最終話(中編).
「誰だ? お前の様な奴に馴れ馴れしくされる謂われは無いが」
『……ソノスガタハ“ジンカ”カ?』
「何だと?」
“死者の都”、そして“人化”。
それらの単語を持ち出されても俺には何のことやらさっぱり分からなかった。
『ダガショキカガナサレレバ、モトノオマエヲトリモドセルダロウ』
「何だ、その“初期化”というのは』
『ダイヒョウサンプルヲリセットスルノダ』
路地裏に身を潜ませていた筈の団の仲間達も何時の間にか全員が地面に倒れ伏していた。
手荒な真似はしたくないなどと言われたところまでは覚えている。
だが結局は実力行使に訴えて見事に返り討ちに遭った、というのが場の顛末であるらしかった。
「代表サンプル? 何だそれは」
『オマエノコトダ。ズイブントサガシタノダゾ』
「知るか、どうせまた大神殿の手の者なのだろう」
俺は半歩間合いに踏み込むや居合抜きよろしく抜剣し、下段から相手の首筋を狙って切り上げた。
『フン』
しかしひゅうという風切り音と共にその切っ先は空を切る。
対する鉄仮面は軽い動作でただ半身になっただけだ。
『マルデシロウトダナ』
鉄仮面は半ば呆れた様な声を漏らし、俺の腕を引きながらちょんと足を払う。
「あぐぅっ……!」
その何でもないような動作ひとつで俺は容易く地面に打ち付けられ、痛みに喘ぐ。
肺から無理矢理に空気が押し出され、酷く苦しい。
『ドウシタ、モウオワリカ』
幾度かの無駄な足掻きを繰り返しては転がされ、それを繰り返すうちに気力も底をついて来る。
駄目だ、もう力が入らない——
『ブザマダナ』
こうして俺は鉄仮面になす術もなく敗れ、身柄を拘束された。
………
…
『マッタク、アナタトイウヒトハ——』
…………………
……
…
「う……うん?」
『ヨウヤクオメザメカ』
クソ……まだ頭がぼうっとする。
二度三度と頭を左右に振り、こめかみを押さえる。
しばらくしてぼんやりしていた意識もはっきりし始め、目も段々とこの暗闇に慣れて来た。
既視感のある場所だ。ここは……いつか投獄されたあの牢屋か。
大神殿の何処かにある小さな監獄。
そこに収監された俺は、四肢を拘束されて石造りの冷たい床面に芋虫の如く転がされていた。
そして目の前に立つのは件の怪人、鉄仮面である。
どこからか吹き込む風に彼の手にする灯りが右に左に大きく揺れる。
薄暗い部屋の壁面に映る大きな影がそれに呼応して不気味に歪み、瞬く。
「……何が言いたい?」
『コノマチガオマエノシンショウフウケイノサンブツナノダト、ココロノドコカデハキヅイテイタノダロウ』
そうして何をされるのかと思えば訳の分からない話を延々と……ただ延々と聞かされるだけという有様。
「団の皆はどうした……!」
『オット、テイコウシテモムダダ。
オマエノセイサツヨダツノケンハオレガニギッテイルノダ。
ソレヲワスレテモラッテハコマルナ』
これは、駄目だ。
言葉は分かるのに全くコミュニケーションが取れていない。
言いたいことだけをとめどなく喋り続け、その癖相手の話に耳を傾ける姿勢は一切感じられない。
完全に一方通行だ。
拷問されるよりは遥かにマシなのだが、これはこれで非常に怖い。
見ず知らずのガキを捕まえてこんなことをする動機が何なのか、全く想像が出来ない。
それは即ち、こいつが変態野郎だという事に他ならないと俺の本能が警告していた。
そして俺はその変態野郎との意味不明な問答に延々と付き合わされていた。
『シカシコノアリサマハナンダ。
マルデモノガタリノセカイデハナイカ』
「……」
それにしてもこの野郎は片言の癖に随分と饒舌だ。
まるで俺と旧知の仲であるかの如くに。
そう……そもそもこの怪人が何者なのか、俺にはそれすら分からないのだ。
仮に人違いだったとしたら迷惑どころの話ではない。
もちろん、ある程度見当はついているのだが。
「お前が誰か知らんがどうせ大神殿の回し者なのだろう。
どういった風の吹き回しなのかは分からんが、暗殺は諦めたのか?」
『フム、オマエハナニカカンチガイヲシテイルヨウダナ』
俺からの質問が余程嬉しかったのか、怪人は再び饒舌に語り始めた。
本当に気味の悪い奴だ。
『セカイハオマエヲチュウシンニウゴイテイル。
オマエガウゴケバ、セカイモウゴク』
「……もう一度聞く。大神殿の差し金ではないのか?」
こちらの話を真面目に聞いているのか、そのような主旨で再び尋ねると奴はやおらクククと笑い出した。
何がそんなに面白いのだ、そう問えば奴の嗤いはより一層深まる。
何かが奴の中で自己完結したのか、見る間にそれはエスカレートして行き、とち狂った甲高い笑い声が狭い部屋の中に幾重にも響いた。
『ナニガダイシンデンダ。ハイファンタジーモノノヨミスギナノデハナイカ』
「ふざけるな、良い加減にしろ」
『ダカラコノアリサマハ、オマエガノゾンダコトダトイッテイル。ダイシンデン、ナドトイウモノハモトカラソンザイシナイノダ』
「何を言っても駄目なのかよ、この……!」
俺は思わず飛びかかりそうになるが、壁面から伸びる鎖と両手両足の枷がやかましく音を立ててそれを阻む。
『ジブンジシンガバケモノノハラノナカデショウカサレテユクサマヲ、セイゼイダマッテミテイルガイイ。
コレカラハジマルデアロウ、ダイサイヤクヲナ』
扉が閉まると部屋の中は暗闇となった。
何が“見ているが良い”だ。
これから“大災厄”が始まるだと?
こんな密室で……いや、奴は俺が世界の中心なのだと言いやがった。
何故だか分からないが相当俺に執着している、そんな感じだ。
考えたくもないが、きっと奴にとっては俺が世界の中心なのだ。
となると奴はやはり俺と接点のある誰かということになる。
あの変態野郎、一体誰なんだ……
それに“死者の都”とは何だ?
まさかとは思うが聖痕絡みのネタなのか……?
………
…
しかしサンザンタニンヲバケモノアツカイシタアゲクにこの始末とは……
あれからニジュウネンイジョウノツキヒが経過している筈なのだ、やはりナニカベツノソンザイナノカ……
………
…
遠くで何かやかましい音が鳴り響いている。
どこかで聞いた、けたたましい——
そこで視界が急転した。
◆ ◆ ◆
『——ういうことなんだ?』
目の前のこの“存在”は俺の今までの人生がまるで見えていなかったかの様に言葉を紡ぎ続ける。
……ああ、これは俺が転生する前……あの場面の続きだ。
つまりあの世界で俺が生きた人生はこの“存在”にとっては無かったということになるのだ。
思えばあの世界の俺は、自分が転生して来たなんて微塵も思っていなかった。
まあそっちが普通なんだろうが……
神様すら認識出来ない生を与えられる者とは一体何だ?
そして“前世を忘れる”とは何だ?
そもそも普通はそれが当たり前の筈なのだ。
何事も突き詰めて行くと、いかなる科学的理論をもってしても究極的には“神”の存在と向き合うことになるという。
では“神”とは何だ?
いや、分からないから“神”なんだ——
『待ってくれよ。だから君は早合点だと言うんだ』
え?
『僕は自分が神様だなんてひと言も言ってないからね?』
ちょっと待て……神様じゃないなら何だっていうんだ。
『僕にしてみれば君こそが神様なんじゃないかって思うくらいなんだけどね』
“神様”かどうかはさておき、目の前の“彼”が何か超常的な存在であるということに一応察しはつく。
その存在が俺を神様だと言う。
『思い違いをしているのは彼らの方なんだよ、ある意味ではね』
思い違い? ある意味?
『彼らはね、自分達が嘗て地球人が作り出した装置の一部で、あの街が自分達が産み出した幻だっていう妄執に囚われ続けているのさ』
妄執……?
『そうさ。彼らをあの地に縛り付けていた“偽神”は最早何処にも存在しないんだからね』
じゃあ彼ら……いや、俺は——
新たな関係性を受け入れた今の“俺”は。
『さあ、帰ろうか。
あ、言っておくけどおまけのチートは無いからね』
待て、待ってくれ。
あの街が幻だなんて信じられない。
だって、あの空は——
そこで俺の意識は再びぷちんと途切れた。
『……待てよ、冗談だろ? 何だこりゃ』
“存在”の眼前で次々と姿を現す“俺”達。
それが今、世界の全人口が集結せんばかりの勢いで“リスポーン”していた。
「全部……“俺”?」
周囲を見渡し、怪訝そうな顔で口々に呟く“俺”達——
そしてその中の一人が問いかける。
「これはあんたの仕業なのか——」
しかしその言葉は通じず、すぐに言い合いとなる。
『んな訳あるか! さっさと帰ってよ!』
「帰れるかよ! こちとら死んでんだっつーの!」
『じゃあ纏めて帰してやる! ていっ!』
「エッ!? ちょマ——あっあっあーっ?!」
ぷちっ。
◆ ◆ ◆
…………
…
ガコーン。
『!』
巨大な質量を持った何かが激しく衝突した様な音。
その重厚な響きにより俺はハッとなり、再び現実に引き戻された。
極度の緊張下に置かれていた筈が、何時の間にか微睡んでしまっていた様だ。
ふと見ると、先程変態野郎の出て行った扉が少しだけ開いている。
隙間から僅かに覗く床面のその先は真っ暗な闇だ。
外の様子はここからでは伺い知れない。
縛めを解こうと藻掻くが、身動ぎをすればする程手足に食い込む。
鎖は壁にがっちりと固定されており、びくともしない。
『おい、誰かいないのか! おい!』
藁にも縋る思いで外に向かって叫ぶ。
分かっている。
ここは敵地だ。
どれだけ喚こうが助けに来る者など現れる筈も無い。
その情けなさに自分でも嫌気が差す。
『クソッ』
その情けなさとジンジンと痛む手足に思わず悪態をつく。
だがそのとき、扉の隙間からこちらを伺う影の存在にふと気付いた。
こちらの呼び掛けに気付いた者だろうか。
『誰でも良い、ここから出してくれ!』
しかしその存在が今の呼び掛けに気付いた気配はない。
『聞こえているんだろう』
やはり呼び掛けても反応がない。
一体何が……?
やがてそれはスーッ、と部屋の中に入って来た。
良く見れば実体の無い影の塊が幾重にも重なっている様に見える。
相変わらずこちらの呼び掛けには反応しない。
どうやら俺が見えていない様だ。
となるとここに来たのは単なる偶然か。
半開きになった扉のその隙間から吹き込む生暖かい風に乗って妙な臭気が漂い、流れて来る。
何かを焼いた様な焦げ臭さと腐った魚の様な生臭さが入り混じった何か。
それは程無く一団となって押し寄せ、この部屋を通り過ぎて行った。
あまりの気持ちの悪さに俺は思わずえずく。
しかし原因は臭いだけではない。
その“群れ”が通り過ぎて行く中で、何かが自分の中に流れ込んで来る感じがしたのだ。
『帰る? 何処へ……?』
空の胃袋が痙攣を起こし、みぞ落ちの辺りから痺れる様な感覚がピリピリと拡がる。
怨念……いや、?
この地で死んでいった王国の人間達の……?
『こ……これ……が……し……死者の……都……?』
いつかガーゴイルが話し、実際目にしたあの光景が脳裏に蘇る。
「それは違うね」
暗闇の中、誰かが語りかけて来る。
この声は……クソ、駄目だ……流れ込んで来る何かが——
『何だ……と……?』
確かに……知ってい……る……アア……ジョウカガ……はジマッて……
「言わなかったかい? そんな非科学的な与太話を誰が信じるかってね」
『われ……ラ……魔ぞク……のにク体に……そノ怨念……ヲ……』
「繰り返すが、それは違うよ」
『な……ゼダ……ワレワレ……は……イま……ヒとツの……う、うぅ……何だこれは……』
「この時空における個々の事象、それら相互の結合が崩壊する際に発生するエネルギーを利用する過程で生じた現象に過ぎない」
『ナンダソ……関係性……が……もたらす……エネルギーの……保存……レハ……キサマ……ハ……それが“スナップショット”……か……ウ……ルサイ……キエロ……』
「そうだ、また君に会えて嬉しいよ」
『チガ……ウ……オレハ……オレノソンザイガ……』
「消えるって? 消えるも何も君らは元よりひとりだったじゃないか」
『な、なニ……?』
「“異世界”からこの施設の中に迷い込んだイレギュラー、それが君だ」
『で、ではこ、コノ……セカイ……は』
「本物だよ、勿論ね」
『……オ前が、“偽神”といウ奴なノか』
「何なんだい、それは。数あるインスタンスの中のひとつなんだろうけど」
話していると“何か”の流入も次第に落ち着いて来た。
「落ち着いて来た様だし、そろそろ始めても良いだろう。
皆も待っていることだしね」
『始めル? 何ヲだ……そレに“皆”トは……?』
「“大災厄”……と言えば分かるかな。言い換えると断片化の整理だよ」
“大災厄”とはこの世に魔法という力を齎す何かが生まれ落ちた際に生じた次元の歪みである、という解釈が一般的な学説だ。
そして、それ以前の人類文明の史跡が一切存在していないこと——“聖痕”を除いて——が、“災厄”と呼ばれる理由となっている。
それが今……一体どうして?
「大丈夫、何も心配することは無いから」
この世界の全てが“俺”という存在から派生したインスタンスであるという事実。
この真っ暗な空間に満たされた何かがそれを物語っていた。
分からないのはそれが何者の仕業によるものなのか、ということだけだ。
少なくとも俺自身は、そんなことを実現する手段など持ち合わせていない。
まあ、数々の記憶の断片から大体の見当は付いている訳なのだが。
「その過程で懐かしい夢を見ることもあるのだろうね」
言葉を交わしている相手、それが——
「今はその夢にゆっくりと浸ると良いよ」
………………………
………
…
そこは駅近くのガード下。
俺はふと気になってそのラーメン屋の前で足を止めた。
陽はとうに沈み、辺りは街に繰り出した仕事帰りのサラリーマン達でごった返している。
頭上では電車が忙しなく往来し、ガタゴトンという音にあわせて心地良い振動が伝わって来る。
まあ、この地に住む者にとってはどうということもない日常のひとこまだ。
そして俺は幾度かの人生ぶりに訪れた街で酸辣湯麺の味でも楽しむかとぶらついていた。
見付けたのは偶然だが、良い感じの店構え。
品定めも程々に、早速入店する。しかし——
無い。
酸辣湯麺が無いのだ。
キョロキョロと店内を見回すがそれらしきメニューは見当たらない。
途端に頭をもたげて来た場違い感。
焦燥感が全身を覆い、背脂の如くに滲んだ汚らしい汗の匂いが立ち昇る。
店員や周囲の目も気になり、そそくさと店を出る。
こんな筈じゃなかった、こんな筈じゃなかった……!
だがその後も、似た様なことの繰り返しが続く。
何処へ行ってもあるのは担々麺やドロリとした味噌とは名ばかりのギトギトとしたピリ辛ラーメンばかり。
一体どうなっている。
更に数件の店を巡った後、耐えられなくなった俺は目の前にいた店主に向かって怒りをぶちまけた。
「おい、何故メニューに酸辣湯麺が無い。この店はモグリか何かなのか?」
「……は?」
しかし店員の反応は薄い。
鳩が豆鉄砲を食らった様な顔をされ、暫しの気まずい沈黙の後にこう告げられた。
「お客さん。あんた、酸辣湯麺を食いたきゃ中華屋にでも行けば良いだろう。
ほら、とっとと出てった出てった」
なる程。正論だ。
冷静になって考えてみれば随分と理不尽なことをしてしまったと、そう思う。
だが俺はラーメン屋の酸辣湯麺を食したいのだ。
俺は踵を返すと再び探索の道程へと繰り出した。
そうして歩くこと数時間。
遂に見付けた……かもしれない。
とある新しい担々麺屋の前を通りかかったときに感じた懐かしい匂い。
それに釣られてフラフラと入店するが、メニューには酸辣湯麺が無い。
しかし周囲の客が食しているラーメンを見ると、確かに酸辣湯麺然としたカオスな丼ぶりに箸を突っ込み麺を啜っている。
何だ、何を食べているのだ——
「ちょっとちょっとお兄さん」
不意に声を掛けられ振り向けば、そこにはどこか見覚えのある顔。
——ああ、特級クラスでボッチだった奴か。
まあ、こんな場所でわざわざ俺に声を掛けて来る位だ。
実際この人物が何者なのかは分かったものではないな。
「……」
「何だよ、つれないなあ」
どうやら随分前から出来上がってベロンベロンだった様だ。
虫の居所が悪かった俺は警戒心もあって無視を決め込んでいたが、彼女は気にする様子もなくあれやこれやを饒舌に語り始める。
俺は仕方無くメニューの一番下にあった汁無し担々麺を注文し、話を聞いてやる事にした。
「あれ? 酸辣湯麺じゃないんだ」
「メニューに無いんだ、仕方がないだろう」
「ふうん」
「……どうも背中に違和感を感じると思ったら、さっきから俺をつけ回していたのか。
小太りのハゲをストーキングとは随分と良い趣味をしているな」
そう、今の俺は脂ぎった中年のオッサンだ。
しかも頭頂部が寂しいときている。
「ねえねえ、あの後二人がどうなったか気にならない?」
「おい、俺の問いは無視か」
「うん!」
「……ったく、何なんだ。それであの後? 二人? 一体何の話だ」
「 と のことだよ」
「あ? ……ああ、“塔”に忍び込んだあれか」
「凄い、良く分かったね」
「これまでの人生で俺以外の二人がどこかに忍び込むなんていうイベントはそう無かったからな」
「けしかけた張本人とは思えない物言いだねえ」
「それで何故今になってそんな話を持ち出すんだ」
「実際は神託の巫女たる が をけしかけて君の制止も聞かずに先走った、そうだよね」
「まるで見て来たかの様に話すんだな」
「ふふ、ところがね——」
「勿体ぶらなくても良いだろう。どうせ過去の出来事だ」
「……この話にはね、続きがあるんだよ。君の知らない続きがね」
「何……?」
『へい、お待ちィ』
目の前にオレンジがかった、いかにも辛そうな見た目の丼ぶりがドンと置かれる。
「そうだね……私たちの学年は近年稀に見る豊作だなんて言われてたよね、首席入学者君?」
割り箸をパキッと割り、ズルっとひと口。
そういえば今世では割り箸絡みで森林伐採がどうこう、温暖化がどうこうといった話は聞かないな。
ああ、それはもう少し後の時代か。
「う、辛っ……。
それは中退者の俺への当てつけかよ。で、続きってのは何だ」
汁無し担々麺の辛さにヒーヒー言いながらも続きを促す。
「その優秀者達の中にね、君が転生前に暮らしていたこの世界に転移して来る者が現れたんだよ」
「な……いや待て、その前にあの二人はどうなった」
「死んだ、とされているよ……あの“ダンジョン”のフロアボスに消し炭にされたってね」
「ダンジョン……大神殿はやはり、あれ自体が なのか」
「感想はそれだけなのかい……まあそうだね、有史以前から存在していたダンジョンだよ」
「あんなものがか。明らかに人工的な構造物じゃないか。
そもそもダンジョンの定義から逸脱している」
「待って。そもそも今の話、怪しいとは思わないのかい?」
「何がだ?」
「それならお付きの二人はその後どうなったんだろうってさ」
「知るか。俺はあの後、牢屋に直行させられてそのまま学院から放逐されたんだからな。
そのフロアボスとやらに……いや待て、そのボスはどうなった?
何が起きたかは今理解したが、何かの衝撃波が下層まで届いていたぞ。派手にやっていたんだろう?」
「“女神様”だよ、“女神様”」
「はあ?」
「例の彼女の二つ名は何?」
「神託の巫女だろう」
「じゃあ神託を与えるのは誰?」
「それが件の女神様だってか」
神様ってあのふざけた奴だけじゃなかったのか。
いやしかし、そもそもダンジョンなんて存在自体が馬鹿げている。
そいつは例の“まおーさま”が孤児院のガキ共のために考えたとかいうアトラクションとやらなんじゃないのか?
それに……俺が冒険者をやっていたあの世界では“神託の巫女”といえば聖女サマとは別の人物だったが……はてな。
……しかし“神託の巫女”はNGワードじゃないのか。
「いやあ本当に辛いねぇ、これ。最早拷問なんじゃない?」
「人の飯を勝手に食うな。で、どうなんだ」
「残念、ハズレだよ」
「別な神様でもいるってか」
「そうじゃないよ。
彼女、内なる声を勝手に神託と勘違いしてただけなんだよね」
「何だ、その内なる声ってのは」
「あのオッサンの声だよ」
「オッサン? 誰のことだ?」
「オッサンといえば君を監禁した奴でしょ。気付かなかった?」
「何だと!? あの変態鉄仮面……もとい、ガーゴイルのことか!?」
「笑っちゃうよね、自分がああなってちゃ世話ないよ」
「“ああなる”だ? ああ、嘘か本当か良く分からんあれか。魔族に人間の怨念が取り憑いたとか何とかいう」
「そうそう、何も知らされてなかったらそういう理解になっちゃうよね」
「知らせるも何もあるか。そもそも“人化”というのはスキルの一種だろう」
「そうだね。怨念が魔族を変化させるなんて話を吹聴してるけど、実は一方じゃ喰らった人間に化けるっていうスキルとしても知られているんだよね」
「“喰らった”? 今度は俺が知らん概念だな?」
「ん? まあそうだね。とは言ってももちろん物理的に食べる訳じゃないしね」
「その言いっぷりからすると“存在”みたいなものを喰らうのか。姿形まで変わるのは何らかのシステムの介在があってのことなんだろう」
そのシステムが具体的に何なのかが分からない訳なのだが。
「その実、大神殿を作って“人化”した を集めさせていたってのが真相なんだよ」
「何故そんなことを? いや、それ以前に主語が無いぞ。“誰が”ってな」
「 “女神様”への供物みたいなものだよ」
「供物って生贄ってことか。でも取って食うわけじゃないんだろう」
「うん、まあね。私からすればあんなのただの箱だよ」
「箱?」
「あいつら箱の上に神様っぽい銅像をおっ立ててそれらしい儀式の間みたいなのも用意しててさ。
神官がそれらしいお祈りなんかをしながら祭壇っぽい装置に生贄を放り込むんだよ。ポイってね」
「それで何が起きる?」
「別に何も。“魔族”と呼ばれる存在になるだけ……生贄が強制的に“人化”させられるだけだよ」
「魔族ってのは——」
「そう、あの異形が本当の姿だよ」
「本当の姿か……地球の人間というカテゴリーから外れた存在か、あるいは人工的なものなのか?」
「驚かないんだね」
「このシチュエーションだ、今更実は宇宙人と共同生活してましたなんて言われても驚けるものか」
「まあ、確かにね」
「で、どうなんだ?」
「こ想像の通りだと思うけどな」
「この施設の産物か。元は虫か何かなのか」
「そ。ハエと人間を同じ装置に放り込んでね——」
「ジョークにしちゃセンスに欠けると思うが」
「あながちジョークでもないんだな、これが」
「本当にそんな装置があるとでも言うのか」
「だってさ、そもそも“化ける”だなんて話を真に受けてるのがおかしいんだよ」
「だから何らかのシステムが介在しているんじゃないのかと言ったんだが」
ズルズル、と麺をまたひと口。
うむ、ちょっと冷めてきたがやはり辛い。
「喰った人間に化ける、ということは……おい、勝手に食うなと言っただろう」
「まず……むしゃむしゃ……人間も……もぐもぐ……一緒に放り込まれるってことだね。でも喰うというのとはちょっと違うかな……うぇぇ……辛い」
「分かっているなら食うなよ……だがそれも生贄なのか」
「……そのために……揺りかごから墓場まで全てが管理されてるんだからね、大神殿に」
「つまりは……」
「そう、おかしいよね。あんなのただのマッチポンプだよ」
「大神殿、というのはまるで何かの代名詞の様だな」
「そうだね……その代名詞たる大神殿に管理された異界、それが死者の都なんてご大層な言われ方をしてる訳だね」
「異界……? そんなものが実在するのか?」
「それ君が言っちゃうんだ。ついこの間までそこで普通に暮らしてた癖に」
「悪いか」
「うん、苦笑するしかないね。
だってさ……その世界でニンゲンといったら君のことを指して云われてる言葉なんだからね」
「何だって?」
「卵が先か鶏が先か……君が生贄になったところから全てが始まったんじゃないか」
「そうか……いや、しかし生贄ってのはその前から存在していたんだろう。
たまたまそれが転生者の俺だったってことだけでそんな……」
「そうだね、大神殿は誰が何のために作ったのか……疑問はそこに帰結する訳だね」
“まおーさま”はその言動から、明らかに地球文明の産物だった。
では今さっき急に出て来た“異界”という言葉は何だ?
「大神殿と呼ばれているばかでかい構造物、あれは遥か昔に地球人が建設したテラフォーミング技術の研究施設だったんじゃないのか?」
「おっと、いきなり核心を突いて来たね」
「ここの住人は元々施設の維持管理のために開発されたAIか何かだったんじゃないかと思ってな、その“内なる声”の主という奴がそうなんだろう?」
「そうだね。研究者たちが死に絶えた後もプログラム通り粛々と研究を続けるロボットたち……うん、いかにもありそうなシナリオだなあ。でもね」
「それは違う、と?」
「まあね。ちなみにどこで仕入れたの? そんな情報」
「それは知らないのか」
「私だって何でも知ってる訳じゃないんだよ」
「そうか」
目の前の謎の人物がてっきり“まおーさま”と同じ存在なのかと思っていたが、どうやら俺の思い違いらしい。
あののじゃのじゃと喋る銅像が何なのかは未だ闇の中だ。
しかしあの濁み声の怪物が聖女様にねぇ……
「それでも随分と大神殿の事情には詳しいんだな」
「この期に及んでまだそんなこと言っちゃうんだ……もしかして私、コケにされてる……?」
「こんな話をおふざけなんかでするものか」
「はあ……うん、もう良いよ。あのさあ——」
「下層まで届く衝撃波の発生源は?
あんなことがあってそのまま何も無しなんてことは有り得なかっただろう」
「……さっきの話の流れで気付いたでしょ。“女神様”がその“フロアボス”を何とかしちゃったんだよね」
「件の怪しい箱か」
「違う違う、本物の方だよ」
「本物だ? でっち上げの神様を祭り上げていたという話だと思っていたが?」
「ところが本物が別にいたんだよね。今度空中庭園に行く機会があったら会いに行くと良いよ」
「簡単に言うんだな。屋上には終に行くことは無かったと記憶しているが」
「言う程簡単じゃないのは分っちゃいるよ。
それにね、行くのはこれからだよ。まだ全てが終わった訳じゃないんだ」
そう、俺は知っている。
あの後学院を卒業した彼らが辿った運命を。
それも後から知った事なのだが。
目の前の彼女はそれを知った上で話しているのだろうか。
「……空中庭園、と言ったか」
「そう、空中庭園。孤児院の先にあるんだよ。分かるよね、孤児院は」
「ああ、祭祀場……もといボス部屋の奥にある中庭だろう」
「“ボス部屋”ね。うん、言い得て妙だ。そうすると孤児院はさしずめ直前のセーブポイントってとこかな」
「違うのか」
「だってあの場所、もとを正せば霊廟でしょ?
ボス部屋だって言ったらその通りな訳なんだけど、そんな話誰から聞いたの?」
「作った奴からだけど」
「作った奴? そのきっかけになった出来事、じゃなくて?」
「きっかけ?」
「知らないとは言わせないよ」
「……聖龍様の件か」
「そう、実は集めた を使って君を するのが目的だったんだよって……あー、まあとにかくお付きの神官がね」
「ん? 目的? お付きの神官……それは?」
「あ、気付いてた? どっちが過去の時系列に位置する出来事なのかって事」
「俺が聞いたのは部位欠損のある人間の子供が集まって来たって部分だけだが」
「あのね、あのときのあの世界での君は何も知らなかったし何のスキルも持っていなかった。
そして言葉にしようと思えば何の抵抗も無くそれが出来たでしょ」
「……そうだな 言われてみればそうだ」
「ごく普通のこと、それが却って“外”での出来事とコントラストを成すっていうんだから面白いよね。
ねぇ、それで君は の にどうやって転生したの?」
「どうって……良くある神様転生って奴だが」
「神様転生……? その神様って誰? それに良くあるって一体何基準の話なのさ」
「いや、神様転生といえば定番のひとつだろう」
「この世界で何か目覚ましい功績でもあげたとか?」
「いや、ちょっとした罰ゲームだった様な気がするんだが良く覚えていない」
「ふうん? でもその神様って誰なの?」
「全く分からん。こっちが教えて欲しい位だ」
「じゃあ君はその正体不明の神様に、何の“目的”があってあの世界に呼ばれたんだい?」
「言っておくがあの世界というのは多分例の“大災厄”後の世界じゃないぞ。もっとこう——」
「その位分かってるから」
「まあそうだよな。
あそこは普通の人間がスキルと魔法の力を得て化物じみた力を手にした世界だった。
そこで俺は親の顔も知らず……ということになっていて孤児院で育てられた」
「“ということになっていて”?」
「赤ん坊の頃から自意識があったら親が誰か位分かるだろう、転生者の特権だ」
「じゃあひと芝居打って孤児院に居続けてたんだ」
「別に芝居なんて打ってたつもりは無いが分かっていてなすがままにされていたのは確かだな。俺が連れて行かれたのは孤児院というよりも戦闘員の育成機関みたいな場所だった」
「それって……」
「良くある話だ。攫った子供を教育して忠実な兵隊に仕立て上げるって奴だ」
「攫ったって」
「今にして思えば が組織的にやっていたことだったんだと分かる訳だが。
あー、“大神殿”……なるほど、こっちの言い方なら大丈夫なのか」
「えっ、何それ!?」
「今にして思うと、あれはおそらく を使って魔法とかスキルといった現実離れした概念を具現化するための実験施設だったんだな」
「そんなの初耳なんだけどどこ情報?」
「俺情報だよ」
「転生者の特権てやつ?」
「まあな」
「チート能力の研究なんかも?」
「さあな。まあ俺にそれがあれば良かったんだがな」
「違うんだ……」
「神聖魔法スキルが発動したときはチートだと喜びもしたが、社会に出てみればスキルなんぞ当たり前の能力だったからな。
端から期待などしていなかったが、まあ人並みにがっかりはした」
「神聖魔法って蘇生とか超回復とか?」
「そんなこと出来たら冒険者なんかになっていないだろう。
出来ることと言ったらしょぼい結界を少々張るくらいのものだった」
「それ今も出来るの?」
「出来る訳ないだろう」
「そっか、だからこっちじゃハゲでデブなんだ」
「それとこれとは関係無いだろうに」
「でもチートを貰ってなかったなんてことはない筈なんだけどなあ……何をどうしたらああなるんだか」
「聖龍様の一件も俺のことも知っていて、転生先で泥酔しながら待ち伏せし、あまつさえ他人の飯を勝手に食う様な奴がなぜ知らないのか、逆にこっちが知りたい位なんだが」
「余計な悪口が混ざってた気もするけど……まあ良いや、だって君は魔王を討伐した勇者様なんだからね」
「はあ? 人違いだろう、俺はしがないCランク冒険者に過ぎなかったんだからな」
「ふふふ、そうだね。とにかくそれが不思議なんだよ」
「その割には知ってたぞって顔だな。さっきとは大違いだ」
「ふふ……これを見て」
そう言うと彼女は一通の手紙を虚空から取り出した。
待て、ここでそれをやるのは世界観が違うんじゃないのか。
「何だ、それは」
「じゃあ読み上げるよ。えー、『しがないCランク冒険者さん、確保しました』、以上……!」
「それだけか」
「そう、それだけ」
「で、何なんだそれは」
「え? あ、そっか。まあ無理もないよね」
「それで何故、学院の同級生達が俺の転生前の世界に転移したと言えるんだ?」
「魔王軍だよ」
「何だって?」
「ま・お・う・ぐ・ん」
「もっとちゃんと分かるように言え」
「まあ? そもそも論から言えばその事件の犯人は君な訳だし?」
「牢屋にぶち込まれていた俺が関与出来る訳がないだろう。酔っ払いの戯れ言か?」
「まさか。私は初めっから素面だよ。酔うって状態がどんな感じなのか経験してみたくはあるけどね」
「この温い焼酎で悪酔いしないのか」
「まあね。でもそれより“後”のことだよ。自分のやったことを後悔することになるから覚悟しておいてね」
「後悔だ?」
「心配することは無いよ。こうして君を確保出来たんだし私が何とかしてあげるって。
脅しといてこんなこと言うのもどうかとは思うけどね」
「要するに黒幕じゃないか。思わせぶりなことを仄めかしやがって」
「お楽しみはまだまだあるってことだよ」
「楽しむな」
「ベー、やだね。
でさ、会ったことある? 新しい ってのにさ」
「いや、無いな。噂によれば勇者サマに手篭めにされたんだろう」
「ちょっと、言い方」
「知るか」
「まあ良いや。コホン、この先も君はずっとあても無く手探りの旅を続けることになる。覚悟は出来てる?」
「手探り? それに覚悟だと?」
「えっとね、じゃあ十万の魔王軍て何? あの後皆はどうなったの?」
「何だ、あの瞬間の“スナップショット”を求める旅ということか」
「それは違うね。言ったでしょ、君は魔王を討伐した勇者様だって」
「はぁ……俺がいつどこで魔王を討伐したというんだ」
“彼女”は流し目でベットリとオレンジ色の汁が付いた割り箸をこちらに向ける。
おい、他人を指差すなと親に習わなかったのか。
「そんなこと言って、本当は分かってるんでしょ」
「何をだ」
「今の君が私の質問に対する答えを持っていない、その意味をだよ」
「……俺はあれ以来、一度としてあの場面に連なる世界に転生をしていない」
「うん。あの世界のあのシナリオをどうやったら書き換えられるのか、どうしたらあの世界に辿り着けるのか。
何故あの世界から放り出されることになったのか。
いずれ君は思い悩むことになるんだ」
「聞かれてもいないことを良くべらべらとしゃべるな」
「……お節介ついでにひとつ、良いかい?
君の家、あれは元々何だったか分かる?」
「いずれその方法が分かったら探してみると良いよ。
大神殿……そして“塔”に至る道をね」
「何を言うかと思えば随分と仰々しいな。
だがどうしてそんなことが分かる?」
「そりゃ元々は自分達が住んでいた家だからね、良く知ってるのは当然だよ」
「誰が住んでいた、だって?」
「ワ・タ・シ・たち、が、住・ん・で・い・た。だよ」
「その言い方、いい加減止めろ」
「ふふ、さっきからどうも刺々しいね。イライラして来ちゃった?」
「うるさいな」
「時間は有限なんだ、当然だよね」
「そうだ、今の俺に残された時間はもう僅かだ。有効活用させろ」
「まあ良いや。覚えといてね、今の話」
「そりゃあ忘れなければ覚えてるがな、何ひとつ思い出さない人生だってある」
「でも結局は思い出すんでしょ、今みたいにね」
「それまでにどれだけの時間がかかるのか分からんけどな」
「そう、そうだね。現実はままならないんだよ」
「だから飽きもせずに繰り返しているとも言える、か」
「お、達観してるね」
「殴って良いか?」
「えぇ、どうしてそうなるの? 暴力はんたーい!」
全く……こいつは一体何がしたいのか。
おどけて見せる彼女の目はしかし、先程からじっと俺を見据えたままだ。
それはまるで、彼女が本当に素面なのだということを物語っているかの様だった。
いつかどこかでこの眼差しを懐かしく思い出すこともあるのだろうか。
「ねえ、この世界が平らで端っこまで行くと時間がごうごうと流れ落ちてるって言ったら信じる?」
急に真面目な顔をしたと思えばまた突飛な話を持ち出して来たな。
「そんな見た事もないこと分かる訳がないだろう」
「最後にもうひとつ、“大災厄”と“聖痕”の話をさせて」
「この流れでどうしてその話が出るのか理解に苦しむな」
「えー、良いじゃんかー」
「知るか。俺は帰るぞ」
「えーそんなご無体なぁ」
「こら、鬱陶しいから引っ張るな」
「えー。やだー、聞いてくれるまで話さないもーん」
「幼児か! 糞、ああもう分かったよ。聞けば良いんだろ、聞けば」
「わぉ、やったね。イェーイ!」
「何だそのハイタッチは」
「ノリが悪いなぁ、ちぇ……」
彼女は軽いノリで誰も知り得ない筈の情報を話し始めた。
地面に彫られた✕印、それがかつてあの地……あの世界で栄えた帝都の噴水広場の場所のひとつを表していること。
帝都には12の街区があり、それぞれの中心に噴水広場が設置されていたこと。
広場全体が外敵の侵入を阻む結界となっていたこと。
広場の中心に設置された彫像がその目印であったこと。
入り口となる場所はヒクイドリ、そして起点の指標となる場所にはゴクラクチョウの彫像が設置されていたこと。
その結界の構成から、広場が本当は13箇所存在していた筈だと言われていたこと。
そして最後のひとつが“大災厄”の正体を知る鍵であると目されていたこと。
「そうして旅に出た者達の報告で“大災厄”が何だったのかが次第に明らかになってきたって訳」
「待て、いきなり飛躍し過ぎだ。そもそもそれはどの“世界”の話なんだ」
「どれって言っても現実世界は唯ひとつしか無いんだよ。それは分かってるよね?」
「……」
俺は何も言い返すことが出来なかった。
「……あのさ」
「うん?」
「見届けてね」
「何を?」
「時の彼方がどうなっているか」
「そんなこと分かるものか。いくつかの世界の同じ時間をぐるぐると廻らされている存在に過ぎない俺には知覚出来る筈も無いことだ」
「それでもだよ——」
今になって思うが今日の俺は何故あんなにも酸辣湯麺に拘っていたのだろう。
「今君がいるのはね、いわば夢の世界なんだ。だから気を付けて」
「夢? “スナップショット”の復元による過去の再現だろう?」
「うーん、それは誤解だよ」
「何?」
「データを整理するときの副産物なんだよ。夢ってのはそういうもんなの」
「どういうことだ、もっと分かるように言えと言っただろう」
「“スナップショット”はね、無数に存在するんだよ。
それこそ多次元宇宙の様にさ……でもね」
「現実は只ひとつ、か? で、それがどうした」
「そうだね、インスタンスが再び構築されるときそこに控えていた膨大な“スナップショット”はどうなるのか……まあ考えてみると良いよ」
「気を付けろというのは?」
「“現実”を見失わないようにね。夢なら死んでも目が覚めるだけだけど、現実じゃそうも行かないんだよ」
「まあ、それはそうだ、な……?」
なる程、分からん。
しかし俺の過ごして来た時間からすればこの“現代日本”は異質そのものだ。
それが“スナップショット”ですらなく、“夢の世界”だと……?
「さてと……そろそろ帰ろうかな」
「やっとか。俺はもう疲れたぞ」
「えー、ちなみに私が誰なのかは聞いたりしないの?」
「聞いて欲しいのか。構ってちゃんなんだな。そうなんじゃないかとは思っていたが」
「最後まで酷い物言いだなあ」
「ストーカーに掛ける様な優しい言葉は生憎と持ち合わせが無い」
「ちぇ……あ、そうだ。最後にひとつ」
そう言って彼女は俺と自身の両方を指差す。
「こんな超科学的なエビデンスがあるのにさ、現代日本より進歩した文明に出会ったことって無いでしょ」
「言われてみれば無いな。どちらかといえばえせ中世みたいな世界の方が普通だ」
「しかも共通項があるでしょ」
「王都と大神殿か」
「じゃあ今いる日本はどう?」
「それは分からんな。多分無いんじゃないか?
……いや、俺の家に関係してそうなモノはあるな」
「本当に? 王都も大神殿も多分あるんじゃない?」
「世界観が違いすぎるだろう。根拠でもあるのか」
「形を変えて存在してるんじゃない? あるでしょ、似た様な場所が」
「そんな場所を見た覚えは無いが?」
「あるでしょ、似た様な場所が」
「何だと? 俺は知らんぞ?」
「まあ無理もないか。ギルドで起きたことに気付いてないみたいだし」
「ん? ああ、突然転移したあれか」
「そう、そうだよ」
「思えばあれが事の発端——」
「違うよ、分かるでしょ」
「……聖龍様の依頼か」
「他には?」
「魔女か」
「ビンゴ」
結局、あの受付は誰だったんだろうか。
「……今の話、忘れないでね」
「何か知らんが分かったよ」
「じゃあね、ばいばい」
「ああ、いつかまたな」
暫くの間見送るが、やがて彼女の背中は人混みに紛れて見えなくなった。
振り向いて夜の街をじっと俯瞰する。
くすんだ夜空は星も月も街の灯りに隠されて、皆霞んで見える。
その街を行き交う人々は皆笑顔だ。
だが良く見れば中にはそうでない者もいる。
路地裏なんかを見れば弱者が理不尽な運命に翻弄され蹲る姿を見ることもあるだろう。
この喧騒が本当に夢の中の出来事なのだというのだろうか。
今、それを確かめる手段は無い。
今ここから立ち去った存在、それが唯一の証左だ。
「お客さん」
「はい?」
「きちんと払ってくださいよ、お代。今帰ってった子の分もね」
何だ、せっかくの気分が台無しじゃないか。
「幸せにしてやれよ、ハゲデブのおっさん」
「知るか。今さっき知り合ったばかりの赤の他人だぞ」
どうやってここに来てどうやって俺を見付けたのやら。
………
…
『どうじゃ。楽しんでもらえたかの?』
「楽しいものか」
『ではよろしく頼んだぞ、くれぐれもな』
汁無し担々麺と安焼酎のコンボですっかり悪酔いした俺は、どういう訳かその足で郊外のバイパスに向かってフラフラと歩き出していた。
そこで走って来たダンプカーにはねられ……という展開にはならず、気が付いたらどうやってか自宅に辿り着いていた。
そして今、帰宅した俺に話しかけたのは旅先で見付けたちょっと面白い人形だ。
それが木目調の20インチブラウン管ステレオテレビの上に干支の置物の如くに飾られている。
人形なら普通は和装の女性を象った陶器の置物などを置くところだが、生憎とこの人形は溶けかけたブロンズ像と言った体の風貌だ。
その表面には年輪然とした不思議な文様がきめ細かく浮かび、濃緑色の珊瑚の様にも見える。
材質はよく分からないが、それが何か木の枝の様なものから削り出したものらしい、ということは何となく分かる。
そんな不気味なカタマリを何故後生大事に飾っているのかといえば、まあ何というかこれはこれで前世を懐かしむことの出来る貴重な珍品だから、ということになるのだろう。
電池も無しにどうやって、とは思うがとにかくこいつは異世界の出来事をランダムに喋る。
俺にはそれがこの世界における唯一の相談相手のようにも感じられたのだ。
まあぱっと見考えて話している様に見えるがその実、断片的な過去の記憶を自動的に再生しているだけという代物、いわゆる人工無能というやつなのだ。
これを見た知人は皆気味悪がったが、どうしてか家族受けだけはすこぶる良かった。
曰く、「撫でるとアガる」とのことだったが俺にはさっぱり理解出来なかった。
ともあれ。
この世界での俺は実に無難で堅実な人生を送った。
平和な現代日本ならではといえばそれまでだが、とにかく他の人生と比べて充実していたし色々なことを落ち着いて考察する余裕も出来た。
家にいて考えることといえば、いつもそこにある例の人形のことだ。
ふらっと俺の前に姿を現し、聞かれてもいないことを何の脈絡も無くぺらぺらと喋り、あっという間に去って行ったあのクラスメート。
この人形の言うことは彼女に良く似ている。
この世界で同じくらい異質な存在であるふたつの存在に、俺はどうして巡り遭うことが出来たのか……
まあ、それは良い。
結果としてこの人形が壊れたテープレコーダーの様に繰り返す与太話を、俺はいつまでも心に抱えたまま止めどなく転生を繰り返すことになったのだから。
ともあれ、久々に健康的で家族にも恵まれ充実した人生だった。
……最期に訪れたその瞬間までは。
『たった一通の紹介状。その紙切れを手にした瞬間、貴女はその想いの海へと誘われたのですよ』
絶妙なタイミングで言葉を発する人形。
その間の悪さに泣き笑いする家族。
『あの子を探すことです。その夢に溺れてしまう前に』
ここに来て聞いたことのない台詞。
何故今になって——
『何故って? それが只ひとつの扉だから』
いつ、どこで、誰が交わした会話なのかすらも分からない。
感動のラストシーンとなる筈のタイミングで起きたアクシデントに、思わず頬が緩む。
これが堪らず溢れ出た苦笑とは誰もが思うまい。
そうして緩んだ頬に刻まれた皺もより深くなる。
そんな俺を見て、皆も顔をくしゃくしゃにしていた。
その不気味な人形は一体、俺に何をさせたかったのだろうか。
◆ ◆ ◆
何がどうなって今のこの結果に結びついたのかは分からない。
とにかく転生した俺は再びこの場所に立っていた。
何年ぶりかももはや分からないという位の時間は経過しているというのに、俺にはすぐに分かった。
そこには例の彫像……いや、“まおーさま”が立っていた。
中途半端に首を傾げた妙なポーズも良く分からない不気味な表情もあの日のままだ。
『やあ、これまた随分と可愛げの無い子供だね』
しかし、その話し声は“まおーさま”のそれではない。
それでもあの日起こった出来事に水を向けたくなる。
全てを知る筈の“まおーさま”ならあるいは、そう思いたくなるのだ。
「……あの日、あの部屋に置き去りにした筈だが?」
『あの部屋? それはどの部屋のこと?
大神殿の部屋なの?
それにあの日、というのもいつのことなのかさっぱリ分からないんだけど。
君、アレとかソレが多いって周りからよく言われるんじゃない?』
「とぼけるな。一歩も動いてないんだ、流石におかしいだろう」
『うーん、確かにそれは“可笑しい”ね、ははははは』
「“可怪しい”違いだ、とぼけるのもふざけるのも無しだ」
『あはは、その格好でその物言いは傑作だね』
俺は生まれ育った村を両親諸共に魔王軍の襲撃で失い、討伐の名目で派遣された王国軍の兵士に都合良く発見され、保護された。
そして王都で数日を過ごした後、大神殿の運営するこの孤児院に連れて来られたのだ。
この世界に転生した俺は初め、かつて暮らしたあの世界に再び舞い戻ったのかと錯覚した。
これまで同じ世界に二度転生した経験は一度もない。
現代日本ですらそうだ。必ず似て非なる何かがある。
人は同じでも少しでもずれが生じれば異なる歴史を刻む。
それが世界というものなのだと思っていたのだが、その考えを覆す程に何もかもが同じだったのだ。
だがそれも途中までのことだ。
たとえ全く同じ世界であろうと、そこに“二度目”というイレギュラーである俺が混じればその軌道に次第にずれが生じる。
俺の下した数々の選択によってこの世界には既に不可逆的な変化が生じていた。
抜ける様な青空に輝く太陽が酷く眩しい。
夏の暑い日差しが真上から爛々と中庭一杯に照り付ける。
王都に辿り着いた俺は浮浪児のフリ——いや、実際浮浪児だった訳だが——をして確認しに行ったが、かつての俺が生まれ育った孤児院はこの世界には無かった。
俺は冒険者ギルドの前に適当に寝転び、人の良さそうな神官を適当に見繕って庇護を求め縋りついた。
かくして王都の神殿に保護された俺は、軽く“何か”の検査を受けた後めでたくこの孤児院に預けられることとなった。
ちなみにその間、時間にして僅か数時間。
そう、俺は転移魔法でここに連れて来られたのだ。
転移魔法は誰でも使える様なものではないのだが、主要都市には国有の専用ゲートがある。
それは高額な料金を支払えば誰でも利用することが出来る。
が、実は大神殿も至る所に転移ポイントを持っていたらしい。
途中王都のどこかにある拠点から転移して来たのだが、そのときだけは目隠しをされた。
王都の中に秘密裏にこんな拠点を設けているなど、誰かに知られれば子供でもどうなるか分かったものではない。
それを恐ろしいことだと思わないのが子供の特権、俺は無邪気を装い知らぬふりを決め込んだ。
ともかく俺は一部の者のみが知るルートで密かに連れて来られたのだ。
周囲の対応を見るに、俺を大神殿まで案内したのもそれなりに高位の身分を持つ神官だった様だ。
それはさておき、連れて行かれたのはどこかの地下室らしい。
目隠しをされた場所から推測するに外縁部のスラムのどこかであるというのは間違い無い。
そこで少し待つ様に言われると、少々の浮遊感と軽い目眩がした。
俺はそれが転移によるものだとすぐに気付いたが、当然普通の子供の如くに戸惑う様な芝居を打った。
とまあこういった経緯から、今こうしてここに立っている。
俺はまだ子どもで、この孤児院には今日来たばかりなのだ。
一切合切のイベントを強制キャンセルしていきなりラスボスの間に飛び込んだ体である。
故に無難なCランク冒険者ライフを満喫していたところに聖龍様からの激辛ラーメンのオーダーが入り、そこからの魔王軍の出現やら何やら諸々あってこの場所へ、というイベントに繋がるような出来事は見た限り何も発生していない。
ただ、今目にしているものは皆あの日と同じものだ。
あの日と同じ場所、そして目の前にはあの錆付いた“まおーさま”。
しかしこの世界にあの聖女サマ、Sランク、アンデッド狩り、それに聖龍様がいるのかどうかはまだ分からない。
だがここは大神殿の運営する施設だ。
というかこの光景はもう大神殿そのものとしか思えない。
しかし俺が勝手に“まおーさま”と呼んでいる存在は違った。
「俺をここに連れて来て何をさせようというんだ」
そう問うとまおーさまは変なポーズをやめてその台座から飛び降り、俺の前にスタッと着地した。
……ズシャッ、じゃないんだな。
『……今何か失礼なことを考えていたでしょ』
「何だ、ポンコツのフリは終わりか」
俺はしらばっくれて質問を投げかける。
それにしても失礼なことを考えているときに限って何故ばれるのか……
『連れて来るだなんて随分な物言いだね。自分からここに来る様に仕向けた癖に』
「ここ、というのはこの世界に、という意味だ。分かってて言ってるんだろうがな」
『ところで』
「お断りだ」
『えー、まだ何も言っていないんだけど』
「何を言い出すのかは分かっているからな」
『例えば、外に連れ出して欲しい……とか?』
「一緒に異世界に転移したいとでもいうのか」
『私ははその事例を知っているよ』
「何だ、知っていたのか」
『だって、自分で言ってたじゃん』
「まあ、確かにな」
かつて俺が選ばなかった暗がりのその先には何があったのか。
きっと外は無人の荒野と化しているのだろう。
なる程、かくしてまおーさまの望みは叶ったという訳か。
それを俺が叶えてやったとでもいうのか。
まあ、そもそも論として俺以外に誰がいるんだという話な訳なのだが。
ああ、待てよ、それならもしかして……
『あ、ちょっと待——』
いつの間にかふらふらと歩き出していた俺の足は奥の暗がりへと向いていた。
それを見た“まおーさま”は慌てて俺を引き留めようと俺の肩に手を掛ける。
『駄目だ。そっちには行くんじゃねえ』
その瞬間、まおーさまの声が途切れ、俺を呼び止める別の声が響いた。
『お願いじゃ。妾を——』
そしてまた聞こえて来る別の声。
この口調……あの日の“まおーさま”なのか……?
『うるせえ、黙れ!』
『離せ、離すのじゃ! 何じゃ、お前は!』
『テメェは自分のやってることの意味が分かってんのかっつってんだよ!』
振り向けば同じ顔をした者同士が掴み合いの喧嘩をしていた。
いや、錆だらけの“まおーさま”に対してもうひとりの“それ”は、燃える様な赤い髪を振り乱す年端も行かない人間の少女の様に見えた。
少女の方は剣を腰にぶら下げている。
何者だ?
一体いつ、どこから現れた……?
それに“まおーさま”は錆ついて動けないものだとばかり思っていたが……どこに消えた……?
『テメェはテメェの責任を果たしやがれ』
その背後にはあの日選択しなかった通路が伸びている。
その暗がりの向こうには何があったのだろうか。
『おい待て……待つのじゃあ!』
『もう良い、オメーはもう死ね。
良いか、異世界なんてふざけたモンはこの世に存在しねーんだ、この歩く傍迷惑野郎が』
乱暴な言葉遣いの少女はそう言うなり剣を抜き、その流れのまま横一文字に鋭い一閃を放つ。
そしてトンッ、という軽い音がした直後、真っ二つとなったもう一人の“まおーさま”の上半身が宙を舞った。
そしてその軽い音に見合わぬドスンという鈍い音を響かせて地面に激突し、少し間を空けて胴体から切り離された首と両腕がドドン、ゴロゴロと地面に転がる。
あまりの出来事に呆気に取られていると、不意に背後から肩を叩かれる。
「なっ!?」
驚いて振り向くと赤毛の少女が手を伸ばし、先程とは逆の肩に手を添えていた。
『良かったなァ、外に出られてよ』
「は?」
『もう転生はねェぞ。精々気を付けるこった』
肩から手が離れ、続いてトンと背中を小突く感触。
完全に虚を突かれた俺はつんのめりそうになり、慌ててバランスをとる。
首だけとなって地面に転がり無機的にただ虚空を見詰める“まおーさま”。
一瞬、その視線が俺と交差した——気がした。
「待ってくれ。あんたは誰だ……一体何が起きた?」
すれ違いざま襟首をグイと掴まれ、そしてまた突き放される。
『またな』
次の瞬間。
つんのめりそうになりながらもどうにか振り返ると、彼女達はもうどこにも居なかった。
“まおーさま”の残骸も、二人が争って抉れた石畳も、全ては元に戻っていた。
いや、はじめから何も……?
しかし、ふと目を向けたその先には何も無い台座がぽつんと残されていた。
◆ ◆ ◆
急に現れ、そして消えた“彼女”が身に纏っていた気配、その言葉遣い。
主を失った台座の有様に、別な人生での出来事をふと思い起こす。
………
…
「——ここに女神様の像を飾ろうと思いますのよ。問題は——」
「……は?」
「どうしましたの? 急にぼうっとして」
「……いや、何でもない」
思えばその時も、俺は同じ様な場所で同じ様に立っていた。
しかしその場所は二十世紀、高度成長期の日本。
あの世界とは何もかもが違っていた筈だ。
そこに立っていたのは背中まである黒髪を真ん中でざっくりと束ねた長身の中年女性。
……聖女様だ。
随分と歳を取った印象だが間違いは無い。
その立ち姿に彼女が学院にいた頃の面影を重ねる。
いつか見せられた中庭に良く似た庭園。
しかしここは日本での勤務先の中庭。
もちろん、この人物もあの聖女サマとは別人だ。
あれは“まおーさま”によって作られた仮想現実に過ぎなかった筈なのだから。
しかしあの鉄仮面——ガーゴイルかもしれない——の所在については、結局良く分からなかった。
彼が何者なのか、ということも含めてだ。
「あの日の無念を忘れてはなりませんわ。この先ずっと……」
特に会話をしていた訳では無い。
聖女様はただひたすらに話し続ける。
ここにいない誰かに語り掛ける様に。
あの日の無念……それが何を指すのか、俺には分からない。
“内なる声”に唆され、大神殿を敵視していた——
俺が知るのはこの程度……その“内なる声”も俺にとっては未知の存在だ。
故にそれがあのガーゴイルだという例の話についても真偽は不明のままだ。
そもそも彼女達がこの世界に転移させられたのは俺が転生した時代から五十年以上も昔の話であり、俺がこの世界に生を受けた時点で皆既に故人となっていたのだ。
俺があの日見た幻——日本で見せられた出来事もきっとそうなのだろう——は、今思えば誰かが俺の様な者に見せる為に残しておいた記録の様なものなのだろう。
そのときの俺は、いつか聞いた話をもとに彼女達の足跡を追い求めていた。
彼らは確かにこの世界で暮らし、様々な人との縁を築き上げ、その証を各地に残していた。
だが……この世界に転移させられたという特級クラスの生徒達は、先に転移していた聖女様を含め皆悲惨な最期を遂げていた。
その理由までは分からないが、転移した先は一様に彼らと同じ黒目黒髪の民族が支配する国……二十世紀初頭の日本だった。
言語や文化の壁をどの様にして克服したのか……それはさておき、彼らは市中に紛れてどうにか仲間達を探し出し、密かに帰郷の機会を伺っていた。
しかしそこに戦争という不幸が襲い掛かったのだ。
壮年に差し掛かっていた男達のもとにはすべからく招集礼状が届いた。
そうしてある者は海の藻屑と消え、またある者は果てなくジャングルを彷徨い飢えと熱病で斃れ……彼らは次々と命を喪っていった。
最後まで生き残っていた聖女様も、全員の位牌と共に東京大空襲の大火に呑み込まれ、行方知れずとなっていた……その筈だ。
誰も居ない筈のその中庭。
空となった台座を前景に、サルスベリのピンク色の花がさわさわと風に揺れていた。
“あの日”か……
学院を追放されたお陰でひとり取り残された俺はしかし、何の因果かこの場所に立つことを許された。
これは夢ではない。忘れるな。
当時の俺はその言葉だけを自らに強く刻み付けた。
俺の手元に遺されていたのは聖女様が卒業の日に授与されたというあの羽根飾りだけだ。
そしてあのとき眼前に映し出された幻、それを作り出したのはきっと他ならぬ俺自身なのだ。
『ねえ、貴方があの日あのときあの場所に現れていたのなら……
歴史は……私達の運命は、変わっていたのかしら——』
繰り返される、あの日の問い掛け。
『ねえ、今もどこかで見ているんでしょう?』
それは“内なる声”との対話を試みようとする話し声なのか、はたまた件の“女神様”への問い掛けなのか。
結局、俺がそれを知ることは最後まで叶わなかった。
俺をこちら側に転移させた存在についてもまた然り、まさに“神のみぞ知る”だ。
後から身をもって知ったことだが、あの世界において核兵器の実戦投入は未だ実現していなかったことらしい。
だが戦後、教科書に載せられた歴史は転生前の世界の史実と同じ。現地に足を運んでいくら見分しても事実との矛盾を見出すことは出来なかった。
しかし彼らが命を落としたとされる戦場を巡る中で見付けた遺品の数々は、無い筈の矛盾をありのままに映し出した。
きっかけはあの羽根飾りだ。
羽根飾りが鍵となり、失われかけた遺品の存在を視えない何処かから掬い上げることが出来たのだ。
その有り様はまるで、この世界における“聖痕”であるかの様に感じられた。
『ねえ……どうして……応えて下さらないの——』
何者かが彼らを唆した。
何者かがあの世界から彼らを日本に転移させた。
この結末はその何者かが望んだ通りのものなのか。
一体……誰が、何の目的の為に……?
俺はその見えざる何かに畏れを抱いた。
/continue
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2025.07.21新規 同時投稿 エブリスタ、カクヨム、HAMELN、なろう