20.07.13 DoUbLe the Iceland
A 牧瀬イラ 5:30am
朝焼けの光線が街を刺す。その中の住人を牧瀬イラは観察した。
そしてメモ用紙へ、鉛筆で縦に線を引いた。それは直線でもなく、曲線でもない。歪で震えたようなブレた線が引けた。
書き始めの線ほど、二度と再現することはできない、極めてナチュラルな線ができあがり、そこにはその人自身の個性を感じさせるものがある。
とは言っても、線によって可視化された自身の個性に、彼はそれ以上、具体的な感想を持つことはできなかった。
その線に続いて、まるで化石を掘るように丁寧且つ力強く、メモ用紙に線の続きを書き込んだ。
完成したのは浮浪者をモデルとしたラフスケッチ。流動的な動きと服のシワ加減が上手に描けた。モデルがいいんだ。
彼は朝日が昇る頃に起きて、鉛筆でメモ用紙にラフスケッチをするのが日課だった。主に通勤するサラリーマンや飲んだくれ、浮浪者、たまに猫をモデルとして描いていた。
なぜ書いているのか、それは彼自身にも明確な動機はわからない。
しかし、描いても描かなくてもどちらでも良いわけでなく、これも自身を象る重要な一つの要素であると思っていた。
窓際のソファーへ行き、窓の外の住人を書き込む。その行いはある種、儀式的な意味合いを牧瀬にもたらしていた。
窓を開けて、書いたページを破り取り、それを外へ放った。こんな眩しい朝にこちらを見てる人などいない。
その後の扱いは、所有者へ任せる。例え車に轢かれようとも、鼻をかまれようとも、道路の排水口に吸い込まれようとも、それは牧瀬が関与するところではないと考えた。
こうしてこの街はいつか、僕のラフスケッチで山の雪みたいに埋め尽くされて、世界の終わりみたいに真っ白になるんだ。
メモ用紙は朝日の光線の合間を縫って、裏路地の方へと飛んでった。
そうして牧瀬イラの"不完全"な儀式は終わった。
なぜ"不完全"か? そもそも儀式とは何かのために行うもの。僕にその儀式を行う動機は分からない。
物事には時に、理由や動機がが後からついてくる場合がある。チョコチップクッキーのチョコみたいに。こういうことってクッキー以外にもある現象だと思うんだ。
そして僕には、少なくとも今はその動機はついてない。
そうして牧瀬は、シャワーに入り、歯を磨き、支度を始めた。
彼はこれからアイスランドへ行き、そこで絵を描かなければならない。これは仕事だ。
神様からお告げみたいに、組織の上層部からの指示だった。
a 深田エリ 2:00am
深田エリが起きたのは、ちょうど時計の針が夜中の2時00分を指したときだった。夜の蒼さはどこまでも、刺すような冷たさを帯び、室内を覆っていた。
嫌な夢を見た。体が熱くて、呼吸が苦しい。まるで走った後のように息が上がっていた。現に夢の中で私は巨大な魚に追われた。その魚はシーラカンスのようだったが、その内部はシーラカンスではなく、機械的な存在感を秘めていた。口の中冷蔵庫だったのかもしれない、またはシュレッダーかもしれない。私にははっきりとはわからない。
とにかくその"機械仕掛けのシーラカンス"はどこまでも私を求めて追い詰めてきた。
夢が覚めたのは、彼女がそれの存在を受け入れて、口の中へ飛びこむ瞬間だった。
夢が何を示唆していたのか、私には見当もつかない。
汗を拭って、冷蔵庫からスポーツドリンクを半分飲んだ。それでも喉はからからだったけど、頭は落ち着きを取り戻しつつあった。
そしてベットへ戻り、考え事でもして、寝ようと思った。
私にとって、寝ることと考えるということはセットなのだ。あらゆる意味で。
これはこだわりではなく、悪い癖だと思う。
タオルケットを肩まで上げて、瞳を閉じて、アイスランドのことを考えた。
アイスランドのことはよくわからない。ほとんど何も知らないに等しい。どのくらい人がいるのか、何が有名なのか、雪が北海道と比べてどのくらい降るのか、何にもわからない。わかるのは広大な大地と豊かな自然、オーロラ、羊、生地の厚いセーターのことだけ。
夕焼けでモノクロみたいになったアイスランドを想像して、怖くなった。
明日、アイスランドへ発たなければならない。理由はわからないけど、逃げなくちゃいけないみたい。何から逃げるのかさえも、誰も教えてくれないのだけど。
わかるのは父の都合だってことだけ。一月前に父は消息を絶った。特別な人だったから、特別な理由があるのね。
今はどうやら、別の世界にいるみたい。
B 牧瀬イラ 7:25am
牧瀬は地下鉄を乗り継いで空港まで向かった。水曜日の電車の中はやけに人が少なく静かで、まるで巨大生物の食道みたいだった。
その中の一人の老人が僕に話しかけてきた。
「どうも、お兄さんこんにちは」
こんにちはと返した。
「どっか行くんかい?」
「ええ、ちょっと旅行です」
できるだけ簡素に答えた。
「旅行はいいよなあ。私が行ったのはかれこれ20年位前だよ。今じゃ足や目や耳がもうダメなんだ」
そう言うと、自分の足をさすった。老人の顔肌はシワだらけで、それにはどこか厳格な印象を牧瀬に与えた。
「ご病気か何かですか? お土産でも買ってこれたらいいんですけどね」
適当に答えた。
「そんなもんじゃないよ。足や目や耳が、その土地に馴染めなくなってくるんだ。そうなると足が地に粘りつくようになる。距離感がつかめなくなったり、耳も一層聞こえなくなる。まるで透明なフィルターが世界と自分との間に隔てられたみたいに。私は人の皮を被ったカタツムリになるんだ」
老人はそう言うと、手のひらを見つめ、確認するように指を動かした。
「わかるようで、わかりませんね。けど、意識してみますよ」
「そのうち分かるよ」
そう言って、シワを歪めた。
「それでも、もう一度遠くへ行ってみたいよ」
老人は優しく微笑んだ。
そうして僕は空港へつき、カタツムリの老人と別れた。
飛行機に乗ってる間、老人のことを思い出し、スケッチしようとしたが、うまく老人の顔を思い出すことができなかった。きっとシワで本質を隠しているのだ。
僕にも昔、旅行好きのおじいさんがいた。おばあちゃんも、お父さんも、お母さんも、そしてペットだって。
みんなは今、どこにいるんだろう?
b 深田エリ 12:50
深田は飛行機へ乗ってアイスランドへ向かった。
窓の外には、何かを監視するように月が浮かんでいた。次第に雲が濃くなって、こちらからは月は見えなくなった。
深田はここまでくる間とこれからのお金を、父が残していったお金を使った。
父親は医者で金持ちで、深田は学生で貧乏だった。
父親は自滅的なタイプで、逆境を好んだ。お金はなくなるまで使い尽くして無くなれば、どんな状況でもまた本気で稼ぐだろうと考えた。そんな父を母は嫌になり、深田が小学生の時に離婚してどこかへ消えた。
深田自身はバイトもしなければ、大学にも最近は行ってない。大学で習う大抵のことはネットや図書館で無料で学べる。あとはそれをするかしないかの本人の問題だと考えた。とはいえ、大学に通わせてもらってるのにそれに行かないというのは、些か身勝手過ぎると反省していた。
私はこの先どうするべきなのか。別に父親に頼り切りになりたいわけでなく、大学を卒業したくないわけでもない。ただいつも、大学へ行くことよりもやらなければならないことがあり、やるべきことのために父親に頼ってきただけ。大学を卒業する順番が巡ってきて、自分でお金を稼ぐ順番が巡ってこれば、順次対応していくつもり。
今はアイスランドへ行かなくちゃいけない。これは大学よりもお金を稼ぐことよりも大事なことのように思う。
そう考えていると、隣に一人で座っていた少年が私に声をかけてきた。
「すみません」
「なに?」
「寒くありませんか? どうしてみんな平気そうなんだろう 」
少年は肩をさすってそう言った。
室内は空調が行き渡っており、それほど寒いとは感じなかった。
「そうね、毛布でももらいましょう」
深田は当たりを見回して、スチュワーデスを探した。しかし、不思議とどこにも見当たらなかった。
「お名前は?」
少年は沈黙した。
「みんな、痩せ我慢してるだけなのかもね。本当は内臓まですっかり冷えきってるのかもしれないよ?みんな"機械仕掛けのシーラカンス"みたいなものなのよ」
深田はそう言い、昨日の夢を思い返した。
「『ビック・マウス・ビリー』みたいだね。けど、僕と"エリ"は違うよね?」
少年は心配そうにそう尋ねた。
「そうね。きっと私たちは"ワイン煮込みの牛ほほ肉"ってとこね。芳醇で柔らかくて、私大好きよ」
少年は嬉しそうに微笑んだ。
「いつか食べたいな、"ワイン煮込みの牛ほほ肉"」
「また、お母さんも一緒にね」
そう言って、少年は席を立った。
そのまま彼女に目もくれず、まるで対になった鏡の奥のように、永久的に見栄えの変わらない機内の通路の先へと消えていった。
声をかけようか迷ったが、そのまま窓の外へ視線を移した。
飛行機は雲の中を抜けていた。そして先ほどまで存在した月は姿を消していた。振り返って反対側の窓の向こうを見つめると、そこには先ほど見たものと同じように、私たちを監視する月がそこにあった。
光は月の輪郭となり、影は光との境界であり、表裏一体を成している。
彼女には、月が正しく位置しているかどうか、今ではわからなかなっていた。
いや、初めから自身の認識が合っていたのかさえ分からない。自分自身の存在さえも疑うほどに困惑していた。
どうして少年は、私の名前を知ってたのかしら?
煙草を吸いに喫煙室へ行き、ポケットからシルバーのジッポとマルボロ アイスブラストを取り出した。
煙草を一本取り出して咥え、カプセルを割った。
ジッポの重さを確認をするように手の中で転がしてから、煙草の先にてに火を付けた。
一瞬、世界が眩んだ。
C 牧瀬イラ 15:10pm
牧瀬は飛行機へ乗り、コペンハーゲンで一度乗り換え、アイスランドのレイキャビクに着いた。そこで二回目の乗り換えを行ってヘプンに着いた。
ここを目指すように、上層部より指示があったのだ。
僕はこれから、人を探さなくちゃいけない。それは父でも母でもペットでもないんだ。
ヘプンの空は日本に比べて広く、大地はどこか平面的な印象を与えた。まるで山や岩や氷の塊を乗せた大きなプレートのようだった。山並みから昇る太陽の光は、アイスランド全体を浄化しているようだった。
まずはホテルを探した。空港の周りにはいくつかあるが、どれもかっこが良すぎた。彼が探しているのは、もっと安く、壁が薄くて埃臭い部屋なのだ。別に旅行をしにきたわけではないのだから、そんな部屋で十分だ。
案内所に行くと、係員がマップを出してホテルを紹介してくれた。街の終わりに、小さな安ホテルを見つけた。名前はsheep hotel、 "羊ホテル"だ。この街で一番安く、一番ボロかった。
そこに泊まることに決めた。
部屋は204号室。案の定、空調設備が化け物みたいに唸ってた。
シャワーを浴びて、シャツとパンツと靴下を変えた。そして近くの適当なレストランへ入った。
そこで準備運動のために、この街の人たちをスケッチすることにした。
描いた絵は輪郭のはっきりしない、糸屑のようなできになった。慣れない土地ではいつだって、不思議とこうなるのだ。
僕たちは人々の何を見ているのだろう?
4、5枚書くと、絵は原型を型取り始め、まともな様な絵になった。彼としては、初めに書いた絵の方がお気に入りなのだが、世間での受けは良くはないのだ。
5枚目の絵をもう一度眺めた。
こんな絵を評価するやつを、僕は軽蔑する。
帰り道、音楽CDショップへ入った。店番の女性以外誰もいなかった。そこでクラシックテープを二つ買った。お互い一言も言葉を出さずに会計は終わった。
ホテルへ歩きながら、買ったテープの一つをウォークマンへ入れた。バッハの『マタイ受難曲』が流れた。
音楽はウォークマンからイヤホンを通り、脳内で変換されて、全身へ行き渡った。
目がチカチカとして、一瞬、世界がモノクロのように見えた。
眼を擦ると、剥き出しの岩肌は、先ほどよりも冷たく感じた。まるでナイフみたいだった。
羊ホテルの204号室に着いた。化物みたいな空調設備は止まっており、部屋に置いたはずの荷物はどこにもなかった。
部屋の全ては青白く、まるで別次元の地球に来たようだった。
そして僕の体は、死体みたいに冷たかった。
c 深田エリ 20:00pm
レイキャビク空港に着くまでの間、少年は一度も現れず、隣は最後までも空席のままだった。
目的地はレイキャビクではあったが、ヘプンへ行くことへ決めた。理由は名前が天国みたいだからだ。
レイキャビクであろうがヘプンであろうがヘブンであろうがどっちだっていいと思った。家を発つ前の世界と、今の世界だって同じであるかも怪しい。
どこに行ったって、居場所はないように思えた。
ヘプンに着いて真っ先にホテルを探した。
人の多いところを避けたかったから、街の外れのホテルを選んだ。名前はsheep hotel、 "羊ホテル"名前が気に入った。
204号室へ案内された。
部屋に着いた瞬間、深田は目眩に襲われた。疲れのせいだと思い、しばらくベッドの上に横になっていたが、しばらくすると意識を失った。
頭の中は暗闇で、眼を閉じているのか、部屋が暗いのか、夢の中なのか、わからなかった。
部屋の中には誰かがいて、さらさらと、紙に絵を描く音だけが、彼女の感じることのできる全てだった。
長い沈黙があり、しばらくすると暗闇に目が慣れてきた。
部屋の椅子に青年が腰をかけていた。背筋を伸ばし、こちらの方をずっと見て、静かに私を観察していた。
「話してもいいかしら?」
と私は尋ねた。
「構わないよ」
牧瀬は言った。
Ded
「構わないよ」
牧瀬は言った。
「君を追っているつもりだったんだけど、いつの間にか僕の方が追い越してたよ」
牧瀬は笑って言った。
「お父さんの絡みね? 見て分かると思うけど、私、今とてもぐったりしてるの」
「構わないよ」
牧瀬は静かに言った。
「君を描きにきたんだ」
昔からの友達みたいだった。
「お父さんの何が特別なのか私には分からない。興味もないわ。お父さんは死んだの?」
私は尋ねた。
「お父さんは死んだよ」
牧瀬は静かにそう言った。
「あなたも、もう死んでるんでしょう?」
牧瀬が答えるまでに恐ろしいほどの長い時間がかかった。ほんの何秒であったかもしれないが、深田にとっては恐ろしく長い時間だった。喉の奥の内臓がからからに乾いていた。
「うん」
と静かに頷いた。
「僕は死んだよ」
end
「もし君があと少し早く来たとしても、やはり僕は死んでた。もっと暖かい場所で死にたかった。でも、同じだよ。僕が死ななくちゃならないことには変わりはなかったんだ。きっともっと辛くなるだけなんだ。そういうつらさには、僕はきっと耐えられないよ」
牧瀬は俯いた。
「あなたは、救われたの?」
「救われたよ」
そう言って、描いたスケッチを指でなぞった。
「私、お父さんにあったわ。また一緒にご飯を食べたいって」
「それは良かった。その時は僕も混ぜてくれる?」
牧瀬はこちらを向いた。
「もちろんよ」
「よかった」と彼は安心したように言った。
「君に会えて嬉しかったよ」
沈黙が二人を包んだ。
「さようなら」牧瀬は言った。
「またね」
私は布団にくるまって、目を閉じて耳を澄ませた。
彼は凍りつく部屋の空気の中で、じっくりと染み込むように消えたった。
あとには沈黙と彼の描いたメモ帳の一ページだけが残った。その他はすべて沈黙が包み込んだ。
夢の中では、機械仕掛けのシーラカンスが追ってきた。
形容と本質は異なる。それは私も一緒であり、そういう意味では私も化け物ね。
「もう一度、遠くへ行ってみたいよ」
カタツムリの老人は言った。
今度は一緒にいきましょう。
アイスランドでセーターを買わなくちゃいけないわね。
「また、お母さんも一緒にね」
少年は言った。
みんなで一緒にね。
ここはどうしてこんなに寒いのかしら?
「救われたよ」
牧瀬は言った。
世界にはバッハの『マタイ受難曲』が流れ出した。
これで完全に儀式は終わったのね。
それが深田の覚えている最後のイメージだった。