幕間「夢の中の道場」
夢を見た。
久しぶりの夢だった。
前世の夢だった。
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最初の記憶は、六歳の頃だった。
道場の板張りの床に、小さな女の子が仰向けに倒れていた。
天井が見えた。古い木の梁が走っていた。どこかで木刀が風を切る音がした。
女の子は起き上がった。
膝が痛かった。手のひらが赤かった。しかし泣かなかった。泣く気にならなかった。
向かいに少年が立っていた。十二歳、長身、黒髪。木刀を構えたまま、妹を見下ろしていた。
「立てるか、凛」
長兄の颯太だった。
「立てる」
凛は立った。膝を払った。木刀を拾った。
「もう一回」
「いいのか。膝から血が出ているぞ」
「いい。もう一回」
颯太は少し間を置いた。
それから、笑った。
「……お前は本当に馬鹿だな」
「馬鹿じゃない」
「馬鹿だ。でも」
颯太は構えた。
「それが俺たちの家の血だ」
二人は動いた。
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次の記憶は、九歳の頃だった。
道場の縁側で、凛は次兄の隣に座っていた。
次兄の蓮は颯太より二つ下で、十五歳だった。長い手足を持て余したように縁側に座り、お茶を飲んでいた。
「凛、今日の型、右肘が高かった」
「わかってる」
「わかってるなら直せ」
「直そうとしてるから言わなくていい」
蓮は少し笑った。
「怒るなよ」
「怒ってない」
「怒ってる顔してる」
凛は蓮を見た。蓮は涼しい顔をしていた。颯太と違って口数が少なく、動きで語る男だった。しかしこういう時だけ、妙によく喋った。
「蓮兄、今日の颯太兄の踏み込み、最近変わった気がする」
「気のせいじゃない。腰の入れ方を変えた」
「なんで」
「凛が速くなったからだろう」
凛は少し考えた。
「私が速くなったから、兄ちゃんが変えた」
「そうだ。お前が強くなると、俺たちも強くなれる」
「……それって」
「お前が俺たちの稽古相手だってことだよ」
蓮はお茶を飲んだ。
「凛、強くなれ。お前が強くなれば、俺たちはもっと強くなれる」
凛はその言葉を聞いた。
何かが胸の中で灯った。
それが嬉しかった。褒め言葉でも慰めでもなく、本気の言葉だった。お前が必要だという意味だった。
「……うん」
凛は頷いた。
「じゃあ、もう一回やる」
「今日の稽古は終わりだ」
「もう一回」
「日が暮れる」
「暗くてもできる」
蓮は凛を見た。それから空を見た。
「……馬鹿だな」
「馬鹿じゃない」
「馬鹿だ。でも」
蓮は立ち上がった。
「付き合う」
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次の記憶は、十四歳の頃だった。
道場に三人がいた。
颯太は二十歳、蓮は十八歳になっていた。二人とも大きくなっていた。凛は小さいままだったが、速くなっていた。
三人で組手をしていた。
二対一だった。凛が一人で二人を相手にしていた。
それが当然になっていた。
颯太が踏み込んだ。同時に蓮が右から来た。凛は颯太の踏み込みを利用して流し、蓮の間合いから出た。
二人が空振った。
凛が二人の間に入った。
颯太の木刀が止まった。蓮の木刀が止まった。
凛の木刀が、二人の首筋の寸前で止まっていた。
静止。
沈黙。
「……参った」
颯太が先に言った。蓮も続けた。
三人は同時に構えを解いた。
颯太が床に座った。蓮も座った。凛も座った。
三人並んで、道場の窓から外を見た。
夕暮れが赤かった。
「凛」颯太が言った。
「何」
「お前、強くなったな」
「そう?」
「二対一で勝てるようになった」
「まだ本気出されたら負ける」
「本気出したよ」
凛は颯太を見た。
「……本当に?」
「本当に」
凛は少し黙った。
「嘘でしょ」
「嘘じゃない」蓮が言った。「俺たちの本気だった」
凛はしばらく考えた。
「……じゃあ、もう一回」
「なんで」
「もう一回やれば、どこが勝因かわかる」
颯太と蓮は顔を見合わせた。
それから同時に笑った。
「馬鹿だな」颯太が言った。
「馬鹿じゃない」
「馬鹿だ」蓮が言った。「でも」
「それが俺たちの家の血だ」颯太が続けた。
三人は立ち上がった。
もう一回、始めた。
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次の記憶は、十七歳の頃だった。
道場の縁側に、颯太と蓮が並んで座っていた。
凛は二人の前に立っていた。
「話がある」
颯太が言った。珍しく、真剣な顔だった。
「なに」
「俺たち、来月から修行の旅に出る」
凛は少し間を置いた。
「どのくらい」
「三年」
「……三年」
「国内を一周するつもりだ。各地の道場を回って、剣を磨く」
「私は」
「お前は道場を守れ」
凛は颯太を見た。蓮を見た。
「私も行く」
「お前は道場に残れ」
「なんで」
「お前が道場から出たら、誰も残らない」
「じゃあみんなで行けばいい」
「道場を空にはできない」
凛は黙った。
颯太が立ち上がった。凛の頭に手を置いた。
「凛」
「……なに」
「三年で帰ってくる。その時、もっと強くなって帰ってくる」
「私の方が強くなってたら?
「それはそれで嬉しい」
颯太は笑った。
蓮も立ち上がった。凛の隣に来た。
「凛、俺たちが帰ってくる頃には、お前は俺たちの師匠になってるかもしれないな」
「ならない」
「なるかもしれない」
「ならない」
蓮は笑った。
「まあ、どちらでもいい」
「どちらでもよくない」
「凛」
「なに」
「早く帰ってくる。約束する」
凛は二人を見た。
何も言わなかった。
言えなかった。
代わりに、木刀を持った。
「じゃあ、行く前にもう一回やる」
「今日はもう」
「もう一回」
颯太と蓮は顔を見合わせた。
「……馬鹿だな」颯太が言った。
「馬鹿じゃない」
「馬鹿だ」蓮が言った。
「でも」
二人は同時に木刀を持った。
「それが俺たちの家の血だ」
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最後の記憶は、十八歳の春だった。
道場に凛一人がいた。
颯太と蓮は旅に出ていた。
凛は一人で素振りをしていた。
百回、二百回、三百回。
止まらなかった。
兄たちがいない道場は静かだった。風切り音だけが響いていた。
凛は素振りをしながら、思っていた。
兄たちが帰ってくる頃には、もっと強くなっていなければいけない。
三年後、二人が帰ってきた時に、今より強い自分で迎えなければいけない。
それだけを考えていた。
恋愛のことは、考えたことがなかった。
友人のことは、少しあった。
しかし強くなること以外は、どれも後でいいと思っていた。
兄たちが帰ってくるまでに、もっと強くなる。
それだけだった。
それだけで、十分だった。
その春に、凛は死んだ。
兄たちが帰ってくる前に。
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エルフィーナは目を覚ました。
夜明け前の空が窓から見えた。まだ暗かった。
しばらく天井を見ていた。
夢の中の道場の、木の梁の感触がまだ残っていた。颯太の声が、蓮の声が、耳の奥に残っていた。
馬鹿だな、と二人は言った。
でも、と続けた。
それが俺たちの家の血だ、と言った。
エルフィーナは起き上がった。
稽古着に着替えた。
木刀を持った。
庭に出た。
夜明け前の空の下で、素振りを始めた。
百回、二百回、三百回。
止まらなかった。
いつもと同じだった。
ただ一つだけ違うことがあった。
エルフィーナは素振りをしながら、思っていた。
颯太兄、蓮兄。
私は今世でも、ちゃんと強くなっている。
二人と打ち合えるくらい、強くなっている。
だから、大丈夫だ。
木刀が風を切った。
夜明けが、静かに近づいていた。
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朝、レオンが庭に降りてきた。
エルフィーナがいつも通り素振りをしていた。
「姉上、今日も早いですね」
「ああ」
「よく眠れましたか」
エルフィーナは少し間を置いた。
「夢を見た」
「どんな夢ですか」
「前世の夢だ」
レオンは少し驚いた。エルフィーナが前世の話をするのは珍しかった。
「兄たちの夢だった」
「……前世の、お兄さんたちですか」
「ああ」
「どんな方たちでしたか」
エルフィーナは素振りを続けながら、少し考えた。
「馬鹿だが強かった。私より強かった」
「エルフィーナ様より」
「ああ。二人がいなければ、私はこれだけ強くなれなかった」
「……そうですか」
「あの二人がいたから、私は強さを求めるようになった」
エルフィーナは素振りを止めた。
空を見た。夜明けの空が白くなり始めていた。
「レオン」
「はい」
「お前は私の弟だ」
「……はい」
「前世の兄たちとは違う。しかし」
エルフィーナはレオンを見た。
「お前がいなければ、私は色々と見落としていた。今世でも、そういう人間が傍にいてくれてよかったと思っている」
レオンは何も言わなかった。
言えなかった。
エルフィーナはまた素振りを始めた。
レオンは縁側に座った。
ゴドフリーが手帳を持って隣に来た。
「若、おはようございます」
「おはようございます、ゴドフリー」
「今日のお嬢様、少し違いますね」
「夢を見たそうです。前世の」
「……そうですか」
ゴドフリーは手帳を開いた。何かを書き始めた。
エルフィーナの素振りの音が、夜明けの空に響いていた。




