喫茶店『来夢』
焼き鳥屋に大学生が来てから三日後の、月曜日。環琉はスマホの通知音で目を覚ました。時刻は、朝の十時を少し回った頃だった。眠い目を擦りながら、昴からの電話に出る。まだ朝だというのに、蒸し暑い日だ。
「おはようございます……」
「おはよう。君が五コールで出るなんて、今日はやっぱり雨が降るらしい。例のケンジくんから連絡があったよ、三十分後に喫茶店『来夢』で――傘を忘れないようにね」
自分の用件だけ言うと、昴は電話を切った。まだ朝の十時だが、不快な暑さと肌にまとわりつくような湿度に、環琉は大きく息を吐いた。雨が降るなら、この蒸し暑さの意味も分かる。日本の暑さは厄介だ、と環琉は頭を搔いた。
今日は、メインのバイトである焼き鳥屋は休みだ。掛け持ちバイトの片方の雇い主である昴を待たせるなんて、絶対に許されない。昴を怒らせることは、恐ろし過ぎて環琉には出来なかった。
環琉は素早く布団から起き上がると、汗を流すためシャワーを浴びて急いで傘を持ち『来夢』に向かった。
昴が雨が降る、と言うなら間違いなく雨が降るのだろう。彼の言葉は、間違ったことがない。愛車の原付バイクは、今日は走る予定がなさそうだ。
『来夢』に着くと、幸い昴はまだの様だった。その事に、環琉は安心してほっと息を零した。
ここは昭和レトロを感じる純喫茶で、正式な事務所を持たない昴が顧客と会う場所にしていた。そう広くない店内には、テーブル席が三席にカウンターが五席あった。
「いらっしゃい、環琉くん。先にお待ちですよ」
喫茶店の女主人は、梓という六十代くらいの女性だ。着物姿で、割烹着を着ている。若い頃はさぞ美人だったのだろう、歳より若く見える彼女は化粧も濃くない。環琉を孫の様に可愛がってくれているが、環琉は彼女の個人的な事は何も知らなかった。また、聞くような機会もなかった。ただ、長い付き合いだ。
「ナポリタンとクリームソーダお願いします!」
梓にそう言うと、環琉はテーブル席に向かった。今客は、彼だけのようだ――と、店内に入ってそう思っていた。しかし、カウンター席の一番奥の席に先客がいた。
もう氷がほとんど解けて薄くなったアイスコーヒーを前にした、憔悴した様子の金髪のケンジが座っていた。たった三日ぶりだが、少し痩せているように見えた。ぼんやりとそのグラスを見ている彼は、やつれた。と、言った方がいいのかもしれない。
「お待たせしました。『祓い屋』の助手の永久環琉です」
彼の正面に座って頭を下げると、ケンジがゆっくり顔を上げて環琉の顔を見た。
「あれ? あんた、あの焼き鳥屋のバイトじゃ……?」
「バイトの掛け持ちをしているんです。今日は、こっちの仕事で来ています。昴さんは、もうすぐ来ると思いますよ」
スマホを取り出して時間を確認する。もうすぐ約束の五分前だ。すると、きっちり五分前に喫茶店のドアが開いた。
「どうも、若神子です。ご連絡ありがとうございます」
入って来た昴は、三日前と同じような黒いシャツにパンツ姿だ。湿度も高く暑いのに、彼だけが涼しい顔をしている。
「名刺、有難うございました! ――ホント、俺どうしていいか分からなくて……アンタに頼るしかなくて……」
昴の姿を見ると、ケンジは立ち上がって頭を下げた。それを見ながら昴はテーブルに来ると、ゆったりと優雅に環琉の横に座ってケンジに声をかけた。
「あの日見た事を、話してくれるかな? 廃病院に行ってから――それから、どうなったかを」
座るようにケンジに促していると、梓がクリームソーダと珈琲を運んできた。この珈琲は、ブランデーをしみこませた角砂糖に火を点け、火が消えると珈琲の中にその角砂糖を入れてよく混ぜたカフェ・ロワイヤルというものだ。昴はブランデーの香りを好んでいて、珈琲を飲むときはこの店のカフェ・ロワイヤルしか頼まない。
「やっらり、幽霊が出たの、知ってるんですね!? 行くんじゃなかった……」
ケンジは促されるまま席に座ると、明るい金髪を掻いて唇を噛んだ。その様子を、昴は黙って見ていた。
「ごゆっくり」
美味しそうな香りのナポリタンを梓が運んでくると、何故か少し空気が和らいだ。
「若神子さん――アンタなら、祓えますか!?」
ケンジが、昴を縋るように見た。昴は、氷のような微笑を浮かべて小さく頷いた。
「僕が祓えないものは、ありませんよ。さあ、話してください」
その言葉を聞いたケンジは、薄くなって生暖かくなり始めたアイスコーヒーを一口飲んだ。そうして、何故か自分の足を眺めながら彼は口を開いた。
「あの後、俺は飲み会のメンバーと別れて他の三人と合流しました。トオルとサトルとリキヤです。俺達は同じ大学の友人で、よく一緒に遊んでいて……飲み会の時に、リキヤから連絡が来たんですよ。暇だから、遊びに行かないかって。その時に、グループチャットでトオルが書き込みをしたんです。『どうせなら、肝試しに行かないか』って」
「そこは、今まで行った事なかったのですか?」
昴の言葉に、ケンジは考えるように少し動きを止めたが、力なく首を横に振った。
「いえ、ないです。そんな所に病院があるなんて、トオルが言うまで知りませんでした。幽霊が出るとかも聞いた事ないし――でも、出たんですよ!」
ケンジの顔は怯えていた。クーラーは丁度いい温度だったのに、寒いかのように身震いをした。
「そうですか――では、その山奥の病院跡の話をお願いします」
昴が話を促す横で、環琉は呑気にナポリタンを口にしていた。




