稲穂の頭
これは、とある人から聞いた物語。
その語り部と内容に関する、記録の一篇。
あなたも共にこの場へ居合わせて、耳を傾けているかのように読んでくださったら、幸いである。
「実るほど頭を垂れる稲穂かな」
詠み人知らず。それでいて格言として、しばしば用いられる五七五だ。
実がなればなるほど、稲穂は頭を下げていく。それは人間も同じで、えらくなればえらくなるほど、頭を下げて謙虚に接することが大切であると教える言葉とされているな。
実際、いばりくさる奴というのは、嫌なとらえ方をされることが多い。創作でも、現実でもだ。見ている側からして、胸糞悪いと感じてしまうからだろう。
誰だって、ふてぶてしい接し方されるのに比べりゃ、頭をぺこぺこ下げられた方が、気分を害さずに済むだろうさ。
俺の地元でもこの格言を、大半の人が「謙虚さが大切だ」という解釈をしている。ところが、一部の人には別の意味が伝わっているらしくてな。最近、耳にすることがあったんだが、聞いてみないか?
むかしむかし。
とある農家の田んぼは、凶作知らずとして周囲に認められていたらしい。
その秘訣は、苗を植えてよりのち、田んぼを歩き回って苗の一本一本に声をかけていくのを第一歩とする。
「よう、今日はよく伸びてるかい」
「ここんところ、色つやがよくなってきたじゃないか」
「今日は風とおしゃべりか。楽しかったろう」
まるで、昔なじみに声をかけていくかのような気安さで、己が田んぼを見回っていく。
これを聞いた周りの家は、それにならって同じような取り組みを始めるのだが、これは同じ人物が毎日行うことで、ようやく効果の出る芽があるのだという。
代理を許さず、雨や風にもまれようとも、体調を崩すことなく持続し続ける。となると、家族の面倒を見なければならない大所帯では難しく、田んぼの規模もそれなりに抑えられていないと辛い。
自然、これらを行えるのは天涯孤独。良くも悪くも、身の丈に応じた田んぼしか持てない、小さな家ばかりだったという。
しかし先にも話したように、これは一歩に過ぎない。
肝心かなめは、次の二歩目。落水のときに行われる。
落水は時期の見極めが非常に重要となる。早ければ生育不足を招いて、米の質を落としてしまう。かといって水を張りすぎていても、これがまたもみを育てすぎて質を落としてしまうという、やっかいな部分でもあった。
件の田んぼに関しては例年、他の田んぼよりも早めに水を抜いておいたらしい。かの地域は湿田で水が乾きづらい。ゆえにかなり早い時期で、稲はじかにその全身を空気にさらすことになるんだ。
稲刈りのほぼ10日前になると、かの家は川から水を汲んでくる。いくつかの桶を満たすくらいたっぷりだ。それらの水は瓶に移されるんだが、その過程である手順を踏む必要があった。
瓶の口に、やや粗めの布切れをかけておくんだ。それ越しに川の水を瓶の中へ注いでいく。細かい石などは、その布切れで止まり、下には落ちない。
いわば「ろ過」しているのと同じだ。布をくぐる回数もまた重要らしく、瓶二つを用い、かぶせる生地もまた目の粗さを変えて、何度か水の移し替えが行われる。そうしてとことんまで澄ませた水を瓶ごと持って、田畑をめぐっていくんだ。
すでに黄色く色づき出す、もみたちが混ざる中を、再び声をかけながらめぐっていく。その手に水をたたえた瓶を持ちながら。
「どれどれ、よおくご覧。あんたの姿は良いものか?」
稲穂たちに呼びかけつつ、瓶の水をその穂の先へと持っていく。すでに垂れているものだったりすると、ちょうど瓶の中を覗き込んでいるような姿になるんだ。それをまた、刈り入れの直前まで、毎日変わらずに行っていく。
これまで忠実に模倣を行い、第一歩を刻めた者たちでも、第二歩で大半が脱落してしまう。
水の「こし方」が良くないのか、それとも瓶か。同じようなことをしても、必ずしも良い結果が残せるとは限らなかった。
一方のかの家に関しては、たとえこの一帯が日照りや冷害などに襲われても、黄金色の稲穂を安定してつけ続けることができていたんだ。
秘密を研究するべく、様子を観察させてもらった者も、何人かいる。
「代理と間違えられるといけないから」と、田んぼの周りには綱が渡され、見学者はその内側へ入らないよう、厳重に注意される。特に目の良い者が、遠く離れて瓶を携えてまわる、彼の様子を見守っていたところ、やや妙なことに気がついたんだ。
彼は瓶を近づけるも、稲からはそれなりに距離を置いている。触れてはいないはずなのに、ときおり稲穂の方から「ぐううっ」と音が出そうなくらい、頭を下げていくことがあるんだ。
重さで首を折っているとは、考えづらかった。なぜなら、人がするおじぎのように、しばらくすると折ったはずの頭が、ぴょいっとはずむように姿勢を正してしまうからだ。
風が吹いているわけでもないのに、と見学者は首をかしげ、同じような現象は田んぼの各所で見られ続けた。
やがて日が暮れ、一日の仕事が終わった後、見学者たちが彼に尋ねてみたところ、あれは「実りの神さま」をお招きしているのだと、話があったそうだ。
「皆も、米が熟れすぎて、色やつやが衰えてしまった経験があろう? あれは時期や育て方以外にも、『実りの神様』が遊ばれに来られることも大きい。
実りの神様は、稲穂が色づくと、ふとした拍子に訪れて、なおも育てと力を入れてくださる。しかしそれは、人にとっての『過ぎたるはなお〜』のなんたるか。
ゆえに、ほどよい米であり続けるため、実りの神様にはほどほどに、移ってもらわねばならぬ。
その用意が、この瓶だ。厳しく選んだ水を用い、こちらの中をのぞかせて、移っていただく。さすればいいあんばいに、稲の育ちもとどまるというもの。皆が見た稲穂のおじぎは、かの神様が移られる際に起きたことよ。
実りの神様は、実ったものも好きだが、これから実るであろう場も好まれるらしくてな。すでにここには、これほどの瓶があるのよ」
男が見せてくれた家の床下には、大小さまざまな瓶が封をされて置かれている。一年に一度、この時期の神様を移させたうえで、口を閉じられるこれらは、男が亡くなるまでの数十年の間、とどこおることなく増え続けたそうだ。
やがて、男のことがほとんど伝説となるほどの時が流れた後。この地を大きな地震が襲った。近年の凶作もあり、追い打つような被害を受けてあえいでいた村人たちだが、かつてあの男の家があった地面が大きく割れ、中から件の瓶が大量に発見されたんだ。
しかも、振ってみて中から聞こえてくるのは、水音ではなかった。さらさら、こつこつと瓶の内側で鳴るのは、瓶の口いっぱいにまで詰められた、質の良いもみたちの姿だったらしい。
これらを種とすることで、かの地域は一転、再び実りあるかつての姿を取り戻すことができたとか。しかし、伝説に聞く方法をいくらまねても、稲穂たちが自分から頭を垂れることはとうとうなかったらしいのさ。