2_空蝉、深更に落ちる
北の牢獄。
元々採石場として使われていた半分遺跡のようなこの施設は、数十年前に牢獄としての用途を得た。
人を閉じ込める用途で作られた訳ではないはずなのだが、何の皮肉かこの場所は現在、強固な牢獄としての役割を立派に果たしている。
その主な機能として「危険人物の収容」があり、そのための施設としてイカコ家が管理を行っていた。
危険と言っても単純に殺人鬼が入ることは少ない。そのような人間は、そもそも生かしてとらえておく必要がないからだ。
この牢獄に入る人間は基本的に、政治に関する者、あるいは敵国の捕虜などのその個人が持つ価値以上の「何か」を持つ者達だ。
その性質上、この場所は外観から見て取れるような劣悪な環境ではない。
水道なども引かれ、定期的に給される物資は、ともすれば一般市民のそれよりもよほどいい。ここは虜囚を痛ぶる場ではなく、閉じ込めるのに特化した場所なのだから当然と言えば当然だろう。
―――少なくともそうだとされている。
とは言え、いや、それ故にと言ったところか、ここは逃げ出すには過酷な場所であった。
人の生活域からは遠く離れ、周囲の山野には多くの獣が生息し、とても人の脚で踏破するには過酷すぎる。
加えて、唯一整備された道は厳しく監視され、許可を得た者しか通行ができない。
正しくここは「陸の孤島」なのだ。
**
「止まれ!」
その荷馬車は、牢獄の門前で二人組の門兵に引き止められる。
操手の男は素直に指示に従い、その場で馬を宥めて止めた。
男は自身の持ち物から一枚の紙切れを取り出し、ひらひらと兵士にかざして見せる。
彼らはそれを見て目配せをした後、片方が近づいてそれを手に取った。
もう一人は緊急用の笛を口に当て、相方の判断を待つ。
兵士は男の差し出した紙を一瞥して頷いた後、男にそれを突き返した。
それを受け取って仕舞い直していると、門兵が声をかけてくる。
「念の為、積荷を確認させてもらう。構わないな」
「―――へい、それは、問題ありぁせんが」
男は少し憂いがある様子で少し言い淀む。
門兵は背後の相方に顔を向け、警戒を強めるように目配せをした後、少し荒っぽい手つきで荷物の確認を開始する。
積荷は通行証の記載通り、虜囚の食糧となる穀物が主であり、一見すると怪しげなものは無いように見えた。
「これはなんだ?」
門兵は視界の隅に何かが動いたのを見逃さず、その一箇所だけ布で覆われた部分に目をやると、荷馬車の男に声をかけた。
「あー、いや、それは………」
「開けて見せろ」
「あっしがですかい? いや、まあ構いぁせんが………」
男は操手席から降り、荷馬車をよじ登ると、その布に手をかける。
「あの、あんまり開けたくねぇんですがねぇ。うるせぇもんで」
最後の抵抗のかのようにして男が言うのを、門兵は睨みつけるようにして促した。
「―――わかりぁしたよ」
男は諦めたようにため息をつき、布を取り払った。
ッケーーーーー!
その途端、穀物の匂いに紛れていた獣臭がその場に解き放たれ、ついでに耳をつんざくような鳴き声が道を挟む朝の山野に反響した。
「―――朝鶏か」
「へぇ。前回、あんまりにもうるさかったもんですから、お天道さんから隠していたんでさ」
「そうか、悪かったな」
門兵は男に布を掛け直すように指示し、荷馬車を降りると相方に対して頷く。
相方もそれを受けて頷き返す。
「通ってよし」
門兵は男が操手席に戻ったところで道を開け、声を掛けた。
男は、そのまま頭を下げて二人の間をすり抜けるように牢獄の門を潜った。
**
「少々ヒヤリとしたが、便利なものだ」
持ち主が離れた荷車の上から、不意に男の声が響いた。
その声は荷馬車の上で伸びをするような唸り声をあげ、朝鶏の居た檻の横から地面へと飛び降りた。
「それはどうも」
女声がそれに続き、砂利を踏みしめる音を立てる。
周りからみれば、その音の方には二人組の影ばかりが伸びており、しかしそれがそこに何者かが存在していることの証明だった。
「―――いい加減くたびれてきたし、急ぎましょう」
その声の主、マノンはリョウに呼びかける。
「あぁ」
リョウは自分には見えている、されど周りからは見えていないであろう夢幻の魔法使いに返事を返し、目的地に視線を向ける。
その建物は浅黒い石材で出来た古い建物で、陽光を受けて尚も重厚な印象を崩さない。
まさに牢獄に相応しい外見だ。
「―――それで、俺は初めてここに来たが、どこを探ればいい?」
「まずは、管理棟に行きましょう。囚人の情報が記録されているはずよ。そこならセノイの場所も分かるはず」
「そうか。―――お前の魔法は保つのか?」
「正直、ギリギリね。一度掛け直す必要があるかも」
「それなら、こちらは身を隠せそうな場所を一旦探そう」
「―――名案ね。それじゃあ、こっちは上手くやるわ。見つけたら石でも飛ばして案内を頂戴。くれぐれも油断しないように」
「分かっている」
二人は、一通り今後の方針を決め、別行動を開始する。
リョウはマノンとは違い、隠密的な行動は得意では無い。
もちろん一般人に比べればその技術も高いものではあるのだが、リョウはその魔法の関係上、わざわざ身を潜ませる機会があまり無いのだ。
その点、マノンはその手の行動に関しては右に出るものがいない。
彼女の魔法、「夢幻」はその名の通り、夢幻を司る魔法だ。
他者の知覚を狂わせ、白昼夢の中を歩ませる。
それは魔法にしては珍しい、他者に直接干渉できる類の魔法だった。
この魔法さえあれば、仮に見つかることがあっても、その場で見失わせる事さえできる。
諜報にはうってつけの万能能力だろう。
とは言え、彼女の言で言えばそれは直接領域内に干渉しているのとは違うのだと言う。
「私の魔法は、あくまで私の領域内の何か………例えば匂いとか、音とか、そういう物の性質を領域内で変えて押し出すもの。あなたが言う、領域内に干渉する魔法、とは違うわ」
とは彼女の談だ。
確かに結果は似ているが、過程は大きく異なっている。
とは言え、便利なことに違いはない。
今やっているように他人に魔法の効果を纏わせたり、彼女が屋敷を魔道具化して迷宮化させていたように、応用性も高い。
このように一見すると無敵なようにも感じられる彼女の魔法ではあるが、弱点はあった。
効果に多少の制限がある事と、きっかけさえあれば破られるという事だ。
それこそ、夢の中でそれが夢だと気付くように。
その点、リョウの魔法はマノンにとって天敵と言えた。
五感以外の感覚を持って周囲を認識するリョウには、それを破る事はそう難しい話では無い。
だからこそ、慢心も油断もできないのだ。
常に誰かに魔法が破られる可能性に意識を向け、そもそも見つからないように動く事が、この魔法を使う上での最低条件であった。
(さて………)
リョウは建物の影に潜むように壁に背を預けて立ち、自身の領域に意識を向ける。
普段は五感に割いている意識のリソースをそちらに回し、より広く正確に周辺の様子を探る。
(―――管理棟には人が多い、当然か。まあ、あいつは上手くやるだろう。炊事場と倉庫は………さっきの業者が居なくなれば空きそうだが、いや………)
リョウが意識を引き戻し、ひんやりとした背中の感覚を払いのけるように拘置所の壁から離れると、牢獄の右手に向かって離れるように外壁付近へと向かった。
そこは、打ち捨てられた作業場だ。
(確か採石場跡だったか、ここは。撤去もせずに残したままとは)
そこは身を潜められそうな壁があり、そこで働く人間がいるような気配もなく、監視の兵の気配もない。
本来ならば侵入者が隠れられそうな場所などがあれば、そこにも隈なく監視の目を撒くべきなのだが、人員というのはどこでも無限に存在する訳では無い。
これを怠慢と呼んでしまうのはあまりにも酷な話であろう。
(こちらとしては好都合だがな。何にせよ、向こうからしたら相手が悪い)
リョウは手頃な場所を見つけて腰を下ろしてからその脇に転がっていた小さな瓦礫を浮かせ、マノンの気配に向けてそれを飛ばした。
彼女はまだ建物内にいるようで、しばらくはそのまま待機する。
(それにしても、ここは妙な感じがする)
手持ち無沙汰なリョウは牢獄内に意識を向けたが、いつものようにいかない。
それは霧の中を遠望しているようなもので、見える部分と見えない部分にムラがあった。
建物自体の性質なのか、それともこの地の性質なのか、魔法が使いづらいと言うよりも、いくつもの「領域」が混在しているために読みづらい、といったような感覚だ。
意図していたにせよしていないにせよ、この牢獄はリョウにとって厄介な性質を帯びていることは間違い無かった。
内部をあらかじめ探るにしても上手く行かず、しばらく試行錯誤していたリョウであったが結局諦めて、黙座してマノンの仕事が終わるのを待つのだった。
そうして、ぼんやりと空を眺めていたリョウであったが、マノンが建物の外に出たのを感知して、瓦礫を彼女の前に再度浮かせて道案内をさせた。
程なくして戻ってきたマノンに対し、リョウは訊ねる。
「どうした?」
彼女は何処となく微妙な表情をしている。
「記録はあるにはあったのだけれど………」
「何か?」
「他の物とは別扱いをされていたようなのよね」
それはどういう方面で、なのかは不明であるが少なくとも、この牢獄の管理者にとってもセノイの存在は特別であったことを意味する。
「―――場所は分かったのか?」
「それはもちろん」
「それなら、行ってみれば分かる事だ」
「そうね」
話もそこそこに、二人は牢獄に侵入するための準備を開始した。
**
牢獄の一階層目はいわゆる監視棟とされる場所であった。
虜囚が囚われる地下収容棟へと向かう階段を二人の監視兵がそれぞれ向き合うようにして見張っているのをリョウは気配で感じ取った。
出入り口は押し扉であり、彼らの視界内に入っている。
「見張り二人、出入り口は視界内だ。流石に俺たちで扉を開ければ見つかる可能性が高いぞ」
「そこは問題ないわ。もう少しで朝食が運ばれてくるはず、それに紛れましょう。もしかしたらこっちじゃ無いかもしれないから、一応探っておいて」
リョウはマノンの言う通り、領域内に意識を集中させる。
遠くで人が動いている気配があり、リョウは成る程と唸る。
「―――少し探りづらいが、こっちで良さそうだ。荷車を押している奴が来る」
リョウが感知した通り、しばらくするとゴトゴトと音を立てて荷車を押した男が現れた。
念の為、少し離れた物陰からその様子を見ていた二人はできる限り息を殺し、その後ろに近づいた。
その時には彼はマノンの魔法の効果範囲に入っており、気づかれる可能性は低くなる。
そして男が扉を開けた瞬間、二人は滑り込むようにその脇を通り抜け、牢獄の内部に侵入する。
二人のすれ違い様に、運搬者の男が後ろを振り向いたが、そこにはすでに閉まっていく扉しか無い。
そして二人は上手く牢獄に入り込むことに成功した。
監視兵も二人が入ってきたことには気がついていない。
牢獄の内部は、外側の薄ら暗さとは裏腹に、意外と明るい。
内壁が白っぽく塗られているのもあるだろうが、その円形の構造と高い天井、監視に必要な最低限なものしかない空間の開放感がその明るさを演出しているのかもしれない。
二人は内部の観察もほどほどに、監視の視界になるべく入らぬよう、すり抜けるようにして地下への階段を下っていく。
そして、そのまま独房へと抜けていく。
「思っていたよりも綺麗なものだな」
リョウは声を顰めて呟く。
マノンは何も言わないが、同意するように頷いた。
独房のある通路は思っていたほどの暗さや臭い、不潔さは無い。
魔道具による照明がキチンと辺りを照らしており、清掃も定期的に行われているようだった。
これが一般的な牢獄ならばまた違っただろう。
ここら辺の敷設を行ったのは、人道派だったメナの祖父王か父王のどちらかの筈だが、彼らが死んだ今でもその試みは続けられているらしい。
あるいは、イカコ家にとってもむしろこの方が、都合が良いのだろう。
二人はかすかに足音を鳴らしながらも奥へと進んでいく。
独房は全てが埋まっている訳ではなく空室も散見している。
格子の隙間を覗くと、部屋の様子も劣悪と言うほどでは無い。
部屋で本を読んで暇を潰している者もおり、この場所はやはり囚人を捉える場所と言うよりも捕虜などを捉えておく場所と言う意味合いが強いように思える。
しかし、突き当たりに到達した辺りで、その印象も変わった。
「―――扉?」
リョウは、嫌に分かりにくい位置にある見にくい扉を発見した。
「えぇ、この奥のはず」
メナが何処からかくすねてきた鍵を使ってその重い扉を押し開けた。
カチリと錠前が外れる音が小さく鳴り、重苦しい砂利が擦れるような音と共に扉が開く。
ぶわりと顔を覆うように空気が脇を通り抜け、空気感が全く別のものに変わっていく。
「―――成る程、これは」
そこは先ほどまでのそれとはまるで違う、おどろおどろしい空気で満ちていた。
先ほどまでの独房が表の顔だとすれば、こちらは裏の顔、本来の顔といったところか。
「独房の方が騒がしくなってきた。急ぎましょう」
マノンの魔法があるとはいえ扉を開ける音は目立ったようで、彼女の言う通り、背後で虜囚たちがみじろぎをする音が増えていく。
二人はそれらから隠れるように、扉の向こう側に移動してなるべく静かに扉を閉めた。
途端に暗闇が辺りを包む。
そこは先とは違い、ほとんど灯りのない、洞窟といっても差し支えのないような岩肌が張り出した一本道だった。
「フレマト(火よ)」
リョウは小声で唱え、腰に下げたカンテラに灯りを灯す。
無いよりはマシ程度の小さな灯りだが、この場では心強い物だった。
「―――酷い場所ね」
マノンが鼻に皺を寄せて唸る。
閉塞されたその空間には鉄臭さと人の排泄物の臭いが混ざりあった悪臭と、洞穴の内壁が溶け出した湿った匂いが混ざり、非常に不快な臭いで満ちている。
時折、怨嗟のように響く唸り声は、そこで行われている過酷な仕打ちがありありと思い浮かぶものだった。
「―――ダメだな。ここは特に上手く気配が探れない」
リョウはもはや諦め、投げやりになってマノンに言う。
「困ったわね、ここにいる事は確かなのだけれど、こんなに広いとは………」
「手辺り次第に探す他あるまい」
「あいつ、生きてればいいけど」
マノンのぼやきに対して、リョウは「同感だ」と、その暗がりに足を踏み出した。
**
隈なくその通路を探し、一つ一つの独房を見ていく中で、リョウはこの場所が本当に劣悪な空間であることを知る。
常人ならば一晩でもここで過ごせば気が触れかねない、そんな場所だった。
まともな判断力がないのだろう、もはやリョウとマノンが普通に歩いていても彼らは怯えたような声や、無気力な唸り声を漏らすばかりである。
彼らが無事にここを出る事はないだろうが、仮にそうなったとしても社会に復帰する事は難しいだろう。
リョウは最悪の事態のうちの一つを想定する。
もし仮にセノイが同様の目に合っていて、まともな精神状態ではないのだとすれば、このまま彼を救出したとして、本来の目的は達成できない可能性が高い。
だが、リョウのその杞憂は、皮算用であったらしい。
「流石におかしい」
リョウの領域はこの場所に来て以来、不調続きではあったが、自分の周辺に範囲を絞れば影響は少なかった。
あくまでも遠くのものが見えづらいだけで、目の前にいる見知った気配を見紛うことなどない。
それでも、セノイの気配が感じられない。
これは、そもそもここに彼が居ない可能性を意味していた。
「本当にここにいるのか?」
マノンに問うと、彼女は自信なさげに切り出した。
「急いでいたから見落とした可能性はあるけれど………いえ、やっぱり間違いないわ。ここにいる筈、それ以外考えられないもの」
マノンは彼女なりの確信を持っているのだろう、リョウはそれを疑う事はしなかった。
彼女の諜報能力はそれくらいには信用できる。
「つまりはあいつが居ないのは、何かしらの理由があると言うことか? 既に埋められているんじゃないだろうな」
リョウはもう一つの最悪な自体を考え、嘆く。
ここまで来ると、それもあり得ない話ではないような気がしてくる。
「いえ、それは無いわ。死亡した虜囚の記録はキチンと残されていたし、そこにセノイの名前は無かった。つまり、それ以外の理由があるってことよ。それが………」
「―――いや、待て。まだ下がある」
リョウは何となく意識を向けた先に、空洞が広がっていることを感じ取ってマノンを遮った。
今まで乱されて見えなかったが、そこに続く道に近づいたからだろう、それが分かった。
「単純に採石場の名残じゃないかしら?」
「見ておく必要はあるだろ」
「そうね」
そこは先ほどの比ではなく分かりにくい外観の蓋だった。
と言うよりも、リョウの領域があってようやくそれが蓋だと認識できる、見つけさせる気の無いものだった。
牢獄の地面と同じ材質で作られたその蓋には取手なども無く、魔法でなければとても持ち上げられる物ではない。
それもかなりの重さがあり、相当な使い手でもなければ一人では開けられないだろう。
「―――これは人に使わせる前提では無いな」
マノンに見守られながら、リョウはやっとのことで道を開く。
その瞬間から場の空気が吸い込まれていくかのように風が低く鳴り出し、何かの鳴き声かのように存在感を放った。
そこからはこの血生臭い牢獄とはまた違う空気感が感じられる。
「どうする?」
マノンが言う。
その時、ガコンと扉が開く音が背後から聞こえた。
(―――まずい)
リョウは咄嗟に、進む他ないと判断して地下へと続く階段へと飛び込んだ。
マノンもそれを見て後ろに続く。
その時には二人の中に躊躇いは無かった。
そしてリョウは流れるように魔法で蓋を閉め直す。
ゴスンと、重い音が二人のいる空間に響いた。
リョウたちが飛び込んだ隠し扉は、出入り口からは死角になる位置にあるとはいえ、出入り口の鍵が掛かっていない上に、その中から何かの異音が鳴ったとなれば監視はそこを警戒するだろう。
ここに止まるのは危険だ。
二人は示し合わせるまでもなく急いで階段を下っていった。
それが監視の目から逃れる為なのは言うまでもないが、明らかにこれまでの牢獄とは違う空間が何を隠しているのか、その闇の裡に期待が掻き立てられたのもまた事実であった。
「ここは採石場跡、であっているのかしら?」
「いや………それにしては整いすぎている。どちらかと言えばもっと古い………神殿とか墓とか、そういった遺跡の類に見える」
リョウはすれ違い様に階段の壁に刻まれた何かの生き物を模った彫り込みを軽く摩る。
砂っぽい彫り込みの表面はさらりとリョウの指を滑らせた。
相変わらずここも領域が遮られるようで周辺の様子が上手く探れない。
どうやらここらの土壌や岩石の材質がそれを引き起こしているのだと、ここまでくれば流石に推測できた。
(牢獄がここに建てられたのが偶然ではなく、「領域」を意識しての事だとすれば………)
思考を纏めていたリョウは、不意に「領域」の端に人の気配を感じ取った。
「―――人?」
リョウが呟くと、マノンはそれを聞き、即座に階段を降りる足を止めた。
「この階段を下り切った先に通路がある。そこに一人いる」
その気配はゆっくりと、しかし着実に動いていた。
「どうするの?」
「正体を知りたい。接触する」
リョウは、牢獄側がこの場所を知らないと仮定して提案する。
この場所にいる人物が何者なのか、そしてそもそもこの場所が何なのか、その人物が知っている可能性はある。
そしてもしそうならば、出入り口はここ以外にもあると言う事だ。
あるいはセノイはここから逃げ出した可能性がある。
リョウはそう考えた。
「分かった。なら、私が先に行くわ」
マノンの意図を察し、リョウは頷く。
そして二人は、あえて息を潜ませる事なく階段を全て下り、その小さなアーチ状の出入り口の前に立つ。
マノンがそこを通り抜け、そこにいる人物に近づいていく。
リョウはそれを領域で感じながら、彼女の合図があるのを待った。
しかし、その合図が使われる事は無かった。
「! あなたは―――」
その怪訝を帯びたマノンの声が連ねた名前は、リョウも聞いた事がある物だった。




