第11話「決勝戦、あるいは王は何を見たか」
審判の声が上がった瞬間、演武場の空気が変わった。
観覧席の全員が息を呑んだ。国王が前に身を乗り出した。王妃が扇を閉じた。
エルフィーナとシグルトが動いた。
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シグルトの視点では、こうだった。
向かい合った瞬間、エルフィーナの目が変わったのがわかった。好敵手を見る目だった。婚約者でも令嬢でもなく、ただ強い相手として自分を見ている目だった。
シグルトはその目が好きだった。
誰も自分にそういう目を向けなかった。王太子として、天才として、完璧な存在として見る目ばかりだった。エルフィーナだけが、ただ強い相手として見てくれた。
だから今日も、全力で来る。
父上の前であっても、関係ない。
エルフィーナに全力を出すことが、自分にできる最大の敬意だった。
シグルトは踏み込んだ。
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レオンの視点では、こうだった。
始まった瞬間、先週の稽古場での手合わせとは明らかに違うとわかった。
二人とも、本気だった。
シグルトは大会に向けて調整してきた。その動きは先週より鋭く、魔力の制御は緻密だった。一ヶ月間、エルフィーナを相手に稽古を続けてきた結果が出ていた。
エルフィーナも違った。
三部門を戦い終えた後とは思えない動きだった。疲労が見えない。いや、疲労を動きに出さない技術があった。前世から叩き込まれた武人の身体が、消耗を隠していた。
十合。
二十合。
三十合。
誰も声を出さなかった。演武場全体が、二人の戦いに飲み込まれていた。
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シグルトが魔法を変えた。
身体強化から、攻性魔法との複合に切り替えた。剣術と魔法と体術を同時に展開する、シグルト固有の戦い方だった。速度が上がった。軌跡が複雑になった。
エルフィーナは変わらなかった。
受けた。捌いた。流した。
しかし今日は違う点があった。
エルフィーナが前に出た。
守りではなく、攻めに転じた。
シグルトが押された。初めてだった。これまでの稽古では、エルフィーナは相手の動きを見てから対応することが多かった。しかし今日は違った。主導権を握りに来ていた。
四十合。
五十合。
シグルトが崩れかけた。踏みとどまった。
六十合。
七十合。
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八十合目で、動きが変わった。
シグルトが一瞬だけ止まった。止まったのではなかった。溜めた。
エルフィーナがそれを読んだ。
二人が同時に動いた。
ぶつかった。
魔力と魔力がぶつかり合った。剣と剣が交わった。衝撃波が演武場を揺らした。観覧席の生徒たちが思わず身をすくめた。
静止。
二人が静止した。
エルフィーナの木刀がシグルトの首筋に当たっていた。
シグルトの木刀がエルフィーナの脇腹に当たっていた。
同時だった。
審判が沈黙した。判定が難しかった。
グラハムが審判席から立ち上がった。演武場を確認した。それから声を上げた。
「同時決着。引き分け」
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演武場が沸いた。
引き分けという結果に対して、誰も異論を唱えなかった。あの八十合を見た後では、どちらが勝ったとも言えなかった。
シグルトはエルフィーナを見た。
エルフィーナはシグルトを見た。
シグルトは笑った。本物の笑いだった。
「……引き分けだ」
「ええ」
「悔しくないか」
「悔しい」エルフィーナは言った。「次は勝つ」
「俺もそう思っている」
二人は同時に木刀を下げた。
その瞬間、演武場に拍手が起きた。全校生徒の、来賓の、全員の拍手だった。
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シグルトの視点では、こうだった。
引き分けという結果を、シグルトは悔しいとも嬉しいとも思わなかった。
正確に言えば、悔しかった。勝ちたかった。しかしそれと同時に、エルフィーナが本気で戦ってくれたことが、嬉しかった。
あの人は手加減をしない。相手が王太子であっても、父上の前であっても、関係なく全力を出す。
それが、エルフィーナだった。
シグルトは思った。
この人を、必ず手に入れる。
剣でも魔法でも及ばなくていい。ただ、この人の傍にいる理由を、作り続ける。
それが自分にできることだった。
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大会が終わった後、来賓席から国王が降りてきた。
エルフィーナとシグルトの前に立った。
レオンは少し離れたところから、その場面を見ていた。心臓が速くなった。
国王はエルフィーナを見た。
エルフィーナは国王を見た。
礼をした。完璧な礼だった。作法に一点の乱れもなかった。
「アルカディア侯爵家の令嬢か」
「はい、陛下。エルフィーナ・フォン・アルカディアと申します」
「今日の戦いを見た」
「お見苦しいところをお見せしました」
「見苦しくはなかった」
国王は少し間を置いた。
「シグルトと引き分けた者を、初めて見た」
「殿下が強いのです」
「お前も強い」
エルフィーナは何も言わなかった。
「一つ聞いていいか」
「はい」
「あれほどの武術を、どこで習得した」
「前世の記憶です、陛下」
国王は一瞬だけ目を細めた。
「……そうか」
それ以上聞かなかった。
「シグルトの婚約者として、合格だ」
エルフィーナは頷いた。
「ありがとうございます」
「ただし」
「はい」
「シグルトを頼む。あの子は一人で抱えすぎる癖がある」
エルフィーナはしばらく考えた。
「……殿下が一人で抱えすぎていると感じた時は、稽古に誘います。体を動かせば余計なことを考えなくなります」
国王は一瞬止まった。
それから、笑った。
「そうか。それでいい」
国王は踵を返した。その背中が少し揺れていた。笑いを堪えているのだとレオンには見えた。
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国王が去った後、シグルトがエルフィーナの隣に立った。
「父上に何を言った」
「一人で抱えすぎている時は稽古に誘うと言いました」
シグルトはしばらく黙った。
「……婚約者への言葉としては、少し違う気がするが」
「違いましたか」
「いや」
シグルトは小さく笑った。
「お前らしい」
「そうですか」
「ああ」
二人はしばらく並んで立っていた。
エルフィーナが口を開いた。
「殿下」
「何だ」
「今日の八十合目、溜めましたね」
「気づいていたか」
「ええ。あそこで読み合いになりました」
「俺も読んでいた」
「だから引き分けになった」
「次は勝つ」
「私もそう思っています」
シグルトは演武場を見た。生徒たちがまだ興奮気味に話していた。
「エルフィーナ」
「はい」
「今日、楽しかったか」
エルフィーナは少し考えた。
「楽しかったです」
「それだけか」
「……殿下が強くなっていた。それが一番嬉しかった」
シグルトはその言葉を聞いて、また笑った。
今度は少し長い笑いだった。
「ありがとう」
「何がですか」
「いや、いい」
エルフィーナは首を傾げた。
その意味を、特に考えていないようだった。
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夜、談話室にレオン、ミレーユ、カイの三人が集まった。
「今日は疲れました」レオンが言った。
「俺も」カイが言った。「でも最高でした」
「一回戦、勝ちましたね」ミレーユが言った。
「エルフィーナさんが立ち上がって『よし』って言ってくれた時、もうそれだけでよかったです」
「わかります」ミレーユが言った。「私も『よくやった』って言ってもらえました」
レオンは二人を見た。
「お二人とも、今日よく戦いました」
「レオン様も剣術部門、二回戦まで進みましたよ」
「……姉上に見られていると思うと、変なところで力が入りました」
三人は少し笑った。
カイが言った。
「エルフィーナさんと殿下の決勝、すごかったですね」
「ええ」
「引き分けって、あり得るんですか」
「あの二人だからあり得たんだと思います」
「国王陛下も笑っていましたね」
「エルフィーナ様が、殿下が一人で抱えすぎている時は稽古に誘うと言ったらしいです」ミレーユが言った。
「どこからその情報が」
「殿下の護衛から聞きました」
レオンは天井を見た。
国王が笑った理由がわかった気がした。
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その夜、エルフィーナは自室で手紙を書いていた。
レオンが覗くと、ゴドフリーへの報告だった。
「今日のことを全部書くんですか」
「ああ。三部門全勝と引き分けの報告、カイとミレーユの結果、アロイスとの三十合、殿下との八十合」
「盛りだくさんですね」
「ゴドフリーが喜ぶ」
「国王陛下との対面は書きますか」
エルフィーナは少し考えた。
「書く。陛下に稽古に誘うと言ったら笑っていた。理由がわからない」
「……そうですね」
「レオン、なぜ笑ったと思う」
レオンはしばらく考えた。
「予想外だったからだと思います」
「何が」
「婚約者の娘が、陛下の息子への言葉として『稽古に誘う』と言うとは思っていなかったからです」
「変だったか」
「変ではないです。ただ、普通ではないです」
エルフィーナはしばらく考えた。
「そうか。では次に陛下にお会いした時は、もう少し普通のことを言った方がいいか」
「……姉上が普通のことを言っても、それはそれで驚かれると思います」
「なぜだ」
「なんとなくです」
エルフィーナは首を傾げた。それから筆を動かし始めた。
レオンは窓の外を見た。
夜の中庭は静かだった。今夜だけは、素振りの音がしなかった。
エルフィーナも、今日は休むつもりらしかった。
大会が終わった。
しかしこれで何かが終わったわけではなかった。アロイスが変わった。シグルトが引き分けた。カイが一回戦を勝った。ミレーユが準優勝した。国王がエルフィーナを認めた。
全部、始まりだった。
「姉上」
「何だ」
「今日、お疲れ様でした」
エルフィーナは筆を止めた。
それから、珍しく少し間を置いた。
「……ありがとう、レオン」
静かな言葉だった。
レオンは返事をしなかった。
できなかった。




