女装男子、骨格で特定される。
──結局あの後、店の周囲をどれだけ見渡しても、写真の美少女の姿は確認できず、僕は疑念を抱いたまま、迷わず「逃走」を選択した。
「ちょっとトイレ!」と、起死回生、東雲の一瞬の隙をつき、迫りくる美琴の包囲網を紙一重で潜り抜け、ゆるふわスカートがバタバタと、捲れるのも構わず、夜の街を全力疾走し、命からがら逃げ込んだのは、三駅離れた隣町、寂れた格安ネットカフェだった。
──そして、翌朝。
メイクは無惨に剥がれ落ち、地毛のマッシュショートは汗でベタつきクリンクリン。まるでホラー映画の終盤で殺人鬼から逃げ延びたファイナル・ガールのような風貌で、アパートへ帰還を果たした僕を待っていたのは、不気味なほどの静寂と、異様な光景。
「……マジか」
玄関を開けた瞬間、鼻に突くアルコールと出汁の残り香。
ちゃぶ台には、空の土鍋。脇には、戦利品のごとき酎ハイの空き缶。トドメと言わんばかりに割引シールの貼られたプリンアラモードのカラ容器が二つ鎮座している。
……あいつら、主不在の部屋で本当に『鍋パ』を完遂しやがった。
嵐が去った後のような惨状。それでいて妙に片付けられた形跡もあり、戸締まりまで完璧なのが逆に怖い。
ふと、肩からずりかけたバッグの中を漁り、電源を落としていたスマホを起動……、ピコンピコンピコンピコ──いや、直ちにシャットダウン。
「……あはは、とりあえず、部屋を片付けるか」
土鍋を流しに運ぼうとした拍子に、パラリとメモ帳が落ちた。そこに並ぶサイコな語録がチラリと視界をかすめ、即座に脳内からデリートする。悠長にしている場合ではない。今は一刻を争う。
なりふり構わずメイクを剥ぎ取り、スカートのファスナーを引きずり降ろす。押し入れの隅に刺客が潜んでいないか念入りにクリアリングした後、三十秒でシャワーを浴び、使い古したシャツとデニムを掴み取る。
本来、我が家は安全区域──セーフティゾーンのはずだが、現時点では最も危険なデンジャーゾーンと化している。ここに留まれば、「ツン」と「ヤン」の二大特級呪霊が再突入してくる可能性が大。……それに、あの姿が見えない《《彼女》》の存在も、今はただただ恐ろしい。
──そうして辿り着いた、駅前のマクドナルド。
半ニートの特権、平日の朝マックでホットコーヒーをちびちび啜りながら、ようやく人心地つく。
本日は魔改造を施していないので、アイドル声優の責務と重圧、下半身の貞操観念が未知数な布地から解放され、一般モブ男子としての平穏な朝の空気が肺を満たしていく。
というか、いざ冷静になれば、そもそもなぜ僕がこうもコソコソ逃げ回らなければならない。あいつらは勝手に人の家に不法侵入し、やりたい放題。訴えられるべきは向こうだろ。
(……よし、今度二人に会ったらビシッと言ってやる)
そんな希望を抱き、プラスチックの蓋越しにコーヒーの一口を飲み干そうとした、その時だった。
トスン、と。
あまりにも軽やかに、それでいて、抗いようのない音が、目の前のトレイから響く。
「ここ、空いてるかな?」
返事をするより早く、対面の椅子が引かれ、視線を上げた瞬間、常に高速回転状態だった思考回路が瞬時にバグった。
たぶん、まだ十代。
背中まで流れる艷やかな髪と、平坦な僕の顔立ちとは対照的な、彫刻のように整った輪郭。
……っていうか、ラノベ調にヒロイン像を悠長に語っている場合じゃない。はっきりと言う。そのまま「あの写真」から抜け出してきたような、美少女というか、絶世の美女が目の前に座っている。
昨夜、僕が必死に探しても、見つからなかった彼女が、僕と視線を合わせながら、悪戯っぽく……いや、不敵に薄ら笑みを浮かべていたりする。
「……は、はい、ああ、空いてますけど」
地声が裏返って、モブ男子(A)ボイスから、悪徳領主に折檻される前のメイドみたいになってしまう。年下の女子相手に、情けないほど萎縮してしまったのが情けない。
そんな彼女は橙華モードの僕では、再現不可能な腰から腿にかけて生身の曲線美を強調するタイトなスカートを華麗に着こなし、上品な薄い唇でコーヒーを嗜みながら。
「よかったぁ。歩くの、マジで速いすっね。やっぱパンプスよりスニーカーですか?」
「は?」
正統派令嬢もとい、小悪魔系な外見に反して、口調がやけに軽い。……だが、それどころではない。今の僕は、ノーメイクで髪もボサボサ。服も至ってメンズだし、どこをどうみても……。
「あ、あの、人違いじゃ……」
僕が言い終わる前に、彼女はテーブルから身を乗り出し、至近距離まで顔を近づけて。
「うーん、まずは骨格かな。それと顎関節のライン、鼻根の高さ、目のくぼみ、睫毛の跳ね方、あとは──」
その細い指で、僕の口元を舐めるようになぞり。
「──その、怯えた唇」
クックックと、喉の奥を不気味に鳴らし、切れ長の青みが掛かった瞼を細める。
「──ねえ、橙華さん」




