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侯爵令嬢は恋を知らぬまま最強である 〜最強なのに、恋だけがわからない〜  作者: N


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幕間「父と母は紅茶を飲む」

 エルフィーナが学院に発った夜、アルカディア侯爵邸の居間は静かだった。


 ガルディアスは暖炉の前の椅子に座り、ブランデーを飲んでいた。イゾルデはその向かいで紅茶を飲んでいた。二人の間に会話はなかった。しかしそれは気まずい沈黙ではなく、長年連れ添った夫婦の、慣れた静けさだった。


 先に口を開いたのはイゾルデだった。


「今頃、学院に着いたかしら」


「ああ。ゴドフリーから文が来れば確認できる」


「来るわね、絶対に。あの人のことだから」


 二人は同時に少し笑った。


---


「レオンが一緒で、よかったわ」


 イゾルデが言った。


「ああ、あの子は気が利く。エルフィーナの見えていない部分を全部補ってくれる」


「あなたが引き取ることに最初は反対したけれど」


「今では?」


「正解だったと思っています」


 ガルディアスはブランデーを一口飲んだ。


「エルフィーナもレオンのことを信頼している」


「しているわね。あの子が人を信頼する時は、言葉ではなく行動で示すから」


「レオンの傍にいる時の顔が、少し違う」


「違う?」


「柔らかい。本人は気づいていないだろうが」


 イゾルデは紅茶を飲んだ。その顔が少し遠くなった。


「レオンも、気づいていないでしょうね。自分の気持ちに」


「ああ」


「複雑ね」


「複雑だ」


 二人はしばらく黙った。


---


「シグルト殿下のことは、どう思っている」


 ガルディアスが言った。声が少し低くなった。


「婚約者として、ということ?」


「ああ」


 イゾルデはしばらく考えた。


「悪い方ではないと思います。天才で、真っ直ぐで、プライドはあるけれど地に足がついている。エルフィーナのことを本気で見ている」


「俺は気に食わない」


「わかっています」


「娘を取られる気がして」


「わかっています」


「イゾルデ、お前は冷静だな」


「冷静に見えているだけよ」


 イゾルデは紅茶のカップを置いた。


「正直に言えば、シグルト殿下がエルフィーナを幸せにできるかどうか、まだわからない。あの子を幸せにするのは、並大抵のことじゃないから」


「そうだな」


「エルフィーナは強さと誠実さしか見ない。殿下がその基準を満たし続けられるかどうか。それだけが問題です」


「今のところは?」


「今のところは、及第点」


 ガルディアスは少し唸った。


「俺はまだ認めていない」


「それはあなたの娘への溺愛の話であって、殿下の評価とは別でしょう」


「同じだ」


「……あなたは本当に」


 イゾルデは小さく息を吐いた。しかしその目は笑っていた。


---


「エルフィーナが初めて木刀を持った時のことを覚えているか」


 ガルディアスが言った。


「三歳でしょう。ゴドフリーの木刀を見て、自分にも寄こせと言った」


「そうだ。あの目が忘れられない」


「どんな目でしたか」


「輝いていた。初めて好きなものを見つけた子供の目だった」


 イゾルデは少し黙った。


「私はあの時、少し怖かった」


「怖い?」


「この子はこれで生きていくんだと思ったから。剣と強さで。それ以外のものに興味を持てるのだろうかと」


「結果は」


「結果は……あなたの見ている通りよ」


 ガルディアスは笑った。


「俺はあの目を見た瞬間から、この子は大丈夫だと思った」


「大丈夫、というのは」


「自分の道を知っている子は、強い。たとえその道が人と違っていても」


 イゾルデはしばらく考えた。


「……そうね。私も今はそう思っています。ただ」


「ただ?」


「強さだけで生きていけるほど、世の中は単純じゃない。エルフィーナにはわかっていないことがまだある」


「恋愛のことか」


「それだけじゃないけれど、それも含めて」


 ガルディアスはブランデーを飲んだ。


「まあ、レオンがいる」


「レオンに任せすぎるのも、どうかと思うけれど」


「あの子は仕方ないと思いながら、ちゃんとやる。それが一番頼りになる」


 イゾルデは少し笑った。


「あなた、レオンのことをちゃんと見ているのね」


「娘が信頼している人間だからな」


---


「拾われた子たちのことは、どう思っているの」


 イゾルデが言った。


「さすがだと思っている」


「……本気でそう思っているの」


「本気だ。あの子は身分で人を見ない。それはこの家では教えていないことだ。エルフィーナが自分で辿り着いた」


 イゾルデはしばらく黙った。


「私は最初、止めようとしたわ」


「知っている」


「でも拾われた子たちの顔を見て、やめた」


「どんな顔だった」


「エルフィーナを見る時の顔が、レオンと同じだったから」


 ガルディアスは何も言わなかった。


 イゾルデは続けた。


「仕方ないと諦めながら、でも全部受け入れている顔。あの子はそういう顔をさせる何かを持っている」


「ああ」


「私も、最初からそうだったかもしれない」


「イゾルデ」


「何よ」


「お前もエルフィーナに甘い」


「……あなたほどじゃないわ」


---


 暖炉の火が少し小さくなった。


 ガルディアスが立ち上がって、薪を足した。それからイゾルデの隣に座った。珍しいことだった。


「イゾルデ」


「何」


「エルフィーナは幸せになれると思うか」


 イゾルデはしばらく考えた。


「なれると思います。ただし、あの子の幸せは私たちの想像とは全然違う形をしているでしょうね」


「どんな形だ」


「強い相手と稽古ができて、信頼できる人間が傍にいて、食事と睡眠が確保されていて」


「それだけか」


「それだけじゃないと思うけれど、あの子はまだそれに気づいていない」


「いつか気づくか」


「気づかせてくれる人間が現れれば」


 ガルディアスは少し黙った。


「シグルト殿下か」


「殿下かもしれないし、別の誰かかもしれない」


「レオンという可能性は」


 イゾルデはガルディアスを見た。


「……それを言うのね」


「俺には見えている」


「私にも見えています。ただ」


「ただ?」


「あの二人の間のことは、あの二人が決めることよ。私たちが口を挟む話じゃない」


 ガルディアスは頷いた。


「そうだな」


 二人はしばらく黙って、暖炉の火を見ていた。


「ガルディアス」


「何だ」


「エルフィーナが学院で何かやらかしたら、ゴドフリーから報告が来るわね」


「来るな」


「覚悟しておいて」


「している」


「剣術の教官を倒すくらいはやるでしょうね」


「さすがだ」


「……あなたは本当に」


 イゾルデは小さく笑った。諦めたような、しかし幸せそうな笑いだった。


 暖炉の火が静かに燃えていた。


 学院では今頃、エルフィーナが素振りをしているだろうとイゾルデは思った。


 それは確信だった。

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