1. 変数:Variables
窓の外では、夕暮れ時の淡い群青色が空を包み始めていました。私は執筆の手を休め、リビングのソファで熱心にノートを広げている息子、透の隣に座りました。
「ねえ、透。さっきから何をそんなに考えているの?」
透は、私の父が遺した古い分厚い本を指差しました。『スミルノフ高等数学教程』。かつてソビエトの科学者たちがボロボロになるまで読み込んだという、知の結晶です。
「お母さん、ここにある『変数(Variables)』っていうのがよくわからないんだ。数字なのに、変わるってどういうこと?」
私は微笑んで、透のノートの余白にペンを走らせました。
「いい? 透。数学っていうのは、世の中のあらゆる出来事に共通する『きまり』を見つける学問なの 。例えば、透の背が一年でどれくらい伸びたかとか、外の気温がどう変わったかとかね。そういう、ある決まったルールの中でいろんな値に変わるものを『変数』って呼ぶのよ 。」
「でも、1は1だし、2は2でしょ? 変わらないじゃない。」
「そうね、それは『定数』。一度決まったら動かない数字のこと 。でもね、世界を測るにはそれだけじゃ足りないの。例えば、お母さんがこのコーヒーにお砂糖を入れるとするわよね。お砂糖の重さを測るには、まず『単位』を決めなきゃいけない 。」
私はキッチンの秤を指差しました。
「1グラムという単位で測れば、お砂糖は『10』という数字になるかもしれない。でも、もっと小さなミリグラムという単位で測れば、数字はぐんと大きくなる 。同じ重さなのに、私たちがどの『ものさし(単位)』を選ぶかで、数字は変わってしまう。数学は、その具体的な『ものさし』の種類に関係なく、数字そのものの性質や関係を調べるものなのよ 。」
透は少し納得したような顔をしましたが、まだ首を傾げています。
「じゃあ、この本に書いてある『無理数』ってなあに?」
「それはね、普通の分数では表せない、ちょっと不思議な数字のこと 。例えば、正方形の対角線の長さ 。一辺を1とすると、その対角線は ルート2(√2) という数字になるけれど、これはいくら細かく小数にしていっても、終わりがなくて、しかも同じパターンの繰り返しにならないの 。」
「終わりがないの?」
「そう、無限に続く非循環小数。3.14159……と続く円周率 も仲間よ 。私たちは普段、適当なところで区切って『近似値』として使っているけれどね 。これら全部、きれいな整数も、端っこがある分数も、そして終わりがない無理数も、全部まとめて『実数』っていう大きな家族なのよ 。」
私はノートに、数直線を描きました。
「最後にね、変数が動く『範囲』について教えてあげる。これを『区間(Interval)』と呼ぶわ 。例えば、透が今日一日で外に出た時間を考えてみて。朝8時から夕方5時まで。この間、時間は連続して流れているでしょう? 8時ちょうどと5時ちょうどを含めるなら『閉区間』、その間だけを指すなら『開区間』って言うの 。」
「時間は止まらないから、変数がずっと動いてるってこと?」
「その通り。時間は数学において、もっとも代表的な変数の一つね 。未来に向かって絶え間なく、順序よく進んでいく変数のことよ。」
私は透の頭を優しく撫でました。
「難しいけれど、この『変数』という考え方を知ることで、私たちは変化する世界をひとつの数式で捉えられるようになるの。まるで魔法みたいだと思わない?」
透はもう一度、スミルノフの古い頁を見つめました。夕闇の中、数式たちが彼の中で、少しずつ命を持って動き始めたようでした。




