東雲綾乃、女装男子を諭す。
──本格的な冬の装いが始まった十二月のある日。夕方から始まったアフレコ収録も卒なく終え、束の間の解放感に包まれた僕は、遅い夕食を兼ねて帰り道の居酒屋へ足を向けた。
ここは財布に優しい庶民の味方。いつもならカウンターの片隅でぼっち飯を嗜むところだが、今夜はあいにく美少女の身。あの休日以来、どうにも人目が気になる身としては、運良く空いていた奥の座敷席に滑り込んだ。
「ふう〜」
卓につくや否や、着ていたモフモフなコートを脱ぎ捨て、帽子やらマスクやら、変装道具の一切合切を外して放り出す。黒ストッキングの足を畳に投げ出せば、炭火焼きの香ばしい匂いが鼻腔をくすぐった。
「はしたないわね。同じ女として恥ずかしいわ」
「ほっとけ、僕は女じゃねーし」
気づけば、いつの間にやら同伴していた某東雲綾乃が、早速メニューを広げて「赤ワインはないのかしら?」とか無茶振りしている。チェーンの居酒屋に何を求めてんだよ。注文を取りに来たお兄さんが困るだろ。
「はい、赤ワインですね」
「え、あるの!?」
豊富なレパートリーに驚きつつ、腹の足しになりそうなものを適当に注文してから、温かいおしぼりで顔を拭こうとしたその時、正面で頬杖をつく東雲がニヤついているのに気づいて、僕はハッとする。
「危な……。メイクが崩れるところだった」
「チッ」
今、確実に舌打ちしたよな? 危ない。やっぱり女の人って何かと大変だ。これは男じゃ分からん苦労だ。
「ところで橙華さん。今日の収録、随分と楽しそうだったわね。たしか、小倉もも、だったかしら?」
ウーロン茶をチビチビと啜る僕の正面で、東雲はこんがりと焼けたホッケを割り箸でバシバシと突きながら、清楚ボイスらしからぬ重低音を響かせる。
「え、ももちゃんのこと?」
「(ピキッ)」
あれ、今、東雲の眉間から不協和音が……。
ちなみに東雲が名指しした『小倉もも』とは、今回の収録から参加した現役女子高生声優だ。主人公の妹役を演じ、新人ながらルックスと実力を兼ね備えた若手優良株だ。まぁ実際に可愛かったし。こんな格好の僕にも偏見なく明るく接してくれたし。
「《《もも》》ちゃんね……(私でさえまだ名字呼びだっていうのに)」
「え? 最後の方が聞こえなかったけど……」
「う、うるさいわね。さっさとこれでも食べてなさいっ」
東雲に手羽先を丸ごと口に突っ込まれた。ま、美味いから別に良いんだけど……あ、後でリップを塗り直さなきゃ。油でベトベトになっちゃったし。ああ、ホント面倒くさい。
「んなことよりも東雲、ぜひ聞いてくれ」
「……何よ」
「ふふん、聞いて驚くなよ。なんと今回、あの妻夫木さんに食事に誘われたんだ」
「ぶっ!?」
僕が言い終わるか否か、東雲が飲んでいた赤ワインを盛大に吹き出した。汚ねーな。テーブルが猟奇的殺人現場みたいだぞ。
「そ、それで、まさかホイホイと彼の誘いに乗った……なんてことはないかしら?」
「ああ、今回は断ったさ」
テーブルを布巾で拭きながら言う。
「そ、そうね、それは賢明な判断だわ……」
「だって、今はあいにくこんな格好(女装)だろ? だから後日、改めて男の姿で──」
「あああ、貴方バカなの!? 悪いこと言わないわ、やめなさい。これは命令よ!」
なんでだよ。あの妻夫木渡さんだぞ? 今後の声優人生について、有意義な話が聞けるのに。
「食事だったら私になさい。いくらでも、一生付き合ってあげるわ」
「い、一生? し、東雲がそこまで言うんだったら……」
こうなると、声優、東雲綾乃は頑として意見を曲げないだろう。理不尽極まりないが、ここは僕が折れるしかない。でも知らなかった。東雲と妻夫木さんが不仲だったなんて。彼、本当に気さくで良い人なんだけど。
「じゃあ、青木音響監督にも食事に誘われてるから、そっちにするよ」
「ぷほっ! あああ、あんたいい加減にしなさいよ!?」
「な、なんだよ、別にいいだろ、男同士なんだし──」
そう言いながら僕は、今まさに東雲の二度目の噴射で、唐揚げの見るも無残な残骸をいそいそと片付ける羽目となった。




