場は来月には建ち始める予定だった。
学院に戻れば二学期が始まる。
エルフィーナの周りはまた変わっていくだろう。もっと人が増えて、もっと騒がしくなって、本人だけが何も気づかないまま、また誰かを変えていくのだろう。
レオンはそれを、少し遠くから見ていた。
――仕方ない。
それが自分の役目だと、わかっていた。
篝火が静かに燃えていた。




