もう、後戻りは出来ない。
──今後について悩みはあれど、今は目先の仕事に集中せねばならない。
『──我こそは新撰組、三番隊組長、斎藤一、いざ参らん! ってね、よろしく〈ユーザーネーム〉クン♡』
『でやっ!』
『──いざ、参りますっ! 悪即斬っ! くらえっ滅殺突ぃいいいいいいい──』
新作スマホゲームアプリ『幕末ヒロイン列伝』。現在、僕──橙華は、そのキャラクターボイスを絶賛収録中だ。
大勢で掛け合うアニメのアフレコと違い、スタジオの狭い個室にひとりポツンと机を陣取り、黒髪ロングのウィッグを耳元にさらりと流しヘッドホンを装着。液晶モニターの明かりに囲まれながら、台本通りの台詞を淡々とマイクに流していく。
臨場感のへったくれもないが、何かと訳アリな自分にはこの隔離状態がむしろ気楽だったりする。スタッフは最小限、リテイク(録り直し)もまばら、演技指導もアニメに比べれば随分と緩い。
──そう、高を括っていた自分を今すぐ殴り倒したい。
『──わ、私は別にアナタのことなんて、す、すす好きじゃないわ……っ!』
『はっ!』『どりゃああっ──』
『ぐふっ』『うっ!』『きゃっ』
『きゃあああああああああああああ──っ!』
午前中で終わると思っていた収録は、気づけば午後の深い時間まで食い込み、どこで使われるか分からない膨大な台詞、数パターンの悶絶、そして魂を削る絶叫。相手がいないため『間』も掴めず、一人で虚空に向かって叫び続ける作業は、想像以上に喉と精神を摩擦させた。
そしてようやくスピーカー越しに『はーい、オッケーです。お疲れ様でしたー』と気の抜けた声が届いた瞬間。僕はバタンと、卓上マイクの前でそのまま燃え尽きる。……ああ、机が冷たい。
(──つうか、この刀剣美少女、戦闘ボイスだけで何パターンあるんだよ……。ゲームの仕事、ちょっと舐めてたかもな……)
そんな今後の反省も含め、どうにか今日の日銭……いや、ノルマは完遂。さあ撤収と、手荷物まとめていたら、さっきから僕の方を見て、一人の気弱そうな男性スタッフが、何だかソワソワと落ち着かない。
「き、記念に写真いいっすか?」
「えっ、あ、ちょ……」
返事も待たず、スマホのシャッター音がパシャリとブースに響く。さらにその若いスタッフ君は、拒否する間も与えず僕の手をがっちりと握りしめる。
「ホント手まで小さいっすね! しかもスベスベで……マジで、マジびっくりっス!」
「え……あの、近いです」
彼は顔を真っ赤にしながら、手汗がひどい僕の手のひらに指を絡めてくる。
てか、お触りは一切お断りなんですけど?
「あ、すみません……ついつい、調子に乗って──」
少しだけ、睨みを利かせたら、スタッフ君は慌てて手を離した。うん、分かればよろしい。アイドル握手会とかでよくある事案だ。今は止める運営もいないし。
「で、でも自分、「TS」ものとか「男の娘」キャラ大好物なんで、これから橙華さんをガンガン推していくんで、頑張ってくださいっ!」
「……あ、はい……ありがとうござい、ます……?」
……はて? TS(性転換)、男の娘。……って、おいおい、完全に女装バレしてね? つうか、それを承知での橙華ファン? 喜ぶべきなのか、引くべきなのか、判断に苦しむ。
(てか、そもそも僕のプロフィール欄になんて書いてんだ。「男の娘」声優とか………あの腹黒メガネならやりかねん)
「そ、それでは……ごきげんよう。うふふ……っ」
羞恥心と自尊心が今さらながら限界突破し、変顔の愛想笑いで逃げるようにブースを飛び出す。
その時、ふと目が合った強面のディレクター氏までもが、乙女のような満面の笑みで見送ってくれた。
感謝、感謝──
(──って、ここの開発スタッフ、橙華のこと好き過ぎじゃね!?)
エレベーターを待つ余裕すらなく、ワンピースの裾が捲れるのも構わず、僕はビルの階段を大股で駆け下りていった。
◇
「──てなことがあってさ、流石に引いたよ」
「ふーん、下らないわね。私にはどうでもいいことだわ」
その日の夜。僕は夕飯を兼ねて、駅近くのもんじゃ焼き店にいた。……なぜか、目の前の座席に派手な装いの某東雲嬢が鎮座しているが、そこはどうか察して欲しい。……まぁ、僕に取り憑いている悪霊みたいなものだ。
「……それで東雲。例のネット記事、見た?」
ジュウジュウと音を立てる鉄板。僕は土手の中に水溶き生地を流し込みながら、さり気なく、本当にさり気なく訊いてみた。
「……何が言いたいのかしら?」
東雲は手元のヘラで、まだ半生のもんじゃを皿にさらっていく。不機嫌そうに寄った眉間のシワが、鉄板の熱気越しでもはっきりと見て取れる。
「べ、別に……ただ聞いただけ……特に深い意味はないよ」
「そう……。ならこの話はこれでおしまい。ほら、ぼさっとしてないで次を焼きなさい」
「え……ち、ちょっと待って、それまだ焼けてない──って、あぁああ! そこは僕……じゃなかった、私のスペースだろ!」
……もう、後戻りは出来ない。
今は、前に進むしか……ないんだ──




