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侯爵令嬢は恋を知らぬまま最強である 〜最強なのに、恋だけがわからない〜  作者: N


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第13話「王都外出、あるいは令嬢は街でも規格外だった」

 シグルトが滞在して三日目の朝、エルフィーナが言った。


「王都に行く」


 朝食の席だった。全員が箸を止めた。


「王都、ですか」レオンが言った。


「ああ。行ったことがない場所がある」


「どこですか」


「武具屋と、食材の市場と、あと道場があると聞いた」


「道場」


「王都に古い道場があると聞いた。見てみたい」


 シグルトが口を開いた。


「俺も行く」


「殿下が一緒だと目立ちますが」


「変装する」


 レオンは額に手を当てた。


「姉上、全員でですか」


「来たい者は来い」


 カイが即座に手を挙げた。ミレーユも手を挙げた。アロイスは少し遅れて手を挙げた。


 ゴドフリーが手帳を開いた。


「お嬢様、道場の名前はわかりますか」


「何のために」


「事前に調べておきます」


「……ゴドフリーは来ないのか」


「屋敷を守ります。しかし記録は続けます」


 レオンは深く息を吐いた。


---


 王都への外出は昼前に始まった。


 シグルトは約束通り変装していた。銀灰色の髪を黒く染めた布で覆い、平民風の服を着ていた。護衛が平服で遠巻きに付いてきていた。


 エルフィーナは稽古着ではなく、珍しく外出着を着ていた。イゾルデが出発前に確認したからだった。黒髪に薄い緑の外套が映えた。


「姉上、今日は普通の外出ですから、目立つことはしないでください」


「わかっている」


「本当にわかっていますか」


「何が不安なのだ」


 レオンは答えなかった。全部が不安だった。


---


 まず武具屋に向かった。


 王都の中心部にある老舗の店だった。入った瞬間、エルフィーナの目が輝いた。壁一面に剣、槍、弓、様々な武具が並んでいた。


 店主の老人が出てきた。


「いらっしゃいませ。何をお探しで」


「木刀を見たい。素材と重さが知りたい」


「はい、こちらへ」


 エルフィーナは木刀を一本手に取った。構えた。素振りを一度した。


 店内で。


 陳列棚が揺れた。


 レオンが棚を押さえた。


「姉上、店内での素振りは」


「重さの確認だ」


「確認の仕方が」


「問題ない。棚は倒れていない」


 店主の老人がエルフィーナを見た。目が違う顔になっていた。


「お客様、失礼ですが、どちらで剣を」


「独学です」


「……そうですか」


 老人は別の木刀を持ってきた。


「こちらはいかがでしょう。素材が違います」


 エルフィーナは受け取った。構えた。


「こちらの方がいい。重心が安定している」


「お目が高い。その木刀は職人が三ヶ月かけて」


「いくらか」


 値段を聞いた。エルフィーナは迷わず買った。


 シグルトが隣に来た。


「気に入ったか」


「ええ。重心がいい」


「俺にも持たせてくれ」


 エルフィーナは木刀をシグルトに渡した。シグルトが構えた。


「……確かにいい」


「でしょう」


 二人が並んで木刀を検分していた。


 店主の老人がレオンに小声で言った。


「あのお二人は」


「姉と、その知人です」


「知人……」


 老人は二人を見た。


「ただ者ではないですな」


「はい」


「あの娘さん、うちに来ませんか。うちで働いてもらえれば」


「……姉は学生です」


---


 次に市場に向かった。


 王都の市場は広く、様々な食材が並んでいた。エルフィーナは食材の屋台を一つ一つ確認しながら歩いた。


「姉上、何を探しているんですか」


「稽古の後に食べるものだ。栄養があって消化がいいものを探している」


「それは屋敷の料理人に任せれば」


「自分で確認したい」


 カイが隣に来た。


「エルフィーナさん、これはどうですか」


 干し肉を指した。


「悪くない。ただし塩分が多い。水も一緒に取らないといけない」


「そうなんですね」


「カイは食事の管理も稽古の一部だと思え。何を食べるかで体の動きが変わる」


「……覚えます」


 アロイスが屋台の前で止まった。珍しそうな顔をしていた。


「アロイス様、どうしましたか」ミレーユが言った。


「市場に来たのは初めてだ」


「え、王都に住んでいらっしゃるのに?」


「クロイツェル家は市場には行かない。全て屋敷に届けさせる」


「そうなんですね」


「……賑やかだな」


 アロイスは市場を見渡した。その目が、少し柔らかかった。


 ミレーユがレオンに小声で言った。


「アロイス様、変わりましたね」


「ええ」


「学院にいた頃とは別人みたいです」


「エルフィーナ様の周りにいると、そうなる傾向があります」


「私もそうでしたか」


「ミレーユ様は六歳からです」


 ミレーユは少し笑った。


「そうでしたね」


---


 昼食を市場で食べた。


 屋台の食べ物を買って、広場のベンチに並んで座った。王太子と侯爵令嬢と伯爵令嬢と伯爵嫡男と平民の少年と養子の義弟が、屋台の食べ物を食べていた。


 シグルトが珍しそうに食べていた。


「殿下、屋台のものは初めてですか」レオンが聞いた。


「初めてだ」


「どうですか」


「……美味い」


「そうでしょう」


「王宮の食事とは違う」


「違いますね」


 エルフィーナが隣でもう一つ買ってきた串焼きをシグルトに渡した。


「殿下、これも食べてみろ」


「何だ」


「鶏の串焼きだ。先ほどのより好みかもしれない」


 シグルトは受け取った。食べた。


「……こちらの方が好みだ」


「そうか」


 エルフィーナは満足そうな顔をした。


 レオンはその光景を見た。


 婚約者に串焼きを渡す令嬢と、それを普通に受け取る王太子。周囲にいる人間がなぜかその状況を微笑ましく見ていた。


 カイがレオンに小声で言った。


「殿下、普通の人みたいですね」


「変装しているので」


「変装のせいだけじゃない気がします」


「……エルフィーナ様の隣にいるからだと思います」


「エルフィーナさんの隣にいると、身分とか関係なくなりますよね」


「なりますね」


---


 午後、道場を探した。


 王都の古い区画に、それはあった。


 看板は古びていた。「武練堂」という文字が掠れていた。


 エルフィーナは迷わず入った。


 中は薄暗かった。木の床が古く、壁に様々な武器が飾られていた。


 老人が一人、隅で座っていた。七十代か八十代、白髪で小柄だった。しかし座り方が違った。背筋が真っ直ぐで、重心が安定していた。


 レオンはその老人を見た瞬間、何かを感じた。


 エルフィーナも感じたらしかった。


 老人を見た目が変わった。


「いらっしゃいませ」


 老人が言った。声が若かった。


「武術を習いに来ました」エルフィーナが言った。


「見学か、体験か」


「どちらでも」


 老人はエルフィーナを見た。


 しばらく黙っていた。


「構えを見せてくれますか」


「はい」


 エルフィーナは持っていた新しい木刀を構えた。


 老人の目が細くなった。


「……どこで習った」


「独学です」


「独学でこの構えは」


「前世の記憶があります」


 老人はしばらく黙った。


「そうですか」


 それ以上聞かなかった。


「一本、手合わせをしてもいいですか」


「もちろんです」


---


 手合わせが始まった。


 老人は動いた。


 レオンは息を呑んだ。


 速かった。七十代とは思えない動きだった。グラハムとは違う種類の速さだった。技術が凝縮された動きだった。


 エルフィーナは受けた。


 十合打ち合った。


 老人が木刀を下げた。


「……参りました」


「ありがとうございました」


 老人はエルフィーナを見た。


「あなたは本物だ」


「いいえ、先生の方が上です。技術が深い」


「しかし力と速さで負けた」


「先生の技術を学びたいです」


 老人はしばらく考えた。


「夏休みの間だけでも構わないのですか」


「はい。学院に戻る前に、できる限り」


「……わかりました。毎日来られますか」


「来ます」


 レオンは二人の会話を聞いていた。


 また増えた、と思った。


 エルフィーナの師が。


---


 帰り道、全員が少し疲れていた。


 しかし表情は明るかった。


 カイが言った。


「今日、楽しかったです」


「市場は初めてでしたか」ミレーユが言った。


「王都自体が初めてです。こんなに大きいとは思いませんでした」


「俺も市場は初めてだった」アロイスが言った。


「そうでしたね」


「……悪くなかった」


 アロイスは少し間を置いた。


「カイ・ヴェルナー」


「はい」


「市場で鶏肉を選んでいた時、値段の交渉をしていたな」


「ああ、あれはうちの親父に教わった習慣で」


「教えてくれないか。俺は交渉の仕方を知らない」


 カイはアロイスを見た。


「……貴族が平民に交渉を習うんですか」


「何が悪い」


「悪くはないですけど、意外で」


「強くなりたいなら、知らないことを知るべきだろう。エルフィーナの令嬢がそう言っていた」


 カイは少し笑った。


「そうですね。じゃあ教えます」


 二人が並んで歩き始めた。


 レオンはその光景を見た。


 ミレーユが隣に来た。


「アロイス様とカイさん、仲良くなりましたね」


「ええ」


「エルフィーナ様の周りって、こういうことがよく起きますね」


「よく起きます」


 前を歩くエルフィーナがシグルトと何かを話していた。今日行った道場の話だろうとレオンは思った。


「明日から毎日道場に行くつもりですよ、姉上は」


「そうでしょうね」


「夏休みの残りの日程を全部組み直さないといけません」


「大変ですね、レオン様」


「ええ」


「でも」ミレーユは言った。「それがレオン様の役目ですよね」


「……そうですね」


 レオンは前を見た。


 エルフィーナが振り返った。


「レオン、明日から道場の時間を稽古の予定に入れろ」


「今日言いましたね、それ」


「確認だ」


「……わかりました」


 エルフィーナは前を向いた。


 シグルトがレオンを見た。その目が「ご苦労様」と言っていた。


 レオンは小さく頷いた。


 王都の夕暮れが赤く、広かった。


 夏休みはまだ続いていた。

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