第10話「武術大会、あるいは強さとは何かという話」
大会当日の朝は、夜明け前から始まった。
レオンが目を覚ますと、中庭から風切り音が聞こえた。
エルフィーナはすでに素振りをしていた。大会当日も変わらなかった。むしろいつもより静かな音だった。気持ちを整えているのだとレオンは思った。
窓から見ると、傍らにシグルトが立っていた。
何を話しているかは聞こえなかった。エルフィーナが素振りを続けながら何か言い、シグルトが頷いていた。朝の静かな中庭で、二人は並んでいた。
レオンはしばらくそれを見ていた。
それから窓を閉めた。
――仕方ない。今日は大会だ。
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大会の会場は学院の中央演武場だった。
石造りの広い空間に観覧席が設けられ、すでに多くの生徒が詰めかけていた。来賓席には国王夫妻の姿があった。レオンはその席を一瞥して、すぐに視線を外した。
エルフィーナは会場に入った瞬間、演武場の構造を確認し始めた。床の材質、天井の高さ、光の入り方。いつも通りだった。
「姉上、来賓席に国王陛下がいらっしゃいますよ」
「広さが思ったより大きい。動きやすい」
「聞いていますか」
「聞いている。それより床の感触がいい」
レオンは来賓席を見た。国王が何か王妃に囁いていた。視線はエルフィーナに向いていた。
婚約者の娘を、初めて見る目だった。
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午前中は剣術部門と魔法部門が行われた。
魔法部門にミレーユが出た。
レオンは観覧席からそれを見ていた。エルフィーナの隣だった。エルフィーナは剣術部門の試合が終わった直後で、まだ少し息が上がっていた。剣術部門は当然のように全勝だった。
ミレーユの相手は三年生の男子生徒だった。魔法の実力では格上のはずだった。
始まった。
ミレーユは動じなかった。
エルフィーナに四年間叩き込まれた魔力操作の精度が、そのまま出ていた。荒く撃て、という教えを体現するように、ミレーユの魔法は速く、鋭かった。
三年生が押し始めた。
ミレーユは下がりながら、相手の魔力の流れを読んでいた。エルフィーナに何度も言われた言葉が頭にあった。「制御が丁寧すぎる。もっと荒く撃っていい」。
タイミングが来た。
ミレーユは撃った。
相手が吹き飛んだ。
観覧席がざわめいた。
レオンは隣を見た。
エルフィーナが静かに頷いていた。
「よくやった」
それだけだった。
それだけで、ミレーユは試合後に泣きそうな顔をしていた。
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ミレーユは魔法部門を準優勝で終えた。
決勝で当たった相手は二年生の実力者で、さすがに及ばなかった。しかし準優勝は一年生としては異例の結果だった。
試合後、ミレーユがレオンの隣に来た。
「準優勝でした」
「すごいですよ、一年生で」
「エルフィーナ様に見ていていただけました」
「ええ」
「……よくやったって言ってもらえました」
「ええ」
「だめだ」
「ミレーユ様」
「わかってます。でも、もう」
ミレーユは両手で顔を覆った。
レオンは何も言わなかった。
言えることが何もなかった。
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午後、カイの試合が来た。
総合部門の一回戦。相手は二年生の男子生徒だった。
カイは会場に入る前、少し立ち止まった。
「レオン様」
「何ですか」
「エルフィーナさん、見ていてくれますかね」
「見ています。さっきから視線がカイさんに向いています」
カイは振り返った。
観覧席のエルフィーナと目が合った。エルフィーナは小さく頷いた。
カイは前を向いた。
「……行きます」
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試合が始まった。
カイは最初から魔力を使った。エルフィーナに教わった魔力操作の精度が、体術と組み合わさった。
相手は格上だった。二年間の経験の差は明らかだった。
しかしカイは下がらなかった。
押されながら、耐えながら、相手の動きを読んだ。元傭兵の父から叩き込まれた「生き残る目」が働いた。隙を見つけた。
踏み込んだ。
相手が崩れた。
カイが制した。
観覧席が沸いた。
レオンは拳を握った。
エルフィーナが立ち上がっていた。観覧席で立ち上がったのはエルフィーナだけだった。
「よし」
その一言が、会場に聞こえた。
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カイは二回戦で敗れた。
相手は三年生の実力者で、さすがに及ばなかった。しかし二回戦まで進んだことは、一ヶ月前の自分では考えられない結果だった。
試合後、カイがエルフィーナの前に来た。
「負けました」
「見ていた」
「……力が足りませんでした」
「足りない部分がわかったか」
「はい。体術の基礎と、魔力の持続力です」
「よし。明日から稽古に組み込む」
「はい」
カイは深く頭を下げた。
「ありがとうございます。一回戦、勝てました」
「当然だ。稽古をしたのだから」
カイは顔を上げた。その目が光っていた。
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そして総合部門の準決勝が来た。
エルフィーナ対アロイスだった。
会場が静まり返った。
来賓席の国王が身を乗り出した。王妃が何かを囁いた。シグルトは観覧席から、静かにその試合を見ていた。
二人が向き合った。
アロイスの顔は、中庭で地面に沈められたあの夜とは違った。屈辱の顔ではなかった。真剣な、武人の顔だった。
「アルカディアの令嬢」
「アロイス・フォン・クロイツェル」
「先日の借りを返す」
「借り?」
エルフィーナは首を傾げた。
「私は借りを作った覚えがない。あの時は止めただけだ」
「俺には借りだ」
「……そうか。ならば返してもらおう」
エルフィーナの目が変わった。好敵手を見る目になった。
審判が声を上げた。
「始め」
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アロイスは速かった。
剣術と魔法を組み合わせた動きは、同学年の中では群を抜いていた。中庭で一瞬で沈められた相手とは思えない気迫だった。
エルフィーナは受けた。
流した。
捌いた。
しかし今回は一瞬で終わらせなかった。
レオンはそれに気づいた。エルフィーナが加減をしているのではなかった。アロイスの動きを見ていた。測っていた。どこまでやれる相手かを、確認していた。
十合。
二十合。
アロイスが追い込まれながらも、崩れなかった。打ち合う中で何かを掴もうとしていた。
三十合目で、エルフィーナが動いた。
アロイスの木刀が宙を舞った。アロイスが膝をついた。エルフィーナの手が首筋の寸前で止まった。
静止。
沈黙。
「……参った」
アロイスの声は、震えていなかった。
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試合後、エルフィーナがアロイスに手を差し伸べた。
アロイスはその手を見た。しばらく黙っていた。
それから、掴んだ。
立ち上がった。
「三十合持った」
「ああ」エルフィーナが言った。「先日の一瞬より、よほど面白かった」
アロイスの顔が動いた。笑ったのだとレオンは思った。貴族としての仮面ではない、素の顔だった。
「……また戦いたい」
「いつでも来い。稽古相手は多い方がいい」
アロイスはエルフィーナを見た。
「お前は本当に、強さしか見ないのか」
「他に何を見る」
「身分も、政治も、関係ないのか」
「強さの前では関係ない」
アロイスはしばらく沈黙した。
「……カイ・ヴェルナーへの件は、撤回する」
エルフィーナは頷いた。当然だという顔で。
「よし」
それだけだった。
しかしレオンには、その「よし」の重さがわかった。
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総合部門の決勝はエルフィーナ対シグルトになった。
会場の空気が変わった。
国王が王妃に何かを言った。王妃が頷いた。
レオンは観覧席から、二人が向かい合う場面を見ていた。
カイが隣に来た。
「エルフィーナさんと殿下の試合……」
「ええ」
「国王陛下が見ています」
「ええ」
「エルフィーナさんは気にしていないですね」
「これっぽっちも」
カイは少し笑った。
「それがエルフィーナさんですね」
「ええ」
ミレーユが反対側から来た。
「始まりますね」
「始まります」
「エルフィーナ様、今日一番楽しそうな顔をしていますね」
レオンは演武場の中央を見た。
エルフィーナは木刀を構えながら、確かに笑っていた。
その笑顔を見て、レオンは思った。
姉は今、本当に幸せなのだろう。強い相手と戦える。それだけで、あの人は幸せなのだ。
その単純さが、羨ましいような、愛おしいような気がした。
審判の声が上がった。
「始め」
二人が動いた。




