#61 香り
『体育祭』という名の日本のスポーツデーは、まるで軍隊の催しもののように規則正しく進行していた。
校庭で競技をしている間に、次の出番の生徒達は入場門に集合し、前の競技が終わると、綺麗に並んで行進して出てくる。
競技中も、整列したまま順番を待ち、競技が終わると再び綺麗に整列して、退場門から出ていく。
すると、次の競技に出場する生徒たちが、入場門から綺麗に並んで行進してくるのだ。
そんな中でも、生徒達は、皆、楽しそうにしているので、強制されて、無理やりにやらされているわけではないらしいことが、見て取れた。
そんな中でも、応援席から移動することは、自由に出来るらしいことに、こっそりと校内を見て回っていたヴィゼは、気付いた。
競技中も、席から離れている生徒を、何人も見掛けていたからだ。
談笑していたり、飲み物を買っていたり———と、理由は様々だった。
「次、マリアの出番だぞ。」
クロの声がした。
上空を旋回していたクロが、入場門に整列したマリアの姿を見て、知らせに来た。
オーケー。
ヴィゼは、声には出さず、クロに目を遣り念を送って答え、身軽な足取りで渡り廊下の屋根に上り、校庭が見える場所まで移動した。
マリアが出場する競技は、『障害物競走』だと、聞いていた。
瓶を紐で釣って運ぶのだと、マリアは言っていた。
七列に並んだ生徒達が入場門から入って来た。
途中、四つに分かれ、それぞれのスタート地点で整列した。
マリアは、四人で校庭半周分を競う競技の中の、二番目のスタート地点に整列している生徒達の中に居た。
「………。」
一組目の走者ではなかった。
順番に並んでいるとしたなら、三組目なのだろうと、ヴィゼは予想した。
二組目が走り、次はマリアだ。
「………。」
スタート地点に並ぶマリアを見て、ヴィゼは緊張した。
「なんか、どきどきしねぇ?」
「……っ!」
突然、隣にやって来たクロに、ヴィゼは驚いた———と、同時に、気付く余裕すらなくなっていたことにも驚いた。
そして、緊張しているのが自分だけではないことを知り、ホッとした。
「瓶って、紐で釣れるんだっけ?」
「釣れるから釣るんだろ?」
「家で練習してなかったよな?マリア、大丈夫なのかなぁ。」
「うるさいよ、クロ。黙って見てなよ。」
遠くから声がする。
「位置について………———よーい……」
パンッ!
軽いピストル音の後、第一走者目が走り出した。
少し走ったところで、転がり落ちている白い何かを拾い、再び走る。
立ち止まったところから拾った白い何かを投げて、投げた先に並んでいる缶を倒そうとしているようだった。
立っている缶は三本あって、三本とも倒した生徒は、まだ居ない。
生徒達は全員、白い何かが転がっている所まで戻っている。
「あーっ!マリアのチーム、またダメだよ!」
二度目もダメで、また戻っている第一走者を見て、クロが嘆いた。
何人かの生徒は、成功して、先に進んでいる。
「………。」
ヴィゼの前足にも力が入った。
「よしっ!全部倒れた!」
三度目の挑戦で、三本全部倒すことに成功した第一走者が、第二走者であるマリアの所へ走った。
今の所、七人中四番目だ。
「マリア、行け―!」
マリアが、第一走者から襷を受け取り、肩に通す姿を見て、クロが叫んだ。
「うるさいよ、クロ!静かにして!」
ヴィゼもクロも前のめりになっていた。
マリアは走り出し、瓶が置かれている机の前で止まった。
紐が垂れている棒を掴み、瓶の中に入れようとしている。
紐の先には、何か小さなモノが付いているようだった。
その小さなモノが瓶の中で引っかかればいいのだろう。
マリアは、何度も紐の先を瓶の中に入れては出すを、繰り返していた。
マリアよりも先に瓶を釣り上げて歩きだした生徒の中には、途中で瓶を落としている者も居る。
割れなければ、そこから再び釣り上げてもいいようだが、割れた場合は机のとこまで戻り、そこに用意されている別の瓶を使わなければならないらしい。
四番目だったマリアは今、三番目と横並びになっていた。
一番目と二番目は、まだ途中で立ち止まっている。
マリアの瓶が釣り上がった。
「いいぞ!」
ヴィゼは思わず声に出た。
クロは、まるで息を吐いたら瓶が落ちてしまうと思っているかのように、息を止めている。
マリアは、瓶を落とさないように、ゆっくりと歩いていた。
「ぷはぁーっ!」
マリアが瓶を置くべき机に辿り着き、無事に瓶を置いた瞬間、クロは盛大に息を吐いた。
「はぁー……」
ヴィゼも、マリアが第三走者に襷を渡す姿を見て、ようやく安堵した。
「クロ、マリアが何処に行くか見て来てよ。」
『障害物競走』が終わり、マリアを含めた競技者が退場門から出ていくのを見届けると、ヴィゼは、マリアがそのままどこへ向かうのかをクロに追わせた。
神社へ戻る前に、マリアに声を掛けたいが、応援席では近づくことは出来ない。
競技の後、まっすぐ席に戻るとは思えないので、このチャンスを逃したくなかった。
少しして、クロが戻って来た。
「中庭手前の自動販売機にいるよ。」
「わかった。」
ヴィゼは屋根伝いに、中庭手前の自動販売機を目指した。
ヴィゼが、中庭手前の自動販売機が見える場所まで来た時、マリアは、『障害物競走』で同じ組だっ|菅原桔梗、田中睦美、山形鈴と一緒に居た。
「月城さん、お疲れ様。」
「お疲れ様。」
「無事に終わって良かったね。」
「本当。無事に終わって良かったぁ。」
「まぁ、四位っていう、いいんだか悪いんだかわからない順位ではあるけど、無事に終われば全て良しだよねぇ。」
それぞれ、自分好みのブリックパックのジュースを買い、一息つきながら談笑している。
マリアが、津谷美羽でも、沢井萌々でもない同級生と一緒に居るのを見るのは、珍しいことだった。
「マリア!」
クロが声を掛けた。
人間には、カラスが鳴いたようにしか聞こえていないが、マリアには、クロがマリアの名を呼んだことが伝わっている。
「びっくりしたぁ、カラスだ。」
「急に鳴くと、ビクッてなるよね。」
「あんまり見てると突かれるかも。」
「うん、もう戻ろう。」
「あ、先に行って。わたし、水、買ってくる。」
マリアが、上手く三人から離れた。
そして、三人から見えなくなる場所まで移動して、屋根の上に声を掛けた。
「二人とも来てたのね。」
「あれ?ぼくがいるの、気付いてた?」
ずっと身を低くして隠れていたヴィゼは、顔を出した。
校内の屋根にカラスが居ても、驚く人間はいないだろうが、イタチの場合、驚く人間はいるかもしれない。
騒がれるのは面倒なので、極力、ヴィゼは人目を避けるようにしていた。
マリアは、くすっと、笑って言った。
「競技中、屋根の上に居たでしょ?何を言っているのかは分からなかったけど、二人の声、聞こえたわ。」
ヴィゼとクロは顔を見合わせた。
ヴィゼは、クロほどではないにしても、結構、興奮してしまっていたことを思い出して、少し顔を赤くした。
「いい加減にしろよ!」
「?!」
「?!」
「っ⁈」
突然の怒声に、マリアも、ヴィゼもクロも驚いた。
「しつこく付き纏うの、いい加減、やめてくれないか?」
「どうして、そんな酷いこと言うの?」
中庭の方から聞こえて来る。
「迷惑なんだよ。わからないか?」
「わからないわ。わからないのに、そんな酷い言い方しないで!」
「………?」
「………。」
「………?」
ちょっと訳あり風で、立ち入ってはいけない内容のように思えるが、誰と誰が話しているのか気になり、三人は中庭を覗いた。
「とにかく、迷惑だから、もう付き纏わないでくれ。」
「………っ‼」
「………っ‼」
「………?」
7組の橘和樹だった。
ヴィゼは、昨年の文化祭で一度会っている。
クロは会っていない。
橘和樹は、揉めていた女子生徒をそのままにして、中庭を去ろうとしているのか、マリアの方へ歩いて来る。
「………!」
マリアは慌てて自動販売機の陰に身を潜めた。
「………。」
「………。」
ヴィゼとクロは、屋根の上から覗いていた。
「ひどいわ!わたし、あきらめないからね!」
女子生徒は、橘和樹の背中に向かって叫んでいる。
「絶対にあきらめないから!」
「………。」
橘和樹は、怒ったように顔を顰め、自動販売機の陰に身を潜めているマリアの存在に、全く気付かないまま、自動販売機の横を通って、去って行った。
「………。」
その後、橘和樹の姿が見えなくなり、当たり所を失くした女子生徒は、怒りも悲しみも落ち着いたとは思えない様子で、脇目も振らず、マリアが隠れている自動販売機の前を通り、走り去って行った。
「………。」
ずっと息を殺していたマリアは、生きた心地がしなかった。
「………。」
クロは、見てはいけないものを見てしまった心境だ。
「………・」
ヴィゼは、見たくないものを見せられてしまって、不愉快な気分だったが、
「………?」
ふと、鼻を掠めた微かな香りに気が付いた。




