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侯爵令嬢は恋を知らぬまま最強である 〜最強なのに、恋だけがわからない〜  作者: N


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第0話 プロローグ

 ヴァレンティア王国の春は、花が咲く前に終わる。


 少なくとも、エルフィーナ・フォン・アルカディアにとってはそうだった。


「エルフィーナ。今日は王城に行くのよ」


 母イゾルデの声は、いつも通り静かで美しかった。六歳の娘に向ける目には、諦観と愛情が等分に混ざっていた。


「王城? 稽古はどうなる」


「お休みです」


「なぜ」


「王太子殿下にお会いするためです」


 エルフィーナは一瞬考えた。王太子。強いのだろうか。


「わかった」


 イゾルデは小さく息を吐いた。娘が素直に従ったのが珍しかったからではない。娘が「強いのか」と聞かなかったことが、むしろ不安だったからだ。


---


 王城の謁見の間は、六歳の子供が立つには広すぎた。


 エルフィーナは慣れない礼服を着せられ、母の隣に立っていた。絹の感触が落ち着かない。稽古着の方がずっと動きやすい。


 向こうから歩いてくる少年を見て、エルフィーナは無意識に観察した。


 ――歩き方がいい。


 癖がなく、重心が安定している。六歳にしては背が高く、銀灰色の髪が光の中で静かに揺れていた。シグルト・フォン・ヴァレンティア王太子。エルフィーナと同い年のその少年は、すでに「完璧な王族」の顔をしていた。


 シグルトの側に立つ教育係が、小声で何かを囁いた。おそらく「アルカディア侯爵家の令嬢です」とでも言ったのだろう。


 シグルトはエルフィーナを見た。


 エルフィーナもシグルトを見た。


「……」


 シグルトは生まれて初めて、言葉を失った。


 目の前の少女は、謁見の作法など眼中にないような顔をしていた。値踏みするのでも媚びるのでもなく、ただ純粋に「観察」していた。まるで剣の切れ味を確かめるような目で。


 六歳の令嬢にそんな目をされたことは、生まれて一度もなかった。


「シグルトと申します」


 シグルトは努めて平静に名乗った。


「エルフィーナ・フォン・アルカディアです」


 少女は正確な礼をした。作法は完璧だった。しかし次の瞬間、その口から出てきた言葉は完璧ではなかった。


「殿下は、剣をやりますか」


 教育係が凍りついた。イゾルデが目を閉じた。父ガルディアスだけが「さすがだ」という顔をしていた。


 シグルトは一拍置いて、答えた。


「やります」


「強いですか」


「……そう言われています」


 エルフィーナは初めて笑った。それは六歳の少女の笑顔というより、好敵手を見つけた武人の笑顔だった。


「では、いつか手合わせをお願いします」


 シグルトはその日、初めて「やってみたい」と思った。剣の稽古ではなく、この少女のことを、もっと知ってみたいと。


---


 帰りの馬車の中、イゾルデは疲れた顔で夫に言った。


「あなた。王太子殿下に最初に言う言葉が『剣をやりますか』だったわよ」


「いやあ、度胸がある。さすがわしの娘だ」


「あなたの娘じゃなくて私の娘でもあるんだけど……」


 エルフィーナは二人の会話を聞いていなかった。窓の外を流れる景色を見ながら、ひとつのことだけを考えていた。


 ――王太子は、強いのだろうか。


 それだけだった。


 婚約が成立したことを、エルフィーナは翌日まで忘れていた。


---


 ミレーユ・ド・ロシャールは、完璧な令嬢になるために生まれてきたような子供だった。


 六歳にして礼儀作法は完璧、魔法の素養も申し分なく、亜麻色の巻き毛はいつも綺麗に整えられていた。ロシャール伯爵家の一人娘として、彼女は何一つ不足のない人生を歩んでいた。


 だからこそ、アルカディア侯爵家の庭で見たものが、信じられなかった。


---


 きっかけは母親同士の茶会だった。


 イゾルデ・フォン・アルカディアとロシャール伯爵夫人は旧来の友人で、年に数度こうして屋敷を行き来していた。子供たちも連れてくるのが慣例で、ミレーユはいつも大人しく母の隣に座って、お茶を飲んで、帰るだけだった。


 その日も同じはずだった。


「エルフィーナは庭におりますので、よろしければご一緒に」


 イゾルデがそう言った時、ロシャール伯爵夫人が微妙な顔をしたのをミレーユは見逃さなかった。大人が「覚悟してください」という顔をする時のやつだ、とミレーユは子供ながらに思った。


 庭に出た。


 そこにいたのは、自分と同い年とは到底思えない少女だった。


 黒髪が風に揺れていた。長身で、礼服ではなく動きやすそうな稽古着を着ていた。手には木刀を持ち、相手は白髪交じりの老騎士。どう見ても本気の稽古だった。


 ミレーユは足が止まった。


 少女が動いた。


 それはミレーユが知っている「剣の稽古」ではなかった。風が鳴った、と思った瞬間、老騎士の木刀が宙を舞っていた。少女は残心の姿勢のまま、ぴたりと静止していた。


「……エルフィーナお嬢様、今の動き、もう一度お願いできますか」


 老騎士が懐から手帳を取り出しながら言った。目が輝いていた。


「いいぞ、ゴドフリー。ただ次は本気で来い。手加減すると間合いが狂う」


「は、はあ……」


 老騎士は苦笑いをした。この老騎士が元王国騎士団団長だと、ミレーユが知るのはずっと後のことだ。


---


 少女がこちらに気づいた。


 ミレーユは反射的に背筋を伸ばした。完璧な令嬢の顔を作った。


 少女は木刀を脇に置き、ミレーユに向かって歩いてきた。近づくにつれて、その顔の造作がわかってきた。


 ――きれい。


 ミレーユは思った。黒髪に黒い瞳。この国では珍しい色だった。整った顔立ちは貴族令嬢として申し分なかったが、その表情はまったく令嬢らしくなかった。値踏みでも媚びでもなく、ただ真っ直ぐに、ミレーユを見ていた。


「ロシャールの娘か」


 六歳の台詞ではなかった。


「……ミレーユ・ド・ロシャールと申します」


 ミレーユは完璧な礼をした。


「エルフィーナ・フォン・アルカディアだ。魔法はやるか」


「はい、一通りは」


「強いか」


 ミレーユは一瞬戸惑った。令嬢に向ける言葉ではない。しかしその目が本気だったので、ミレーユも本気で答えた。


「……まだ、あまり強くないと思います」


 エルフィーナは少し考えた。


「正直だな。いい。では稽古をつけてやる」


「え」


「魔法を見せろ。どこが足りないか教えてやる」


 ミレーユはその日、稽古着を持ってきていないことを生まれて初めて後悔した。


---


 一時間後。


 ミレーユは庭の石畳に座り込んでいた。疲れ果てて、礼儀作法どころではなかった。巻き毛は乱れ、ドレスには草の染みがついていた。


 隣にエルフィーナが座っていた。汗一つかいていなかった。


「魔法の制御が丁寧すぎる。もっと荒く撃っていい」


「……令嬢が荒く魔法を撃つのは、お作法的にどうなんでしょう」


「強くなってから考えればいい」


 ミレーユは笑ってしまった。おかしくて、それから何故か泣きそうになった。


 今まで誰も、こんな話し方をしてくれなかった。強くなれと言ってくれる人も、本気で相手をしてくれる人も、いなかった。


「……また、来てもいいですか」


 ミレーユは自分でも驚くほど素直にそう言っていた。


 エルフィーナは当然という顔をした。


「来い。稽古相手は多い方がいい」


 それだけだった。


 それだけだったのに、ミレーユの胸の中で何かが確かに音を立てた。


 その感情に名前をつけるまで、ミレーユにはあと数年かかる。


---


 茶会に戻ったミレーユを見て、ロシャール伯爵夫人は目を丸くした。


「ミレーユ、そのドレス……」


「エルフィーナ様に魔法の稽古をつけていただきました」


「……イゾルデ、あなたの娘は本当に」


 イゾルデは遠い目をして紅茶を飲んだ。


「ええ、存じております」


---


 レオン・フォン・アルカディアになる前、彼はただのレオンだった。


 遠縁の没落貴族の子。父は病で逝き、母は再婚した。引き取り先はアルカディア侯爵家。理由は単純だった。魔法の素養が高く、アルカディアの血を引いていたからだ。


 八歳のレオンは、馬車の中で一度も泣かなかった。泣いても何も変わらないことを、すでに知っていたからだ。


 ただ一つだけ、心に決めていたことがあった。


 ――迷惑をかけない。目立たない。静かに生きる。


 それだけだった。


---


 アルカディア侯爵邸は、レオンの想像より三倍は大きかった。


 馬車が門をくぐった瞬間、出迎えの使用人が整列しているのが見えた。その中央に、侯爵夫妻と――


 レオンは目を疑った。


 少女が一人、使用人の列の端に立っていた。黒髪に黒い瞳。整った顔立ち。それだけなら問題なかった。


 問題は、その少女が木刀を持っていたことだ。


 出迎えに木刀を持ってくる令嬢が、この世に存在するとは思っていなかった。


 馬車を降りると、侯爵が満面の笑みで歩み寄ってきた。


「よく来た、レオン。今日からここがお前の家だ」


「……ありがとうございます」


 レオンは深く礼をした。顔を上げると、侯爵夫人が穏やかに微笑んでいた。


「遠い道中、疲れたでしょう。ゆっくり休んで――」


「レオンというのか」


 声が遮った。


 少女だった。木刀を肩に担いで、レオンの目の前に立っていた。品定めをするような、しかし敵意のない目でレオンを見ていた。


「私はエルフィーナ。今日からお前の姉だ」


 レオンは一瞬、返答に詰まった。


「……レオンと申します。よろしくお願いいたします」


「礼儀正しいな」


「…………」


「いいことだ。ところでレオン、剣はやるか」


 レオンは侯爵夫人を見た。侯爵夫人は「ごめんなさいね」という顔をしていた。侯爵は「さすがだ」という顔をしていた。


「……少しだけ、心得があります」


「では稽古をつけてやる」


「初日から、ですか」


「初日が一番大事だ」


 レオンは八歳にして悟った。


 ――この家は、おかしい。


---


 夕刻。


 レオンは庭の隅で地面に仰向けになっていた。


 空が夕焼けで赤く染まっていた。全身の筋肉が悲鳴を上げていた。木刀を持つ手が震えていた。


 隣にエルフィーナが立っていた。汗一つかいていなかった。


「なかなかやるな」


「……姉上は、手加減を、していましたか」


「少しだけ」


「……そうですか」


 レオンは目を閉じた。少しだけという言葉が重かった。


 老騎士――ゴドフリーが水の入った革袋を持ってきた。


「お嬢様、今日の若のどこが評価できましたか」


「体幹がいい。筋がある。あと根性もある」


「記録しておきます」


 ゴドフリーは手帳に何かを書き込んだ。レオンは半眼でそれを見た。


「……ゴドフリー様、その手帳は何ですか」


「アルカディア武術体系覚書です」


「何ですか、それは」


「エルフィーナお嬢様の武術を後世に伝えるための記録です」


「……姉上が命じたのですか」


「いいえ、私が勝手に始めました」


 レオンはエルフィーナを見た。エルフィーナは「知らん」という顔をしていた。


 レオンは再び空を見た。


 迷惑をかけない。目立たない。静かに生きる。


 八歳なりの人生設計が、初日で完全に崩壊した予感があった。


---


 夜、レオンに与えられた部屋は広くて静かだった。


 柔らかい寝台に横たわりながら、レオンは今日のことを整理しようとした。


 木刀を持って出迎える令嬢。初日から稽古をつけてくる姉。武術体系の覚書を書く家令。全てを「さすがだ」で済ませる侯爵。遠い目をしている侯爵夫人。


 どこから突っ込めばいいかわからなかった。


 ただ一つだけ、はっきりしていることがあった。


 エルフィーナは、稽古の最後にこう言った。


「レオン、明日も稽古するぞ」


 命令ではなかった。当然のことを告げる声だった。


 そしてレオンは気づいてしまった。


 その声が、少しも嫌ではなかったことに。


 ――仕方ない。


 レオンは目を閉じた。


 それが彼の口癖になるまで、そう時間はかからなかった。


---


 翌朝、夜明け前。


 レオンが目を覚ますと、庭から木刀の風切り音が聞こえてきた。


 窓から覗くと、夜明けの薄闇の中でエルフィーナが一人で素振りをしていた。黒髪が弧を描くたびに、鋭い音が静寂を裂いた。


 その傍らで、ゴドフリーが手帳に何かを書いていた。


 レオンは少し考えて、寝台を出た。


 稽古着に着替えて、庭に降りた。


 エルフィーナが気づいて振り返った。意外そうな顔はしなかった。


「早いな」


「……姉上ほどではありません」


「そうだな」


 エルフィーナは木刀を一本、レオンに放った。レオンは反射的に受け取った。


「では始めるか」


「初日の翌朝から、ですか」


「当然だ」


 レオンは小さく息を吐いた。


 空が白み始めていた。どこかで鳥が鳴いた。


 ――仕方ない。


 レオンは木刀を構えた。


 その時、胸の奥で何かが小さく灯ったことに、八歳の彼はまだ気づかなかった。

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