趙国の商人
話が違うではないか、
約束では銀80のはずだが」
長身の男が詰め寄る。
広い倉庫の中で数人の男達が何やらやりとりをしていた。
一人の従者を連れた長身の男と大きな荷物を背にしたガラの悪い10人ほどの輩をつれた狐目の男。
どうやらこの荷を巡って揉めているようだった。
「へへ、昨日までは確かに銀80でしたがね。
今日から銀120に値が上がったんですよ。」
狐目の男は商人のようだ。
長身の男に対して舐めた口調でヘラヘラしながら答える。
「旦那はかなり儲けてるってお聞きしてるんでね、
ケチなこと言わずに払ってくださいよ。
こっちも忙しいんでね、さっさと払ってくれないと後ろの連中も血の気が多いから何するかわからないんですよ。」
と、狐目の男が後ろの男達に目で合図を送る。
男達も下品な笑いを上げながら威嚇したり挑発したりしている。
長身の男の横にいた従者が深いため息をつく。
「こうなることがわかってたから.もっと人手を連れていけって忠告したんだよ。
俺の言ったことワザと聞かなかったんだろ、呂不韋。」
呂不韋と呼ばれた長身の男が従者の方を向き笑顔で応える。
「あ、バレた?」
呂不韋はクスクス笑っている。
「こうなることを予測して、わざわざ従者としてお前を連れてきたんじゃないか、陸啓。」
呆れ顔の陸啓もプッと吹き出して呂不韋と笑いだした。
「オマエといると退屈しないよ、呂不韋」
「俺と友達でよかっただろ?陸啓」
凄んだ10人の男達を前にして、緊張感もなく笑い飛ばしている呂不韋達に
狐目の男はポカンとしていたがやがて顔を紅潮させて
「おい!アンタらわかっているのか?!
ふざけてる場合じゃない事くらいわかるだろ!
それともこの状況がわからないほど馬鹿なのか?」
後ろに控えていた男達も手に武器を取り呂不韋達を囲み始めた。
「ここからはコイツらの手間賃も上乗せしなきゃならないんでね、荷物代銀120に手間賃180、合わせて銀300だ!!」
今にも飛びかかろうとする男達を前にしても呂不韋と陸啓は余裕の笑みを浮かべている。
「銀300だってよ、呂不韋。
どうするんだ?払うのか?」
呂不韋は少し思案したかのようなそぶりを見せて
「相手の言い値で支払ってたら商売は成り立たないぞ?
まずは商談しないとな。」
と言った途端に男達に飛びかかった。
「商談?拳で語り合うってことがか?」
と言いつつ陸啓も男達に組かかる。
瞬く間に倉庫の中は大乱闘となった。
剣や武器を振るう男達に対して素手で応対する呂不韋達。しかし大した時間もかからずにその場を制圧してしまった。
「お、お、オマエ達何者だ!?
商人じゃないのか?」
腰が抜けたようにへたり込む狐目の男を前に、呂不韋は笑みをたたえながら答えた。
「商売の基本は相手に合わせることから始まる。
金には金。
言葉には言葉。
暴力には暴力ってね。」
狐目の男の額を軽く叩く。
「商売をしていればアンタのような輩ともやりとりすることが多くてね。」
と言いながら懐から袋を取り出す。
「銀80、問題はないな?」
男の名は呂不韋。
はるか昔、中国大陸がまだ統一される以前、7つの国に別れていたころ。戦国七雄と呼ばれた7国の一つ「趙」の商人である。
趙国の首都「邯鄲」に居を構え、贅の限りを尽くした王宮のような邸宅には古今東西の珍しい珍品や財宝といった物だけではなく、見目麗しい美女達や「食客」と呼ばれる様々な知識や武勇を携えた者など、多くの人間達で賑わっている。
そんな彼は北方民族、西は天竺果ては西欧、南蛮など手広く商売をし莫大な富を築き上げていた。
呂不韋が望むものは何でも手に入った。
しかしそんな生活を繰り返していると少し退屈もしてしまう。
彼にとってはむしろ先ほどのような刺激的なトラブルも必要な栄養剤とさえ思えるのだった。
手広く商売をしていれば中には暴力を振るってくる輩も少なくない。
彼の抱える食客達を用心棒として連れていけば問題はないのだが、
それでは傍観するだけで面白くない。
自分で切り抜けるからこそ楽しいのだ、とワザと危険な予感のする商談にも友人一人を連れて乗り込んでいく。
付き合わされる友人、陸啓もたまったものではない。
最初はイヤイヤながら呂不韋の身を案じて付いていったが、最近では呂不韋と共にそんな状況を楽しんでいるふしもあり、ひと暴れした後の酒も嫌いではなかった。
今宵も仕事を終えた後の酒に舌鼓をしつつ、二人は他愛のない世間話など交わしていた。
陸啓の話は呂不韋には少し退屈なところもあったが、楽しそうに飲みながら話しをする彼との時間は心地よい。
この陸啓ともう長い付き合いになる。彼は趙国の軍に所属する官史であった。
軍属ではあるが陽気できさくな彼の人柄に呂不韋は魅力を感じていた。
何より呂不韋の周りの人間達は彼の富に惹かれて集まるものばかりで、
自身の立場や金銭に関係なく酒に付き合い、時には彼を諌め《いさめ》、本気で心配してくれる数少ない友人として呂不韋にとって大切な存在だった。
いつも自分のわがままに付き合わせて申し訳ないと思いながらも感謝しつつ、
目の前の酒や料理を馳走する。
高い店ではないが比較的味のいい酒と料理がだされていた。
少し広めの店内は同じように酒を楽しむ者たちで溢れている。
呂不韋たちもその中に溶け込み有意義な時間を過ごす。
酔いも回り始めた頃、うまそうに料理を食べる陸啓からこんな話が出てきた。
西の隣国「秦」の次期王となる太子には20人の子供がいて、その中の皇子が一人、この趙国に客人として招かれているということだった。
太子の子、皇子といえば太子が王になった後、後継者として太子になり、ゆくゆくは王になる存在である。
しかし他国に預けられている時点ですでに現在の王はもとより父である太子からも関心を持たれない身ということであろう。
表向きは客人とは言っているが要するに程のいい人質ということか、と呂不韋は容易に想像できた。
おそらくその皇子は国に帰ることは一生できないであろう。
残酷なことではあるが、国同士で戦争も起こるこの戦国の世では決して珍しい話ではない。
呂不韋はその皇子を少し哀れに思いはしたが、そこまで興味を持てる話ではないなと半分聞き流していた。
それからさらに半刻ほど過ぎた頃一人の客が店に入ってきた。
客…というには薄汚れた身なりにボロボロの布切れを頭から被り、華奢な体つき。
覗きみえる口元や手足からは思ったよりは若そうだ。
「乞食がなんでこの店に…」
「せっかくいい気分で飲んでいたのに台無しだよ」
周りの客たちが心無い言葉を投げかける。
このみすぼらしい風体の者は空いていた奥の席に座った。
その客に対する店の者たちの反応に陸啓は少し不快感を覚えているようにみえた。
呂不韋も気分がいいものではなかったが敢えて無関心を装う。
陸啓が呂不韋に話しかけた。
「なあ、呂不韋。
もう一人相席させてもいいかな?」
そういうであろうと思っていた呂不韋も頷く。
「ああ、構わない」
「なら声をかけてくる!」
と陸啓が席を立ったその時、店の奥から店主が声を荒げてそのみすぼらしい客に怒鳴った。
「おい、アンタ!うちは金のない奴はお断りなんだ!
さっさと出ていってくれないか!」
とその者にくってかかる。
みすぼらしい客は少し身を屈ませ《かがませ》固まっているようだ。
「他の客たちも皆んな嫌がってんだ!ほら、ほら、早く出て行ってくれよ!」
と店主がその客に掴みかかろうとした時に陸啓が間に入った。
「いい加減にしろ、失礼じゃないか!この店は客に対してそんな態度をとる店なのか!」
他の客から咎められ一瞬慌てた店主であったがすぐに居直り自身の態度を改める様子はないようだ。
陸啓と店主のやり取りに周りの客もざわつき始めた頃、呂不韋が割って入った。
「なあ店主、私はこの街で商いをしている呂不韋という者だ。街に住む皆のおかげで私は有り余る富を築かせてもらった。とてもありがたい話だ。ちょうど今この店にいる全ての者たちは私の商売相手であり大切な客人だ。
どうだろう、その客人たちに日頃の感謝をさせてはもらえないだろうか?」
と言い店の中の客達に向かって
「今宵は全て私の奢り《おごり》だ!
好きなだけ飲んで食べてくれ!遠慮はいらない、私からの感謝の気持ちを受け取ってくれ!」
それを聞いた周りの客達は歓喜し一気に盛り上がった。
そして呂不韋は再び店主の方へ向きなおり、1ヶ月は貸し切れそうなほどの銀子を手渡しこう囁いた。
「私のわがまを聞いてくれてありがとう。迷惑かとは思うが問題ないだろうか?」
今まで見たこともないほどの大金を手にして呆気に取られていた店主だが、すぐに居直り陸啓とみすぼらしい客に会釈をし
「大変失礼をいたしました。
どうぞ当店の料理を楽しんでいってください!」
と言い残して上機嫌で店の奥へと戻って行った。
店の中は大騒ぎとなった。
酒を追加注文する者、呂不韋に感謝を述べる者、歌いだす者までいる。
そんな中で呂不韋がその珍客に声をかける。
「さあ、こちらにきて一緒に酒でも飲みながら食べようではないか」
陸啓もそれに続く。
「そうだよ、一緒に食べよう。この男は金を使いたくて仕方ない変人なんだから、遠慮することなんてないよ。」
変人とは言い過ぎではないか?と思いつつも楽しい酒がまた飲めそうだと呂不韋が思った矢先、その珍客から予想もしない返事が返ってきた。
「憐れんでいるのか?施しなら受けるつもりはない!」
一瞬何を言っているのか分からず陸啓が固まる。
呂不韋も思わぬ返事に少し戸惑いをみせた。
周りで盛り上がっていた客たちもその異変に気づき始める。
「施しなどというつもりはない。気を悪くしたのならすまなかったな。
ただオマエを庇った《かばった》私の友人には礼くらいするべきではないのか?」
もともと礼などほしかったわけではないが、陸啓もこの者の態度に少し不快感を覚え始めた。
無礼な珍客は陸啓の方を向き
「誰も止めてくれなどと頼んではいない。
余計なことをしてくれたな。」
え?この人何言ってんの?という顔の
陸啓に友の想いを侮辱された呂不韋も流石に穏やかではいられない。
その失礼な態度に周りの客たちもテンションが上がり始めている。
「その言い草はなんだ?
せめてその布切れを脱いで喋ったらどうだ?」
気持ち語気を強めた口調で今度は呂不韋が詰め寄りながら、頭に被っている布切れに手をかけようとしたが、手を払いのけられた。
「下賤のものに気安く晒して良い顔など持ち合わせてはいない!失礼な!」
どっちが失礼なんだよ!!と思わずつっこんでしまいそうな呂不韋。
大商人と呼ぶに相応しいほど裕福なものであると一目でわかるその身なり。
さらに先ほどの店主とのやりとりを見ていれば身分の高い者であることくらいはわかるはずだ。
それに対してこの者は見るからにみすぼらしい服装に薄汚い布切れを被っているありさまである。
そんな風体の者が呂不韋に対して下賤の輩と言い放ったのだ。
周りの客たちもその無礼な態度に我慢ができなくなってきた。
自分達にまで気前よくご馳走してくれる呂不韋に対してこの返答はあまりにも失礼だと感じていた。
周りの空気が穏やかではなくなってきていることを陸啓も感じ、緊張感を覚えはじめた。
暴動が起きかねない周囲に気を配りつつ呂不韋に目をやる。
しかし当の呂不韋は返って冷静になっていた。
通常であればこの空気を感じ取り、逃げるか固まって黙りこむかするはずである。
しかしこの者は敢えて挑発するかのような態度を繰り返しながら平然と佇んでいる。
高貴な身分の者か、余程の愚か者か。
この無礼な珍客の正体に興味が湧いてきた。
なおさら顔を拝んでみたいと呂不韋が考え始めた時には周りの客たちの怒りは爆発していた。
「おい、この旦那に対してなんてこというんだ!」
「もう許せねぇ!」
「構わねぇ、みんなでやっちまおうぜ!」
と合図でも受けたかのように、二人の男達が無礼な珍客に飛び掛かる。
陸啓と呂不韋が止めに入ろうとした瞬間、布切れが宙を舞った。
あっという間に男達が倒れ込み大きな音を立てて床に転がり落ちる。
だが呂不韋が目を奪われたのはその光景にではなく目の前の無礼者にだった。
「美しい…」
呂不韋は思わず口にした。
呂不韋の前には倒れ込んでいる男達を悠然と見下ろす美しき一人の青年が立っていた。
さらに飛び掛かってくる男達を華麗に捌く《さばく》その姿に呂不韋は心を奪われていた。
この青年の名は子楚。
この子楚との出会いが呂不韋の運命を大きく変え、やがて中華全土の運命すら変えていく瞬間であったのである。