秦の皇子
戦国七雄西方の国「秦」。
強大な武力を誇り七国の中で対抗できるとすれば東の斉国くらいであったが、
斉国は数年前の燕国との争いに敗れ、今はかつての勢いはなく実質上、秦国が最強の存在となっている。
この強大な秦国の現王、荘襄王には多くの子がいた。
その中でも優秀であった太子「考侑」が後継者として選ばれ、荘襄王より特別の寵愛を受けていた。
しかし残念ながらこの考侑は子がなせない身体であった。
そのため近親の者達から養子を授かりその数は公式では19人。
考侑が次期王となった際にはこの19人の子達から後継者として太子を決めなければならないのである。
そういった状況であるから19人の子達とその実親、近しい近臣達は自分の子を次期太子とすべく各々権力争いなど権謀術数を張り巡らしていた。
そんな中で一つの事件が起こる。
子を成せないはずの考侑に
待望の実子が誕生してしまったのである。
当然、考侑としては自身の血を引くこの子を世継ぎとしたいと望んだが、他の19人の子や近親のもの達から命を狙われることは明らかである。
そこで一計を案じた。
実子であることを伏せ、
他国へ人質として送り、後継者ではないということにすれば安全ではないか。
やがて自身が王となり時が来れば呼び戻すということにすれば無事に我が子を王につけることができるという算段だ。
それまではごく近しい者にすら真実を明かさず、信頼のおけるものを護衛としてつけ、守れば良い。
そう考えたのだ。
その考侑の実子の名は母親が楚国出身であったため「子楚」と名づけられた。
趙国、呂不韋の屋敷。
「わざわざ人を呼び出しといておきながら、何をぼーっとしてるんだよ」
陸啓が呂不韋に不満を漏らす。
公務をを終えた陸啓は友人の呂不韋に呼びつけられていた。
しかし先程から呂不韋自身はボーッとしたまま何も話さない。
昨晩二人で酒を飲んでいた際に、思わぬ珍客の来訪によりせっかくの宴は途中でお開きとなった。
その珍客は呂不韋を侮辱し、さらには酒に酔った男達相手に一人で立ち回り、
大暴れしたのちそのまま去ってしまったのである。
その出来事以来、呂不韋は様子がおかしかった。
呂不韋がおかしな言動や行動をすることは珍しいことではないが、今回はいつもと様子が違うようだ。
「なあ呂不韋。
今日はいつもと様子が違うぞ。どうかしたのか?」
陸啓の問いに対する呂不韋の返事は
「あー」とか「んー」とか
気もそぞろな回答ばかりだ。
陸啓はため息をつき
「オマエが気になってること当ててやろうか?
昨日、あの珍客のことだろ?
何せ今やこの街で知らぬものはいない大商人、呂不韋様が下賤の者扱いされたんだもんな。
相当頭にくるのもわかるよ。」
昨日の出来事を蒸し返されようやく呂不韋の口が開いた。
「なあ、陸啓」
「うん?」
「オレ、恋したかもしれない…。」
「…」
「……」
「…え?は?」
突然の呂不韋の呟きに思わず戸惑いの声が漏れてしまう陸啓。
いきなり恋とか恥ずかしいことを言い出した友人の言葉に戸惑う。
「え?ごめん、オマエ今なんて言った?」
呂不韋にもう一度聞き返す陸啓。
呂不韋の視線は宙を彷徨い《さまよい》ながら答える。
「何て言うのかな、なんか…うーん、すごく気になるって言うか、ずっと昨日のアイツのことばかり考えてしまうって言うか、他のことは頭にないって言うか…?」
いつもの呂不韋とは到底思えぬ歯切れの悪い返答に陸啓は軽く驚きを覚えた。
「あの、呂不韋さぁ、本気?」
陸啓が呂不韋の顔を覗き込むと、虚空を彷徨っていた呂不韋の目に確かな意思と輝きがともり始めていた。
「そう、そうだ。
これは恋だ。
陸啓、オレはアイツに恋しているんだ。」
なんか一人で納得している友人を見て陸啓は軽くひいていた。
自分を侮辱した者に恋をするなど、そういった趣向の持ち主だったか?
そういえば明らかに危険だと思える商談には手勢も連れずに自ら飛び込んでいくことはよくあった。
やはりそういう自らにを責め立てるかのような傾向がつよいのか俺の友人は、と陸啓なりに答えを出し始めた頃には呂不韋の心はすでに高まっていた。
「アイツを探すぞ!陸啓!」
輝く瞳で振り向く呂不韋。
「え?昨日のアイツを?」
「そうだ!この街中探し尽くすんだ!」
ああ、こうなったら止まらないんだこの男は、と半ば諦めつつ、またそれも面白いかと噴き出す陸啓を残して意気揚々《いきようよう》と部屋を飛び出す呂不韋であった。
趙国首都、邯鄲の王宮から程近い邸宅。
「昨晩はどちらに行かれていたのですか?」
白髪の切長な目をした従者らしきものが主人であろう若者に問いかける。
「何をいっているんだ?
昨夜は食事をとった後、いつものように勉強をしてそのまま眠りについたが」
従者の問いかけに青年というにはまだ幼さを残す主人が応える。
しかしその言葉はどこかたどたどしい。
「私に気づかれないとでもお思っていたのですか?」
と白髪の従者は薄汚れた布切れと煤けた服を主人の目の前に突き出す。
「どこから手に入れたのか、このような物まで身につけて、歓楽街の夜店に行くなど」
あー、バレてたっという気まずい顔をした主人の頭を従者が小突く。
「いったっ!なにすんだよ!
主人の頭を叩くなど重罪だぞ!
鞭打ち百叩きだぞ、幽羅!」
痛そうに頭をさすりながら主人は幽羅という従者に反抗する。
「いいですよ、この私にそのようなことができる者がいればの話ですが。」
幽羅は、およそ従者とは思えぬ態度で主人に言い返す。
「貴方が命を狙われるお立場だということをいい加減、自覚なさったらどうなんですか、子楚様」
子楚と呼ばれた若き主人も負けずに言い返す。
「だから身分がバレないようにボロを身に纏って目立たないようにしていたから大丈夫ですー」
とブーたれた子供のように子楚は口を尖らせる。
「あれだけ暴れて目立ってないなどとよく言えましたね、頭大丈夫ですか?」
とまた主人の頭を軽く叩く。
「いっツ、オマエまた主人に対して失礼な!
もう鞭打ちだ!!絶対やってやる!」
「はいはい、やれるものならどうぞやってみたらいいんじゃないですかぁ?」
と駄々をこねる子供を
揶揄う《からかう》ように相手をする従者。
二人はお互いにそんな掛け合いをしながら夜はふけていった。
呼んでくださりありがとうございます。
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