桜の都々逸(どどいつ)
※本羽香那様主催『一足先の春の詩歌企画』参加作品、使用ワードは『桜』です。
※コロン様主催『酒祭り』企画参加作品です。
今日は、珍しく定時で仕事が片付いた。
暗くなる前に会社を出るなんて久しぶりだ。まっすぐ家に帰って独りメシというのももったいない気がして、俺は散歩がてら遠回りして帰ることにした。
普段の通勤ルートでは気づかなかったけど、もうすっかり桜の季節になっていたらしい。
小さな川沿いの遊歩道では、等間隔に植えられた桜が咲き誇っていて、空気そのものが桜色に染まったようにも感じられる。
週末ということもあってか、そこここでちょっとした宴会も始まっているようだ。
──うん。たまには『花見酒』というのもいいかな。
俺は近くのコンビニに寄って、ハイ・ボール缶と小さめのポテトチップスを買いこんだ。
レジ袋片手に遊歩道をぶらぶらと歩いていくと、空いているベンチがあった。桜が密集しているところじゃないけど、見える景色は悪くない。ここがよさそうだ。
腰を下ろして、まずはハイ・ボールをひとくち。まだ日のあるうちに酒を飲むというのは、何となく背徳感があって、いつもより旨く感じるんだよなぁ。
次にポテチの袋を開けようとした時に、目の前を賑やかな小学生の集団が通り過ぎた。
男女5人ずつくらい──時間的にこれから塾にでも行くところかな。
すると、男子のひとりが突然イタズラっぽい笑みを浮かべて、首にかけていたタオルを手で振り回し始めた。どうやら、頭上にせり出している桜の枝に当てようとしているらしい。
『ちぇっ、とどかないか。ジャンプすりゃいけるかな』
『ちょっと、ウエダくんやめなよ! そんなことしたら、桜がかわいそうでしょ!』
『桜がかわいそうとか、バッカじゃねぇの? ──くそ、まだとどかないか。
なあ、あの木に体当たりしたら一気に散るんじゃね? やってみようぜ!』
『ウエダくん、やめてってば!』
『うるせぇなぁ! この木はお前のものじゃねぇだろ!』
何だかちょっと険悪なムードになってきた。
うーん、仲裁するほどのことにはならないと思うけど、目の前で騒がれ続けるのもうっとうしい。さて、どうしたもんかな──?
そんなことを考えていると、ウエダくんと他の子たちの間に、スーツ姿の若い女性がすっと割って入った。
斜め後ろから見上げる形になるので顔は見えないが、黒いセミロングの髪をゆるいお団子にまとめたその後ろ姿には見覚えがある。
もしかして──桑折主任?
「──でも、ここの桜は君のものでもないよね?」
「はぁ? いきなり何だよ、オバサン」
「桜っていうのはね、とても弱い木なの。体当たりなんかして傷ついたら、それが原因で枯れちゃうこともあるのよ?」
「だったら何だよ! オバサンにはカンケーねぇだろ!」
「──関係なくもないわね」
セリフも口調もそこまで厳しくはないのに、ウエダくんがたじろぐのがわかる。
無理もないよなぁ。主任から冷ややかな視線を浴びせられたら、俺たち大人の男だってビビるし。
「ここの桜はね、誰かひとりのものじゃない。咲くのを楽しみに待っていたみんなのものなのよ。
ほら、周りを見てみて?」
そう言ってゆーっくり視線を周囲に巡らせる。もちろん、ウエダくんがつられて見ることを計算した上で、だ。
「ね? これだけ多くの人が楽しみにしていたことを、君ひとりの悪ふざけで台無しにしてしまったら、どういうことになるかな?
ここにいる全ての人が君のことをどんな風に思うのか、どれだけ冷たい目で見るのか──想像できない?」
ウエダくんはその言葉に気圧されたようにしばらく黙っていたけど、ふいに何かに気づいたように、明るく大きな声をあげた。
「やだなー、オバサン。そんなのジョーダンに決まってるじゃん!」
「あら。じゃ、お姉さんの勘違いだったかしら」
「そうだよ。本気でそんなことするわけないって!」
「そうかー、ごめんごめん。じゃ、おわびにこれあげるね」
その女性は手に持っていたレジ袋から小箱を取りだした。やっぱり。主任が仕事中にたまにつまんでいるアーモンド・チョコだ。
「そこにいるみんなと分けてね」
「わかってるって。──おい、みんな、行こうぜ!
じゃーな、オバサン!」
最後までオバサン呼ばわりか。子どもって怖いもの知らずだなー。
子どもたちがわいわい騒ぎながら遠ざかっていく。それを見送っていた女性が、やがてくるりとこちらに向き直った。
やっぱりここにいるのはバレてたか。
「──で? 君は薄情にもただ見ていただけなのかな、村瀬君?」
「ども、お疲れ様です。主任」
桑折志穂主任。俺より二年先輩の上司で、いわゆる『デキる人』だ。
仕事は迅速で丁寧かつ的確。同期の中で最初に主任になっただけのことはある。
ただ、同期や少し上の男性社員からの受けはあまり芳しくない。まあ、やっかみもあるんだろうけど。
美人なのに常に真顔で可愛げがない、あれは文字通り『氷の女』だとか何だとか──。
確かに主任はあまり社交的な方じゃない。昼休みにも雑談の輪の中に加わることはまれで、ひとり静かに歴史小説を読んでいる姿をよく見かける。
でも部下の立場からすると面倒見のいい上司で、課長や部長の無茶振りからも守ってくれる。俺としても見習うべきところは多いと、大いにリスペクトしている人なのだ。
「そっか、村瀬君はああいう時、私をかばってはくれないんだ。冷たいなー」
え、何ですか、その子どもみたいに拗ねたような表情。初めて見たんですけど。
「いや、待って下さいよ! あれが中高生だったらさすがに俺も動いてましたって!
でもほら、今って大人の男が子どもに声かけるだけでも、かなりリスキーじゃないですか」
「まあ、それもそうね」
そう言いながら、主任は俺の横に腰を下ろしてきた。ちょ、ちょっと主任、近い近いっ!
「い、いや、正直言って、鮮やかなお手並みだったので出ていきそびれたってのもありますけど。
主任、さっき他の子に聞こえないように、あの子にこんな風に言ったんじゃないですか?
『今なら、全部冗談だったって言っといた方が格好がつくよ』とか」
俺がそう言うと、主任は小動物っぽいきょとんとした顔でこちらに振り返った。
「え? うそ、聞こえてた?」
「聞こえてはないですけど、想像は付きます。
主任って部下を叱る時に、逃げ道のないところに追い込むような叱り方は、絶対にしないじゃないですか。
子ども相手なら、こっそり逃げ道を教えてあげるんじゃないかって」
「へぇ、村瀬君は私のこと、そういう風に評価してくれてたんだ。──へへ、何だか照れくさいね」
うわ。主任ってプライベートではこんな感じなんだ。何だかギャップが凄いぞ。
「そ、そう言えば主任の家って、こっち方面でしたっけ?」
「違うよ、こっちに来たのは君と同じ理由。こんな日にまっすぐ帰るなんてもったいないよね」
そう言って主任がレジ袋から取り出したのは、クラフト・ビール缶と、つまみのソフトさきイカ。
うーん、チョイスが渋い。
「まあ、ここからはオフってことで。──これももういいかな」
主任が伸びをしながら頭からバレッタを外すと、まとめてあった髪が一気に流れ落ちる。何だかシャンプーのCMみたいにサラサラでツヤッツヤだ。
「──どうしたの? ぼーっとして」
「あ、いえその、髪をおろすとだいぶ印象変わるなぁって……」
「それ、セクハラで『アウト』だからね。今は容姿をほめても『セクハラ』って言われかねないご時勢だし」
「あっ、すみません!」
「私は別に気にしないけどね。でも、普段から気をつけといた方がいいよ」
そう言って主任は、桜を眺めながらビールを飲み始めた。
「うーん、癒されるねぇ、村瀬君。──あ、さきイカも適当につまんでね」
「じゃ、このポテチもどうぞ」
職場にいる時とはぜんぜん雰囲気が違うけど、今の主任はすごく『自然体』で伸び伸びしているように見える。
全然知らなかった。こんなに柔らかい表情をする人だったんだなぁ──。
それからしばらくのあいだ、俺は主任の隣でときどきハイ・ボールを呑みながら、桜の景色や行き交う人々、花見を楽しむ人々をぼうっと眺めていた。
──会話は特に振らなかった。今はただ、主任とこの空気の中に一緒にいるということだけで、満たされたような気分になっていたからだ。──こんな風に思っているのは俺だけなのかな。
時おり温かい風が吹いて、その度に桜の花びらがふわっと舞う。まだ盛りの時期なので、『桜吹雪』というほど大量じゃないけど。
「うーん、やっぱり桜は、この風で散る感じがいいね」
「そうっすね」
「人の手で無理やり散らしたんじゃ、無粋だよね。さっきの子も大人になったらわかるかなー」
──その時、俺はあることをふと思い出した。この話題ならたぶん、歴史小説好きな主任向きなんじゃないかな。
「そう言えば、坂本龍馬を描いた小説の中に、そんな唄がありましたね」
「唄?」
「唄というか──えーと、短歌じゃなくて何だったっけな、確か7・7・7・5の──」
「『都々逸』?」
「そう、それです。リズムが良かったんで、何となく覚えてるんですよ。
──【咲いた桜になぜ駒つなぐ 駒が勇めば花が散る】
昔からあった都々逸で、『せっかく咲いた桜の木に馬を繋いだら散ってしまって無粋じゃないか』っていう意味だけど、龍馬は池田屋事件で討たれた志士たちを悼む意味で唄っていたとかで──」
俺がそう話していると、主任は少し驚いたような顔をして──その顔がみるみるうちに真っ赤に染まった。え、何でだ?
「村瀬君、ごめん。それもセクハラで完全に『アウト』だわ」
「えっ?」
「その都々逸って、実はそのー、かなり卑猥なことをほのめかすような内容らしいのよね……」
──ええっ、ま、マジですかぁぁぁっ!? やっちまったぁぁっ!
「つまり『桜』が女性のことで『駒』が──あの、その──と、とにかくこの話はここまでっ!」
厳しい口調で言い放ち、主任は残りのビールを一気に飲み干した。
まさか、あの冷静沈着な主任がこんなにわたわたと狼狽えるなんて。
もしかして、この手の話が相当に苦手──というか、かなり初心?
主任はいつの間にか取りだしたシルバーの眼鏡をかけて、仕事の時のような引き締まった顔ですっくと立ちあがった。
「村瀬君。今のは聞かなかったことにしておくから、以後は女性のいるところでこの話をしないように。
──じゃ、また週明けに会社で。お疲れ様」
そう言ってきびすを返し、いつものように姿勢よく立ち去っていく。
その顔つきや声色は完全に『仕事モード』だったんだけど──耳やうなじがまだ真っ赤だったんだよなぁ。
きっと、精いっぱい照れ隠ししようとしてたんだろうけど。
その後ろ姿を見送りながら、俺は自然と頬がゆるむのを抑えきれなかった。
この30分ほどの間に、俺はこれまで知らなかった主任の表情をいくつ発見したんだろう。
そしてそのことを嬉しく感じ、もっと知りたいと思っている自分がいることにも気づいてしまった。
「……うわ、マジか。これは──完全にやられちまったな……」
たぶん今、俺の顔もさっきの主任以上に真っ赤になってるんだろう。
──月曜日から俺、今までどおりに主任と接することが出来るのかなぁ。