花畑・我が愛娘・親友・家族
なぜ人間がこの世に誕生したのか私には分かりません。私も太宰治の人間失格の主人公のような、人間の営みのわからない人間らしくない人間になってしまうのでしょうか。決して私は人間を毛嫌いしているわけではないのです。しかしながら、どうしても人間の裏の顔を見てしまうことのほうが多いのです。
元より人間は欲深い生物である。自分が善意で「してあげた」ことにも感謝を伝えてくれなければ腹が立つし、口では「大丈夫」と平気を装っていても内心「心配してくれ」と嘆きいら立つ。私は大変、この人間という生物に興味を持った。だが、同時にそんなごみのくせに自らのことを神のように思う人間の群れの中に、「私」というものが含まれていることには失望した。
そこで私は他の人間を幼少期から観察している。自分とは異なる思考回路をもつ人間を観察し、物事を多面的に見ることができる人間になりたい。そう思ったからだ。
なお、ここからは私の主観と経験をメインに書いていくことにする。
〈花畑〉
「頭の中がまるでお花畑」と言われてイラっとする人は多い。しかし、世にはそれを褒め言葉だととらえる人もいる。例えば「自分の頭の中はお花畑のように色とりどりで豊かで美しい」と思うのだ。別に構わない。ポジティブ思考で悪いことなどあまりない。だが、お花畑発言をした人間は反応がそれでは面白くないという。
はて、馬鹿なのだろうか。こういう人は独裁者になりそうだ。人を自分の思うがままにし自分中心のとても狭い世界を造る。そんな狭い世界でいったい何を得られるというのか。これが一つ目の人間の汚点である。きっと前述したようなことがたくさんあるといじめに発展するのだろう。
日本ではいじめが起きたら被害者を慰めるが欧米では逆だ。「人を支配したい」という欲が飢えになり、心を蝕む。負の連鎖だ。
〈我が愛娘〉
子供というのは実にかわいらしい。しかし面倒くさい。それを痛感するのは子を持つ大人だ。あるいは教師や保育士などの子供とかかわる職業の人だ。
私が10歳の頃、自分の娘に「馬鹿」「デブ」と暴言を吐く大人を見たことがある。当時の私はただ単純に可哀想だと思った。しかし今になって当時を振り返り、事実を述べるなら、馬鹿なのもデブなのも遺伝か育て方の問題だ。体形などは特に親に影響されるだろう。また、暴言を吐かれていたのは七歳くらいの女の子だったため、年を重ねるうちに自己肯定感が低くなる恐れが高い。そしてその子が年を重ねるにつれて親はまたこういうのだ。「なんでそんなに自分に自信がないの」と。全く、大人も結局は馬鹿なのか。
私は子を持っていない。また親から暴言を吐かれたこともない。そんな私でもわかるのは、子供も大人も外見や知識量だけが違う同じ欲深い生物、当たり前だがつまり人間だということだ。またきっと幼少期に暴言を言われた少年少女は大人になって自分の子などにも同様の振る舞いをしてしまうかもしれないということだ。確かに、自分が嫌な思いをしたからとまっとうに生きる人間もいるかもしれないが、「親にそうされたから」とやってしまう人間もいるだろう。
はて、愛娘とは言っているものの「愛される」ことを知らない子供は日本国内だけでも何人いるのだろうか。
また、未だ日本に限らずこの世界にはDVに悩まされている人間が多い。そして被害者だった人も、もしかしたら加害者になりうる。そんな人間がこの世に存在していていいのかと日々私は疑問に思っているが、この話はいったんここではしないでおくことにする。
〈親友〉
友達とはまた違う友の呼び名である。特に親しい人のことを指しているのだが、私にはどちらも同じ表面上の関係にしか見えない。
前述したように人間とは欲深い生物だ。言いたいことを言っても非難され、言えないと苛つく。つまり、親友や友達という関係においても良い塩梅でやっていかなくてはいかないのである。
よく人間は人間関係を成り立たせるうえで「言いたいことは素直に言おう」だの「親しき中にも礼儀あり」と耳にタコができるほどとほざいている。この2つの言葉は確かに大事だが、冷静になって考えてみると矛盾している。素直でいなくてはならないが礼儀をもてとは一体どういうことなのだろうか。
例えば恩がある人が自分に対して不愉快な言動を行ったらどうするか。素直にやめてと主張するか。はたまた今までの恩や礼儀を優先し笑って誤魔化すか。私なら丁重に断り、今後一切関わらない。なぜなら、いくら恩があろうとその程度の人間と関わってきた自分がバカバカしいからだ。
私はまだ子供だ。だから上記のことは子供の幼稚な思考だとスルーしてもらって構わない。しかし、子供からしてみれば媚びへつらう大人たちは一見、他人とうまく関わり素直でなおかつ礼儀を忘れていないように思える。だが、私に言わせてみればただ相手を推し量り我慢をしているだけだ。
つまり、我慢をしているだけで素直ではないのだ。そして、年を重ねるにつれて他人の前で素直でいるなど厳しくなっていくのではなかろうか。
我慢というのは生きる上で重要だ。しかし我慢をし過ぎたら?みんながみんな我慢をしている世の中であれば戦争も起きず平和な世の中だったんだろうが、必ず世の中には我慢をさせる人もいる。なんて汚い生物なのであろうか。
〈家族〉
世界では罪を犯した人間は大概刑務所に入る。あるいは殺人などの非道極まりないことを犯すと最悪死刑になる。(死刑がない国もある)
幼少期から私は罪人は皆、死ねばいいとばかり思っていた。刑務所内での食事代や維持費、人件費などたかが罪人ごときに費やしているものが多いためだ。また、世界の生物の頂点に立ち、生態系を崩した挙げ句、髪の真似事を行う愚かな我ら人間の中でも特に愚者だからだ。
しかし今となって思うのは、罪人も誰かの子であり、兄弟姉妹であるのだ。また父母だったり、叔父叔母だったりするのだ。つまり少なからず家族がいるのだ。
日本の戦国時代には一家皆殺し、という現代では考えられないことが行われていた。もちろん、日本国内にとどまらず世界でも一家皆殺しはできないだろう。
人間というのは血のつながりというものをとても大切にする。人間以外の生物は親が子の面倒を見るというのはないこともあるのだ。しかし、そのつながりというものによって極悪非道な愚者が刑務所の中であろうともこの世に存在しているのはいかがなものかと思う。私は好ましく思わない。
家族というものはもしかすると、人間を縛る縄にも、そして身を護る盾にもなりうるのかもしれない。
いかがだったでしょうか。案外みなさんの身近にも人間らしい、つまり欲深い生物はいるかもしれません。後編もぜひお読みになってください。お読みいただきありがとうございました。