1_獣の道_2/2
そこはいわゆる森の空白区間と呼べる場所で、他と比べ霞が薄かった。
昇り始めた陽光が梢から差し込み、その光を空気中の薄い水の層がキラキラと星のように反射し、煌めく。
ある種、幻想的とも言えるような景色だ。
しかしリョウはそれに目もくれることなく、薄霞の向こう側に目を凝らす。
そこには、何かの影があった。
リョウの気配に気づいたか、この光景を作り上げた領域の主が胡座のような姿勢を崩し、立ち上がる。
リョウはその姿に少なからず驚き、ぽつりと独白する。
「………霞を纏う巨猿。霞猿と言ったところか」
それは人間二人分はあろうかという恵まれた巨躯を持った猿。周りに漂う霞のような白い毛皮、岩のような黒い顔には翡翠を思わせる緑の相貌を光らせている。
辺りを覆う霞の正体はこの獣でほとんど間違いない。
グゥゥゥゥゥ!
視線を向けて完全にリョウを認識した霞猿は、低い唸り声をあげ始めた。
自身の領域に無断で踏み込んだ矮小な人間に対して「逃げるのなら今のうち」と、最後通告を突きつけているのだ。
(さて、どう切り込む?)
あの霞猿は、何らかの理由があってこの霞の領域を作り上げている。それは確かだ。
いくら魔獣とは言え、こんな広範囲の魔法を維持し続けるのは骨が折れる。
理由もなく乱用できるほど、魔法というのは便利な代物ではないのだ。
その上、あの体躯。この辺りにあれを襲える存在などいない。こんな身を隠すような魔法を使うことに、何の意味があるというのか。
(これは本来であれば、あまりにも割に合わない行動のはず。つまり、そうせざるを得ない原因がある。まずはそこからか)
リョウは霞猿に睨め付けられようとも、それから目を背けることはしなかった。ただ目を細めるのみだ。
霞猿は落ち着きなく動き始めるが、目線がこちらから外れることはなかった。
明確にこちらを意識し、警戒している証拠だ。こちらが下手に動かない限り、急に襲ってくることはないだろう。
リョウはその場で静かにその姿を観察し始めた。
確証はないが、あれは山猿の変種だ。あまりに巨大な上に、纏う毛皮の色も大地を宿した土色ではなく、捉えどころのない霞の白色だが、その面影は確かに山猿のそれだ。
リョウは山猿は強力な一頭の長がコロニーを作り、一帯を支配する生態があることを知っていた。
その例に従うならば、この魔獣は十分に、むしろ過剰にすぎる程に群れを率いる資格を持っているように思われた。
この霞が「群れを隠すため」ならば些か疑問も残るが納得できる範囲の理由になる。
しかし、リョウはその仮説を否定する。
(静かすぎる)
リョウが気配を探るまでもなく、この周囲はあまりに音が無い。
何かが潜んでいるにしても、それは多少の音を伴う。それがここには無い。
そして彼は、この魔獣が怪我を負っていることに気がついた。
動き回る霞猿のちょっとした動きの中に微かに見え隠れする、脚を庇うような動き。
霞で誤魔化し、こちらの視界に入らないように上手く身体で隠してはいるが、その後ろ右足はどす黒い血餅が白い毛皮に張り付き、汚れていた。
それは見た目以上に深い傷であるようだ。実際、リョウが身じろぎをしたところで、威嚇こそすれ、近寄ってくる素振りはない。
(手負いなのは間違いない)
リョウはそこで逡巡する。
怪我の原因の方もいずれは探る必要があるが、現状は目の前の魔獣にどう対処するのかを考えなくてはならない。
カトチトァ村の村長の依頼は「農作に支障が出る、この霞を消して欲しい」というものだ。
確かに、このまま霞が陽を遮り続けるのであれば、作物の成長に支障が出るだろう。
とは言え流石にこの魔法を全てを度外視して使い続けられるようには思えない上に、数日程度の悪天候ならばそこまで作物に影響を与えるとは思えない。それにカトチトァ村の方の霧はここほど濃くは無い。無理矢理に狩る必要性があるようには感じられない。
しかし、この魔獣が急に現れたことは気に掛かる。
今までこの辺りには魔獣はおろか、普通の獣ですらあまり多くは居着いていないのだ。
理由は単純。植生が獣には向いていない。
これほどの個体がわざわざこんな場所にまで逃げ込む理由、それは知っておきたい。それには生かしておいて観察を続けるのが良い気もする。
だが、植生が悪いこの場所では、この魔獣がカトチトァ村の近くに移動しないとも限らない。
(生かしておく理由はない、か)
リョウはそう考え、腰の鞘から一本の剣を引き抜いた。




