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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

水が僕らの敵になった日

作者: gem

 …


「…なにしてんのー学校、遅れるわよー」


 ハッとして時計を見ると針は既に登校するいつもの時間を指していて、僕はあわてて鞄を手に取った。

 机においてある教科書を詰め込むと、玄関前に置いてある弁当と水筒を、ふと嫌な予感がして弁当袋の中を覗き込む、案の定箸が入っていなかった。

「母さんーはしー」

 台所へ向かってそう呼びかけると「あー忘れてたわぁ」とのんきな声が返ってくる。

「ほら、急ぎなさい、…君が待ってるわよ」

 よくいう。


 首をすくめると箸を受け取り弁当の中へ入れ、さらに鞄へと詰め込んだ。

 だいぶよれて古くなった革靴に足を入れると、玄関前にかかっている鏡を見て髪をかくにんする「…誰が見るわけでもないでしょうに」ボソッとそんな声が聞こえる。余計なお世話だ。


「いってきます」

 特に振り返ることもなく、ドアを開けてそう告げる。「いってらっしゃい」と、いつも通り返ってくる返事がなぜだかやけに耳に残った。


 …と

「おっせーぞ」

 待ってくれていたらしい悪友が文句一言。「わるいわるい」と大して悪わずにそう返すと、向こうも特に気にすることなく踵を返して歩き出した。


 あわてて後を追いかける。

 早く行かなければ、そんなに時間に余裕はない。


 ――どこへ?



 ふと、そんな疑問が頭をよぎった。

 どこへって、そんなの学校に決まっている。そう自答しながら離れていく悪友の背中を追いかける。


「待ってよ」


 そう声を投げかけるが、聞こえていないのかずんずんと進んでいく。

 それを必死で追いかけるのに、なぜか追いつかない。


 足が重い。

 うまく、うごかない。


 まるで水の中を進んでいるような――


「…うっ」


 ずきり、と頭が痛む。

 衝撃と共に襲ったその痛みに、僕は思わずうずくまる。


 水、波の…おと?


 ――ずきり


「おい、どうした、大丈夫か」


 戻ってきたのか、悪友の声がそばに聞こえる。

 差し出された手をつかみ、何とか立ち上がろうとした時


 ――「ぁ…」

 悲鳴の、ような。

 聞き覚えのある、声。苦しみを訴える。


 振り返るとそこにあったのは、壁。大きな水の壁。轟音を轟かせながら凄まじい勢いで迫ってくる。

「…おいっ逃げなきゃ…!」

 つかんだままの手を引っ張り走り出そうとするのにそれは動かない。


「…逃げるって、どこに?」


 暗く、よどんだ声がする。

 気がつけば掴んでいる手は、長い間水に浸かっていたように冷たく、湿ってふやけていた。


「え…」


 顔を、上げる。


「逃げるところ?水のないところなんてどこにもないじゃないか」


 ぼこぼこに膨れ上がり、水を吸った顔。

 うつろな眼が僕を貫く。

 真っ黒な口が言葉を紡ぐ。


「だってこの世界はもう――













「…っ」

 目が覚めた。

 いきり立った心臓が全力で脈動する。


「夢、か」

 そう確認するように呟くと大きく息をついた。

 じっとりと汗ばんだ身体がぬめりつく。

 早朝の5時をくらいだろうか、窓を見るとゆっくりと空が白んでいくのが感じられた。


「ん…」

 腕の中でわずかに身じろぎするものがあった。

 僕はその幼い少女の頭を軽くなでると布団をかけてやり、まだ起きないうちに汗を流すために部屋を出て屋上へ向かった。




 ◆◇◆◇◆◇



 ――この世界は水に沈んでしまった。


 2XXX年。人に溢れた世界はそれを収容するために多くの街が都市化し、たくさんの高層ビルが乱立した。

 世界は常に水に、食料に、資源に、エネルギーに悩み、いずれ底がつくだろうといわれ続け、それでも大多数の人が何を考えるでもなく普通に暮らしていた。


 だから月に彗星が衝突したなんてニュースを聞いても何も思わなかった。

 せいぜい、直接落ちてこなくてよかった――なんてぼんやりと考えてたくらいだ。

 だけど、その日から明らかに世界は変わっていった。


 世界各地に降り注いだ雨。何百年もの間雨がなかったといわれるような乾燥地帯に雨が降り、鉄砲水が発生しただとか、豪雨による被害が何百人を超えただとか、そんなニュースが日々繰り返された。

 海の水位は上昇し、標高の低い土地は水没した。

 月に落ちた彗星が氷の塊だとか、それが地球に降り注いで蒸気になってこの雨を降らせているとかなんとか。学者達はテレビで口泡を吹かせながらそう解説していた。

 そんな非現実的な匂いを感じながら、僕は、いやこの世界の多数の人は極めて冷静にいつも通り暮らそうとしていた。




「…ここから引っ越す」

 僕の現実が非現実となったのはそんな父さんの一言だった。

 じきにこの町も沈む――確かにそういわれてはいたが、強く現実感を抱いていなかった僕は困惑した。


「まだ運通が機能しているうちにもっと高い土地へと移るんだ。逃げよう。」

 そう父さんは行った。そしてそれはすぐに実行され、三日後には僕ら家族は必要最低限の荷物だけを持ち大きな船へと乗り込んだ。

 それは英断だったのだろう。同じように考えた人たちもいたが、まだその数は少なく、十分に受け入れてもらえそうだった。

 行き先はアメリカ。名だたるロッキーの山々ならば水におびえることもなく暮らしていけるだろうと父さんは笑って言った。


 徐々に離れていく日本をぼんやりと見つめながら、それでも僕はまだのんきなものだった。

 客室でゲームをしながら、漠然とこれからの生活を考えつつもふわふわとした気持ちの上にいた。要するに現実味がなかったのだ。そしてそんな気持ちのまま船に乗って一時間も過ぎないうちに、そのときは訪れた。


 そのときたまたま外の空気を吸いに甲板に出ていた僕は確かに見た。光の尾を引いて落ちて来る流星を。いくつも、いくつも。それと同時に船内アナウンスが流れたのだ。津波が来る、と絶対に避けられない何百、いや何千メートルもの大津波が。


 しん…と静まり返った船内。人々は考えることのできない状況に遭遇したとき、パニックになるよりも何もできなくなるのだな、と、同じように真っ白になった頭の中でぼんやりとそう思った。

 そんななか、僕の父さんと母さんは僕の腕を掴んで走り出すと、緊急用の脱出ポッドがある場所へと連れて行った。そしてなんだかわからず混乱している僕を抱きしめると、少しの食料と共に僕をポッドに詰め込むとドアを閉め、鍵をかけた。


 そこで初めて僕は気づいたのだ。僕だけでもこの大災害から生き残らせようとしていることに。それと同時に僕は激しくポッドの壁を殴った。鍵を開けようとも外から強い力で押さえつけられているのかびくともしない。泣き叫ぶ。開けてと、半狂乱になりながら叩いた手は血がにじんでいた。


 そして次の瞬間、衝撃が襲い、浮遊感と共に僕は津波が来たのだと、どこか冷静な頭で考えた。それと同時に外にいた両親がどうなったのか、なんて。視界が真っ白になり恐ろしい恐怖感が襲い、耐えられぬまま僕は意識を失った。


 ――目を覚ましたとき、波の中にいるような浮遊感がなかった。恐る恐るドアを開けるとそこはどこかの山らしかった。幸運にも――不運なのかも知れないが――僕は生き残った。生き残って、しまった。




 ◆◇◆◇◆◇




 何日も眠っていたらしい僕はとてもおなかが減っていて、とてもそんな気分じゃないのに身体は無意識に食事を開始していた。ポッドに残っていた食料を食べ、水を飲み、やがてある程度満たされたところで泣いた。とても受け止め切れない現実にただただ涙が溢れてきたのだ。


 ――まぁそんな涙もしばらく流してないんだけど


 ビルの屋上に残っていた貯水槽に堪っていた雨水で身体を流した僕は身体を拭き、飲み水用にと別にとってある水をいくらか汲むと再び部屋へと戻った。

 少女は、まだ寝ていた。

 ほっと一息つくと起こさないようにそっと抱き上げる。


 ――この子は山についたその翌日に見つけた。

 なにか食べるものがないかと探していたときに見つけたコンテナの中にうずくまるように眠っていたのだ。

 まだ5,6歳と思えるようなその子を見つけたとき僕はほとほと困った。助けてあげたいけど助けられるほど自分には余裕がなかった。見なかったことにしよう…と非情だが仕方ないと割り切って踵を返そうとしたとき


「う、わああああああああ」と、泣き声が響いた。それでも僕はそこから立ち去ろうとした。しかしその泣き声がどこまでも耳に響き、耐えられなくなって僕はコンテナに戻った。

 そして泣き叫ぶその少女を抱き上げると不器用に背中を叩いた。


 少女は泣き止まなかった。一晩中泣き続けた。やがて疲れ果てて泣き終わったとき、僕の腕に抱かれたまま眠りについたのだ。同時に疲れていた僕もそのまま眠ってしまった。


 翌日、目を覚ました僕は少女の様子を伺うと少女もまた起きていた。…しかし、その目はどこか遠くを見ているようで虚ろだった。

 声を掛けても、叩いても全く反応がない。まるで魂をどこかへ捨ててきてしまったように少女は虚ろだった。困った僕はとりあえず食事を探すためにその場に置いておこうとしたが、少女は僕の腕から離れた瞬間再びわあわあと泣き叫ぶのだ。あわてて抱き上げるとぴたりと泣き止み、再びどこか遠くを見る目で僕の腕の中に収まった。そしてそのまま僕はこの少女と生きていくことになった。


 その後気づいたがそのコンテナの中には食料が大量に積まれていて、僕、いや僕らはそれを元にしばらく生きていくことができた。また、湧き出る水のおかげで渇くこともなかった。

 そしてとある人物にあったことにより、僕らは山を降りてこの町で暮らすことになるのだが――


 ぱちり、と少女が目を覚ました。相変わらずその目は虚ろだが、起きてすぐ、僕を探すようにくるりと動くようになった。そして僕を認めると再びどこか遠くを見ているような目に戻る。


「おはよう」返事が帰ってくることはない。それでも僕はそっとその頭をなでながら声を掛けた。





 起きたらまずは朝食だ。

 変わり映えのない保存食から適当にチョイスする。食卓に置くと小さな手がすっと伸びてきて缶詰を開けにかかった。

 …なんか最近食事のときだけは行動的になるような気がするな…無表情でスイートコーンの缶詰を食べ始めた少女を見る。スプーンを使って少しずつ、しかし黙々と口に運ぶ姿は表情があればとてもかわいらしいだろう。その動きが全く止まらないことから確かにおいしいのだとは思うが…どうにも傍から見たらいやそうに食事を続けているようにしか見えない。不躾に眺めながらそう思った。

 やがてコーンを食べ終えた少女はスプーンを置くと膝を抱えて目を閉じた。寝てるわけではない…と最近気づいた。だが、意識があっても反応がないのを起きているというのだろうか。

 昔読んだ本に生きているのと死んでいないのは別だなんてことを聞いたことがあるが、まさにそんな状態だ。この子にとって僕に保護されてこうやって生き長らえている事は本当に幸せなのだろうか、あのコンテナで誰にも見つからずに死んでいったほうが――


 頭を振ってそんな考えを打ち消す。少なくとも今は考えていても仕方のないことだろう。かじっていた乾パンを飲み込み、席を立つ。食卓に放置された缶を片付け、再び食料の置いてあるスペースに行くといくつかの保存食を手に取った。まだ潤沢にあるこの食料もいずれはなくなるだろう。それまでに安定した食料源を確保しなければならない。ぎゅっと缶詰を握り締めて踵を返した。


「…おいで」

 少女の肩を叩く。ゆっくりと顔を上げた少女はぼーっと僕の顔をみると椅子から立ち上がった。それを確認すると手を引いて部屋を後にする。向かうのは二つ隣の部屋。そこには僕らがここで暮らすことができるようになった命の恩人がいる。

 コンコン、部屋のとびらを叩くが返事はない。ここのとびらは厚いのでおそらく聞こえていないのだろう。かといってチャイムなんて機能してないし、何もなしに入るのはなんとなく憚られる。結局そんな無意味なことをしつつ、扉を開けて部屋に入った。


「…じいさん、きたよ」

 部屋の構造は僕らの部屋と同じ。寝室にあたるその部屋の前に立つと声を掛けた。

「おぉ、おはよう」

 部屋の中にいるのは70くらいの老人だ。僕らの姿を認めるとくしゃりと笑って招き入れる。その足元の、血の付いた痛々しい包帯をみて、きゅっと胸が痛んだ。そんな僕の変化を察してじいさんは優しい手つきで頭をなでた。



 ◆◇◆◇◆◇


 じいさんは僕らが山を出るきっかけとなった人で、いわゆる命の恩人、だ。

 あの子を見つけてから1,2週間ほど経ったころだろうか。幸いにも例のコンテナの中には食料が十分にあったし、山から湧き出る水のおかげで水にも困らず、飢えと戦うことなく生きていた。とはいえ山の植物は塩を被ったせいか、ほとんどが駄目になっていたし、そんな中でも食べられそうなものを僕は知らなかった。食糧供給のあてはなく、じきに訪れるだろう飢餓に僕は絶望を感じていた。

 ―もういっそ死んでしまおうか?

 そんな考えと共に僕は海水が打ち寄せる岸で毎日あてもなく遠くを眺めていた。


 だがそのたびに腕の中の温もりが動いた。一人ならともかく、この少女を捨てて、見殺しにして、一人で死ねるような決意も持てず、かといって共に死ぬような真似もできなくてただただ日々を過ごしていた。



 そんなある日のことだった。船が見えたのだ。エンジンも積んでいないような小さな船。初めはただ流されているだけだろうと思った。そこらじゅうに流れ着いた瓦礫やごみのように波が浮いているものを運んでいるだけだと思ったのだ。

 けれどその船は確実にこちらへと向かってきていて、明らかに流されるままの動きではなかった。そして僕は見た。その上に乗って櫓をこぐ一人の人間の姿を。そのことが信じられなくて呆然としている間に船が岸に辿り着き、その人が岸に降り立って僕になにかを話しかけて笑って――



 覚えているのは温かい椀のぬくもりだ。パチパチと火の爆ぜる音がしていて、すっかりと日が暮れていた。老人は火の番をしながら鍋をかき混ぜていて、膝の上にはいつもの重みがあった。ずっと忘れていた温かな食事と火のぬくもり。文明的に生きるって、こんなに素晴らしいことなのか…なんてどうしようもない考えが頭をよぎって、以前のような日常をそこに感じたとき、ぼろぼろと涙が溢れてくるのを止められなかった。魚介の香りがするその汁が体中に染み渡っていき、嗚咽と共に椀を傾けた。


 ―涙が出るほどうまいか、そりゃよかった、もっと食えよ

 にんまりと笑いながらおかわりを渡してくる老人をみて、やっと僕らは二人ぼっちではなくなったのだと実感した。この世界には自分達以外にもこうやって生きていく人たちがいる。そんなことがようやくわかったのだ。



 それから、少女にも汁を飲ませながら、僕は老人―じいさんと互いに状況を話した。じいさんは山奥でサバイバルというか、隠居というか、そのころにはかなり世界中が慌ただしくて山奥でのんびり余生を過ごそうとしていたらしい。そしてあの大津波が起きて山を降りたところ、町は変わり果てていて人もまるで見つからず、水のせいでまともに捜すこともできない有様だったらしい。たまたま近くに流れ着いていた船で、町中に行くことができたが、それでも人は居らず、そのまま流れている食料やら何やらを拾い集めて生きていたみたいだ。


 今日は山菜かなにか食料がないかと船に乗ってここに辿り着き、そして偶然僕達とであったのだ。

 その後、夜が明けるまで今後のことを相談し、僕らが暮らしていたコンテナにやってくると積めるだけの食料を船に乗せて、じいさんが暮らしているという高台のマンション―つまりは今の暮らしている場所―にやってきた。そこはいくらかの設備や食料があって山よりもはるかによい環境だと思った。そして暮らし始めて、今に至る。




 ◆◇◆◇◆◇



「で、どうじゃ、その後は」

 ガリガリと乾パンをかじりながらじいさんが尋ねる。

「順調だよ、もうだいぶ住める環境になってきた」

 聞かれたのは今後の生活のことだ。僕らはこのマンションを捨てて山に戻ろうと計画していた。

 というのも今までこのあたりで落ちていたり沈んでいる食料を拾ってきたのだが、それにも限界があるだろうとじいさんが提案した。そこで昔じいさんが隠居していた山奥の家に居を移し、自給自足の生活ををするということだ。

 僕はここに来てから約一年、じいさんから様々な生きていくためのことを教わった。すなわちサバイバル術。食物の育て方、道具の使い方から動物のさばき方に至るまで山で一人で生きていくのに必要だと思われる技術だ。

 じいさんは中々にスパルタで僕は必死でそれを覚え、身につけた。まだまだじいさんには遠く及ばないがそれでもどうにか及第点をもらえるようになった。おかげで一年前はもやしっこのような僕だったが、今じゃ立派ながタイになっていると思う。大災害の前だったら海に行って見せびらかしたいくらいだ。

 とはいえ、それでもじいさんには遠く及ばない、と思うのだが。


 一回り季節が廻り、暖かくなってきたこの季節に僕はいよいよ生活を移すための準備を始めた。

 集めた食料や生活用品などの移動、畑や井戸の掃除などの環境を整える。一年前じいさんが暮らしていただけあってそのままでも使えそうではあったがやることはいっぱいあった。

 なにせ僕らが漂着した場所よりずっと山奥だ。車なんてないし船だって手漕ぎだから行き来するだけでも大変な作業だ。それを僕一人で、すべてやるのは本当に辛い。だけどちゃくちゃくと生活空間が作られていくのはなんともいえない達成感があり、山で生きていたころの絶望など思い出せないくらいに充実していた。


「もう十分住めると思う。だから来週くらいにはとりあえず皆で移ろうそうだ、」

 そうじいさんに提案する。報告を聞いていたじいさんはそうじゃなあと頷いた。

「それに安定したあの場所ならじいさんの怪我も治せるでしょ、僕一人ならもっといい薬も見つけられるだろうと思うし…」

 そういってじいさんの足を見る。包帯でぐるぐる巻きになり、申し訳程度に添え木がそえられている。かなりひどい怪我だ。

 一ヶ月前、及第点といわれた次の日に帰ってきた僕が見たのは瓦礫に片足を押しつぶされたじいさんだった。傍らには少女が手をぼろぼろにしながら瓦礫ををどけようとしていて、じいさんはやめなさいと優しい声で頭をなでていた。

 急いで僕が瓦礫をのけ、事情を聞くと突然廊下の屋根が崩れてきらしい。その真下にいた少女をかばったじいさんが足を挟まれた。そのおかげで少女のほうには怪我がなかったものの二人だけではどうすることもできずにいたらしい。

 後々確認したところいくつかひびの入ったような場所があってガタがきているのがわかった。あれだけの大津波だ、むしろこの建物の原型が残っていたほうがすごいだろう。同時に改めて早く移動しなくてはいけない理由ができた。


 だが、じいさんの足はかなり悪い状態にあった。

 当然だ、こんな状況じゃ病院どころかまとも医療道具もない。僕らができたのはできる限り清潔なシーツを巻いて包帯代わりにするのと、家に残っていた消毒液で消毒するだけだ。よくなるはずもない。

 動かなくなったじいさんは急激に年をとった。顔のしわは増え、講堂の一つ一つが緩慢になった。動かないということはこれほどまでに人を老けさせるのだろうか。そんなじいさんを毎日見るたびに胸が締め付けられ、なきたくなる。


 でも、だからこそ、早くじいさんが安心して落ち着ける環境に移してあげるのが先だ。涙が出そうになるのを頭を振って切り替える。そう思いなおしてあげようとした頭にそっと小さな手が触れた。そうして不器用に頭をなでる。少女が首をかしげながら僕の頭に手を伸ばしている。どうしようもなく切なくて、その手を引き寄せるとぎゅっと抱きしめた。その様子を暖かな目で老人が見つめていた。



 ◆◇◆◇◆◇



 じいさんの許に少女を預けて僕は舟を漕ぎ出した。目的の山までは大体1時間ほど。そこから山に入ってさらに1時間ほど奥へ行くとようやく目的地に辿り着く。以前はここへ来るだけでへとへとになったのに、今じゃこうしてすぐ作業に入るわけで、人の身体もなかなか優秀なものだなと独り言ちた。とはいえここでやる作業のほとんどはもうない。井戸は汚い水の汲みだしと掃除は終わり、後は水が沸くのを待つだけだし、畑も一通り耕して種を植えてある。家の修理もほとんど終わっていてあとは本当に細かいところだけだ。今日は畑周りの柵作りだ。家の中から道具を持ってくると早速作業を始めた。早めに終わりたいな。


 ――手元が翳った。低くなった日が木々に遮られたのだ。暗くなると帰れなくなるので早々に切り上げて片づけをする。以前、熱中しすぎて暗くなった挙句帰れなくなり、ここで一晩過ごす羽目になったのだが、その当時はまだ家の隙間風がひどく寒い上にお腹は減るし、翌日帰ったら帰ったですねた少女に丸一日顔を向けてもらえず散々だった。あれはなかなか心に来た。それ以来まだ早いかな、と思う時間に帰るようにしている。


 再び二時間ほどかけて帰ると既に空が赤く染まっていて、じいさんの部屋からは水平線に沈む太陽が美しく見えた。屋上に行って汗を流すと3人で夕食をとり、部屋に帰って真っ暗な部屋で特にすることもなく眠りに付いた。次の日も同じように出かけ、もう2,3日後にでも引っ越すと決めた。そしてその日も眠りに付いた。翌朝じいさんに引っ越す旨を伝えようと決めて――



 ◆◇◆◇◆◇



 ――冷たいものが背筋を滑り落ちる感覚がした。ハッと目を開くとまだわずかに白み始めたばかりの空が見えた。まだ春になったばかりでこんな時間帯は冷え込む。そんな寒気を感じたのだろう―そう思って再び布団にもぐった。だが眠れない。なぜだか目が冴えて不思議なくらいだった。くいっと服を引っ張る感覚があった。顔を向けると真っ黒な瞳がこちらを見つめていた。なにかを訴えるように。

どうした―と声を掛けようとしたときだった。


 ぐらり、と世界が揺れた。



 一瞬で身体が硬直する。

 何をどうしようと抗えない恐怖が身体を縛りつけた。揺れは徐々に大きくなり部屋の外からなにかが崩れる音が聞こえた。・・・一分ほどだっただろうか、僕には何十分にも感じられる時間を過ごしてようやく揺れは収まった。しばらく動くこともできなくて金縛りにあったようにベッドの上に横たわっていた。

 再び外のほうでなにかが崩れる音がしてようやくのろのろと起き上がる、ぺしっと頬を叩かれる。黒い瞳がじっと見つめていた。深呼吸をすると少女の手を引いて立ち上がった。じいさんの様子を見に行かなくては。握った小さな手はじんわりと湿っていてひどく熱かった。


 部屋を出る。ずきりと頭が痛んだ。同時になにか、遠く耳鳴りのような音が聞こえた気がして、僕はそれを無視してじいさんの部屋へと向かう。少し開けづらくなったドアを無理やり開けると中に入る。いくつかものが崩れて散らかった部屋の中にじいさんはいた。

ベッドの上に静かに、目を瞑って座っていた。その足元は真っ赤に染まっていた。


「じいさん…その足…」

「棚が崩れてきた。何とか引っ張り出したがしばらくはまともに動かんじゃろう」

「と、とりあえずその血だけでも止めなきゃ…」

「ならん」

「どう…して」


 じいさんはゆっくりと目を開けた。穏やかな目だった。


「分かっているだろう。聞こえないはずがない。」


 ずきり、と頭が痛む。耳鳴りがひびく。


「…でも」

「津波が来る。わかっているだろう」


 再度言い聞かせるようにそういった。

 遠く聞こえる波の音。あの夢で聞いた水のおと。


「…なら、逃げなきゃ」

「そうだ、お前とその子でな」

「じいさんは」


 分かっている。


「二人の足手まといを連れて安全なところまでは逃げ切れない」


 でも


「だから、その子を連れて早く逃げなさい」

「じいさ…」

桃也(とうや)!」


 その声が僕の口を閉ざした。決して大きな声ではないが、意志のこもった有無を言わせない強い声。


「分かっているだろう…にげなさい」


 黙って立ち上がる。

 僕は、僕がやらなきゃいけないことは。


「じいさん…今まで、ありがとうございました」


 深々と頭を下げその部屋を後にする。時間がない。必要最低限の荷物を準備しなくてはいけない。

 少女をそこに置いて部屋を出た。



 ――「生きろよ…桃也」


 残された老人は開け放しのドアを見ながらぽつりと呟いた。もう既に身体に力が入らなくなっていた。血を流しすぎたのだろう。そのままふっとベッドに倒れ、目を閉じた。

 良い人生だった。家族も知り合いもいなくなって山でその生を終えようとしたその後に二人の子とこんな風にめぐり合えたのだ。あの大災害も少しはいいことをする。どうか彼らの今後に幸あれと願う。


 薄れていく意識の中で、ありがとうと聞こえた気がした。

 そしてその意識が戻ることはなかった。


 ◆◇◆◇◆◇



 水はすっかり引いていた。

 震源がどこで、どれほどの大きさの波が来るかは分からない。けど確実にここは沈むだろう。

 僕は少女を抱きかかえると猛然と走り出した。目指すのは僕らが最初に出会ったあの山だ。あそこならばそれほど遠くない。そこで波をやり過ごしてから新しい山の住処へと向かう。


 走る。


 瓦礫を越え、水溜りを踏み、ただただ走る。

 心はどうしようもなく重いのに、不思議なほど身体は軽かった。

 どれほど走ったか分からない。けど、気づけば僕は見覚えのある崖にたどり着いていた。じいさんとであったあの岸は、水が引いて小高い崖になっていた。


 ただ死ぬだけだと思っていたあの時。その中で生きる道を示してくれたじいさんはもういない。

 がくりと膝が崩れ落ちて足が止まった。ひどく頭が痛んで、海鳴りが次第に大きくなっていた。


「なん…でっ」

 食いしばった歯から血が流れた。鉄の味が口の中に広がる。

「僕らが…何をしたっていうんだ」


 悲しみがやり場のない怒りとなって溢れていく。遠く見える濁流を睨みつけ、思いっきり地面を叩いた。


 びくりと膝の上が震えた。ハッとなって目を向けると黒い瞳がじぃっと見つめていた。熱くなった感情が冷めてゆったりと解けていく。代わりに頭が熱くなってほろりと水が零れ落ちた。

それが何滴も何滴も続いて少女の顔を濡らした。流れてくるそれをとめることをできなかった。


「なか…ないで…」


 鈴のような声が耳をくすぐった。次いで頬に添えられた手が火照った顔をゆっくりと冷やしていった。

 水がすぐ近くまで上がってきていた。少女を抱きかかえると再び山を駆け上り始めた。その足取りにもう迷いはなかった。

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