2_レテラン・クロ_1/2
解体場というと生き物を殺し、吊るし、バラバラに解体する為の場所だ。そこに血みどろで怨嗟渦巻く場所のような印象を持つのは至って正常だ。しかしながら、少なくともイシタカの作業場は想像するような血濡れで、錆びついた薄暗い場所という印象からはかけ離れた場所であった。
外面のみを見ればただの古い小屋にしか見えないが、中に足を踏み入れると、その印象はガラリと変わる。先代から引き継いだという、磨かれた大理石で作られた白亜の床。そこは、常に清潔に保たれており、朱色に染まった死の痕跡など微塵も残っていない。壁の木材は長年の湿気で黒ずんでいるが、それはむしろ床の白と映えるものだった。天井は低いが、大きく開かれた門戸から見える村の景色が、それを感じさせない。そこはイシタカの几帳面さと美意識、その両面が良く現されている場所であると言えた。
そして、リョウが村長に言われてその場を訪れた際にも例に漏れず、その解体場は整頓された姿で彼を出迎えたのである。
「久しぶりだな、イシタカ」
作業用の椅子に腰掛けて弓弦の張り直しをしていたイシタカは、リョウを一瞥すると、彼の脇のバケツを裏返し、そこを指差した。リョウはそれに従いバケツに腰掛けると、彼が手つけの作業をこなすのを眺めた。バケツが少し濡れていたようで、気づけば尻が湿っていた。
「濡れてるんだが」
軽く苦情を入れ、リョウは少し腰を持ち上げて魔法で熱を生む。とりあえずはバケツだけは乾かしておきたかった。
「………あぁ、すまん。さっき使ったばかりなんだ。だがまあ、そのくらいどうとでもできるだろ」
リョウは内心「そんなもの使わすなよ」とか「使ったバケツひっくり返したら床、汚れるだろ」とは思ったものの、イシタカが彼なりの基準を持ってそうしていることを知っていた。彼にとって今は、小屋を汚してもいいタイミングなのだ。だから、使ったバケツをひっくり返してリョウに使わせる。最後に綺麗にするのだから、今はどうでもいい。ついでにリョウの尻が濡れたところで、まあ、それを気にするのは彼の問題だ。そんなふうに、彼の中ではこの行動は矛盾していないのだ。
「何というか、俺はお前が几帳面だと思っているが、時々本当にお前が几帳面だったか疑わしくなるよ」
リョウのぼやきに碌に反応せず、イシタカは天を仰ぐような姿勢で弓を翳し見た後、軽く指で弦を弾いて満足げに頷いた。
「俺は自分が几帳面だなんて思ったことはないね」
弓を台座に置いたイシタカは、そんなことを宣った。そして眠そうな半眼をこちらに向けると「よっこいせ」と年寄り臭い立ち方をする。
「話を聞きにきたんだろ?」
リョウは頷いて、彼に続いて立ち上がった。湿ったズボンが尻に張り付いているのが余計に気になったので、バケツよりも弱い熱で温めて乾かしていく。じんわりとした暖気が尻に広がった。
イシタカはそれを尻目に「こっちで話そう」と歩き始める。この場所は村の少し外れにあるので人目を気にする必要はないのだが、何か理由があるのだろうか。
「念の為だ」
リョウが問うと、イシタカはそう言って作業場と住居を結ぶ扉を開いた。
そこは昔ながらの戸建てといった場所で、作業場とはまた違った雰囲気を放つ空間だ。木製の壁は作業場と同様に黒っぽい壁だが、床はニス塗りがなされた木張のだった。ふと横を見やれば、巨大な鹿か何かの革がかけられている。光を乱反射する薄灰色の毛皮から受ける印象は、無機質な大理石から感じるそれとは違う温かみのあるものである。
イシタカはそのまま流しに立つと、滑り止めの白粉を水で流した。
「そこ、座れよ」
彼は布巾で手を拭いながら食卓を指差した。整頓された食卓の上には仄青く染められた織布が敷かれており、窓から差し込む日差しでその場所だけ鮮やかに輝いているように見える。
「螺旋草の花か?」
リョウは椅子を引いて、座りながらイシタカに訊ねた。
「ん? あぁ、これか。親父の命日に染めて貰った」
「そうか。いい色だな」
照れ隠しだろう、イシタカは「それはどうも」と顔を隠すように俯き気味になって席についた。
「それで、話っていうのは?」
二人が席についてしばらく、何となく無言の時間があり、頃合いを見計らってリョウが話を切り出した。もしかしたら切り替えのためなのかも知れないが、イシタカがわざわざ、巣ネズミのように奥に引っ込んでまで、人目を気にする話というのはどれほどのものなのか。リョウの内心は好奇心と、嫌な予感が混ぜこぜにされた複雑なものになっていた。
「………まあ、あの猿のことなんだが」
イシタカは勿体ぶるように溜めた後、言葉を選びつつ話し始めた。それは村長の想像通り、リョウのが持ってきた霞猿についての見解と、その霞猿が負っていた傷についての話であった。
「まずお前に一言、言わせてくれ」
イシタカは指を一本立て、リョウに突きつけた。
「せめて血抜きくらいはしておいてくれ」
「食うわけじゃないんだからいいだろ」
「いや、基本だろ。素材にするにしたって、血はいらない、劣化の元だ。第一、あれを一人で運べるお前には関係ないかもしれんがな、俺にはあれはデカすぎる。何するにも大変なんだよ。ついでに言わせて貰えばお前、『魔獣』の肉なんて気になるだろうが」
リョウはそれを聞いて思わず苦笑した。確かに、手間までは考えていなかったし、魔獣の肉を食べる機会なんてものはそうないだろうが、あの見た目の生き物を食べたいと思えるのは、素直に感心する。
「分かった。次あったら気をつける」
「ああ。………それで本題なんだが。まあ、あれを見て思ったことと言うならば、不可解なまでの傷が気になる。俺は、あの傷は『鳥』だと思った」
リョウは机に肩肘をつき、眉を吊り上げて話を促した。
「『鳥』………正確には鳥型の魔獣だろうな。まあ、俺にも正確なことは分からないから憶測の域は出ない。が、むかし同じような傷を見たことがある」
そう言って、イシタカは右手を鳥の鉤爪のような形にして持ち上げた。
「何でだかは忘れたが。昔、親父が鷲にやられた時に同じような傷をつくった。こんな風にな。あん時は化膿したりで大変だった………」
リョウはイシタカの意見を聞き、自分の想定がいよいよ現実味を帯びてきたと思った。彼一人であれば勘違いということもありえただろうが、あれを知らないイシタカが言うのであれば、その可能性は低くはないと見ていいだろう。
鳥の魔獣なら空も飛ぶ。行動範囲も広いので、霞猿のあの異様な警戒模様も頷ける。そして、そうなるとやはり、霞猿が怯えるほどの魔獣がこの近くにいるということになる。
「心当たり、あるんだろ? ビレトのおっさんが言っていたぞ、この辺りにこの魔獣が出るかもしれないから警戒しろってな。これ、お前の差金だろ? 俺も同意見だ。警戒したところで出来ることがあるのかって話ではあるけどな」
イシタカはそう言って、リョウの反応を待つかのように押し黙る。対してリョウは、何と返すべきか言葉が見つからず、沈黙を貫いた。その結果、長い静寂が部屋に漂った。しかし二人には耳には聞こえない思惑が響くようで、その静けさが煩わしく感じられた。
「………『レテラン・クロ』」
しばらく経って、沈黙に耐えきれずにイシタカが一つの名を口にした。




