4_暗色の希望は、それでも道を照らす
メナはカーテンの内であっても、外が明るいと分かるくらいの時間帯になってやっと、目を覚ました。カーテンの隙間から光が差し込み、自分の足元に影とその隙間を走る光の線が見えた。
久しぶりにまとまった睡眠をとったからであろう、身体はだるいが、思考はすっきりとしている。
カーテンを開けるために立ち上がり、伸びをするが、あまりに久しぶりのことで立ち眩み、しゃがみ込んで寝台にしなだれかかった。ガンガンと揺れて星が散る視界に瞼を数度瞬いたメナは、その時になってやっと、足の痛みに気がついた。
(治りが遅い)
メナはその痛みの位置を確かめるように、軟膏が塗られて傷当ての貼られた靴擦れでできた傷を軽く摩り、立ち上がった。気が沈んでいると、怪我の治りが悪くなると、誰かが言っていたような気がした。
(確かこれは………ギノー、だったっけ?)
散々布団の中で追想した自分の従者たちの記憶、それはひょんなことで蘇り、未だ彼女の中で暴れるように駆け回っていた。
振り払うように、彼女は手近のカーテンを開け放つ。眩しい光が顔に当たり、彼女は目を細めた。そんな彼女は自分でも、その自分の行動に驚いていた。認めたくはないが、あの男との会話がメナの気分を少し変えたのである。背負っていた積荷を一部だけ下ろした、それが例え少量であったとしても、ロバが引く荷車は、少なくともその力だけでも前には進むようになった。
そこに扉を叩く音が響き、メナは思わず振り返る。間髪入れずに扉が開いた。
そして、メナは小口に立つジーナの姿を見た。その少しふくよかな顔に浮かんだ驚きの表情は、自宅に見知らぬ人間が入り込んでいたかのように、大袈裟なものだ。
彼女の手元を見れば、そこにはいつもの朝食と思われるものが載せられた盆があった。木目の走った明るい褐色の盆の上に置かれていたのは、とうもろこしで作ったと思われるパンと、塩気の強そうな野菜の漬物、あとは赤色の果物だ。これまでは食欲がなく、いつもそのまま下げてもらっていたものだが、今日は無性に空腹を感じ、唾液が口の中で勝手に滲み出てきたのを感じた。
「朝食、ですよね? ありがとうございます、今日はいただきます。それと、これまで食べられなくてすみませんでした」
メナは、入り口で立ち尽くすジーナに対して礼を言った。本当に癪だが、今の彼女には彼の言葉が一つの道筋となって、背中を押していた。それは連鎖的に彼女の中に巣食っていた罪悪感をも解し溶かし、暖かさにも似た安心感が胸元で灯っている。罪悪感は、完全に消えた訳ではない。だが、冷静にそれらを見つめられるようになっていたのだ。
固まっていたジーナであったが、それを聞いて本当に嬉しそうに目を見開いて笑った。
「いいのよ! しっかり食べてね、美味しいから」
メナはその勢いと笑顔につられて顔を綻ばせ、慌ててそれを押し込めた。そして、そのままジーナの作った食事に対する説明に静かに聞き入った。どれがどういう背景があって用意されたのか、この一つの小さな盆の中であっても多くの隣人との繋がりがあることをメナは知る。
「ゆっくり食べて!」
ジーナの説明が終わって、ドタドタと彼女が部屋を出ていくと、メナはふっと息を吐いて盆を持ったまま寝台の上に座り込み、膝の上に盆を載せる。行儀はよろしくないだろうが、どうせ誰も見ていない。
メナは黄味がかった白いパンを口に運ぶ、質素な味。王宮で食べたものに比べれば品質は落ちる。だが、先の話を聞いた上だと、味わい深いもののようにも感じるのだから不思議であった。
「美味しい………」
自然と溢れた涙は、悲しみか喜びか。彼女はそれに思いを巡らせることもなく、泣きながら、ただ黙々と久方ぶりの食事にありついたのである。
盆の上のものを全てを食べ終えたメナは、少し物足りなさを感じつつも、しかし確かな充足感で満たされていた。そうすると、新たな欲求が芽生えるもので、少しは身体を動かした方が良いかと考える。空になった盆を近くの机の上に置くと、自分の荷物の中からペンダントを取り出してそれを身につけた。
そのペンダントはメナが逃げる際に押し付けられるようにして父から受け取ったもので、彼女は夜毎それを取り出しては、夜の因として見つめていた。そして実際に、それは無くしては困る、大切なものだ。
身につけたペンダントを胸元に落として隠し、部屋に用意されていたちょっとした上掛けを羽織って、部屋を出た。ずっと寝たきりだったのもあって、少し足に違和感があったが、しばらくすればその感覚にも慣れ、されど注意はしながら階段を下った。
階下には、ぱっと見誰の姿もなく、一応は声を掛けておいた方が良いだろうと考えたメナは、少し家内を歩き回り、人を探した。
一通り部屋を巡ったが人の気配がなく、メナは首を傾げつつも、玄関先に足を向けた。
そしてその瞬間、そこでしゃがみ込んでいる老父を見つけ、メナは思わず身構えた。
「あん?」
彼はメナに気づいたのか、視線を少し上げて見た。それがこの家の家主、村長であるビレトであることをなんとか思い出したメナは、彼の手元に植木鉢を見つけ、趣味なのだろうかと一瞬思いを馳せるが、本来の目的を思い出し、それを伝えた。
「えっと、少し外を歩こうかと思っているのですが………」
メナは彼に抱いた第一印象が、コワモテの老人。そしてその彼が発する言葉もそれに即した違和感のないもの、自衛の手段をほとんど持たないメナには少し気後れする相手であった。
だが、人は完全に見た目に依るものとも限らないらしく、彼はメナの言葉を聞いてニカリと破顔した。
「あ? 好きにすりゃあいいだろ」
彼の言葉は粗雑ではあったが、その裏にジーナと同じような優しが潜んでいるのを感じ、メナは頭を下げて礼を言ってからその横を通り過ぎる。
「離れすぎんなよ」
すれ違いざまに彼はメナにそう言った。メナが振り向いた時にはもう鉢植えいじりに戻っており、彼女はそのまま正面に視線を戻し、外の世界へと足を踏み出した。
外に出た瞬間から感じていたことではあるが、メナはここに、王宮とは違って自然の匂いを強く感じていた。
具体的には木々の放つ独特の香りと、畑が舞い上げた土の匂いだ。それに加えて今日は晴れの空。心地の良い空気で満ちていて、時々当たるひんやりと冷たい微風は、この場所がいつもの場所とは違うのだということを強く感じさせた。
(同じ風でも、あの湿り気を帯びた洞窟とは全く違って感じる………)
思い返すだけでも心の臓腑が引き絞られるような嫌な感覚が走り、メナはそれを押し込めることに努める。しばらくするとそれは通り過ぎていった。
(辛い記憶と言うものも、こうして時間と共に過ぎていくのだろうか)
罪悪感にも似た感情を抱きつつ歩くメナは、そのうちに井戸の側に差し掛かった。そこには人の輪ができており、その中に見知った顔を見つけて、その彼女と目があった。
「あら、ミーナちゃん」
一瞬、ミーナとは誰だと考え、それがあの男が定めた偽名であることを辛うじて思い出したメナは、ジーナに微笑みながら挨拶をした。
「朝食、ありがとうございました。美味しかったです」
「あらぁ、そうでしょう? それにしても、もう外出て大丈夫? 具合悪くない?」
矢継ぎ早に話すジーナに多少困惑しつつも、メナは微笑んで「大丈夫です」と返した。
「ジーナさん、そちらは?」
井戸端会議の途中であったのだろう、ジーナと近い年頃の女性が彼女に声を掛け、他にも二人、遠巻きにこちらのことを見ていることにメナは気づいた。
「ああ、ミーナちゃん。リョウが連れてきたんだけど、少し体調が悪くてね?」
ジーナは何の気後れもなく、彼女たちにメナの説明を始めた。
(リョウ、と言うのがあの男の名なのだろうか)
彼女は今まではあまり意識していなかったが、自身をここまで導いた男の名をこれまで知らなかったことに驚いた。いや、実際にジーナが口にしていた事はあるかも知れないが、その時にはとても話を聞くとか、そう言う状況ではなかった。直接名乗られれば話は別だっただろうが、確かそんな事はなかった筈だ。
メナはジーナが説明するのを聞き流しながらそんなことを考え、我が事ながら改めて彼が自分に与えた変化に驚いた。その根本が何に起因するものなのかは彼女にすら分からない上に、彼に対して抱いている印象に変化はないが、少なくともそこは感謝すべきなのかもしれない。
「………それでウチに、ね。ミーナちゃん」
急に返答を求められて、メナは思わず小さく肩を振るわせた。全く話を聞いていなかったが、話の流れから考えれば、メナが彼女の家に泊まることになった経緯の説明であろう。そう考えて、頷いた。
リョウが話を合わせていると言った口ぶりだったので、わざわざ否定する必要もないだろう。
「そうなの? リョウのやつ、こんな可愛い娘連れてきて………ミーナさん? よろしくね」
「はい、よろしくお願いします」
メナは愛想笑いを顔に貼り付けて、丁寧に頭を下げた。幸い、愛想笑いには一日之長があった。それは望んだものではないとは言え、こうして役に立ったことを考えれば捨てたものでもない。
「ところで、どうしてここに?」
ジーナの問いに、メナが「身体を動かしたくて」と口を開き掛けたところで、ジーナの友人の一人が「もしかしてリョウをお探し?」と、勝手に話を進めた。
「それなら、あっちの薪割り場にいるんじゃない?」
もう一人が後を継ぎ、期せずしてメナはリョウの居場所を知った。別に探していた訳でもないし、会いたいとも思っていないのだが、この場から離れる口実にはなる。取り敢えずはそういうことにして置こうとメナは考え、彼女たちに礼を言った。変に話してボロを出すのは避けたかった。
「リョウのところに行くのなら、大丈夫だと思うけど、あまり離れ過ぎないでね」
去り際にジーナに声を掛けられ「ビレトさんにも同じことを言われました」と笑顔で返す。
「あ、そうなの?」
手を振る彼女に控えめに手を振り返し、メナは教えてもらった薪割り場の方向へと足を向けた。話を合わせただけとは言え、いきなり別方向に行くと怪しまれる。
薪割り場は村の外れ、裏手の山のすぐ側にあるらしい。メナは村の中心から外れ、土が踏み固められた道を進んで、緩い坂を登っていく。
その途中に、四人くらいの少年少女がワイワイ言いながら家屋の隙間を走り回っているのが目に入った。微笑ましい思いでそれを見ていたメナであったが、その内の二人が立ち止まって言い合いを始めたのを聞いて「止めた方がいいか?」と逡巡したが、すぐに誰かの母親と思われる女性がどこからか現れてそれを仲裁した。その様子を見るに二人はいつもいがみ合っているようだ。メナは密かにほっと胸を撫で下ろしつつも、「私もあんな時期があったのだろうか」などと他人事に考えて、その場を去る。
坂を登り切って、彼女はその奥に広い空間と小屋とそのそばの薪置き場を見つけた。どうやらそこが彼女たちの言う薪置き場らしかった。詳しいことは知らないが、薪を管理しやすいように、山に近い位置に置いているのだと推察できた。
山へと続く丸太を連ねたような扉は古ぼけてはいたが、重厚感があり頑丈そうだ。ただ、蝶番の部分が緩んでいるような気がしなくもない。その壁の上には背の高い木の枝と葉っぱの緑色が覗いており、森が近いことを知らせている。
メナはそこに辿りついた時にはくたびれていて、息が上がっていた。たった三日じっとしていただけでこうも疲れやすくなるものかと彼女は驚愕して、膝に手をつく。あるいは夏が近づいて気温も上がってきているのかも知れなかった。そして額に滲む汗を拭いながら周りを見渡した。
取り敢えず来てみたはいいものの、誰もいない。
そこには薪を置く為に平たく整えられた切り株と、薪割りに使われると思しき鉈が側に置かれて、その周囲には先ほど割られたとみられる薪が散乱していた。片付けも碌にしていないというのはどうした事だろうか。
(………どうでもいいか)
別に本当にリョウを探していた訳では無い。しばらくはここで休憩して、そうしたら戻ろう。メナはそう考えて、日陰になっていた何も載っていない切り株の上を軽く払い、おがくずを地面に落として、そこに腰を下ろした。しばらくは徒然なままに空を眺め、梢のざわめきを聞いていたが、そうして落ち着いたところで先ほどの疑問が再度頭をよぎった。
あの散乱した薪が彼の仕業であるとしても、何ら不思議ではない。片付けを厭う人間がいることを彼女は兄で知っていた。しかし同時に、彼ならこの程度のことは時間がかかるほどのことでもないはずで、わざわざ鉈を使って薪割りをするのか、という新たな疑問が浮上する。それこそ、まとめて片付けるくらいのことなら、一瞬で出来るに違いない。
(あれだけの「力」があるのなら………)
メナはリョウという男の圧倒的な力を見た。
ふとした瞬間に、メナはそれを思い出す。あの日の記憶の映像と感情を伴って、そこに現れる。それはあまりにも規格外で、圧倒的だ。今までにさまざまな騎士を見てきた。だからこそ、彼女にはそれが分かったのだ。
気に入らない。
メナはそこで考えを打ち切って、新たに薪割り場から村長の宅へ戻ろうかと考え、立ち上がった。
その時だった。
背後で何か重いものがぶつかる鈍い音と、木材が砕けるような大きな音が鳴った。嫌な予感が頭を過ぎるよりも早く、裏山への扉の蝶番が吹き飛び、扉が小屋側に倒れた。
振り返ったメナが見つけた黒い塊は、身構える間も無く彼女めがけて凄まじい速度で突っ込んできた。
咄嗟に横に身体をずらすことで一度はそれを免れるが、体勢を崩して割り捨てられた薪の上にに倒れてしまう。その黒い塊は酷く興奮していて、動くものに攻撃を仕掛けているようだった。つまり今回の場合は、目の前にいるメナということになる。
(どうしてこう………!)
メナの心臓は早鐘のように拍動を刻み、血が巡る轟々と言う音が耳元で鳴り響いていた。このままでは次は逃げられないことを直感したメナの頭は、危機に瀕した瞬発的な記憶の想起を行った。そして、メナの右手は意識するまでもなく鉈へと手を伸ばす。
仰向けから身体を起こしつつ、彼女は右手の鉈を猛進してくる黒い塊へと振り上げた。
「っ!」
その時、彼女は周囲の薪が浮き上がったのを見たような気がした。気がした、というのは次の瞬間にはそれらがそこには無かったからである。
黒影に向けて振り下ろされたはずの彼女の右腕は、しかし何者も捉えることなく、勢いのまま鉈が地面に打ち付けられた。鉈は衝撃で跳ね上がって手から離れていき、右手が痺れるように痛んだ。薪置き場の薪に鉈がぶつかって跳ねる音が遠くに聞こえた。
「何故ここにいる?」
そして、メナがここにいる理由を訊ねる声。その頭上から聞こえてきた声は、先ほどまで彼女が思索を巡らせていた男、リョウのものだった。
痺れる右腕を庇いながら左腕で体勢を調整して、メナは彼に視線を向ける。視線が交わるが、メナはその目から何も読み取ることができず、諦めて目を逸らす。
「………少し、歩きたかったのです。まさかこんな目に遭うとは思いもしませんでした」
倒れた際に服についてしまった砂と泥を払いつつ立ち上がったメナは、視界の隅に先ほどの黒い影の正体を見つけ、しかし原型を留めぬ程までに木片に叩きつけられたその姿を一瞥でもしてしまった事に少し後悔する。
「あれは、何ですか?」
「………だそうだ、イシタカ。あれは何だ?」
メナの問いに対し、リョウは自分で答えるのでは無く、その背後の人物に声を掛けた。
イシタカと呼ばれたその男は、面長で太いまつ毛を持つ刈り上げの男で、弓を背中に背負っているのが見える。おそらく狩人の類なのだろうとメナは推測した。しかし、この男とリョウとの関係性はいまいち見えてこなかった。随分と親しげにも感じるがどこか他人行儀なようでもある。
「………『あれ』? うわ、何てことしてるんだよ。あんなんじゃあ、あの薪もう使えないぞ」
彼もその惨劇を目撃して呻くが、その理由はメナのそれとは異なっていた。流石に狩人なだけあって、多少のことなら見慣れているのかもしれない、と彼女は思った。
「細かい事はいいだろ。それに俺が修練で割ったんだ。別に構わないだろうよ。それで、あれは何だ?」
リョウの返答に対して「いや、村の資材だろうが………」と小言を言いつつ、彼はその黒い塊の方に歩いていく。そしてしばらくしゃがんでその死体を検分した後、立ち上がってこちらに戻ってきた。
「正直あんなんになってたら自信はないが、おそらく黒狐だな」
「狐? でかいな。しかも凶暴だ」
「狐とは名ばかりの別種だからだろ。ちょっとばかり耳の形が似ているだけで『狐』と名付けたご先祖たちの短絡思考にはうんざりするばかりだ」
黒狐。メナはその名に聞き覚えがあった。高山地帯に生息し、巨大な体躯と頑強な毛皮を有する凶暴な肉食獣。雪山の岩肌にも似た黒い岩肌のようなその姿から岩狐などと呼ばれることもあるが、彼の言うように、この生物は狐ではない。どちらかと言えば熊に近いものだと聞いたことがある。
しかし、そこの個体は、話に聞いた印象と比べると小さく見えた。狐と比べると確かに大きいのだが、せいぜいが一回り大きい程度。巨大というほどのものではない。
「黒狐、ですか? それにしては小さいような気がしますが」
メナが問うと、イシタカが「知ってるのか?」と珍しいものを見るような目で彼女を一瞥して言った。
「あんたが、こいつが連れてきたって言う………。そうだな、確かに小さい。だが、あり得ない程でもない。大方、若い個体なんだろう。本来はここら辺に出る獣じゃ無し、こりゃあ、魔獣の件と言い、上の方で何かが起こっているのかもな」
「若い獣が縄張りを離れて下ってくる何か、と言うことですか?」
「食料が少ない、縄張りを追われる、いくらでも可能性はある。こりゃ、根本を探らなきゃ埒が明かんやもしれんぞ………」
イシタカが何やら考え込み始めたので、メナは仕方なくリョウに目をやる。
「最近この辺りで獣害が増えた」
彼はメナの視線に気づいて簡潔にそう述べると、メナの身体の方に目線をやった。
「怪我はないな」
「………おかげさまで」
倒れた拍子にぶつけた左肩から腕が少し痛んだが、怪我という程のものではなかった。それだけで済んだのは彼のおかげであるというのをメナは理解しているのだが、どうしてもつっけんどんな態度になってしまう。
彼はそれに何を思ったのか「そうか」と一言だけ言うと、彼女から目を離した。その態度はまるで、彼女を気遣っているようだった。
(何? その、すかした態度………)
「何だ? お前たち喧嘩でもしたのか?」
二人の間に流れる微妙な空気に気がついたのか、イシタカがそんなことを言った。
それを聞いてメナは、唐突に先ほど見たいがみ合っていた子供達のことを思い出した。それはメナと彼との関係に似ているのではないだろうか。そう思うと、メナはなぜ自分が彼のことが気に食わないのかを考えなくてはならない気がしてきた。彼女には今や、喧嘩を仲裁してくれる母親などいないのだから。
「何事もない。言っただろう? 成り行きで助けただけだ。俺たちはこれが平常なんだよ」
リョウがイシタカに説明する内容は嘘ではないが、上手く煙に巻くようなものだった。それは確かにメナの為の行動なのだが、彼女にはそれが尚更、リョウという男を胡散臭い存在に感じさせる。
「………そんなものか?」「人によるだろ」「そりゃそうだが」
そんな会話を続ける二人を尻目に、メナは腕を組んで考え込む。
(なぜ私は、この男が気に入らないのだろう?)
別段、不快なことをされた記憶はない。強いて言えば彼女を王族と知りながら、敬うような気概が全く感じられ無いことくらいだ。しかしメナは普段、余程のことで無ければ腹を立てる事は無かった。多少失礼でもそう言う人間なのだろうと、明確に嫌う程ではない。では何が違うのだろうか。彼が持っていて、他の者が持っていない要素。
(そう考えると、簡単だ)
メナは彼の「力」に神の理不尽を感じていたのだ。この世に生まれ落ちたその時からその差があるのだとすれば、あまりに力無き者にこの世界は不自由にできている。弱者は奪われ続けるしかないのか?
少なくとも、彼女にはそれが納得できなかった。それが認められずに必死になって鍛錬を積んだ。少しでも奪われぬ為に。
別に一番を目指していた訳では無い。その称号それ自体に、メナは魅力を感じてはいなかった。しかし結果としてそうなるのなら、それが欲しいとも思っていた。
しかし実際は、メナはその「力」が無いが為にあらゆるものを奪われてきた。その意識があった。努力では埋められないほどの「力」の差、才能と言い換えても良い。それが彼女からあらゆる可能性を奪い去った。それが、許せない。
兄にはそれができた、弟にもあれができた。父にもこんなことができたらしい。母はそれがあるから見初められた。では、私にはどんなことが?
メナは頭を振ってそれを振り払う。しかしそこから導かれる答えを否定することはできなかった。
否定ができない。それ故に、メナはそれを持つ「彼」が憎いのであろう。
彼女の思考は昨日のあれ以来、透き通るように晴れやかで、こうしてゆっくりと考えていく内に、自分がリョウに対して何が気に入らないのか、それが見えてきたような気がした。それはともすれば八つ当たりのようなものかもしれない。彼からすれば命を救った相手に嫌われる筋合いはないだろう。
それに、少なくとも周りから見ればメナは「力」はともかくとして、恵まれた境遇であることも確かだ。日々の生活すらままならないなどと言う経験は無く、毎日豪華な食事が食卓に並んだ。寝床には頑丈な屋根と壁があり、着るものは選ぶことさえできた。
それは知らぬ者からすれば特上の贅沢、それがあって他に何を望むのだと、世の人々は言うだろう。確かに、「それ以上」を望みさえしなければ、彼女は幸せに生きて行けたはずだ。少なくとも、あの時までは。
「おい、聞いているか?」
耳元で言われ、メナは驚いて飛び退くようにその場を離れた。リョウはそれに対して特に表情を崩すことは無かったが、目線はメナをしっかりと捉えていた。
「な、何でしょうか?」
「さっきも言ったが、最近は獣が多い。しかもここは扉が壊れている。特に用が無いのなら離れろ。外周でも無ければ危険はない筈だ。それとも、護衛が要るか?」
「いえ………」
メナは「結構です」と口にしかけるが、とある考えが頭に浮かんで、背けていた顔を彼に向ける。それは、メナの抱える問題が自分の中で顕在化したことで生まれた発想だった。
「提案があるのですが。少し話せませんか」
「………ふむ」
リョウは右眉を吊り上げ、その顔に怪訝そうな表情を一瞬だけ覗かせた。だがそれも直ぐに消え、扉を見ていたイシタカを振り返って叫んだ。
「イシタカ! 悪いが用ができた。少し外す」
「そうか? ならついでに修理道具持ってきてくれ。俺は扉を見てる」
リョウはそれに「分かった」と返してから、メナに目配せをして歩き出した。メナはそれに従い、後に続く。
一度、登った坂道を今度は二人で下る。変わらず陽気は暖かいが、冷たい緊張感がメナの心奥で氷柱のようにそそり立っている。同じ道のはずなのに、全く別のものに思えた。
「それで、提案とは?」
しばらく無言で歩いていた二人であったが、薪割り場から大分離れて、井戸に差し掛かった辺りで、リョウが口火を切った。しかしメナは直ぐに切り返すことが出来ず、また沈黙が続く。
メナには迷いがあった。それは果たして正しいのだろうか、と。善意を踏みにじるような、卑劣な行為なのではないか、と。
(何としても生き残れ。か)
今は亡き父の言葉を思い出し、胸元のペンダントを服の上から握り締めた。それは、父としての言葉なのか、王としての言葉なのか。
(どちらでもいい、今は)
昨日のリョウの質問に、メナはまだ答えていない。それは、彼女の頭の中で物事がまだ整理しきれていなかった為でもあり、彼に話す事に抵抗があった為でもある。そして、それは現状、唯一彼女が取引に使える材料でもある。彼女は、普通に頼めば聞いてくれるかも、とは考えなかった。それは彼女が未だ王族としての生き方に縛られている事を示している。
それは喪われたはずの過去の幻影、今や意味を持たぬ虚構の印だ。しかし同時に、それがこのリョウという男との繋がりを維持する鍵でもあった。少なくともこの時点のリョウにとっては、彼女がこの過去を持つ人物であることが重要だったのだ。
「………取引をしませんか? あなたが知りたい事を私が話す、その代わりに」
迷いを振り切るように息を吐いて、メナはリョウを真っ直ぐに見据えて訊ねた。
「あなたの『力』、その秘密を教えて欲しい」
この後ろめたさ、その先に見える細く微かな希望の光は、確かに彼女自身の標であった。そこには他人の意思が介在する余地は無く、「光」が「像」を成すだけの根拠もあった。しかしこの時の彼女はまだ考えることすら無かった。
最終的に彼女の手に収まるであろうそれは、今の彼女にとって本当に必要なものなのだろうか。
彼女はまだ、何者でも無い。




