第8話 頼んだよ、お兄ちゃん?
その日の夜。
明日の授業の準備を終えた俺は自室でベースの練習をしていた。
俺が使っているのは元バンドマンの父から借りた古いモデルのベースだが、高校生の趣味バンドとしては十分過ぎるスペックだった。
ここ最近は毎日欠かさずに練習している甲斐もあり、大分スムーズに曲も弾けるようになっていた。
「よし、ちょっと休憩」
ベースを抱えたまま、椅子の背もたれに体を預ける。
音のなくなった部屋で一人息をつきながら、天井を見上げる。
茉莉に強引に誘われて始めることになったバンドだが、気付けば意外と楽しみになっている自分に驚いていた。真面目に練習するのは久しぶりだったけど、音楽を楽しむ心はまだ忘れていなかったらしい。
(そういや俺も梨々華も、昔は母さんたちと音楽ばかりやってたっけ)
ふと、俺は今朝の梨々華の話を思い出した。
あんなに音楽が好きだった梨々華が部活をやめるなんて、やっぱりまだ信じられない。
きっと本人にも色々と事情があるのだろうし、踏み込んで聞いたりするのはお節介だとわかっている。だけど、今朝の梨々華は決してやり切ったというような顔には見えなかった。本当はまだ音楽を続けたいという心の声が聞こえてくる気がして、俺の中ではどうしても腑に落ちずにいた。
手を休めて考えていると、突然部屋のドアが勢いよく開けられた。
「ヒロ、ちょっといい?」
ノックもせずに部屋に入ってきたのは母親だ。普段は割とお気楽な人って感じの母だが、今日は珍しく真面目な顔をしている。
ドアを閉めて俺のすぐ隣まで詰め寄ると、部屋の外に聞こえないように小声で訊ねてきた。
「梨々華が最近元気ないけど、あんた何か知ってる?」
「……さあ」
不意をつかれた俺は悟られないように取り繕いながら答える。
たしかに考えてみれば母が心配するのも無理はない。俺ですら梨々華の無気力感にはうすうす気付いていたわけだから、母が娘の変化を感じ取らないわけがないだろう。
母は腕を組んで「そう」とこぼすと、溜め息交じりの口調で言った。
「何があったんだろうねえ。あの子最近、あんまり私やパパにも話してくれないからさ。お年頃ってやつかしら」
少しだけ寂しそうな表情を浮かべる母。
うちの母はどちらかというと世話好きな性格だ。昔から事あるごとに子供のことを気にかけてはよくちょっかいを出してきた。最近は俺も梨々華も大きくなってきたから多少は遠慮するようになったのかもしれないが、それでも無意識に子供の世話を焼きたくなってしまうのだろう。
「ま、もしあの子が何か言ってきたら、あんたがちゃんと相談に乗ってあげなさいね」
「え、俺が?」
「そりゃだって、あんたはお兄ちゃんでしょ?」
「そうだけど……」
兄が妹の面倒を見るのってせいぜい小学生くらいまでかと思ってた。
「もちろん私だって見守ってるし、いつでも相談に乗るつもりよ。だけど歳が近い者同士の方が話しやすいことだってきっとあるじゃない?」
「うーん、かもしれないけど」
それはきっと歳が近くてかつ仲の良い者同士の話だ。俺と梨々華は不仲というほどではないが、特別に仲良し兄妹というわけでもない。
「とにかく。梨々華のことちゃんと気にかけてあげてね。見て見ぬふりとかしないでよね? わかった?」
釘を刺すような目で見ながら、俺の肩にポンと手を置いてくる。
俺が面倒事に関わりたくない性格であるということを理解している上での念押しだろう。
「わかったよ」
「うんうん。さすがお兄ちゃん! お願いね!」
言うだけ言って満足したのか、母は俺の頭をわしゃわしゃと撫でてから部屋を出て行った。
なんか、突然来た台風みたいだったな。
俺はこめかみをポリポリと掻きながら、どうしようかなあ、と一人で嘆息した。
◇◇◇
「ったく。何で休みの日だってのに私がヒロの練習に付き合わないといけないのよ」
「まあまあ。どうせ暇してただろ。スタジオ代は俺が出すから」
週末。
文句をたれながら歩く梨々華とともに、俺はベースを抱えてスタジオに向かっていた。
茉莉たちと練習会をするから今日だけヘルプでドラムを叩いてくれないかと頼んでみたところ、渋られながらも意外とオーケーをもらえた。
ずっと家にいても気が重くなりがちだし、気分転換になればと思い誘い出したのだ。
「というか私、ロックバンドなんてやったことないんだけど?」
「それは気にしないで大丈夫。雰囲気に合わせて適当に叩いてくれるだけでいいから」
「指示雑すぎ」
さっきから不満ばかりの梨々華だが、身なりはしっかりとおめかししていて気合が入っているのがわかる。
体のわりに大きな厚手の白パーカーと動きやすそうなミニスカート。足元のシンプルな白スニーカーにはナイキのロゴがきらりと光る。
髪を後ろで器用にまとめているのは、ドラムを叩いて激しく動いても邪魔にならないようにするためだろう。
こうやって頼まれた仕事はきっちりとこなそうとするあたり、我が妹ながらしっかりした奴だなと思う。