2_放すものと放さないもの
昔、死にかけたことがある。
それはとても古い記憶で、気づけば思い返すことはほとんどないものだった。
しかし、メナは目の前で困り果てていた少年の姿を見て、なぜかこの記憶を思い出したのである。
春先の昼下がりのことだった。ぽかぽかと陽気にあてられて、暖かな日だったことは覚えている。
庭から漂う剪定された木々の葉の匂い、微かに混じった花の香。
腕に抱いた母の灰ネコ。
幼いメナはニコニコと城内の展望場を走っている。
そうだ、あの頃はまだ、母も、兄も生きていた。何もかもが平和な日常だった。
自分の役割の意味など知らず、メナはただ心の赴くまま、見るもの全てに輝かしい光を見て、駆け回っていた。
そんなメナの腕に痛みが走った。灰ネコがメナの腕を引っ掻いたのだ。
唐突なことに驚いて、メナはネコを抱く腕の力を緩めた。その隙をついて、灰ネコはするりと地面に降り立った。
今ならわかる。力加減を間違えていたのだ。
そしてネコはメナから逃げるように展望場の塀の上に跳び乗った。
メナはその時、ネコの足が滑って傾いだのを見た。
塀の材質は滑らかで、幅は彼が思う以上に狭かった。
幼き日のメナは、無謀にも猫を助けるために飛び出した。
制止する母の声を背中に浴びてもなお、彼女はそうした。
今にして思えば、彼女はネコを抱えるために無我夢中で、その声の意味を理解していなかったのだ。後になった今だからこそ、その言葉の意味が分かるのだろう。
「メナ、待ちなさい!」
メナがネコを抱えた時には、すでに遅かった。
身体が宙に泳いだのを感じた。少しの浮遊感の後にやってきたのは落下していく耳元の風切り音。
そして抱いた腕の中、生き物の仄かな温かさ。
次に眼が覚めた時、メナはこっぴどく怒られた。
あんまりに酷く怒られたので、メナはその内容をほとんど忘れてしまった。
だが、少なくとも母の足元には灰ネコがいたし、自分は生きていた。ぐずぐずに泣きながらも、良かったと安堵したことは覚えている。
それが「良く分からない人」のおかげだということも、メナはその時知った。物事の分別がつくようになった頃、メナは彼から当時の話を聞かされた。
「メナ様、あの時は私も半ば無理かも知れないと考えていました。何せ、怪我が怪我、それに幼い身体に私の『癒し』がどこまで適応されるか、分からなかったのです」
オウマが語ったそれは、自分が本当に生死の間を漂っていたのだという事実を物語っていた。オウマはその時、たまたま王城にいた客人だったと知った時、幼なながらも、メナはそれを聞いて戦慄した。彼への感謝もさることながら、運が良かったと神に感謝を告げた。もしも彼がいなければ、メナは死んでいただろう。それくらい危険なことをしたのだ。
しかし悪いことばかりではない、それがきっかけで、自分には半ば見張りのようにドウカイとセジンカグが付けられた。見張られるのは気に入らなかったが、彼らはメナに対して優しく、頼りになった。ギノーと出会ったのはその少し後だ。
オウマもメナを救った功と、その貴重な魔法を見込まれて王宮の仕えとなり、たびたびメナを気にかけてくれた。
メナは恵まれていた。
それ以来、メナは無茶をしないように注意してきた。注意された。
自分にはできない事には手を出さないように慎重に。危険はなるべく避けて。足りないものは他で補って。
なぜなら彼女はこの国を代表する王族のひとり、姫なのだ。
わたしは恵まれている。
薄明の王宮、メナはインテネを引き連れてその廊下を歩いていた。
**
人の背丈を優に三倍は超える応接間の扉は、遠くから見ても大きい。早朝の白い明かりを受けてゴテゴテな装飾はさらに濃淡を際立たせ、大きさ以上の威圧感を放っていた。
そんな、見慣れているはずの扉を見て気圧され、メナは扉番に扉を開けさせることをわずかに躊躇った。
しかし、どうせ彼らは自分がここに来ることを視ているはずだ、と思い至って、苦々しい思いで扉番の兵に声をかける。
「シオ殿はまだ居ますね? 話があってきました」
彼らはそれを聞き、メナとその後ろにいるインテネにこれといった誰何をすることなく、あっさりとふたりを通した。メナがまだ「王族」として認識されているからか、あるいはシオに言い含められていたのかもしれなかった。
メナは扉が開くのを俯き気味に待った。扉の隙間から漏れた光が拡がっていく様が、メナの頭に増えていく不安と重なる。
廊下とは比較にならないほどに明るい部屋に目を細め、メナは顔を上げた。
予想に違わず、先ほどと同じ面々がメナのことを待っていた。皆例外なく顔をこちらに向け、何をしにきたのだと無言で問いかけている。
メナは大きく息を吸うと、正面の玉座に座るシオをまっすぐに見据えた。
「―――話があって来ました」
**
「なるほど? では、そこの少年は、ゾークの元から来たと言うことだ」
メナが事情を話し終えると、シオは玉座の肘掛けに指を打ちつけて呟いた。静かな広間にカツカツという音だけが断続的に鳴り響いている。
「―――インテネと言ったな? 貴様はゾークの回し者ではないと、どうやって証明する」
インテネはキッと、下げていた頭を上げ、シオを睨め付けるように見上げた。
「彼は、僕らを裏切った。ならば、僕から裏切られても仕方がない。僕は彼の所在を知っています」
シオはすっと玉座に座り直すと、ため息混じりに口を開いた。
「―――それは、カトチーニか?」
メナはそれを聞いて思わず「えっ」と声を漏らした。インテネが述べたアミネの気配を感じる方角と同じだったからだ。
インテネもメナと同じようなもので、目を丸くしてシオを見つめた。
「なぜ、知っているのです?」
シオはそれを小さく鼻で笑うと、指で自分の頭を軽く小突いた。
「私を誰だと思っている?」
しかし、言ってから自分がそれほど「有名」ではない事に思い至ったのか、皮肉気に苦笑して言い直した。
「―――いや、すまない。知るはずがないな。まあ、なんだ、私にはその手段があると思ってくれればいい」
メナはそこで、シオが「予言」の魔法使いであることを思いだした。
そしてそれは「メナがこうして戻ってくること」も予見していた可能性、という嫌な想像を掻き立て、メナは目線を足元に落とした。
(もしそうなのだとすれば、どこまでが彼の手の平の上なの?)
そんなメナの思いを読み取ったのだろうか、シオは意外な言葉をインテネにかけた。
「とはいえ、今の話でその場所である可能性が高まったのは事実だ。そこは感謝しよう」
インテネに向けて簡素な礼を述べたシオは、そこで視線をメナに移した。
「だが、それだけでわたしの計画に危険因子を取り込む理由にはならないな。それくらい君にも分かるだろう?」
シオが言っていることの意味を察し、メナはシオの目を正面から見つめ返した。
胸元のペンダントは冷たく肌に張り付いている。
「鴉瞳の落火は、今はわたしが持っています。あなたにはこれが必要なのですよね? ですが、わたしはあなたにこれを渡す事に抵抗がある」
「必要、と言うほどではないのだが」
メナがペンダントを引き上げると、シオの目が取り出した赤い宝石に一瞬向けられたのをメナは見逃さなかった。
「では、限りなく必要に近い要素なのでしょう」
シオはそれを否定することはなく、腕組みをして鼻から息をはいた。
アミネはそれに畳み掛けるように取引を持ちかけた。
「そこで取引です。彼、インテネの妹である、アミネ。ゾークの元に取り残されている彼女の救出を災厄の対処に組み込んでもらいたい。わたしは、それを呑んでいただけるなら、これをあなたに差し出す用意があります」
「それは、あまりに君本位な話だ。確かに私は、君の協力を得られないことは仕方ないとは思っていた。最悪、『鴉瞳の落火』なしで災厄に立ち向かわねばならないとね。しかし、今回の件に関していえば話が違う。君は、新たな厄介ごとを引き込もうとしている、分かるか?」
間髪入れずに返って来たシオの言葉には明らかな棘があった。確かに、私情を殺し、必死に滅びを避けようと四苦八苦している人間からすれば、メナのそれは腹立たしいものに見えるのかも知れない。これ以上、余計な要素を抱えたくないという気持ちも分かる。
しかし、シオがそうであるように、メナにも譲れないものがあった。
「どこまでなら譲歩できますか」
シオはメナの意外な食い下がりに多少面食らったように左眉を上げたが、すぐにメナの問いに答えた。
「私の計画に君たちの言う救出計画を組み込むことはしない」
メナはそれが答えか、と落胆する。文字通り肩を落とし、そのままシオに背中を向けようとする。
しかし、シオがそれを引き止めた。
「待て、まだ話は終わっていない」
メナが振り返ると、シオと目があった。その目は真っ直ぐと揺らがず、彼の言葉が適当に語られたものではないのだと思わせた。
「計画に組み込みはしないが、君たちはもとより戦力外の存在だ。君たちが勝手に動く分には構わない。これからその計画を話すのだが、君たちも聞いたほうが良いとは思わないか?」
メナはインテネと顔を見合わせた。
その申し出は突き放したものではあったが、悪くはないと思えるものであったからだ。
インテネが頷いたのを見て、メナはシオの前に歩み出た。歩きながらも、ペンダントのチェーンに手をかけ、それを外す。
玉座に座すシオの前に立ち、その顔を見下ろす。
「上手く使ってください」
「言われずとも」
ペンダントを受け取ったシオは、そのチェーンを眼前に垂らし、赤い光をしばらく見つめていたが、不意にメナに視線を向けた。
「持ちかけた私が言うのもなんだが、良いのか? 生きているのかも分からない人間の救出のために……」
「生きていますよ。僕にはそれが分かる」
シオの言葉を遮るようにして、インテネが断言した。その目と言葉の力強さにシオは苦笑した。
「そうか、ならば精々頑張ることだな」
彼の言葉の節々には無理だろうという不信と、自分の邪魔にならないようならどうでも良い、そんな思いが透けて見えていた。
メナはそんなシオを睨み付けるが、彼は頑なにメナと目を合わせようとしなかった。
そんな両者の話がまとまったと見るや、少し後方で控えていたセノイが頭をばりばりと掻きながら進み出た。
「話はまとまったな?」
それを皮切りに他の面々も集まり、途端にその場の人口密度は高まった。
ふいに肩を叩かれたメナは驚いて肩越しにその存在を見る。そこにはマノンのニンマリとした笑顔があり、メナはつられて微笑んだ。彼女の言いたいことは何となく分かった。
彼女から目を逸らした時、リョウと目が合ったような気がしたが、そう思った時にはすでに彼の目は正面を向いていた。
メナはその意図を問いただそうかと考えたが、シオが話し始めたために断念する。
彼は余計な口上を全て省き、簡潔に目的を示したのだ。
「災厄は完全に始動する前に止める。そしてそのために、『定例会』を狙い、ゾークを排除する。これが大前提だ」




