2.5次元アイドル。
『僕たちは終末の世界でアオハルする』
〜プロローグ③ 佐伯比呂より
「──ふわぁあ……。あれ?」
重く沈んだ薄暗い部屋に、私の間の抜けた声が響いた。
窓の外では、細い雨の音がシトシトと絶え間なく続いている。棚の上で時を刻む古びたアナログ時計は、午前六時を指していた。だが、枕元に置いたスマートフォンのデジタル表示は、まるで見覚えがない数字の羅列を映し出している。
私は寝ぼけ眼をこすりながら、小さく首を傾げた。
「うーん。電波が悪いのかな……。まあ、古い機種だし」
湿った空気の中、ベッドから這い出してテーブルのスタンド鏡を覗き込む。
丁寧に並べたメイク道具。化粧水と乳液で肌を整え、ファンデーションを薄く、入念に伸ばしていく。最後に、ようやく肩に届き始めた髪を、毛先まで愛おしむようにブラッシングした。
パジャマを脱ぎ捨て、色素の薄い身体を鏡にさらす。そこへ、清潔なブラウスとプリーツスカートを通して──女子の制服を身に纏う。
私、佐伯比呂は、もう自分を偽らないと決めた。
「──兄貴、おはよう……。あ、ごめん、姉貴だったわ」
リビングに向かうと、中学三年生の妹が私を嘲笑うかのような視線を寄こしてきた。
「……もう、どっちでもいいから」
刺さるような言葉を胸に飲み込み、食卓に着く。妹が今の私を認められないのは分かっている。当然の拒絶。
「比呂、早く食べてしまいなさい。遅刻するわよ」
対象的に、母の声は穏やかだった。最初は戸惑っていた母も、今ではごく自然に「娘」として接してくれる。その優しさが、今の私を支える唯一の救いだった。
「──んもう、さっきから全然映らない! スマホも駄目だし、ホント最悪!」
妹が苛立ちを隠さず、リモコンをテレビに向けてボタンを連打していた。しかし、画面は無機質に「受信できません」という表示を浮かべるばかりだ。
嫌な予感がした。手元のスマホで再度ネットに繋ごうとするが、画面にはエラーメッセージが表示されるだけ。
テレビの不調と、ネットの沈黙。奇妙な符合に、胸の奥がざわついた。
「……お父さんは、もう行ったの?」
落ち着かない心を鎮めるように、台所の母に声をかける。
「そうね、もうとっくに家を出たわよ。それがどうかした?」
「う、ううん、何でもない……」
冷めた食パンを、無理やり喉に押し込む。
窓の外の、あの暗すぎる雨の色が気になって仕方なかった。
「わ、私、もう学校に行くね」
まだ登校に早い時間だが、私は逃げるように鞄を手に取る。
「あら、随分早いじゃない」
「ふーん、男でも待ってるわけ? 別にどうでもいいけど」
辛辣な妹。心配そうに微笑む母。それは、昨日までと変わらない、ありふれた朝の光景のはずだった。
「そ、それじゃ、行ってきます……」
「車に気をつけなさいよ」
「う、うん。わかった」
傘を手に取り、重い玄関のドアを開く。
一歩、外の世界へ足を踏み出した瞬間──。
「え……どうして……そんな──」
言葉が、呼吸が、凍りついた。
この日。
音を立てて、世界が壊れた──。
◇
──パタンと文庫本を閉じた。
もう何度目かも分からない「終末アオハル」の導入部分を読んで、ここにきて何度目か分からない物思いにふける。
やっぱ電子書籍よりも、紙媒体の方がしっくりくる。色々と赤ペンで書き込めるし。
僕こと橙華の分身になり得るかもしれないサブヒロイン──佐伯比呂の冒頭シーンは、何度読み返してみても奥が深い。どこぞの変態メイドの叡智なシーンなど比較にならない。
それこそ、比呂が言う何気ない台詞の一つ一つが後の物語の重要な伏線となる。
特に、女装するシーン。
普段は控えめな彼が、本当の自分をさらけ出す瞬間。
彼、「彼女」が、佐伯比呂が唯一輝けるとき。
「──って、僕は思うんだよね……。えー、あのぉ〜、東雲、聞いてる?」
「貴方、さっきから独り言がうるさいわ。ちょっと黙っててくれるかしら」
辛辣に言う、東雲こと東雲綾乃は、部屋のちゃぶ台で頬杖をつきながらスマホをポチポチと、余念がない。
ちなみにお騒がせJK(女子高生)アイドル声優こと小倉ももは、あのあと速やかに柏木マネージャーが車で駅まで送って行った。そして、東雲に至っては、しれっとアパートに居座っていたりする。
というか、スカートとか早く脱ぎたいし、メイクもめちゃ落としたい。いい加減コイツも部屋から出ていってほしい。
「お前なぁ……。いえ、東雲センパイ、もう夜も遅いし、そろそろ家に帰って……ってか、さっきから何調べてるの?」
「ふーん、知りたい? まぁいいわ、教えてあげる。ねぇ橙華さん、貴方『2.5次元アイドル』をご存知かしら?」
「はい?」
2.5次元アイドル。
あまり詳しくは知らないが、たしかアニメやゲームに登場するキャラを生身で表現するアイドルだとか何とか……。
「そうね。その程度の知識では、まだまだ勉強不足ね」
「そうかな?」
だとしても、自分はあまり興味がない。
ああいうのって「刀◯乱舞」とか「テニスの王◯様」とか、どっちかというと女性寄りのコンテンツだし。むしろイケメンとか本当どうでもいいし。何だったら敵認定だし。
「──ふふ、特にこの『剣崎翔』って子……。興味がそそるわ」
なぜだか、嗜虐的な薄ら笑みを僕に向ける東雲。
東雲も案外ミーハーだよな……、とか思いつつ、なんの気なしにその「剣崎」とやらの画像を覗いてみると。
「どれどれ…………ん? うげっ!?」
変な声が出た。
派手な衣装で日本刀を構えながらニヒルに笑う、胡散臭いイケメン顔に既視感というか、普通に見覚えが──ある。
以前行ったアニメショップのイベントサイン会で、偶然(必然?)出くわした、高校のときの同級生に似ている気が──する。
宇佐美健太。
(いや、まさかまさかな、そんな……)
……でも、間違いない。宇佐美、だ。
全然、知らなかった。
(──まさか……。まぁでも、あいつは、昔からクラスの女子共にきゃあきゃあ騒がれていたし、陽キャの代表みたいな奴だったから……。ま、アリって言えばアリかも、だ)
「ふーん、どうやら知っている顔のようね。もしかして知り合いかしら?」
「ええっと……。ま、まあ、知り合いといえば知り合いかな?」
別に隠すことでもないか……。特にあれ以来接点もないし。
「でも、彼はそうでもなさそうよ?」
その時、東雲が提示した、とあるウェブ記事の内容。
そこには「剣崎翔」なる人物のプロフィールや舞台俳優の意気込み云々、そして──好みの女性のタイプ、
《《女》》性アイドル声優の〝橙華〟──、
と、事細かく書かれていた……。
(──って、あいつバカなの!?)




