第14話「剣聖の帰還、あるいは道場が騒がしくなった日」
道場に通い始めて五日目の朝だった。
エルフィーナ、レオン、カイ、ミレーユ、アロイスが武練堂に向かうと、道場の前に見知らぬ男が立っていた。
三十代、長身、旅装だった。顔に古い傷跡があった。荷物を一つ背負って、道場の看板を見上げていた。
老師が出てきた。
「ジークハルト」
男が振り返った。
「親父、久しぶりだ」
「帰ってきたのか」
「少しだけな」
老師は息子を見た。それから後ろのエルフィーナたちを見た。
「今日の稽古の時間に来るとは、相変わらず読めない子だ」
「弟子を取ったのか、親父」
「夏休みの間だけな。見ていくか」
ジークハルトはエルフィーナたちを見た。
その目が止まった。
エルフィーナを見た瞬間、止まった。
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稽古が始まった。
ジークハルトは道場の隅に座って、腕を組んで見ていた。
老師の号令でエルフィーナが構えた。型を始めた。
レオンは稽古に参加しながら、ジークハルトを横目で確認した。
ジークハルトの目が変わっていた。さっきまでの眠そうな旅人の目ではなかった。品定めをする目だった。本物を見る時の目だった。
エルフィーナが型を終えた。
ジークハルトが立ち上がった。
「一本、いいか」
老師を見た。老師が頷いた。
エルフィーナを見た。
「構わないか」
「はい」エルフィーナが言った。「強いですか」
ジークハルトは少し間を置いた。
「そこそこな」
「では楽しみです」
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始まった。
レオンは稽古を止めた。止めざるを得なかった。
ジークハルトは速かった。グラハムとも、シグルトとも違う種類の速さだった。無駄が一切なかった。旅の中で磨かれた、実戦の剣だった。
エルフィーナは受けた。
流した。
しかし今回は、エルフィーナの顔が違った。
笑っていた。
本物の、心からの笑いだった。
レオンはその顔を見て、思った。
グラハムよりも、シグルトよりも、今日のエルフィーナは嬉しそうだった。
理由はすぐにわかった。
ジークハルトの剣は、エルフィーナが前世で見てきた武術に近かった。技術の質が違った。同じ言語を話せる相手に初めて出会った、という顔だった。
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三十合。
五十合。
七十合。
ジークハルトが攻め方を変えた。一度下がって、間合いを取り直した。
エルフィーナも間合いを取った。
二人が静止した。
ジークハルトが口を開いた。
「……お前、どこで習った」
「独学です」
「独学でこれは」
「前世の記憶があります」
ジークハルトはしばらく黙った。
「そうか」
それ以上聞かなかった。
「続けるか」
「はい」
二人が動いた。
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百合を超えたところで、ジークハルトが木刀を下げた。
「……参った」
声は静かだった。しかし額に汗が滲んでいた。これまでの手合わせの中で、エルフィーナが相手を汗をかかせたのは初めてだとレオンは思った。
エルフィーナも少し息が上がっていた。
全力で打ち合った証拠だった。
「よい手合わせでした」エルフィーナが言った。
「こちらこそ」
ジークハルトは木刀を下げたまま、エルフィーナを見た。
「名前は」
「エルフィーナ・フォン・アルカディアです」
「俺はジークハルト。この道場の息子だ」
「知っています。老師から聞いていました」
「各地を旅していると聞いたか」
「はい。剣を磨くために旅をしていると」
ジークハルトはしばらく考えた。
「お前のその剣、どこの流派でもない」
「そうです。前世の記憶を基にしています」
「前世というのは」
「詳しく説明できません。ただ、別の場所で身につけた技術があります」
ジークハルトは頷いた。
「なるほど。それがあの動きの説明になる」
「違和感がありましたか」
「違和感ではない。見たことがない、という意味だ」
エルフィーナは少し考えた。
「先生の技術は私が知らないものが多い。学べることがあります」
「俺もお前から学べることがある」
二人は向かい合ったまま、静かに言葉を交わした。
武人同士の会話だった。
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稽古が終わった後、ジークハルトが老師の隣に座った。
レオンたちも休憩していた。
カイがジークハルトに近づいた。
「あの、ジークハルトさん」
「何だ」
「剣聖、という異名があると聞きましたが」
「誰が言った」
「老師が」
ジークハルトは老師を見た。老師は知らない顔をしていた。
「……各地でそう呼ぶ者がいるだけだ。自分で名乗ったことはない」
「すごいですね」
「そうでもない。俺より強い人間はいくらでもいる」
「エルフィーナさんには負けましたね」
「ああ」
「悔しくないんですか」
ジークハルトはカイを見た。
「悔しいか、悔しくないかで言えば、悔しい。しかしあれだけの相手と打ち合えたことの方が嬉しい」
カイは頷いた。
「エルフィーナさんと打ち合った後は、みんなそう言いますね」
「そうか」
「グラハム教官も、シグルト殿下も」
ジークハルトが片眉を上げた。
「シグルト殿下というのは王太子のことか」
「はい。学院で手合わせをしました。引き分けでした」
「……王太子と引き分けか」
「大会で、国王陛下の前で」
ジークハルトはエルフィーナを見た。エルフィーナは老師と次の稽古の話をしていた。
「どういう令嬢だ」
「私にもわかりません」レオンが言った。「姉なんですが」
「姉?」
「義理の、です」
ジークハルトはレオンを見た。
「お前、苦労しているだろう」
「毎日しています」
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昼過ぎ、ジークハルトが帰り支度を始めた。
「もう行くのか」エルフィーナが言った。
「ああ、次の街に向かう」
「いつ戻る」
「決めていない。旅に決まった予定はない」
「そうか」
エルフィーナは少し考えた。
「また手合わせをしたい」
「俺もそう思っている」
「どこに行けば会えるか」
「わからない。旅に行き先はない」
エルフィーナは頷いた。
「では縁があればまた会う」
「ああ」
ジークハルトは荷物を背負った。それから、エルフィーナを見た。
「一つ聞いていいか」
「はい」
「お前は何のために強くなりたいのか」
エルフィーナはしばらく考えた。
「強くなりたいから、強くなりたいのだと思います」
「それだけか」
「それだけです」
ジークハルトは少し笑った。傷跡のある顔に笑みが浮かんだ。
「そうか。それが一番正直な答えだ」
「先生は何のために旅をしているんですか」
「俺もわからない。ただ剣を磨きたいから旅をしている」
「同じですね」
「ああ、同じだ」
ジークハルトは道場を出た。
振り返らなかった。
しかし出口でぴたりと止まった。
「アルカディアの令嬢」
「はい」
「また会う。どこかで」
それだけ言って、歩き去った。
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道場の外で、全員が見送った。
ジークハルトの背中が路地の角に消えた。
ミレーユが言った。
「不思議な方でしたね」
「ええ」レオンが言った。
「エルフィーナ様と話している時、目が違いましたね」
「武人同士の目でした」
「シグルト殿下とも違う」
「殿下は婚約者として見ていますが、ジークハルト殿は純粋に武人として見ていました」
アロイスが言った。
「あの男、強かった」
「ええ」
「お前たちの令嬢に負けたが」
「姉上に負けない人間の方が少ないですから」
「……そうだな」
アロイスは路地の角を見た。
「俺もいつかああいう剣を持ちたい」
「どういう剣ですか」
「無駄がない剣だ。全部が実戦のための剣だった」
カイが言った。
「俺も同じこと思いました。旅で磨かれた強さって、学院の稽古とは違いますね」
「違いますね」レオンが言った。
「俺、いつか旅をしてみたいです」
「学院を卒業してからですね」
「はい。でも、エルフィーナさんについて行けるくらい強くなってからじゃないと話にならないので」
カイは前を向いた。
エルフィーナは道場の中に戻っていた。老師に今日のジークハルトの剣についての話を聞きに行ったのだろう。
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その夜、シグルトがアルカディア家に戻ったレオンを捕まえた。
「今日、道場に見知らぬ男が来たと聞いた」
「ジークハルトという旅の武人です。道場主の息子で」
「エルフィーナと手合わせをしたか」
「百合以上打ち合いました」
シグルトは少し黙った。
「結果は」
「エルフィーナ様が制しました。ただし」
「ただし?」
「姉上が今まで見たことがないくらい嬉しそうな顔をしていました」
シグルトはしばらく黙っていた。
「……そうか」
「純粋な武人として通じる相手だったようです」
「俺とは違うということか」
「殿下は婚約者でもありますから。純粋な武人としてだけでは見ていないと思います」
シグルトは窓の外を見た。
「その男、また来るか」
「『また会う』と言っていました」
「そうか」
シグルトは静かに言った。
「面白くなってきた」
レオンはシグルトを見た。
「殿下、それは」
「俺はエルフィーナに会いたいと思える相手を増やしたい」
「どういう意味ですか」
「強い相手が増えれば、エルフィーナはより強くなる。エルフィーナが強くなれば、俺も強くなれる理由ができる」
「……ずいぶん遠回りな考え方ですね」
「近道がないからだ」
シグルトは部屋の方へ歩き出した。
「レオン、明日の朝の稽古に俺も入れてくれ」
「わかりました」
「エルフィーナに言うな。驚かせたい」
「……姉上は驚かないと思いますが」
「それでも構わない」
シグルトは廊下の奥に消えた。
レオンは一人残った。
夏休みの残りはあと僅かだった。
道場の老師、ジークハルト、シグルト、カイ、ミレーユ、アロイス、ゴドフリー、ソフィアたち。
エルフィーナの周りには、いつの間にか人が増えていた。
本人は全く気づいていなかった。
――仕方ない。
レオンは自室へ向かった。




