第1話 カラフルなやつ 前編
『セントマグナ』と言えば、神聖センリ王国において最大の規模を誇る国立劇場の名前である。ここでは毎日のように演劇やコンサートをはじめとした多様な公演が行われ、国民たちはそれを待ちわびながら、日々の心の糧としていた。
国内にて多くの劇場が閉鎖を余儀なくされている現況においてもその存在感はゆるぎなく、セントマグナは、およそ1000年以上前から変わらない姿でこの首都の中心に鎮座し続けているのだ。
「シンラ! 脚立と荷車、すぐに持ってこい!」
「はいっ、ただいま!」
開演前の熱気に包まれているセントマグナ。シンラはここで備品管理のアルバイトをしている15歳の少年だ。
備品管理の主な仕事は終演後、それぞれの備品たちが7つある倉庫の中の正しい場所に収納されているか、およびその数が適正かどうかを木のパネル1枚、電球1個に至るまで正確にカウントすることにある。
根気も時間もかかる作業だが、シンラはこの仕事が嫌いではない。
だが真の狙いは、この仕事をやってさえいれば、スタッフとして堂々と舞台を観られるというところにあった。
このためにシンラは、来なくても良い開演前から駆けつけて、わざわざ雑用を引き受けているのだ。
「ええと、大道具部の分はこれで良いだろ。あとは…」
シンラは荷車の上に脚立を積み込み、手元のメモを確認する。必要な物は揃ったようだ。荷車の上には他にも投光器4台、砂の入った袋、裁縫セット、黒のチョーク3ボックスが載せられている。
シンラが倉庫から引き返そうとしたその時だった。壁の向こうから、がしゃん、と何かが落ちるような音がした。
(なんだ? この向こうって、7番倉庫だろ?)
セントマグナの7つある倉庫のうち、7番目の倉庫を普段の公演で使うことはまず無い。そこに立ち入るための鍵を持っているのは、管理を任されたシンラ以外にはいないはずだった。
(これってボクのせいに……されるよね。多分)
この仕事を始めてから3カ月になる。備品を任されるまでには、信頼を得るための努力もそれなりにしてきたつもりだ。
「はぁ、この仕事、辞めたくないなぁ」
シンラは気が進まないながらも、倉庫の様子を伺うことにした。
奇妙なことに、倉庫の錠はかかったままだった。ドアを開けると、ほのかな防虫剤の匂いが鼻をくすぐる。
前任の備品担当者は、ここを点検するのは年に2,3回で良いと言っていた。しかしシンラはそこのところをほとんど毎日のペースで、掃除も兼ねて出入りしていた。おかげでここの普段の様子がどうで、何が異常なのかということは、一目見れば分かってしまった。
倉庫の中は2つの本棚と壁掛けの鏡を除くと、あとはほとんど無数にある衣装掛けのハンガーラックに占領されていて、さながらワードローブのようになっている。その奥の方で、ハンガーラックの1台が横倒しになって、色とりどりの衣装が無残にも床に散乱しているのが見えた。
シンラは自分の直感がまるで杞憂に終わらなかったことに溜息をつきながら、ハンガーラックを元通りに起こす。
すると、積み重なった衣装の隙間から、靴を履いた人間の足が覗いた。
「えっ……!?」
シンラの鼓動が一段と跳ね上がった。
自分が見ているものは一体何なのだろう? 事故の現場か、殺人事件か。錠はかかっていたので外部からの侵入は不可能のはずだ。
周りに血の流れた様子はなく、倒れている者の顔は衣装の山に埋もれて見ることができない。不可解な状態に頭を悩ませていると、『彼』の指先がピクリと動いた。
死亡案件じゃないことに胸を撫で下ろしたのも束の間、即座に思考は巡る。彼は一体何者か? 善人なのか、悪人なのか?
もし悪人だったとして、自分がすべきことは——
「……いや、助けなきゃ!」
シンラは目の前で倒れている人を問答無用でふん縛っておけるほど冷徹になれるタイプではなかった。むしろ、野良猫が寄れば、たかられていると分かりながらもエサを与えてしまうような、困ったほどのお人よしなのだ。
取り急ぎ、その何者かの体にのしかかっていた衣類を傍にどけて呼びかけてみる。倒れていたのは見たところシンラと同年代くらいの少年だ。呼吸はしているが意識が無いらしく、呼びかけに反応はない。
シンラは少年の上半身を抱え、無理やり体を起こした。意識不明者の身体を揺するなんてことは医療行為としては完全にアウトだが、シンラにそんな知識はない。
しかし、結果論として、少年の目はうっすらと開かれて意識を取り戻した。
そして次の瞬間、その目は見開かれ、表情は恐怖と絶望のものへと変わった。
「う、うわあああぁぁッ!!」
無理もなかった。
少年の眼前にいるシンラは、青色の肌を持ち、真っ黒に塗りつぶされた眼球に真紅の虹彩を備え、ライトグリーンと黄色のワンポイントが入った髪色をしていて、赤いジャンパーを羽織り、鋭く尖った耳と、額からは先端にかけ黒へとグラデーションしていくツノが生えていたからだ。
悪魔。彼の姿を一言で表すなら、そういった言葉が真っ先に思い浮かぶだろう。
ほとんどの人が単体でこれほど多くの色彩を備えた人間を見たことがない。この少年もその中の一人だったというだけのことだ。
だからシンラは、見た目で人から恐れられることには、慣れているつもりで、いた。
「大丈夫、怪我は無い? それから……」
シンラは言葉でどうにか敵意が無いことをアピールしようとする。偉大なる先人がそうしてきたように、分かり合うためには会話しかないのだ。
しかし、シンラが続く言葉を思いつかないうちに、目の前の少年は表情をコロッと変え、安堵のため息を漏らした。
「なんだ……言葉通じるじゃん。ビビって損したァ〜」
無論、シンラもその反応を望んではいたのだが。しかしこうもあっさりと心変わりされては、「アナタの顔はチョーゼツ怖いですよ」ということを逆説的に強調されているようで、シンラは心にかすり傷を負う。
しかしショックを受けている場合ではない。シンラにはこの少年が何者か探る使命があるのだ。
「……えっと、ボクはシンラ。君は?」
「オレ? オレは常葉優勝、15歳!」
優勝と名乗るその少年は、にへらっと笑って体の正面でVサインを作る。シンラにはその意味が理解できなかった。
突き出した2本の指は15という数字のどこにもかかっていないし、アルファベットのVも発音から察する彼のイニシャルとは無関係だ。
「ユーショー、だね。……キミはどうやってここへ入ったんだ?」
不可解な手の形はさておいて、シンラの本題はここからだ。
この倉庫の中にある物はシンラ個人としても特別な思い入れのある物ばかりだった。もし優勝が泥棒だったなら、シンラが彼を許すことは無いだろう。
しかし優勝から返ってきたのは、質問への答えでは無かった。
「ん? ここって……ココ、ドコ!?」
「へ?」
「ちょっと困るよ! オレ、今から予定入ってんだ!!」
「と、とりあえず落ち着いて。ええと、君はどこから来たの?」
「渋谷!」
「…んん?」
「東京だよ! わっかんないかな~」
シブヤ、トーキョー。そのいずれもシンラにはまるで聞きなじみのない地名だった。
優勝はひどくうろたえているが、会話は成立しているし、でたらめを言っているようでもない。
シンラの中で、ひとつの仮説が浮かび上がった。
「もしかしたら……キミは異世界から来たのかもしれない」
「異世界ぃ? それって、帰れるやつ?」
「分からない。でも安心して、できる限りの協力は——」
「シンラァ! お前、どこ行ったァ!!」
廊下にシンラを探す怒声が響く。気が付けば、シンラが倉庫へ向かってから随分と時間が経ってしまっていた。上演を妨げてしまえば信頼どうこうで済む話ではない。
「やっば……! ボク、もう行かないと! とにかく、終わったら迎えに行くから、ここで待ってて!」
シンラは慌てて入り口まで引き返し、
「あと……片付けヨロシク!」
そう言い残してドアを閉めた。
一人残された優勝はしばし茫然とした。今すぐ元の場所に帰りたい、というのが本音だったが、それは難しそうだ。とりあえず他にすることも無いので、言われた通りに周囲に散らばった布の一枚を手に取って、ラックに掛けようとする。
しかし、それがスパンコールのついた煌びやかな『衣装』だと分かると、優勝は思わず目の色を変えた。
「何これスゲー!? もしかして……ってか、もしかしなくても、ここ、衣装小屋だ!」
何を隠そう、優勝は芸能界のスターに憧れているのである。
そんな優勝が、異世界のステージ衣装なんて存在に興味を惹かれないわけがなかった。
それからというもの、片付けもそこそこに衣装の物色タイムが始まった。
「ッあ〜……これ、デザインめっちゃ好みだけどサイズがデカすぎだな! オレが着るなら……うん、この辺が良さそうだ」
鏡を前に、色んな衣装を合わせて結果をシミュレーションしてみる。
優勝はそれが誰の衣装なのかを知らないから、判断基準と言えば自分が着るならどうかだけだ。優勝はあちこちのラックを引っ張り出して来て、ようやく自分に合いそうなものに目星を付けた。
そして、あろうことかそれに袖を通しはじめたのである。
「おお……」
馬子にも衣装という。優勝は自分のことを馬子だと卑下したつもりはなかったが、それでも想像していたより5割増しくらいで自分のことがハンサムに見えて、つい感嘆の声を漏らした。
青いエナメル質のジャケットの表面は星空のように煌めき、肩から胸にかけては宝石みたいなブローチがいくつもくっついていた。セットアップのパンツはタイトな仕上がりだがフィッティングは悪くない。
問題はブーツだった。ブーツだけはハンガーで一緒くたになっていないから、この衣装に本来合わせるべきものがどれなのか分からない。
見た目で選ぼうにも、なかなかサイズがしっくり来るものが無かったのだ。
悪戦苦闘しながらどれだけの時間が過ぎた頃だろうか。優勝はふいに、部屋の外がやけに静かなことが気になった。ドアを開けて廊下に首だけ突き出してみるも、静けさが示すとおりに人の気配はない。
「うん? さっきまでなんか、もっとガヤガヤした感じじゃなかったっけ?」
訝しげに首をかしげる優勝。するとそこに、大音量の歓声が一気になだれ込んできた。
「なんだぁ!?」
キョロキョロと辺りを見回して、優勝は声の主を探す。薄暗くてよく見えないが、どうやらその声は長々と続く廊下のその先から聞こえてきたらしい。
声の主と言っても一人や二人の規模ではない。さらに耳を澄ますと、歓声の中に紛れて管楽器が奏でるメロディのようなものが聞こえてきた。
「……ここが衣裳小屋だろ。ってことはさぁ、もしかして!」
優勝は、期待を胸に倉庫を飛び出した。
〇 〇 〇
「どけ! どこ見て歩いてんだ!」
「うおっ、スイマセン!」
長い廊下の先を渡り切った先には階段があった。すぐに音の主に辿り着けると思っていたが、現れた景色は再びの長い通路だった。
うんざりしそうな優勝の心をつなぎ止めたのは、ここでは屈強な男たちがあくせくと巨大な木の板を運びまわっていて、廊下の壁や天井からは会場の熱気を伝える振動がビリビリと響きわたっていたという状況の違いだけだ。
「あのっ! 会場の場所って……やっぱダメか」
男たちは無駄のない足取りで狭い通路の間を行き交っている。のんびり足を止めて優勝の話を聞いてくれる者は誰もいなかった。
「……仕方ない、自分で探すか。たぶん、あっちかなぁ~?」
彼らが運んでいるのはおそらく書き割りのパネルだ。今が舞台転換の直後だとすると、優勝の目当ては男たちの進行方向の反対側に向かえば見られるはずだ。
しかしそれは、窮屈な幅の道のりで、向かってくる屈強な男たちを避け続けなければならないということでもあった。
「なんだお前!?」
「ジャマだっての!」
「死ねクソガキ!!」
飛んでくる罵声の嵐に疲弊しながらも、どうにか彼らの邪魔にならないスペースに落ち着くことが出来た。嘆息を漏らしながら足元を見ると、自分の影が後方に伸びている。思えばさっきまで、ずっとまともな明かりがなかった。
これは外から差し込んでくる月の光だろうか?
優勝が顔を上げると、そこには演劇の舞台が広がっていた。
満点の星空の下、炎に照らされたステージの上では、多勢の剣を構えた蛮族たちに一人の若者が立ち向かい、踊り、そして歌い上げる。
戦いの趨勢を担うのは階下に展開したオーケストラだ。彼らの音楽は英雄の危機を煽り、しかし最終的な勝利を予見させる。
オーディエンスたちは暗闇の中で、勝負の行く末を固唾を飲んで見届ける。漂う緊張感は、舞台を円周状に囲む客席の、そのはるか上の方で打つ鼓動さえ伝わってくるようにさえ思えた。
こんな場所で踊れたなら——優勝の望んだものがそこにあった。
「おい、そこのお前!」
掛かった声に優勝はハッと我に返る。今の自分は完全な部外者で、しかも拝借した衣装を身に着けたままでいる。これでは盗みを働いたも同然だ。
「お前、俳優部の待ち列は反対側だぞ!」
「はい?」
〇 〇 〇
「ほら、ここだ。自分の待機場所くらい覚えとけ」
「はあ、ありがとうございます……?」
勘違いを食らったまま、あれよあれよという間に優勝は舞台袖に連れてこられてしまった。制作スタッフであろうその男は、若く見えるがそれなりの立場にいるらしく、別のスタッフの耳打ちを受けるとそのままどこかへ消えていった。
連れられた空間には他にも20余名ほどの若手俳優たちが所狭しと列を作っていた。
先ほど通り過ぎたスタッフたちもそうだったが、ここにいる人たちはみんな緑や赤、青など、とりどりの髪の色をしている。優勝のアッシュピンクに染めた髪の毛も、この中ではさほど浮くことはないようだ。
何人かの俳優は怪訝な視線をこちらに向けていたが、そんなことより優勝が気になるのは彼らの衣装だった。藁で簀巻きになったカカシのような者がいると思えば、貴族風のコートに口ひげを生やした者や、鳥のような羽根を全身に纏ったサンバ衣装のような者までいた。
「あの、今からやるのってどういうシーンなんスかね?」
優勝は正面にいる、バーテンダーのようなベストを着た、やや小柄な俳優に声を掛ける。彼の髪の色は濃い青だ。
彼は不承不承といった様子で、目を合わせないままぼそっと答える。
「西方の海賊を打ち倒した英雄ヤズマの凱旋を祝って、民衆たちが舞い踊るとこだよ」
訊いてみたものの、全く分からない。そもそもこの世界の知識が全く無ければ、言葉の意味は分かっても内容をまるでイメージ出来ないのだ。
優勝がぽかんとしたままでいると、小柄な俳優の男が続けて言う。
「お前、昨日降板したやつの代役だよな? セルヴォ先生の舞台なんだから、急な登板つっても台本はちゃんと入れてこいよ」
今度はこちらの目をしっかりと見据えて、諫めるような口調だった。言っていることはごもっともだろうと痛感するが、かと言って今からどうこうできる話でもない。
しかし、優勝にもひとつだけ、理解できたことがあった。
「とにかく、踊ったら良いってことなんですね?」
「まあ、そうだ。……お前、ホントに大丈夫か?」
その言葉に優勝は大きく2本指を立てて、
「まっかしてくださいよ! オレ、ダンスは得意なんで!」
にっこりと、歯を見せて笑った。
列の先頭の俳優が合図を送る。優勝達の出番はやってきた。