東京を出る夜 午後5時59分 ~告白
窓の外はもう夕方だった。
高層ビルのガラスに、街の灯りが少しずつ映り始めている。オレンジ色の残光が、会議室のブラインドの隙間から細く差し込んでいた。
会議室には松本と、その上司だけが残っていた。
長いテーブルの向こう側。机の上に一枚の紙。
人事辞令。
松本はその紙を見ていた。白い紙の上に、黒い文字が整然と並んでいる。
上司がそれを軽く指で叩く。
「・・・災難だったな」
松本は一度だけ紙に目を落とし、視線を外す。
金沢支店配属。
左遷、と言われても仕方のない人事だった。心のどこかで、やはりそうなったか、と思う。驚きはなかった。ただ、胸の奥に小さく残っていた何かが、静かに落ち着くのを感じていた。
上司が低い声で言う。
「社内でも気づいてる奴はいる」
松本は黙ったままだ。
会議室の空調の音が、やけに静かに聞こえる。
上司は椅子にもたれ、少し天井を見る。
「だがな・・・タイミングが悪い」
松本がわずかに顔を上げる。
上司は続けた。
「今、うちは、あのグループと海外の案件動かしてるだろ」
松本はすぐわかった。会社の看板事業になりつつあるプロジェクトだ。資材も資金も、ほとんど向こうを通っている。
上司が苦く笑う。
「あいつの親父、あっちの取締役だ」
沈黙。
窓の外で、赤いテールランプの列がゆっくり流れていく。
「金融も資材も、向こうが握ってる」
上司は机を軽く叩く。
「このタイミングで揉めるわけにいかん」
松本は小さく息を吐いた。胸の奥で、何かがきれいに腑に落ちた。
「そうですか」
上司は言う。
「企画の件はわかってる」
松本は何も言わない。言葉にすれば、逆に安っぽくなる気がした。
「だが会社は動けん」
また沈黙。
窓の外で車の音が遠くに流れていく。東京の夕方のざわめきが、ガラス越しに薄く響いていた。
上司が静かに続ける。
「取引先の息子を飛ばせば、契約ごと飛ぶ」
松本は少し笑った。
「なるほど」
怒りはない。ただ理解しただけだ。地方から出てきて、大学を出て、働いて数年。あの頃は、内定一つで親がほっとするような時代だった。正規採用されて、よくやった方だろう。
上司は少し声を落とす。
「・・・しばらく地方で冷ます形になる」
松本は辞令をもう一度見る。金沢支店。
その文字を見た瞬間、胸の奥に妙な感覚が浮かぶ。
懐かしさに似たものだった。
それから、ふっと笑った。
「いえ」
上司が顔を上げる。
松本は椅子の背にもたれた。妙にさっぱりした気分だった。肩の力が抜けているのが自分でもわかる。
「これで地元に帰れます」
上司は少し驚く。
「地元?」
「ええ、金沢なんです」
上司は初めて聞いたような顔をする。
松本は肩をすくめた。
「親も年取ってきてるんで」
少し間を置く。
東京のビルの灯りが、窓の外で一つ、また一つと増えていく。
「ちょうどいいです」
上司はしばらく松本を見ていた。
「・・・強いな、お前」
松本は首を振る。
「いえ」
少しだけ間を置いて言った。
「向いてないだけです」
「何がだ?」
松本は窓の外の東京を見る。
無数のビル。
光の窓。
交差点を流れる人の列。
この街で成功する人間がいることは知っている。
だが、自分はたぶん違う。
「ここで生きるのが」
上司はもう何も言わなかった。
机の上の辞令を松本の方へ押す。
松本はそれを折り、ポケットに入れる。紙が少し硬い音を立てた。立ち上がる。ドアの前で一度だけ振り返る。
「お世話になりました」
その声は、妙に晴れやかだった。
東京の高層ビル群を背に、松本は会議室を出ていった。
●●
玄関のガキが回る音がして、ドアが開いた。
ヒールの音が、コツ、と床に響く。
「ただいま」
女は慣れた様子で靴を脱いだ。
テーブルの上にはビールの缶が一つ。
松本はソファに座っている。スーツのまま、ネクタイだけ少し緩めていた。
女は少し驚いた顔をする。
「今日早いね」
松本は答えない。ただ、女を見ている。
女はバッグを置きながら笑った。
「どうしたの?」
「人事が出た」
女の手が一瞬止まる。
「へえ、どこ?」
「金沢」
その言葉で、女の表情がほんのわずかに揺れた。だがすぐに笑う。
「地方?」
「うん」
「大変だね」
女はキッチンへ向かい、冷蔵庫を開ける。
「ビール飲む?」
「もう飲んでる」
テーブルの缶を軽く指す。
女はグラスを取り出しながら言う。
「でもさ、松本くんならすぐ戻れるよ」
背中越しの声。
「仕事できるし」
松本は黙っていた。
ふと、テーブルに置かれた女のポーチが目に入る。黒い丸いケースが小さく光っていた。
「それ」
女が振り向く。
「うん?」
「シャネル?」
女は少し驚いた顔をした。
「よくわかったね」
松本は肩をすくめる。
「名前くらいは」
女は笑いながらケースを開け、鏡を見ながらリップを塗る。
松本はそれを少し眺めていた。前にも似たようなものを見た事がある。白いチューブ。ディオールと書いてあった。ハンドクリームだった気がする。
松本はブランドに詳しくない。学生の頃はそんな物に触れる機会もなかったし、社会人になってからも余裕があるわけではない。でも、そのくらいの名前は知っている。
「会社の先輩にすすめられたの」
松本は頷いた。
「そうか」
それ以上は聞かなかった。
女はグラスを持って戻り、ソファの横に座る。
肩が軽く触れる。
松本はビールを一口飲んだ。それから、静かに言う。
「例の企画」
女の動きがわずかに止まる。
「通ったよ」
女が顔を上げる。
松本は続けた。
「営業の、あいつの名前で」
沈黙。
女の視線が少し揺れる。
「・・・そうなんだ」
松本は女を見た。
「面白いって言ってたらしい」
それだけ言う。
女は何も言わない。否定もしない。
松本は小さく笑った。
「まあ、いいよ」
部屋に冷蔵庫の低い音だけが流れる。
松本は立ち上がった。ゆっくり玄関の方へ歩く。
女が不安そうに見る。
松本は振り向く。
「鍵」
女が一瞬固まる。
「・・・え?」
「持ってるだろ」
沈黙。
女はバッグを見下ろす。それからゆっくり開け、中から小さな鍵を取り出した。
松本の部屋の合鍵だった。
女はそれをしばらく見つめる。
松本は静かに言う。
「置いといて」
女の手が少し震える。テーブルの上に鍵が置かれた。
小さな音がした。
松本はそれを一度だけ見た。
「もう来ない方がいい」
女の顔が固まる。
「松本くん・・・」
松本は少しだけ笑った。
「次はちゃんと選べ」
女は何も言えない。
松本は玄関のドアを開けた。
夜の空気が入ってくる。
「送らない」
それだけ言う。
女は静かに部屋を出ていった。
ドアが閉まる。
部屋には、テーブルの上の合鍵だけが残った。
松本はそれをしばらく見ていた。
それから空になったビール缶を指で軽く回す。
小さく音がした。
松本がシャネルとディオールの名前をはっきり認識したのは、その頃だった。
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