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侯爵令嬢は恋を知らぬまま最強である 〜最強なのに、恋だけがわからない〜  作者: N


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第8話「派閥戦、あるいは令嬢は政治に興味がない」

 アロイスが動いたのは、試験結果が掲示された翌日だった。


 朝食の食堂に、貴族の生徒が十数名固まっていた。全員がアロイスの周囲に集まり、何かを話し合っていた。レオンはその光景を見て、嫌な予感がした。


「姉上」


「何だ」


「アロイス・クロイツェルが動いています」


「そうか」


「気にならないんですか」


「強いのか、あの男」


「政治的な意味で、です」


 エルフィーナは少し考えた。


「政治か」


「はい」


「興味がない」


 レオンは息を吐いた。


---


 その日の昼、レオンはミレーユから情報を得た。


 ミレーユは貴族社会の動きに敏感だった。ロシャール伯爵家の一人娘として、そういう嗅覚を幼少期から叩き込まれていた。


「アロイス様が上位貴族の生徒を集めています」


「目的は」


「エルフィーナ様の孤立化、だと思います」


「具体的には」


「上位貴族の生徒にエルフィーナ様との関わりを避けるよう働きかけている。さらに、カイさんを含む平民枠の生徒への嫌がらせを組織的に行おうとしている」


 レオンは黙って聞いた。


「ただし」ミレーユは続けた。「一つ誤算があります」


「何ですか」


「エルフィーナ様は上位貴族に孤立させられる前から、上位貴族とほとんど交流していません」


 レオンは少し考えた。


「……姉上は最初から剣術場と稽古場にしかいないので、孤立のしようがない」


「ええ。孤立化作戦が成立しない相手です」


 二人は同時に小さく笑った。


---


 問題はカイへの嫌がらせだった。


 翌朝、中庭の稽古場の扉に張り紙がしてあった。「平民立入禁止」と書かれていた。学院の規則にはない、私的な張り紙だった。


 カイがその前に立っていた。顔が強張っていた。しかし足は動かなかった。


 エルフィーナが来た。


 張り紙を見た。


 剥がした。


 それだけだった。


「姉上」レオンが言った。「それだけでは解決になりません。また貼られます」


「貼ったら剥がす」


「根本的な解決が」


「カイ、稽古を始めるぞ」


「……はい」


 カイは少し笑った。それから中庭に入った。


 レオンは張り紙を見た。


 ――仕方ない。こちらで動くしかない。


---


 その日の午後、レオンはシグルトの護衛に連絡を入れた。


 夕方、人気のない廊下でシグルトと二人で向き合った。


「クロイツェルが動いています」


「知っている」


「カイへの嫌がらせが組織的になっています。姉上は張り紙を剥がして終わりにしようとしています」


「……エルフィーナらしいな」


「らしいですが、解決になりません。殿下からクロイツェル家に再度、話をしていただけますか」


「話はした。しかし」


 シグルトの顔が少し変わった。


「アロイスは今度はエルフィーナではなくカイを狙っている。エルフィーナへの直接的な攻撃は避けながら、周囲を削る戦略だ」


「賢い」


「賢い。しかし」シグルトは静かに言った。「俺を動かしたことは誤算だろう」


「殿下が直接動くんですか」


「婚約者の周囲への嫌がらせを放置するつもりはない。ただし」


「ただし?」


「エルフィーナには言うな。あの人は自分で解決しようとする」


「……それはそうですね」


「俺が動いたと知れば、余計なことをするなと言いかねない」


 レオンは頷いた。


「わかりました。ただ一つだけ」


「何だ」


「カイ本人にも動かせてください。自分で解決する経験が必要です。エルフィーナ様がそう言っていましたから」


 シグルトは少し考えた。


「……なるほど。では俺は裏で動く。表はカイに任せる」


「ありがとうございます」


 シグルトは歩き出した。


「レオン」


「はい」


「お前は本当に気が利く」


「姉上がいるので、鍛えられました」


 シグルトは小さく笑った。


---


 レオンはその足でカイを探した。


 剣術場の隅で、カイが一人で魔力操作の練習をしていた。顔が少し暗かった。


「カイさん」


「レオン様」


「今日の張り紙の件、どう思っていますか」


 カイはしばらく黙った。


「……正直、怖いです。これ以上ひどくなったら、俺のせいでエルフィーナさんが面倒に巻き込まれる」


「エルフィーナ様は面倒とは思っていません。それは前にも言いました」


「わかっています。でも」


「カイさん」


「はい」


「エルフィーナ様が言っていましたね。次は自分でやれと」


 カイは顔を上げた。


「……はい」


「今がその時だと思います。アロイス・クロイツェルに、正面から向き合ってみてください」


「俺一人で、あの人に」


「一人じゃないです。ただし表に立つのはカイさんでないといけない」


 カイはしばらく考えた。それから、顔が変わった。覚悟を決めた顔だった。


「……わかりました」


---


 翌日の昼休み、食堂でカイがアロイスの前に立った。


 食堂が静まり返った。平民の少年が上位貴族の嫡男に正面から向き合っていた。


「アロイス・フォン・クロイツェル様」


 カイの声は震えていなかった。


「俺に何か言いたいことがあるなら、直接言ってください。回りくどいことはやめてほしい」


 アロイスが目を細めた。


「平民が随分と大きく出たな」


「俺は正当に入学しました。稽古をする権利があります。それを妨害するなら、学院の規則に則って申し立てをします」


「脅しか」


「事実を言っています」


 アロイスの周囲の生徒たちが動きかけた。


 その瞬間、食堂の入口からシグルトが入ってきた。


 偶然ではなかった。レオンには計算だとわかった。


 シグルトは食堂を見渡した。その視線がアロイスの周囲の生徒たちに止まった。


 それだけだった。


 一言も言わなかった。


 しかしアロイスの周囲の生徒たちが、静かに動きを止めた。王太子の視線、それだけで十分だった。


 アロイスはカイを見た。それからシグルトを見た。それからカイを見た。


「……覚えておけ」


 アロイスは食堂を出た。


 カイは立ったまま、深く息を吐いた。


---


 レオンはその光景を隅から見ていた。


 ミレーユが隣に来た。


「うまくいきましたね」


「ええ」


「カイさん、よくやりました」


「ええ」


「殿下の登場は偶然ですか」


「……さあ」


 ミレーユは小さく笑った。


 食堂の中央でカイがエルフィーナの元に歩いていった。


「エルフィーナさん、見ていましたか」


「ああ」


「どう思いましたか」


 エルフィーナは少し考えた。


「よかった」


「よかった、というのは」


「自分で立った。それがよかった」


 カイはその言葉を聞いて、しばらく黙っていた。


 それから笑った。


「……ありがとうございます」


「礼はいらない。稽古を続けろ」


「はい」


---


 夕方、廊下でシグルトとレオンが鉢合わせした。


「うまくいったようだな」


「殿下のおかげです」


「俺は何もしていない。食堂に入っただけだ」


「それが全てでした」


 シグルトは少し間を置いた。


「カイはよくやった」


「ええ」


「あの度胸は本物だ」


「殿下、カイのことを買っていますね」


「認めるべきものは認める」


 レオンはシグルトを見た。


「……殿下は本当に、強さで人を見るんですね」


「エルフィーナの影響かもしれない」


 シグルトは静かに笑った。


「あの人の周りにいると、強さ以外の基準が馬鹿らしくなる」


 レオンは何も言わなかった。


 その感覚は、自分にもわかった。


---


 夜、エルフィーナが手紙を書いていた。


 レオンが覗くと、ゴドフリーへの続報だった。


「今日のことも書くんですか」


「ああ。カイが自分で立ち向かった。それは記録に値する」


「ゴドフリーは喜びますね」


「弟子の成長だからな」


 レオンは椅子に座った。


「姉上、今日の件、殿下が動いてくれたことは気づいていましたか」


 エルフィーナは筆を止めた。


「……気づいていた」


「どう思いましたか」


「カイの邪魔をしなかったのはよかった。カイが自分で解決するのを、殿下は待っていた」


「それだけですか」


「……信頼できる人だと思った」


「婚約者として、ではなくですか」


「人として」


 レオンは少し黙った。


「姉上にとって、それが一番の評価ですね」


「そうだな」


 エルフィーナは再び筆を動かした。


 窓の外で風が鳴った。


 レオンは天井を見た。


 シグルトは今日、エルフィーナに「信頼できる人」と評された。本人は知らないだろうが、エルフィーナの評価基準において、それは最上位に近い言葉だった。


 アロイスの件はひとまず落ち着いた。しかし終わったわけではないとレオンは思った。


 それと、もう一つ。


 カイが今日、食堂で立った。その背中を見ていたエルフィーナの顔が、いつもより少し柔らかかった気がした。


 気のせいかもしれない。


 気のせいではないかもしれない。


 ――仕方ない。


 レオンは目を閉じた。

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