表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
侯爵令嬢は恋を知らぬまま最強である 〜最強なのに、恋だけがわからない〜  作者: N


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

20/56

幕間「夢の中の道場」

 夢を見た。


 久しぶりの夢だった。


 前世の夢だった。


---


 最初の記憶は、六歳の頃だった。


 道場の板張りの床に、小さな女の子が仰向けに倒れていた。


 天井が見えた。古い木の梁が走っていた。どこかで木刀が風を切る音がした。


 女の子は起き上がった。


 膝が痛かった。手のひらが赤かった。しかし泣かなかった。泣く気にならなかった。


 向かいに少年が立っていた。十二歳、長身、黒髪。木刀を構えたまま、妹を見下ろしていた。


「立てるか、凛」


 長兄の颯太だった。


「立てる」


 凛は立った。膝を払った。木刀を拾った。


「もう一回」


「いいのか。膝から血が出ているぞ」


「いい。もう一回」


 颯太は少し間を置いた。


 それから、笑った。


「……お前は本当に馬鹿だな」


「馬鹿じゃない」


「馬鹿だ。でも」


 颯太は構えた。


「それが俺たちの家の血だ」


 二人は動いた。


---


 次の記憶は、九歳の頃だった。


 道場の縁側で、凛は次兄の隣に座っていた。


 次兄の蓮は颯太より二つ下で、十五歳だった。長い手足を持て余したように縁側に座り、お茶を飲んでいた。


「凛、今日の型、右肘が高かった」


「わかってる」


「わかってるなら直せ」


「直そうとしてるから言わなくていい」


 蓮は少し笑った。


「怒るなよ」


「怒ってない」


「怒ってる顔してる」


 凛は蓮を見た。蓮は涼しい顔をしていた。颯太と違って口数が少なく、動きで語る男だった。しかしこういう時だけ、妙によく喋った。


「蓮兄、今日の颯太兄の踏み込み、最近変わった気がする」


「気のせいじゃない。腰の入れ方を変えた」


「なんで」


「凛が速くなったからだろう」


 凛は少し考えた。


「私が速くなったから、兄ちゃんが変えた」


「そうだ。お前が強くなると、俺たちも強くなれる」


「……それって」


「お前が俺たちの稽古相手だってことだよ」


 蓮はお茶を飲んだ。


「凛、強くなれ。お前が強くなれば、俺たちはもっと強くなれる」


 凛はその言葉を聞いた。


 何かが胸の中で灯った。


 それが嬉しかった。褒め言葉でも慰めでもなく、本気の言葉だった。お前が必要だという意味だった。


「……うん」


 凛は頷いた。


「じゃあ、もう一回やる」


「今日の稽古は終わりだ」


「もう一回」


「日が暮れる」


「暗くてもできる」


 蓮は凛を見た。それから空を見た。


「……馬鹿だな」


「馬鹿じゃない」


「馬鹿だ。でも」


 蓮は立ち上がった。


「付き合う」


---


 次の記憶は、十四歳の頃だった。


 道場に三人がいた。


 颯太は二十歳、蓮は十八歳になっていた。二人とも大きくなっていた。凛は小さいままだったが、速くなっていた。


 三人で組手をしていた。


 二対一だった。凛が一人で二人を相手にしていた。


 それが当然になっていた。


 颯太が踏み込んだ。同時に蓮が右から来た。凛は颯太の踏み込みを利用して流し、蓮の間合いから出た。


 二人が空振った。


 凛が二人の間に入った。


 颯太の木刀が止まった。蓮の木刀が止まった。


 凛の木刀が、二人の首筋の寸前で止まっていた。


 静止。


 沈黙。


「……参った」


 颯太が先に言った。蓮も続けた。


 三人は同時に構えを解いた。


 颯太が床に座った。蓮も座った。凛も座った。


 三人並んで、道場の窓から外を見た。


 夕暮れが赤かった。


「凛」颯太が言った。


「何」


「お前、強くなったな」


「そう?」


「二対一で勝てるようになった」


「まだ本気出されたら負ける」


「本気出したよ」


 凛は颯太を見た。


「……本当に?」


「本当に」


 凛は少し黙った。


「嘘でしょ」


「嘘じゃない」蓮が言った。「俺たちの本気だった」


 凛はしばらく考えた。


「……じゃあ、もう一回」


「なんで」


「もう一回やれば、どこが勝因かわかる」


 颯太と蓮は顔を見合わせた。


 それから同時に笑った。


「馬鹿だな」颯太が言った。


「馬鹿じゃない」


「馬鹿だ」蓮が言った。「でも」


「それが俺たちの家の血だ」颯太が続けた。


 三人は立ち上がった。


 もう一回、始めた。


---


 次の記憶は、十七歳の頃だった。


 道場の縁側に、颯太と蓮が並んで座っていた。


 凛は二人の前に立っていた。


「話がある」


 颯太が言った。珍しく、真剣な顔だった。


「なに」


「俺たち、来月から修行の旅に出る」


 凛は少し間を置いた。


「どのくらい」


「三年」


「……三年」


「国内を一周するつもりだ。各地の道場を回って、剣を磨く」


「私は」


「お前は道場を守れ」


 凛は颯太を見た。蓮を見た。


「私も行く」


「お前は道場に残れ」


「なんで」


「お前が道場から出たら、誰も残らない」


「じゃあみんなで行けばいい」


「道場を空にはできない」


 凛は黙った。


 颯太が立ち上がった。凛の頭に手を置いた。


「凛」


「……なに」


「三年で帰ってくる。その時、もっと強くなって帰ってくる」


「私の方が強くなってたら?


「それはそれで嬉しい」


 颯太は笑った。


 蓮も立ち上がった。凛の隣に来た。


「凛、俺たちが帰ってくる頃には、お前は俺たちの師匠になってるかもしれないな」


「ならない」


「なるかもしれない」


「ならない」


 蓮は笑った。


「まあ、どちらでもいい」


「どちらでもよくない」


「凛」


「なに」


「早く帰ってくる。約束する」


 凛は二人を見た。


 何も言わなかった。


 言えなかった。


 代わりに、木刀を持った。


「じゃあ、行く前にもう一回やる」


「今日はもう」


「もう一回」


 颯太と蓮は顔を見合わせた。


「……馬鹿だな」颯太が言った。


「馬鹿じゃない」


「馬鹿だ」蓮が言った。


「でも」


二人は同時に木刀を持った。


「それが俺たちの家の血だ」


---


 最後の記憶は、十八歳の春だった。


 道場に凛一人がいた。


 颯太と蓮は旅に出ていた。


 凛は一人で素振りをしていた。


 百回、二百回、三百回。


 止まらなかった。


 兄たちがいない道場は静かだった。風切り音だけが響いていた。


 凛は素振りをしながら、思っていた。


 兄たちが帰ってくる頃には、もっと強くなっていなければいけない。


 三年後、二人が帰ってきた時に、今より強い自分で迎えなければいけない。


 それだけを考えていた。


 恋愛のことは、考えたことがなかった。


 友人のことは、少しあった。


 しかし強くなること以外は、どれも後でいいと思っていた。


 兄たちが帰ってくるまでに、もっと強くなる。


 それだけだった。


 それだけで、十分だった。


 その春に、凛は死んだ。


 兄たちが帰ってくる前に。


---


 エルフィーナは目を覚ました。


 夜明け前の空が窓から見えた。まだ暗かった。


 しばらく天井を見ていた。


 夢の中の道場の、木の梁の感触がまだ残っていた。颯太の声が、蓮の声が、耳の奥に残っていた。


 馬鹿だな、と二人は言った。


 でも、と続けた。


 それが俺たちの家の血だ、と言った。


 エルフィーナは起き上がった。


 稽古着に着替えた。


 木刀を持った。


 庭に出た。


 夜明け前の空の下で、素振りを始めた。


 百回、二百回、三百回。


 止まらなかった。


 いつもと同じだった。


 ただ一つだけ違うことがあった。


 エルフィーナは素振りをしながら、思っていた。


 颯太兄、蓮兄。


 私は今世でも、ちゃんと強くなっている。


 二人と打ち合えるくらい、強くなっている。


 だから、大丈夫だ。


 木刀が風を切った。


 夜明けが、静かに近づいていた。


---


 朝、レオンが庭に降りてきた。


 エルフィーナがいつも通り素振りをしていた。


「姉上、今日も早いですね」


「ああ」


「よく眠れましたか」


 エルフィーナは少し間を置いた。


「夢を見た」


「どんな夢ですか」


「前世の夢だ」


 レオンは少し驚いた。エルフィーナが前世の話をするのは珍しかった。


「兄たちの夢だった」


「……前世の、お兄さんたちですか」


「ああ」


「どんな方たちでしたか」


 エルフィーナは素振りを続けながら、少し考えた。


「馬鹿だが強かった。私より強かった」


「エルフィーナ様より」


「ああ。二人がいなければ、私はこれだけ強くなれなかった」


「……そうですか」


「あの二人がいたから、私は強さを求めるようになった」


 エルフィーナは素振りを止めた。


 空を見た。夜明けの空が白くなり始めていた。


「レオン」


「はい」


「お前は私の弟だ」


「……はい」


「前世の兄たちとは違う。しかし」


 エルフィーナはレオンを見た。


「お前がいなければ、私は色々と見落としていた。今世でも、そういう人間が傍にいてくれてよかったと思っている」


 レオンは何も言わなかった。


 言えなかった。


 エルフィーナはまた素振りを始めた。


 レオンは縁側に座った。


 ゴドフリーが手帳を持って隣に来た。


「若、おはようございます」


「おはようございます、ゴドフリー」


「今日のお嬢様、少し違いますね」


「夢を見たそうです。前世の」


「……そうですか」


 ゴドフリーは手帳を開いた。何かを書き始めた。


 エルフィーナの素振りの音が、夜明けの空に響いていた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ