第15話 プール
俺たちが次に訪れたのは屋内プールのフロアだった。
更衣室前に着くと、プールから漏れ出てきた塩素特有の独特な匂いが鼻についた。
「次はプールかよ……」
「そうそう。いきなり筋トレみたいな無酸素運動はヒロにはまだ早かったんだよ。そもそもヒロは体力が無さすぎるからね。まずはプールみたいな有酸素運動から始めて持久力をつけながら全身の筋肉を鍛えていくのがいいと思う」
フォローしているのか馬鹿にしているのかわからない茉莉の説明を聞きながら、俺は大きく息を吐いた。まさか学校の授業以外で水泳をする日が来るとは。
「ヒロ、ちゃんと水着は持ってきた?」
「まあ、一応。昨日茉莉から念のため持ってこいって言われてたからな」
「よしよし。えらいえらい」
そう言って茉莉は「プールサイドで待ち合わせね」と残して女子更衣室へと消えていった。
本気で帰りたいところだけど、さすがにここで引き返したら後でめちゃくちゃ怒られるだろうな。
俺は今日何度目か分からない溜め息をつくと、渋々と男子更衣室の扉を開けた。
◇◇◇
学校指定の野暮ったい水着に着替えた俺はプールサイドへと移動した。
屋内プールは暖房がよく効いていてしっかりと温かかった。
よかった、これならプールサイドで震えながら体育座りしなくても済みそうだ。
ホッと胸を撫で下ろしながらあたりを見渡す。
25mコースが六レーンと、ウォーキング専用コースも二レーン用意されていてかなり広い。
2フロア分以上ありそうな高い天井からは照明の柔らかい光が降り注ぎ、揺らめく水面をキラキラと照らしていた。
このまま泳がずにプールサイドで見学していたいな、とか思っていると、
「おまたせ」
着替えを終えて出てきた茉莉に声をかけられた。
黒単色のトップスとボトムスが一体となった、いわゆるスクール水着姿だ。
白い肌にピチッと張り付いた黒い水着が体のラインを際立たせている。
いつもはあまり気が付かなかったが、水着のような薄着になると出るべきところがしっかりと出ているのがよくわかる。
これはマズいな、あんまり見ないようにしないと。
目のやり場に困っていると、茉莉が俺の肩をペチペチと叩いてきた。
「ほらほら、ぼやっとしてないで、早くいくよ」
「お、おう」
温水シャワーで体を流した俺たちはプールサイドで軽めの準備体操を済ませて、いよいよプールへと向かう。しかし茉莉が歩いて行ったのはウォーキング専用のコースの方だった。
「あれ、あっちで泳ぐんじゃないの?」
「うん、ヒロみたいに今まで全く体を動かしてなかった人には水中ウォーキングがおすすめだよ。まずはその行方不明になった筋肉を鍛え直して、慣れてきたらもう少し負荷のかかるトレーニングに移行しよう」
「ふーん」
よくわからないけど、泳がなくて済むのは助かる。
でもウォーキングコースにいる人って俺たち以外だと高齢者しかいないように見えるんだけど気のせいかな。
とりあえず茉莉に言われたとおりにゆっくりとプールに身体を沈める。
水温もちょうど良い温度に管理されていて少しも寒さは感じなかった。
「私たちも列に混ざろう」
水面に顔をぷかぷかと浮かべながら茉莉が誘ってくる。
ウォーキングコースは右側一方通行になっていて、利用者たちが列を作りながらコースをぐるぐると回るようにして歩いていた。
俺たちも列に入ると、茉莉を先頭に縦に並びながら二人でのろのろと水中を歩き始める。
程よく全身に水圧の負荷がかかっていて、想像以上に運動している感があった。
「大丈夫? 一人で歩ける? 溺れてない?」
「要介護かよ。さすがに歩くだけならできるって」
ときどきこちらに振り向いて生存確認してくる茉莉。
それから俺たちは黙々と水中ウォーキングを続けた。
対抗レーンの歩行者がすれ違うたびに朗らかな笑みで挨拶してくれるのを見ると、なんだか老後みたいだなと思った。
「ちょっと混んできたね。隣の空いているコースに移ろ」
気付けばコースに人が増え始めていて、ちょうど折り返しゾーンにさしかかったあたりで茉莉が提案してきた。
茉莉がレーンロープを持ち上げて隣のコースへ移動しようとした瞬間――
急に茉莉の頭が視界から消えた。
「? まつ――っ⁉」
追いかけると、突然体がガクンと沈む。
なるほど、こっちのコースは……さっきの場所より深い!
俺がつま先立ちをして何とか顔が水面に出るくらいだ。茉莉の身長では全身がすっぽり潜ってしまうだろう。
「げほっ……がっ……たすけ……」
「おい⁈ 大丈夫か⁉」
水面に顔を出してもがく茉莉。
お前が溺れるのかよ!
なんてツッコむ余裕もなく、俺は「つかまれ!」と腕を差し出す。
「ほら! 早くこっち!」
「……ごほっ、ヒロ……」
激しい水しぶきを上げながら茉莉が俺の右腕にしがみついてきた。
ん? 待って、何か当たってない?
濡れた薄い布越しに伝わってくる柔らかくて弾力のある感触。
その生々しい感触に反射的に身を引こうとするが、パニックになっている茉莉はむしろ必死にしがみつこうとさらに力を強めてくる。はさまれる俺の腕。
マズい! 早くこの状況を脱しないと!
俺は心を無にして渾身の力をこめると、茉莉を引き上げるようにして元いたコースへと戻った。
足がつくことに気付いた茉莉がようやく俺の腕から離れていく。
「はぁ、はぁ、ありがと……死ぬかと思った……」
「…………俺も」
色んな意味で。
プールの壁にもたれて二人で呼吸を整えていると、コースを歩いていたおばちゃんたちが「君たち、大丈夫⁉」と集まってきた。
「ええなんとか」と苦笑気味に返しながら、俺は心の中でマジで帰りたいと叫んでいた。
◇◇◇
プールから出て着替えを済ませた俺はフロントにある大きなソファにぐったりと身をうずめていた。
本気で疲れた。今日だけで一年分くらいは運動した気がする。
幸いにも明日は日曜日だから一日中ベッドで安静にしておこう。
俺は鞄からぬるくなったスポーツドリンクを取り出して一口飲む。
「染みるなあ……」
軋む体にナトリウムとブドウ糖が行きわたっていくのを感じる。
「あ、いいなそれ。私にもちょうだい」
更衣室から戻ってきた茉莉が俺の手からペットボトルを奪い取った。
「え、でもそれ俺が飲んだやつ――」
目をつむりながらコクコクと喉を鳴らす茉莉。
あ、そういうの気にしないんだ。前から思ってたけど、なんか男子との距離感バグってない?
ペットボトルの中身は見る見るうちに消えていき、気が付くともうほとんど残っていなかった。
「美味しかったー。ありがと」
戻ってきたのは四分の一以下になったペットボトル。
これ、どうすればいいの? 俺が飲んだ方がいいのか?
「えっと、残り少ないし最後まで飲んじゃっていいよ。もともとは茉莉が買ってくれたやつだし」
「やったあ! なら遠慮なく」
すべて飲み干した茉莉が近くにあったゴミ箱にペットボトルを捨てる。
「よし、そろそろ帰ろっか」
「ああ」
長い闘いがやっと終わった。お疲れ、俺。
フロントに立ち寄って簡単なアンケートを記入した俺たちはフィットネスクラブを後にした。
外に出た頃にはあたりはもうすっかり暗くなっていて、ふうと息を吐くと空気が真っ白に染まった。
冷たい夜風がまだ半渇きの髪を撫でていき、俺はもっとちゃんと髪を乾かしてから出るべきだったなと反省する。
「あ、見て。イルミネーション」
顔を上げると、商業施設に面した広場の街路樹がライトアップされていた。
幻想的な青と緑の光が買い物帰りの人々をやさしく包み込む。
「きれいだねー。もうすぐクリスマスだからかな」
「ああ、なるほど」
今年ももうそんな時期か。
たしかに言われてみれば最近学校でもクラスの連中が「恋人が欲しい」「人恋しい」だのとやたらとソワソワしている声を聞く気がする。
まあ、毎年いつも通り家で過ごしている俺にとっては縁のないイベントだ。
「そういえばヒロは二十四日空いてる?」
「えっ? いや、何もないけど」
「よかった、じゃあ皆で練習しよう」
なんだ、バンドか。一瞬少しだけドキッとしてしまった自分が恥ずかしい。
「俺は平気だけど、エミリーとか梨々華は予定あるんじゃない? 一応クリスマスだし」
「そっかあ。それもそうだな。ならその日はまた二人でジムにでも――」
「やっぱり練習しよう。俺、スタジオ予約しておくから」
たぶん梨々華もエミリーも彼氏とかいなそうだから暇しているだろう。こういうのは先に予定を入れたもん勝ちだ。
「お! ヒロ、やけにやる気満々じゃん」
「ん、まあね。どうせなら今年のクリスマスはボッチで集まって徹底的に練習だ」
「いいねそれ! 皆でスタジオオールしちゃおっか!」
「はは、それは勘弁」
俺のすぐ隣で子供みたいに茉莉がはしゃいでいる。
その顔を見ていると不思議と心の奥が温かくなっていくような感じがした。
(あれ? そういえばさっき、二十四日に二人で会おうって誘われてなかった?)
内容はともかくとして、それって一応クリスマスデートなのでは? もしかして、俺は凄くもったいないことをしてしまったのだろうか。
商業施設から出てくる人の波に紛れながら、俺たちは着かず離れずの距離で歩く。
大通りを行き交う車のヘッドライトが夜の街を彩っていた。
「どうしたの? 急に黙り込んで」
きょとんとした顔で茉莉が覗き込んでくる。
「あ、いや。寒いなーって」
「そうだね。でも、街がキラキラしててきれいだよ」
茉莉がマフラーに顔をうずめながら、ふふっと笑った。
そういえば誰かが好きな人といるだけで世界が輝き出すとか言ってた気がするけど、あれは何の話だったっけ。
そんなことを考えながら、既に筋肉痛になりつつある足で駅へと歩いた。




