3_深雪に沈む蜘蛛の巣
陰気臭く、山と積まれた何とも知れない書籍や、実験道具だらけの決して広くはない部屋から、インテネとゾーク、そして白服が出ていった。
アミネはそれからしばらくして、扉の外に気配を感じなくなったこと頃合いを見計らって動き出す。
まずは痛む足に改めて視線を向けた。幸いズレはないようだが、足を地面につくには覚悟がいる。
アミネは座ったままふっと息をはき、鋭く吸った。そして、折れている左足首に力を込めないようにして、腕の力だけで身体を押しあげると、その勢いを借りて立ち上がった。
ふわりと白髪が舞い、頬を叩く。ずっと座りっぱなしだったこともあり、目眩がアミネを襲った。
寝台に手を当てて視界が明瞭なものに戻るのを待って、アミネは周囲を見渡した。
自分の武器がどこかの壁に立てかけられていることを期待したのだが、さすがにそこまで都合の良いことは起こらない。代わりを探そうにも、薄暗く湿った閉所でカビが生えたようなこの場所は、いくら首を巡らせたところで丁度いいものが転がっていることはなかった。
(杖にでもなるかと思ったんだけれど……)
杖にするというのは半ば自分の気を軽くするための冗談ではあったが、武器がないことは彼女が当面の問題とするところだった。
怪我をしている上に、障害を打破するための道具もないとなっては、明かりの一つもなく夜の山道を歩くようなものだ。いや、それより悪いかも知れない。
(……)
アミネはゾークが部屋を出る前、白服に耳打ちをしていたことを思い出し、扉の前に移動した。
(―――とりあえず出よう)
魔法を使い細い糸を生み出す。それは髪よりも細く、中空にあれば目視することは非常に難しいものだ。この糸は概念的な繋がりを作るそれとは違い、誰でも触ることができるものだった。
彼女はそれを持ったまま扉に耳を押し当て、外の物音に聞き耳を立てた。
(大丈夫、不気味なくらい静か)
静かすぎて自分の出入りの音が目立つことが気にかかったが、結局はいつバレるかの問題でしかない。
アミネは扉を開けて外に出た。
その際に手を伸ばして扉に糸を貼り付ける。ゾークが手配したのが本当に医療班なのかは定かではないが、この部屋にはいずれ誰かがやってくることには違いない。当面はそれさえ分かれば良かった。
坑道をそのまま間借りしたような地下研究施設、そのほとんど明かりのない広くはない通行路で、アミネはしばらく佇んだ。
そしてアミネは自分がらしくもなく、挑戦的な笑みを浮かべていることに気がついた。それは、これからやろうとしていることの難しさ、その不安を誤魔化すためだったのかも知れない。
例えそうであったとしても、逃げだすという選択肢を持たない彼女にとっては、その実を考える必要はないことであった。
「この脚でどこまでやれるか……」
**
アミネは片足で跳ねつつ、器用に道を進んでいた。
暗い通路は相変わらず静かで人の気配はほとんど感じられない。
しかし一定間隔で眼にする扉の隙間からは、小さく光が漏れ出ている。それは紛れもなく、人の存在する証と言えた。
ひとまずは武器だ。アミネは今にも扉から人が現れるのではないかと警戒し、それらしき場所がないかを探っていた。
この道はほとんど一本道であり、ゾークが耳打ちをした白服が戻ってきたとすれば、一目でアミネの姿が目に入るだろう。
もしそうなったとしても、少しでも抵抗できるような武器が欲しかった。
(素手で戦うには限界がある)
アミネはこれまでの生活から、それを直感的に理解していた。
(あの頃は、喧嘩、盗みは当たり前だった。生き残るにはそれしかなかったとはいえ……)
アミネはゾークに拾われる前の自分たちのことを思い出し、少し苦笑する。
(―――今も変わらないか)
アミネは戦うことの他に、これといって秀でていると思えるようなものはなかった。
インテネは色々と頭を使うのが得意なようだったが、アミネは直感的に物事を判断する気質だ。それが上手くゆくこともあったが、そうはならないこともあった。
だが、それにかんしてはインテネも同じだ。きっと、どちらが優れている、とかいうことでもないのだろう。
だが、アミネにもある種の懸念はあった。考えることが好きではなくとも、思い浮かぶことはある。
(インテネは……『普通』に憧れが強すぎる)
それをきっかけに、廊下を跳ね回るアミネは自身の片割れに思いを馳せた。
インテネとアミネは双子である。
それは物心ついた時には知っていた。ふたりには親と呼べる存在の記憶はほとんどなかったが、それだけは理解していた。それが分かった。そして、ふたりはいつも一緒にいた。
言葉の基盤は、同じような境遇にいた少年たちとの交流の中で身につけたものだった。生き残る術も、そこで学んだ。アミネの言葉はその頃の名残がまだ残っていた。
この世の掃き溜め。しかし彼女はそんなことすら考えず、それが普通と疑いもせず、その環境で暮らしていた。当時はそんな暮らしがずっと続くと思っていた。
しかし、そんな日は唐突に終わりを迎えた。ある日、インテネがアミネのいる寝床に、ゾークを引き連れて戻ってきたのだ。どうしてだか、彼はふたりの魔法の才覚を見抜いていたらしい。
ゾークに拾われ、多少の教養は身につけたものの、アミネはそれがどこか自分事ではないように思っていた。自分には一生、遠い世界の話なのだろうな、と。
しかし、インテネは違った。口調もみる間にそれらしきものへと変わっていき、物事をより深く考えるようになっていた。
双子の兄は自分が「普通」に見えるように振る舞ったのだ。
アミネは通路の突き当たりの角に背中を預け、一息をついた。その時、彼女は直感的に計画が一つ失敗したことを察知する。
(―――駄目だったか。上手く逃げてくれれば良かったのに)
諦めの言葉を噛み締めて、陰から奥の様子を確かめるために顔を覗かせる。
暗がりに開いている扉がある。
というよりも開けている扉と言った方が良さそうだった。その奥には雑多に様々なものが詰め込まれており、一見するとガラクタにしか見えないようなものが山と投棄されていた。
そこはある種の倉庫のような役割を果たしていたのか、あるいは使えないものを留置しておくための場所なのか、雑然としつつもどこか整頓の痕跡があるようにも思える。
何かが詰められていたと思しき空の容器、折れた針のついた注射器のような物、何かの計器、煙芯菅にも似た形の筒状の何か。
いずれにせよ、そこにある物のほとんどはアミネに判別ができるものではなかった。
しかしその一角に打ち捨てられたものを見つけたアミネは、軽く口角を上げる。そして周囲を警戒しつつ、アミネはその元へと移動した。
(杜撰な管理。だけど、おかげで助かった)
アミネは白い柄がついた戦斧を右手で掴む。化け物に壊されて新しいものに変わったとはいえ、その重さは長く親しんだものであり、彼女の不安を和らげるには十分な存在感がある。
片足でこれを自在に振り回すことはとてもできないだろうが、魔法格闘を応用すれば多少の応戦程度はできるはずだ。
アミネはとりあえず斧を杖の代わりにして地面に突き立てる。その拍子にガツンと岩を叩く金属音が反響した。
その音が足に響いたのだろうか、アミネは折れている左足にずきりと痛みを感じた。
せめて固定だけでもしておくかと周囲を見渡す。幸いにもここは添木の代わりになりそうな物がそこそこにあった。
魔法の糸と用途の知れぬ木片と紙束で足をガチガチに固定し、アミネはひとまず歩くことはできるようにした。
恐る恐る左足を地面につけて起立するが、耐えられないような痛みはない。
アミネの魔法の糸は、彼女の意識が続く限り消えることはない。
睡眠を取るなどで意識が途切れた際にはこれらの糸は消えてしまうが、一度出してしまえばそれらの維持に気を回す必要がないという性質は、応急的な用途においてはかなり有用である。
これなら激しい動きまではできないが、最低限の歩行程度なら魔法格闘で補助せずともできるだろう。
アミネは小さく頷き、戦斧を担いで慎重に足を踏み出した。多少痛みはするが、今はそれを気にしている場合ではない。
目的の場所は分かっている。先ほどから感じられる嫌な気配、その源がゾークの企ての根幹だ。アミネは身体を引きずるようにしてそこへと向かう。先ほど仕掛けた糸に反応があった。
急がねばならない。そして彼の目論見は絶対に阻止しなければならない。
**
アミネにだけは分かるインテネの気配を追って、たどり着いた場所。そこには金属製の両扉が鎮座していた。
洞穴の湿気で錆びついたこの赤黒い扉はいかにも古く、しかし強固に彼女の前に立ち塞がった。
異様だ。
この尋常ならざる施設の中にあってなおも浮いているこの扉。その向こうには、長い間、何かが封じられているのであろうことが予感させられた。
扉に近づくと視界の端に、彼女の知らぬ間に引き抜かれた閂が見えた。
(どちらにせよ同じことだ)
怯みそうになった自分の心を奮い立たせ、彼女は扉に肩を当てた。そして半ば体当たりするようにして扉を押し開く。ギチギチと金属同士が擦れる重厚な音を立て、扉は少しずつ開いていく。片足でも魔法の応用で重い金属の大扉を開くことができた。
扉が開くと、その隙間から漏れ出てくる空気は黒く澱んでいるように思えた。
十分に通れるくらいの隙間ができたところで、アミネは滑りこむようにその内に飛び込む。
そしてそのうちの光景に息を呑んだ。
その広間は広く、天井が高いところであった。光源はあるとはいえ薄暗く、広さに対してどことない閉塞感がある。この規模の洞穴をどのようにして見つけたのだろうとアミネは密かに驚くも、その中心にインテネが倒れ伏しているのを見つけ、彼に駆け寄った。
「インテネ!」
インテネが生きていることは分かっていた。ふたりはお互いに、他人にはない繋がりを常に感じていた。これがあるからこそ、ふたりの魔法は最大限に効果を発揮する。
「起きて!」「う……」
唸るのみで意識の戻らないインテネを揺さぶるアミネに対して、声をかけるものがあった。
「やはり、来たね」
ガタガタと荒い床に車椅子を転がしながら、彼は扉の脇、部屋の隅の暗がりから現れた。
アミネは苦々しい思いで振り返り、その主の名を呟く。
「―――ゾーク」
ゾークは薄い笑みを浮かべ、アミネを見返した。彼の後ろに目線を向けると、先ほどと同じく白服がひとり控えている。おそらくだが、あの者は白隊の中でも特にゾークに忠心の高い者だ。
(護衛としての実力はどれほどだろうか……)
アミネが密かに勘案していると、ゾークはその目線の意図に気づいたのか、白服を自身の横につけた。
「君は……どうやら知っているらしいね、どうやってかは知らないけれど。私の計画には反対かい?」
「逆に聞くけど、賛成するとでも思った?」
ゾークは顎に手を軽く当て、考えるような身振りを見せた。
「―――やはり、君とはあまり良い関係が築けていなかったようだ」
あまりに突飛な答えに身体中が粟立ち、アミネは思わず身震いした。
この男は、決定的に何かが狂ってしまっている。
ギリギリと斧の柄を握り、アミネはゾークを睨め付ける。
「お前は、人を道具としてしか見ていないんだ」
ゾークはそれに対して優しく首を振った。まるでもの聞きの悪い子どもに言い聞かせるような、そんな穏やかさ。しかしこの場には似つかわしいものではない。
「そんなことはないさ。時にはその必要もあると考えているだけだよ」
「私たちからしてみれば同じことだ!」
アミネは一声叫ぶと、密かに力を込めていた右脚で跳躍、ゾークに斧を振り下ろす。
しかし完全に虚をついたはずのアミネの戦斧は、金属にぶつかる盛大な音を立てて弾かれた。白服の抜き放った短剣によるものだった。
「そうかもしれないね。どうせなら同意を得ておきたかったのだが……どうやら無理らしい」
残響が鳴り止まぬ中にゾークの静かな声が重なった。
その余裕が鼻につく。しかしその余裕を崩そうにも、アミネの予想以上に彼の護衛は優秀だった。
アミネは、まさか短刀の一つで戦斧の一撃を防がれるとは考えてもおらず、それをやってのけたあの白服は想像以上に優秀だったということになる。
(下手をすれば万全の私より強い)
そこまで判断したアミネは、いつもなら追撃するところを諦めて大きく飛び退いた。ずきりと足が痛む。
「協力してくれれば、君たちにだって理があると思うのだけれどね」
「そのために私たちのどちらかが犠牲になれというのなら、その時点で話にならないんだけど」
ゾークはため息をついて彼女に背を向けた。戦いの場であれば自殺行為とも言えるものだが、いまのアミネにはそれをどうにかできるような手段がない。
「これ以上は語るのも無駄、と言ったところかな、残念だよ」
車椅子を転がすゾークの背中に飛びかかりたいところをグッと抑え、白服の動きに注視する。両足が使えるならば刺し違えてでもゾークを殺していたところだが、いまはそれすら叶わない。
アミネはなんとか隙を探るためにゾークの背中に訊ねる。
「それじゃあ、どうするの? 別の人を頼る?」
すでに扉の前にまで進んでいたゾークはチラリとアミネを振り返ると、平然と言った。
「―――いいや。実はね、ここまでは織り込み済みだよ。残念ながら少し手荒にはなるけれど、それは君が望んだことだ」
ゾークの言葉の意味を咀嚼している間に、彼は白服を伴って扉を潜ってしまった。
「―――待て!」
嫌な予感がしてアミネが叫んで追い縋るのと、閉まる扉の隙間からゾークが彼女に言葉を残したのはほとんど同時であった。
「それではね。頑張るといい」
ガタンと重い音と振動を立て、扉が閉まる。
すると、それを待っていたかのように、天井から何かが降りてきたのをアミネは見た。
静かに、しかしするすると素早く降りてくる様は、まるで空中の線をなぞるかのようである。
アミネはその巨体を誇る白い生命体を見て、ギリと歯を食いしばった。
「災厄の白……!」
白い蜘蛛。
それだけならば珍しいが「まあ、そういう種もいるのだろう」程度で済む。
不吉だが、そこまで騒ぐ必要はないな、と。あるいは、災いの前兆と騒ぐものもあるかも知れないが、それはその蜘蛛自体を恐れているわけではない。
しかし、目の前にいる蜘蛛は巨大だった。
成人男性の身長を優に上回る体躯を持ったその蜘蛛は、誰が見ても化け物と形容するものだ。
一般的に魔獣の体躯はもとのそれをはるかに上回るものに変化する。その理由は定かではないが、人間とは違い、魔法的な成分を体外に排出する術を持たないためだと言われている。つまり巨大な体躯をほこる時点で、この蜘蛛は高確率で魔獣であると分かる。
そしてそれらの要素が組み合わさった結果、目の前の蜘蛛が単なる蜘蛛の魔獣ではなくなるのだ。
その結果が『災厄の白』だ。その魔獣の持つ特徴は、おとぎ話の白の災厄、その特徴と一致していた。アミネは、それが真に災厄の獣ではないことを知っている。しかし、その姿を見て、畏怖を覚えずにはいられなかった。
そもそも魔獣の時点で、ひとりで対抗するには危険すぎる存在だ。
(戦うにせよ、逃げるにせよ、インテネを起こさないと)
幸いにもその白蜘蛛は、カチカチと鋏角(上顎)を打ち鳴らすのみで、こちらの様子を伺っているようだった。八個の漆黒の目玉は何を映し出しているのか、アミネには想像もできない。人間を相手にするのとはまた違った恐怖が、そこにはあった。
アミネはなるべく蜘蛛を刺激せぬよう、顔を背けずに徐々に後退り、前を向いたままインテネの肩に手を触れた。
「―――インテネ」
アミネが軽く揺すると、こんどこそ目を覚ましたインテネが言葉を発した。
「―――アミネ? ―――僕は……また気を失っていたのか?」
インテネが身体を起こし、頭を振るのを背後に感じながら、アミネは蜘蛛から目線を逸らさずにインテネに問いかけた。
「話は後。魔法、使える?」
インテネは、アミネの様子から状況を察したか、声を低めて彼女に答えた。
「―――ダメだ。何かに遮られている」
アミネはインテネの返事を聞き、ゾークの言葉を思い出して顔をしかめた。
織り込み済み、は強がりではないらしい。
アミネは魔獣に遮られた扉を見る。外開きの扉であれば多少強引にでも押し開けられたかも知れないが、それができない以上、白蜘蛛を刺激せずに扉を開くか、片方が引き付けて扉を開けるほかないだろう。
例え上手く抜けたとしてもインテネの魔法が使えるという保証はないが、それはこの場を切り抜けた後に考えればよい。
「抜けるしかない」
「あの蜘蛛はどうする」
「私が引きつける」
アミネには明確な勝算があったわけではない。しかし、こうするのが一番良いと、思った。しかしその時の直感は、明確に言い表すことができないものであった。
「―――分かった。無理はしないで」
インテネは多くを聞かなかった。あるいは深い繋がりのある妹の内心を無意識のうちに感じていたのかも知れない。
二人は立ち上がり、構える。
インテネには、先ほど拾った彼の短刀を渡してある。
もしかするとふたりの武器をあんな雑に投棄していたのは、この蜘蛛にふたりが勝てないと踏んでいたからかも知れない。アミネはふと、そんなことを思う。
そして斧を構え、大蜘蛛を睨め付けた。
(―――だとすれば、後悔させてやる)
**
ふたりが放つ雰囲気が変わったことに気がついたのだろう。
大蜘蛛はその場で前足の二本を持ち上げるようにして構えた。その毛深い足先に光る黒いゆらめきは、鋭く尖った黒曜石を思わせる。
「行くよ」
インテネの呼びかけにアミネは頷いて応える。
そして掛け声を合わせるでもなく、アミネは斧を振り上げて大蜘蛛へと突進した。
片脚しか使えないとはいえ、十分な速度をもったその突進から放たれる斧の一撃は、並の鋼鉄剣ならば容易くへし折ってしまう威力の一撃だった。彼女に追い縋る風が、その速さを知らしめている。
しかし、大蜘蛛はそれに対応した。
(―――魔法!)
渾身の一撃を受け止められたアミネは、インテネの引き寄せによって大蜘蛛の爪の範囲から引き戻された。先までアミネがいた場所を黒い煌めきが一閃した。
「良かった。この部屋の中でなら使える」
インテネが安堵の吐息を漏らす。
アミネは一応、インテネの魔法が使えない場合に備えて迎撃の態勢に入っていたが、その必要はなかった。それは重畳だ。
しかし状況は依然悪いままで、最悪から最の文字が転がり落ちた程度のものである。
「あいつ、糸を操る」
アミネはインテネにそう言い残し、再度、大蜘蛛に向けて構えを取る。
先ほど大蜘蛛がアミネの一撃を受け止めたのは、地面にいつの間にか張り巡らされていた白糸だった。
糸を使う点はアミネにも似ているが、この魔獣の操っている糸が魔法によるものかは判らない。
しかし少なくとも、この糸は束ねるとアミネの一撃を防げるほどの防御力を誇り、その糸を自在に操るだけの知能と魔法がこの魔獣にはあるということだけは分かった。
(厄介なんてものじゃない)
アミネはそのとき不意に、あの男を思い出した。上手く魔法を使い、隙を潰し、アミネとインテネの連撃を容易く凌ぎ切ったあの男だ。
(―――いや、あいつほどじゃない)
アミネは大蜘蛛が動いたのに合わせて跳躍した。身体を捻って黒光りする爪をかい潜り、その八つの眼前に肉薄する。
ガチリ。
どこか嘲笑うかのように、大蜘蛛が鋏角を打ち鳴らした。その瞬間、地面を這うようにして、四方から糸の束が飛来する。
空中で斧を振り下ろす状態のアミネにそれを避ける術はなく、インテネを信じて斧に力を込める。
アミネの捨て身の一撃は、しかし大蜘蛛には届かなかった。大蜘蛛はザザと後ろに下ってそれを躱してしまう。
しかし大蜘蛛の糸も同様にアミネには届かなかった。アミネに糸の束が当たる直前、インテネの魔法により彼女は引き寄せられ、彼の背後に転移した。
インテネは大蜘蛛から目を逸らさずに言う。
大蜘蛛はカチカチと鋏角を鳴らしながらも様子見をしているのか、こちらに跳びかかってくる気配はない。
「正面からじゃ厳しいね」
アミネはそれに同意して頷く。そしてしゃがんでいた状態から斧を地面に突き立て、杖のようにして立った。
「あの糸の動き、あいつみたい」
アミネの呟きに、インテネは「確かに」と同意を示すが「でも、彼ほどではない」とアミネと同じような印象を述べる。
そう、彼ほどではない。しかし、それは目の前の敵がたわいのない存在だということでは決してなかった。
ふたりは、彼が手を抜いていたことを理解していた。殺せる場面はいくらでもあったのに、それをしなかったからだ。彼がその気になっていたのなら、ふたりはとっくに死んでいた。
しかし、目の前の存在は違う。
あの魔獣は、明確な殺意をもってこちらへ挑んでいる。振り回される鎌のような前肢は全て急所を狙ったものだった。いまのところは怪我などないが、こちらにも決定打がない以上、いずれはそうも言っていられない状況になるだろう。
アミネは唇を軽く噛んだ。
(―――このままじゃ注意を引くことすらままならない)
大蜘蛛はそんなふたりの様子を怯懦ととったか、カカっと両前肢を地面に叩きつけた。
(―――来る!)
アミネは咄嗟に前方に身を投げ、前転の要領で受け身をとりつつ、その場を離れた。
案の定、先ほどまで彼女が立っていた位置に太い糸の束が降り注ぐ。
「インテネ、無事!?」
追撃をなんとか躱しつつ、アミネは兄に向けて声をかける。視線をそちらに向けて確認するだけの余裕はない。
「問題なし、援護いる?」
返事は想像以上に軽い。インテネはアミネと違い多少の余力があるらしく、さほど焦った様子もなかった。
対して、アミネは時に斧を使って上手く糸を捌いていたが、流石に片脚だけでは辛いところがあった。援護は欲しい。
しかし、今回の場合、それでは意味がない。
斧を振るい、迫り来る糸の束を弾き飛ばしつつ、アミネは叫ぶ。
「―――いい! 道を!」
インテネは早かった。
返事もそこそこに、インテネが出口に向けて直進したのをアミネは目撃する。四方から迫る糸の束をひらひらと避けながら、見る間に大蜘蛛に接近していく。
大蜘蛛はそれを迎撃するため、彼に向ける糸の量を増やした。
アミネはその時、自分に向けられているそれらの数が減ったことに気づく。
(これが奴の限界……!)
インテネは全ての糸を掻い潜り大蜘蛛に肉薄するが、鉤爪による一撃を躱しきれず、肩口を浅く裂かれた。鮮血の赤が散る。
「っ!」
怯むインテネに鉤爪を振り上げる大蜘蛛を見て、アミネは叫ぶ。
「呼んで!」
インテネはアミネの言葉に即応した。
インテネの背後に引き寄せられたアミネは、あらかじめ勢いを乗せていた斧を大蜘蛛に振り下ろした。
ガイン、と金属同士がぶつかるような音が鳴り、アミネの斧は弾かれる。アミネの背中を冷や汗が伝う。
(防ぐか!)
脚を庇って地面を転がるようにして勢いを殺したアミネは、追撃を警戒して大蜘蛛の方を見る。しかし、大蜘蛛は予想外の行動をとった。ググと脚をたわめたかと思うと一気に跳躍し、広間の角へと移動したのだ。
よく見ると、斧を弾いた大蜘蛛の左の前肢、その鉤爪はひしゃげるようにして折れ曲がっていた。
「―――扉を守っていた訳ではない?」
インテネは呟きつつも扉を引き開けている。
「アミネ、行こう!」
「―――分かっ」
その瞬間、大蜘蛛の様子を見ていたアミネはひたりと嫌な予感を覚え、インテネを跳ね飛ばし扉の外に押しやった。
扉を転がり出たインテネが抗議の声をあげる。
「っアミネ、何を!?」
直後、アミネの身体をとんでもない重圧が襲った。片脚ではとても立っていられず、膝を折って四つ這いになってしまう。
「―――くぁっ」
汗だくになりながらも尻目に見れば、インテネはその重圧の影響を受けていないようだった微妙な違和感を覚えつつもアミネを気遣う余裕のある、不安げな顔が見える。血が引けるような思いに苛まれつつ、アミネはその現象の意味を考える。
(予想通りだ。この部屋は魔法を外に漏らさない加工がしてある。多分、あれを封じるために……)
「アミネ!」
インテネがアミネに駆け寄ろうとするのを、アミネは叫んで止める。
「―――来んな!」
アミネはそこで理解した。インテネが仮に彼女を助けようとこの空間に入ったら、その時点でふたり揃ってお終いだ。
なんとか言葉を絞り出し、アミネはギリギリと顔を上げる。大蜘蛛はまだ大きく動いてはいない。
「私、は大丈夫っ。―――あんたに渡した繋がり、で、行って!」
インテネがどんな顔をしているのか、それは見ずとも分かった。迷っているだろう。目を見開き、驚いているだろう。
インテネはアミネの意図を理解したはずだ。それが合理的であると理解したはずだ。
だが、それでも彼は迷っている。
それは、優しい心根をもつ彼だからこそのものだ。
「―――それ、は」
「早く!」
インテネが何かを言うよりも早く、アミネは叫ぶ。
そして背後から彼の気配が遠ざかっていくことを肌に感じ、アミネは地面に突っ伏した。
(―――行った。よかった)
しかしまだ終わりではない。アミネの意識が途絶えれば、彼女の繋いだ糸は切れる。それはふたりが揃って生き延びる機会を失うということだった。
最善はふたり揃って逃げ出すこと。だが、それはできなかった。この研究所が魔法を外に逃がさないような構造になっていることが一番の原因だ。特にこの大蜘蛛が封じられていた広間は綿密な作りになっていた。
それならば、次善に賭けるしかない。ひとりだけでも生き残る。それならばインテネが逃げることが最適だ。怪我もなく、魔法の特性もそれに適している。だが、それには条件がある。
アミネはせめてインテネが魔法を使える場所に移動するまで、意識を失ってはならない。歯を食いしばり、骨が軋むような重圧の中で首をもたげ、大蜘蛛を睨め付ける。
(―――まったく、なんでこんな)
苦痛で顔をしかめつつも、彼女は苦笑した。
アミネは、生き残れる可能性などは関係なしに、彼には生きていて欲しかった。
たまたま今回インテネが逃げる方に見込みがあるだけで、きっとふたりの魔法が逆でも彼女は同じようにした。同じ立場なら彼もそうしただろう。アミネはその想いだけで、どこか報われるような気がしている。穏やかな気持ちだ。
だが、同時に怒りも湧いた。
このような状況に自分たちを陥れた、あのクソ野郎。その鼻もちをへし折ってやりたい。
自分たちを拾い上げ、育て上げたあの男。ゾークは、初めから自分たちをこうするために育てていたのだ。
災厄の贄。原理や方法は知らない。だが、それが奴の目的だったのは間違いない。
(あの蜘蛛を殺せば……)
ゾークへの復讐が果たせるのではないか。そんな思いが彼女を奮い立たせ、中から湧き上がるような熱が、ふつふつと身体に力を満たしていく。
もはや、身体に痛みなどなかった。
じりじりと近寄ってくる大蜘蛛を前に、アミネはさまざまに思いを馳せる。
(こいつは自分たちとは基が違う)
目の前の存在は自分よりも遥かに強大な存在だ。いつもであればすぐにでも逃げているだろう。少しずつでも出口にさえ這っていければ、助かる可能性はある。
しかしアミネは自分のその考えを打ち消し、手元の斧の柄を握りしめる。
(―――まさか私が、あのお姫様みたいな真似をすることになるなんてね。まあでも、いまなら少しは、気持ちも分かるか)
大蜘蛛が覗き込むようにアミネの目前に立ち止まった。
その知性を感じさせる白い怪物は、八つの眼、その全てをアミネへと向け、自分に敵対する奇異な存在のことを観察しているようだ。しかし、それは好奇心というよりも、前脚についての意趣返しとしての側面が強いように思えた。もう動けない相手に対して、いたぶるように、見せつけるように前肢をゆっくりと振り上げる。
アミネはそれを見て、笑いが込み上げてきた。知性がある分、大蜘蛛の行動の意図がアミネにも読めたのだ。
完全に油断している。
アミネは大蜘蛛につけ入る隙を見出していた。この大蜘蛛は執拗なまでに近接を拒むような動きをしていのだ。
しかし、いまはアミネの目の前にいる。
大蜘蛛が前肢を完全に振り上げた。
アミネは重圧を感じぬほどに、その瞬間を見逃さぬよう集中していた。
ギラ、と大蜘蛛の鉤爪がきらめいた。
アミネはそれを認識してすぐに、魔法の力を借りて身を捻った。鉤爪が先ほどまで彼女がいた場所を抉る。
そして大蜘蛛の脚の隙間に入り込んだアミネは、その勢いのまま上体を引き起こし、渾身の魔法で加速させた斧を振り飛ばした。
(いける。この魔獣は、脆い!)
斧はまっすぐに大蜘蛛の胴体に飛翔した。
しかし読まれてしまったか、大蜘蛛はそれを紙一重で回避してしまう。
(―――そんな)
アミネは歯を食いしばった。
「―――とでも、言うと、思ったか!」
絶叫と共にアミネは斧と腕に括りつけた短い魔法の糸を皮膚が裂けるのもお構いなしに思い切り手繰り寄せた。結果として上空に投げ上げられた斧は軌道を変え、斧を避けてアミネから少し離れた位置にいた大蜘蛛の胴体にめり込んだ。
虚を突かれ、何が起きたかも認識できていない大蜘蛛は声にならぬ悲鳴をあげてしばらくのたうち回ったが、重要な器官を損傷したのか、そのまま燃料が切れたように動かなくなった。
アミネは全身の重圧が解き放たれたことを感じ取り、大蜘蛛が死んだことを理解する。
虚勢を呟き、アミネは力なく笑った。
「災厄の獣、ではないにせよ、私でも殺せるじゃん。大したこと……」
しかしアミネはその瞬間、自分の中に何かが入り込むような猛烈な違和感を覚えた。
(なに、こ、れ)
そして徐々に霞むようになっていく意識の中、走馬灯のように様々な思いが彼女のうちに巡った。
そしてそのうちにあった一つのゾークに関する疑念、アミネはそこにゾークの歪を見た。
まさか、自分たちにこれを殺させるのが目的だったのだろうか。
だとすればアミネとインテネの行動を全て見通していたということだ。武器を置いていたのは油断でも慢心でも無く……。
(あぁ……あいつは、これほどに人心に通じているのに、どうしてこうも)
アミネは遠ざかる意識の中、一つの後悔を呟く。実際にそれが声になっていたのかは、もはや彼女には認識できない。
(―――もしかしたら、もっと早く動いていれば。もう少し、自分を信じていれば)
それがあり得ないことだと分かっていても、考えずにはいられなかった。
アミネは知っていた、ゾークに暗いものがあることを。
インテネもそれに気づいていたようだが「普通」がそれを妨げていたようだ。ゾークという主人を仰ぎ、その先にこそ掴めるものがあると。
だからこそ主人が破滅の道を進んでいるように思った時、彼はメナという要素を利用しようとしたのだ。
しかし、アミネはそんなことでゾークを止められるとは思っていなかった。だから、準備をしていた。調べていた。
ゾークという男が何者で、何を企んでいるのか。らしくはないが「ふたりで生きる」ためには必要なことだと思った。
インテネにそれを話さなかったのは、彼はゾークに暗い部分を感じつつも、それを諦めていなかったからだ。それがアミネのためということは知っていた。いずれ二人で普通の生活が送れるように、それがインテネの口癖だった。
しかし、アミネはかつての生活も嫌いではなかった。何者にも縛られず、自由に生きる、それはきっと「普通」に生きていれば得られないものだったのではないか、そう思わずにはいられなかった。あの頃に戻りたいとは言わない、思わない。それはあまりに傲慢だ。
それを思うにはアミネ自身、「普通」を享受しすぎた。それも確かに、心地よいのだ。
インテネは「普通」に憧れている。その思いまでは否定はしない。そして、それに協力しようと、彼女もそう思ったのだ。たとえ「普通」を振る舞ってまでそれを享受することの意味が、アミネには理解できなかったとしても。
だが、今はそれが良かったことなのかは判らない。
(ごめん、インテネ。どうにかあいつに吠え面かかせたかったんだけど……)
その思いを最後に、アミネの意識は侵入者のそれと溶け合い、見えなくなった。




