月が見ている
◇◇◇◇◇
「すまん有栖川、古語のノート貸してくれ! やばいんだよ2限目だから鬼の竹本ティーチャーだからやばいんだよ!!」
「……よかろう」
「いいのか!?」
「土下座しな」
「あざーっす!」
本当にしやがった。プライドもへったくれもないクラスメイトだ。
名前は、田中だったか。
好感の持てない奴だ。
「あ、あの、有栖川君。数学で分からないところがあるんだけど、コツを教えてくれないかな?」
「見せてみろ」
「あ、ありがとう! ここなんだけどーー」
「……確かに、これは面倒だが。教科書の56ページを見れば分かる。いつか習っただろう。今やってる授業だけでなく、復習も大事だ」
「そっか、何だか出来そうな気がしてきたよ。自分でやってみるね!」
名前は西宮。
好感の持てる奴だ。
確か家庭科が得意で、年上から持てそうな整った女顔。そういえばこいつに似た誰かを俺は知っているような気がする。
思い出そうと記憶を探る俺を邪魔するように、クラスの男子の声が耳に入る。
「師匠と弟子の対決って胸熱だよなぁ」
「せめてたけのこだよね」
「たけみつ!」
弟子……
……まあ、気のせいか。
◇◇◇◇◇
「学校はどうでしたか?」
「当然のようにお前はいるんだな」
放課後、校門にて銀狐は佇む。女性から羨望の、男性からは熱烈な視線を向けられて。
「公式カップルですから」
また訳のわからない事を銀狐は言う。
そろそろこちらはスルースキルを習得してきた。黙って隣を歩く事にする。
丁度小学生達の下校と重なったみたいだ。5人程度で仲良く帰る、ランドセルをからった少年少女達とすれ違った。
その光景を微笑みながら見つめる銀狐は、再度こちらに向きなおると、さっきと同じことを聞いてきた。
「それで、学校はどうでした?」
「……別に普通だったさ。敢えて言うなら食堂の新メニュー、ごぼうサラダが美味しかった」
「そ、そうですか……」
「お前の方こそどうだったんだ」
「私は……いつも通り、普通です」
「なんだ俺と同じだな」
「ええ、同じです」
「……同じか」
「はい。でも、こんな日がいつまでも続くといいですね」
「……」
しばらく沈黙が続いた。
気まずくはない。
暖かかった。
……銀狐は朝と同じように、左手を差し出してくる。何を意味するかはもう知っていた。俺も右手を伸ばしてーー
途中で止まる。
「兄さん……?」
銀狐から心配そうな声を掛けられる。だが俺には、その目、顔、体、仕草……全てが悲しく見えてきた。
「少し、その公園で休もうか」
「……何か、言いたい事があるんですね」
「悪いな」
「いえ、いいんです。私は兄さんの言う事なら、何だってしますから」
本当によくできた妹だった。
でも……
やはり、心の中で俺はこいつを妹として見られない。銀狐もまた、俺の事を兄として見ていない気がした。
どうしようもない違和感が俺を小突く。
「ブランコなんて久しぶりです!」
「滑り台は味気ないです」
「鉄棒はちょっと……」
「あ、トンネル作りましょう兄さん!」
謎の公園テンション。銀狐は結局砂場で落ち着いた。
まず砂を山の形に固めて、出来上がった山に両方から掘り進む。
たったそれだけの遊び。けれど幼少期としては懐かしい思い出のある遊び。
「楽しいですね」
「……ああ、ありがとう銀狐」
「ふふっ、何です急に」
「お前が俺に気を使ってくれている事は分かっていた。ありがとう」
「……私は別に」
「いや、ありがとう」
トンネルも結構掘り進めた。
もう少しで、多分、届く。
「今日一日、とても心地よかった。母さんが作る料理はやはり最高だな。食パン一枚焼くだけでもう違う気がする。父さんはまあ、相変わらずだった。今更だが、生ハム一枚くらい譲ってやればよかったと思っている。
……本当に……楽しかった。ありがとう銀狐」
「兄さん……」
兄さん、か。
「……でも、ダメなんだ」
やっぱり自分は誤魔化しきれない。
「お前は知らないかもしれないけれど、カレハナというメイドがいてな。こいつは普段しれっとしているくせに、寂しがり屋で誰もいない所で泣くような面倒な奴なんだよ」
「……好きなんですね」
「まさか。大好きだ」
「少しイラッとしました」
「ん……そいつは最近家族を失って、あろう事かその穴埋めに俺を選んできた」
「何故かムシャクシャします」
「はは……まあ、選ばれたからには拒めないだろ。俺は死ぬまで、あいつの側にいたいと思っている」
「……他には」
その時、遠くで犬が吠えて邪魔をした。俺たちは顔を見合わせて、小さく笑った。
妹は……受け止めてくれたらしい。
「他には、どんな人がいるんです?」
「そうだな、グレイというぶすっとした態度がデフォルトの角男がいる。全く偉そうでいけ好かなくて、それで……信頼できる奴だ。認めたくはないけどな」
「……好きなんですね」
それは笑えない。
「ウサギという目を離せない奴もいる。少々頭のおつむが弱いが、家族思いの良い人間だ。つい手を貸したくなる」
崖に飛び込むほど。
「実は弟子もいてな。ラッセルという可愛い男だが、心にちゃんと漢を抱いた強い人間だ。最近友人もできたみたいで、本当に嬉しい」
「兄さん、友達少ないですからね」
「……デスオという俺の心の友もいる。普通の生活に憧れを見出してきたらしく、今は学生生活に進出してるが、正直反則だな」
「お友達増えたんですね!」
「もうそこはいいだろ?」
兄の欠点に躊躇がない奴だ。
「それから何を隠そう、サクヤという少女がいる! 色々と頭に突っかかるものがあったが、やはり決め手はこいつだな。
俺の妻だ!」
「少女……妻……?」
「やっぱり忘れてくれ。……サクヤは結構な闇を抱えている。あの歳で一国を治める王になっているんだ、それも当然かもしれないが。れっきとした1人の女の子でもある。幸せになりたいんだ、一緒に」
公園の、時計の短針が6を指していた。いつの間にかもうそんな時間になってしまったらしい。僅かながら空にも赤みがかかっているような気がした。
「最後に、俺には妹がいる」
「……」
「今はギンギツネと名乗っている。強い女性だ。努力を欠かさない素晴らしい人間だ。……俺とは仲が良くなくてな。互いに目を合わせる事すら少なかったが、だからお前の優しさに甘えてしまった」
「……」
「本当はそんなこと、あり得ないのに。妹が俺に優しいだなんて、そんなーー」
「そんな事ありません!」
ーー繋がった。
砂のお山に隠れて見えないが、その中で、俺の手と銀狐の手が触れ合った。銀狐の真っ直ぐな視線が俺を射抜く。
眩しすぎた。
夕日のせいかな。
「……やっぱりお前は優しいな」
「ちがっ……兄さんは間違っています」
「ああ、多分、そうなんだろう」
「もう、だからっそうじゃなくて」
凛とした声が突き刺さる。
「私から目を逸らさないで!」
言われて気づいた。自分が逃げている事に。勝つとか負けるとか、強いだとか弱いだとか、そんな事関係なしに。
こんな情けない男がいたとは。
改めて銀狐を見る。目が少し潤んでいるのは、俺の責任だろう。
「兄さん、私をちゃんと見てください。高い所から見下ろしても、低い所から見上げても、目に見えないものは確かにあるんです」
「……その通り、だな」
砂の山が崩れていく。今度こそ見えた。俺と銀狐の手が、確かに繋がっているのを。
……何となく分かってきた。
この世界の事を。
「悪い銀狐。俺はそろそろ行かないと、勝負に遅れてしまう」
「……いいんですよ。私は兄さんの言う事なら、何だってしますから」
さっきも聞いたセリフに、銀狐は続けて言う。
「でも、この手は絶対に離さないでくださいね。私を見捨てず、見ていてくださいね」
「もちろんだとも」
正直に言うと、離れたくなかった。自分を愛してくれる家族が3人もいて、名残惜しくないはずがない。
でもダメだ。
向こうの世界は俺がいなくなっても大丈夫、だなんて無責任な事を思えるはずがない。俺はそろそろ、起きないと。
「兄さん……」
自分の体が光に包まれていく。そろそろ時間切れらしい。
これから徐々に自分はこの世界からいなくなるのだろう。ならきっと、この右手が最後まで残ると、確信していた。
『ーーきて、起きて下さい』
……あの時と同じ、意識が薄れていくのが分かった。
最後の最後に、妹の声を聞く。
「兄さん、覚えていてください。確かにここは別の世界。決して交わらない平行世界。だけど、それでも手を伸ばす事は出来るんです。兄さんが望めば、きっと、その手は届くはずですから」
ああ、忘れない。
俺はーー




