真っ赤な血
◇◇◇◇◇
「アリス!」
ウサギが柔かな顔で名を呼ぶ。
なんだなんだ、嬉しいじゃないか。地球で犬と接する機会はついぞなかったが、懐かれるとこんな感じなんだろうな。
撫でたい。
あの頭を撫でてみたい。
餌付けしたい。
「アリス……そう、貴方がアリス」
一方、向こうの女性は。怖い顔でこちらを睨んでくる。
何かしたかな。
まあ、どうせこいつは魚の継承者で、どうせウサギ絡みで怒っているのだろう。
シスコンが。
怒ると何をするか分からない。
……いや天才だから分かるけどね。言葉の綾だけどね。
「ウサギを誑かしたのは貴方ねアリス……いえ、黒の戦士」
「ご名答。初めましてだな。お前が魚の継承者で……ウサギの姉か」
似ていないにもほどがある。例え、そう、例え血の繋がりがないとしても、だ。
ウサギの純粋さを見習ってほしい。
「貴女には幾つか言いたい事があるわ。
ーーよくも、ウサギを迷わせたわね。あの子は純粋なの。金の色が何よりもかっこいいと思う子供くらい、可愛い子なの。
なのに、今は苦しんでいる! きっと貴方の所為! 絶対に許しはしない……黒の戦士」
後ろでウサギが「あわわあわわ」と慌てふためいている。
「なるほど、然り。忠告ついでに俺もお前に助言しておこう。
ーー“可愛い子には旅をさせよ” 。ウサギが悩んでいるのは、確かに俺の責任でもあるだろう。だがな、お前が必要以上にウサギを甘えさせたから、こうなってしまったのだ」
後ろでウサギが、「可愛い子? 可愛い子? ……それは、私?」などとふざけている。
例えだよ。
「今、辛さや苦しみを知って、それでもウサギは必死に考えている。成長しているんだ。姉のお前がそれを喜ばないでどうする」
「成長? ……違う」
違くないよ。だって俺がこう言ってるのだから、それは正しいよ。
だが、そんな単純な事でさえピスケスは分からない。
……分からないというより、認めたくない。認めたくなくて、逃げる。すぐに逃げる魚のように。
実際、ウサギという存在は、こいつにとって火傷ものかもしれない。
「成長なんて、ウソ。ウソウソウソ! 全部ウソよ。成長なんて、成長なんてしなくたっていい。
昔がいい。昔みたいに、全部昔みたいに……! あの時のように!」
ピスケスが指を向ける。その先に水は生まれた。彼女の力は近くの水を操る事。恐らく、空気中の水分を集めたのだ。
そしてそれは、弾けるように、一つの矢のように飛び出した。
ーーだが、問題はその標的。
驚くべき事に、奴が狙ったのは俺ではなく、ウサギだった。
「え?」
ウサギは呆けている。まさか自分が姉から攻撃を受けるなど、思いもしなかったのだ。
今のピスケスは我を忘れている。今までも何かが起こり、積もり、心は飽和状態だったのだろう。そして決壊した。ダムから飛び出す水を止める事は出来ない。
だからといって妹を傷つけていい理由にはならないが、このままでは双方が後悔するだろう。
放たれた水は、止まらない。
ーー全く、同情するぞ。
動けないウサギを庇うように、俺は飛び出した。ピスケスに背中を向ける形で。
直ぐに訪れる衝撃。
皮膚が突き破られて。
口から血が飛び出す。
「……え?」
再三、ウサギの戸惑い。
自分の頬にかかった血を、恐々と触れるウサギに、俺は言った。
「ウサギ……お前は、やりたいよう、やれ。安心……しろ。その全てを、俺は……許す」
そこまで言って、引きずるように体を倒す。倒れて気づくのだが、背中が少し痛い。
遅れてウサギがしゃがみこみ、体を揺すってきた。それは悪手だ。アホ。
「アリス? ア、アリス! ダメだぞ! そんなのダメだぞ!」
相変わらず、語彙の少ない言葉だ。
しかし……
だからこそ気持ちが伝わってくる。素直だからだな。
「アリスっ………姉ちゃん、何で!」
咎めるようなウサギの叫び。
「ち、ちがっ、私は……私は」
ピスケスは最初こそ否定したが。諦めたのか、今が好機だと、開き直った。
「今の内よ、ウサギ。一緒に帰りましょう。貴女を縛るものはもうないの。だから、一緒に……」
「近づくな!」
「っ……」
見えない間に、目まぐるしく変わる状況。恐らくウサギに近寄ろうとしたピスケスだったが、俺を守るようにしゃがんでいるウサギが拒否したのだ。
きっと、ピスケスは苦しみに溺れている。生憎と奴はえら呼吸ではない。
「ウサギ、何で」
「姉ちゃん、それ以上近づいたら、今度は私が容赦しないぞ」
「そんな、酷い。酷いよウサギ……どうしてそんな事を言うの……私は、貴女の為に」
「でも、近づいちゃダメだからな。今の姉ちゃんは変だ。アリスは優しいのに、こんな事しちゃダメなのに」
そこまで優しい優しい言われると、別に全然そんな事はないと否定したい。
大体ウサギは、俺に甘すぎる。
……ハッ、なるほど、これが吊り橋効果。いつの間にか俺は、ウサギからの好感度をあげていたのだな。
罪な男だアリス。幸いにもウサギの思考回路が小学生程度だったから良かったものの。
ーーなんて、カレハナにバレたら極寒の視線を浴びせられる様な事を考えている間に、この場は張り詰めたものになっていた。
「やっぱり、その男なのね。その男がいるから、生きてるから悪いのね」
「姉ちゃん」
「選んでウサギ。二つの一つよ。私と来るか、その男が死ぬか」
「姉ちゃん!」
再び、ピスケスが水の弾丸を用意して。俺にとどめを刺そうとしたその時。
空から剣が降ってきた。
慌てて腕を引っ込めたピスケスは、流れるような動作で後ろへ後退したが。
今度は空から2つほど種が降り、川に落ちると、とんでもない成長スピードで木が生えた。川の水をせき止める勢いで根から水分を吸い込むそれは、ピスケスの地の利が消えた事を意味する。
ヒーローは遅れてやってくるとはいうが、この男がそうだとは認めたくない。
空からカッコつけて降りてきた男は、地面に突き刺さる剣を抜き、鋒をピスケスに向けながら言った。
「選択しろ。今ここで魚の餌となるか、金の国に逃げ去るか」
灰色の髪に灰色の目。
そして、額に角を生やした男。
その名は……
「グレイーー地獄の番狼!」
「気安く呼ぶな雑魚。だがまあ、その通りだ。帰ったら金の国に伝えておけ。黒の国には、三つの頭を持つ容赦なき猛獣がいるとな」




