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東京を出る夜 午後5時59分 ~告白

作者: 時司 龍
掲載日:2026/03/14

 窓の外はもう夕方だった。

 高層ビルのガラスに、街の灯りが少しずつ映り始めている。オレンジ色の残光が、会議室のブラインドの隙間から細く差し込んでいた。


 会議室には松本(まつもと)と、その上司だけが残っていた。

 長いテーブルの向こう側。机の上に一枚の紙。

 人事辞令。

 松本はその紙を見ていた。白い紙の上に、黒い文字が整然と並んでいる。


 上司がそれを軽く指で叩く。

「・・・災難だったな」

 松本は一度だけ紙に目を落とし、視線を外す。


 金沢支店配属。


 左遷、と言われても仕方のない人事だった。心のどこかで、やはりそうなったか、と思う。驚きはなかった。ただ、胸の奥に小さく残っていた何かが、静かに落ち着くのを感じていた。

 上司が低い声で言う。


「社内でも気づいてる奴はいる」


 松本は黙ったままだ。

 会議室の空調の音が、やけに静かに聞こえる。

 上司は椅子にもたれ、少し天井を見る。


「だがな・・・タイミングが悪い」


 松本がわずかに顔を上げる。

 上司は続けた。


「今、うちは、あのグループと海外の案件動かしてるだろ」


 松本はすぐわかった。会社の看板事業になりつつあるプロジェクトだ。資材も資金も、ほとんど向こうを通っている。

 上司が苦く笑う。


「あいつの親父、あっちの取締役だ」


 沈黙。

 窓の外で、赤いテールランプの列がゆっくり流れていく。


「金融も資材も、向こうが握ってる」


 上司は机を軽く叩く。


「このタイミングで揉めるわけにいかん」


 松本は小さく息を吐いた。胸の奥で、何かがきれいに腑に落ちた。


「そうですか」


 上司は言う。


「企画の件はわかってる」


 松本は何も言わない。言葉にすれば、逆に安っぽくなる気がした。


「だが会社は動けん」


 また沈黙。

 窓の外で車の音が遠くに流れていく。東京の夕方のざわめきが、ガラス越しに薄く響いていた。

 上司が静かに続ける。


「取引先の息子を飛ばせば、契約ごと飛ぶ」


 松本は少し笑った。


「なるほど」


 怒りはない。ただ理解しただけだ。地方から出てきて、大学を出て、働いて数年。あの頃は、内定一つで親がほっとするような時代だった。正規採用されて、よくやった方だろう。

 上司は少し声を落とす。


「・・・しばらく地方で冷ます形になる」


 松本は辞令をもう一度見る。金沢支店。

 その文字を見た瞬間、胸の奥に妙な感覚が浮かぶ。

 懐かしさに似たものだった。


 それから、ふっと笑った。

「いえ」

 上司が顔を上げる。

 松本は椅子の背にもたれた。妙にさっぱりした気分だった。肩の力が抜けているのが自分でもわかる。


「これで地元に帰れます」


 上司は少し驚く。


「地元?」

「ええ、金沢なんです」


 上司は初めて聞いたような顔をする。

 松本は肩をすくめた。


「親も年取ってきてるんで」


 少し間を置く。

 東京のビルの灯りが、窓の外で一つ、また一つと増えていく。


「ちょうどいいです」


 上司はしばらく松本を見ていた。


「・・・強いな、お前」


 松本は首を振る。


「いえ」


 少しだけ間を置いて言った。


「向いてないだけです」

「何がだ?」


 松本は窓の外の東京を見る。

 無数のビル。

 光の窓。

 交差点を流れる人の列。

 この街で成功する人間がいることは知っている。

 だが、自分はたぶん違う。


「ここで生きるのが」


 上司はもう何も言わなかった。

 机の上の辞令を松本の方へ押す。

 松本はそれを折り、ポケットに入れる。紙が少し硬い音を立てた。立ち上がる。ドアの前で一度だけ振り返る。


「お世話になりました」


 その声は、妙に晴れやかだった。

 東京の高層ビル群を背に、松本は会議室を出ていった。



 ●●



 玄関のガキが回る音がして、ドアが開いた。

 ヒールの音が、コツ、と床に響く。


「ただいま」


 女は慣れた様子で靴を脱いだ。

 テーブルの上にはビールの缶が一つ。

 松本はソファに座っている。スーツのまま、ネクタイだけ少し緩めていた。

 女は少し驚いた顔をする。


「今日早いね」

 松本は答えない。ただ、女を見ている。

 女はバッグを置きながら笑った。


「どうしたの?」

「人事が出た」


 女の手が一瞬止まる。


「へえ、どこ?」

「金沢」


 その言葉で、女の表情がほんのわずかに揺れた。だがすぐに笑う。


「地方?」

「うん」

「大変だね」


 女はキッチンへ向かい、冷蔵庫を開ける。


「ビール飲む?」

「もう飲んでる」


 テーブルの缶を軽く指す。

 女はグラスを取り出しながら言う。


「でもさ、松本くんならすぐ戻れるよ」


 背中越しの声。


「仕事できるし」


 松本は黙っていた。

 ふと、テーブルに置かれた女のポーチが目に入る。黒い丸いケースが小さく光っていた。


「それ」


 女が振り向く。


「うん?」

「シャネル?」


 女は少し驚いた顔をした。

「よくわかったね」


 松本は肩をすくめる。


「名前くらいは」


 女は笑いながらケースを開け、鏡を見ながらリップを塗る。

 松本はそれを少し眺めていた。前にも似たようなものを見た事がある。白いチューブ。ディオールと書いてあった。ハンドクリームだった気がする。

 松本はブランドに詳しくない。学生の頃はそんな物に触れる機会もなかったし、社会人になってからも余裕があるわけではない。でも、そのくらいの名前は知っている。


「会社の先輩にすすめられたの」


 松本は頷いた。


「そうか」


 それ以上は聞かなかった。

 女はグラスを持って戻り、ソファの横に座る。

 肩が軽く触れる。

 松本はビールを一口飲んだ。それから、静かに言う。


「例の企画」


 女の動きがわずかに止まる。


「通ったよ」


 女が顔を上げる。

 松本は続けた。


「営業の、あいつの名前で」


 沈黙。

 女の視線が少し揺れる。


「・・・そうなんだ」


 松本は女を見た。


「面白いって言ってたらしい」


 それだけ言う。

 女は何も言わない。否定もしない。

 松本は小さく笑った。


「まあ、いいよ」


 部屋に冷蔵庫の低い音だけが流れる。

 松本は立ち上がった。ゆっくり玄関の方へ歩く。

 女が不安そうに見る。

 松本は振り向く。


「鍵」


 女が一瞬固まる。


「・・・え?」

「持ってるだろ」


 沈黙。

 女はバッグを見下ろす。それからゆっくり開け、中から小さな鍵を取り出した。

 松本の部屋の合鍵だった。

 女はそれをしばらく見つめる。

 松本は静かに言う。


「置いといて」


 女の手が少し震える。テーブルの上に鍵が置かれた。

 小さな音がした。

 松本はそれを一度だけ見た。


「もう来ない方がいい」


 女の顔が固まる。


「松本くん・・・」


 松本は少しだけ笑った。


「次はちゃんと選べ」


 女は何も言えない。

 松本は玄関のドアを開けた。

 夜の空気が入ってくる。


「送らない」

 それだけ言う。


 女は静かに部屋を出ていった。

 ドアが閉まる。

 部屋には、テーブルの上の合鍵だけが残った。

 松本はそれをしばらく見ていた。

 それから空になったビール缶を指で軽く回す。

 小さく音がした。

 松本がシャネルとディオールの名前をはっきり認識したのは、その頃だった。

読んでくださってありがとうございます(*_ _)

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