幕間「王は一人で笑う」
その夜、国王ヴァルター・フォン・ヴァレンティアは執務室で一人だった。
書類が山積みになっていたが、手がついていなかった。ブランデーを一口飲んで、暖炉の火を見ていた。
今日の大会のことを、考えていた。
---
正直に言えば、期待していなかった。
アルカディア侯爵家の令嬢。魔法名家の一人娘。シグルトの婚約者。書類の上ではそれだけの情報だった。政略的に申し分なく、家柄も問題なく、魔法の素養も高いと聞いていた。
それだけだった。
シグルトが婚約者に対して珍しく積極的だという話は聞いていた。護衛からの報告で、手合わせを申し込んだことも、贈り物をしたことも知っていた。
シグルトがそういう行動を取ること自体が、ヴァルターには驚きだった。
あの子は昔から、人に対して淡白だった。天才ゆえの孤独というやつで、誰かに本気で興味を持つことがなかった。それが婚約者に対して、自分から動いている。
どんな娘だろうと思っていた。
---
実際に見て、理解した。
なるほど、とヴァルターは思った。
シグルトが本気になるはずだ。
あの娘は、ヴァルターがこれまで見てきた貴族の令嬢とは根本的に違った。謁見の場での所作は完璧だった。礼儀も、立ち居振る舞いも、何一つ問題なかった。
しかし目が違った。
強さを求める者の目だった。それも、義務や競争からではなく、純粋に強さそのものを愛している目だった。
ヴァルターは長く王をやっている。人の目を見れば、その人間の本質がある程度わかる。
あの娘の目は、騎士団長や歴戦の将軍と同じ目だった。
十四歳の令嬢が、だ。
---
試合を見ていた。
剣術部門は圧倒的だった。それ自体は情報として知っていたが、実際に見るのは違った。グラハムから報告が来ていた。「評価不能」という言葉の意味が、今日初めてわかった。
魔法部門は出なかったが、総合部門のアロイス・クロイツェルとの試合を見た。
クロイツェル家の嫡男は悪くなかった。同学年の中では群を抜いていた。しかしあの娘には三十合で制された。
それでも三十合持ったことを、あの娘は評価した。
ヴァルターはその場面を見ていた。試合後に手を差し伸べた。相手がそれを掴んだ。「また戦いたい」と言った相手に「いつでも来い」と答えた。
その一連の流れに、ヴァルターは少し驚いた。
勝者が敗者に対してああいう振る舞いをできる人間は、そう多くない。プライドが邪魔をするか、あるいは相手を下に見るかのどちらかだ。
あの娘にはそれがなかった。
強さだけを見ていた。身分でも結果でもなく、その人間がどれだけ真剣に戦ったかだけを見ていた。
---
そしてシグルトとの決勝だった。
八十合。引き分け。
ヴァルターは長く息を吐いた。
シグルトが引き分けた相手を、ヴァルターは知らなかった。歴代の騎士団長にも、シグルトと引き分けられる者はいなかった。
あの娘は、本物だった。
しかし戦いの結果よりも、ヴァルターが気になったのは別のことだった。
エルフィーナがシグルトを見る目だった。
婚約者として見ていなかった。好敵手として見ていた。純粋に、強い相手として。
そしてシグルトは、その目を向けられることが嬉しそうだった。
あの子が、誰かにああいう顔をするのをヴァルターは初めて見た。
---
試合の後、直接話した。
礼は完璧だった。返答も問題なかった。
ただ一つだけ、予想外のことがあった。
シグルトを頼む、と言った時のことだった。
普通の令嬢なら、「はい、必ずや」とか「お任せください」とか、そういう答えが返ってくる。それが正解だった。
あの娘は少し考えた。
それから言った。
「一人で抱えすぎていると感じた時は、稽古に誘います。体を動かせば余計なことを考えなくなります」
ヴァルターは笑いそうになるのを堪えた。堪えきれなかった。
背を向けてから笑った。
---
何が可笑しかったのか。
ヴァルターは考えた。
正確には、可笑しかったのではなかった。
あの答えが、あまりにも真剣だったからだ。
策略でも媚びでも社交辞令でもなく、純粋に「これが最善だ」と思って答えていた。シグルトが一人で抱えすぎる癖があると聞いて、その解決策として「稽古に誘う」という結論を出した。
それがあの娘にとっての、本物の答えだった。
ヴァルターは長く王をやっている。人が自分に何かを言う時、その裏に何があるかを読む癖がついていた。
あの娘の言葉には、裏がなかった。
完全に、なかった。
---
ヴァルターはブランデーをもう一口飲んだ。
シグルトのことを思った。
あの子は昔から、完璧すぎた。何でもできた。だからこそ、本気になれるものがなかった。剣も魔法も学問も、努力する前に到達してしまった。
それがあの子の孤独だった。
エルフィーナという娘は、シグルトが本気を出せる相手だった。八十合打ち合って引き分けた。シグルトが「次は勝つ」と思える相手は、これまでいなかった。
そしてあの娘はシグルトを王太子として見ていない。
強い相手として見ている。
それがシグルトには必要なものだったのかもしれない、とヴァルターは思った。
---
一つだけ、気になることがあった。
前世の記憶、という言葉だった。
ヴァルターは王として、様々な知識を持っていた。転生という概念が存在することも知っていた。稀に、前世の記憶を持って生まれてくる者がいるという話も、古い文献で読んだことがあった。
あの娘が言った「前世の記憶」が何を意味するのか、ヴァルターには正確にはわからなかった。
しかし聞かなかった。
聞く必要がないと思ったからだ。
あの娘が今ここに存在している。それだけで十分だった。どこから来たかではなく、今何者であるかが重要だった。
今のエルフィーナ・フォン・アルカディアは、シグルトの婚約者として申し分なかった。
それ以上でも以下でもなかった。
いや。
ヴァルターは少し笑った。
正直に言えば、それ以上だった。
あの娘はおそらく、この王国に必要な人間になる。政治でも外交でも魔法でもなく、ただその存在によって。
人を動かす力を持っている人間がいる。
カリスマと呼ぶこともできるが、あの娘の場合はそれとも少し違った。
強さと誠実さだけで人を集める。
身分も策略も関係なく。
---
書類に手をつけようとした時、扉がノックされた。
「陛下、シグルト殿下がお時間をいただきたいとのことです」
「通せ」
シグルトが入ってきた。
ヴァルターはその顔を見た。
いつもと違う顔だった。完璧な公の顔ではなく、何か考えている顔だった。
「父上」
「何だ」
「今日の大会を見ていただけましたか」
「見た」
「エルフィーナのことを、どう思いましたか」
ヴァルターはしばらく考えた。
「合格だと言った」
「それだけですか」
「お前はどう思っているんだ」
シグルトは少し黙った。
「……本気で、好きです」
真っ直ぐな言葉だった。
ヴァルターは息子の顔を見た。
シグルトがそういう言葉を言うのを、初めて聞いた。
「知っている」
「知っていたんですか」
「護衛から報告が来る」
シグルトは少し苦い顔をした。
「それは」
「仕方ない。お前は王太子だ」
ヴァルターはブランデーを一口飲んだ。
「シグルト」
「はい」
「あの娘を大切にしろ。ただし」
「ただし?」
「対等に扱え。あの娘は対等に扱われることを望んでいる。王太子の婚約者としてではなく、一人の人間として」
シグルトはしばらく黙った。
「……わかっています」
「わかっているならいい」
シグルトは頭を下げて、部屋を出た。
ヴァルターは一人になった。
暖炉の火を見ながら、もう一口ブランデーを飲んだ。
稽古に誘います、という言葉がまだ頭にあった。
ヴァルターはもう一度、一人で笑った。
あの娘は面白い。
シグルトが本気になるはずだ、と改めて思った。




