特別なことは何もなくて2
ピピピピ…
スマートフォンのアラームが鳴り響く。
暖かな布団の中の篠山えりかは手を伸ばし、それを握りしめ、顔の近くまで持ってきて画面を確認してからタップし、音を止めた。
7時。
電車の時間は8時10分。
まだいける。
スヌーズ。
スマートフォンをぽいっと投げ、再び布団に潜り込む。
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ピピピピ…
7時10分。
同じ手順で確認した篠山えりかは、再びスマートフォンをぽいっと投げ、布団に潜り込んだ。
まだいける。スヌーズ。
毎朝これを数十分〜数時間繰り返し、彼女は起きる。
しかし、今日は違った。
彼女はぱちっと目を開けた。
数時間前に、酔っ払いに絡まれたこと、あれは現実だったのか。
「いや夢だな」
1人しかいないこの部屋でボソッとつぶやいた。言い終わると再び静寂が訪れる。
「…………」
目を閉じると、あの男の泣き顔がまぶたの裏側に映る。男の泣き顔見たのなんて幼稚園児以来だ。
(起きよう)
顔を洗って歯を磨いて、着替えて、カバンの中身は昨日のまま、朝ごはんは1回目の休憩で昼と兼ねるつもりだったので、これで準備は完了。
7時30分。
化粧はいつもバイト先の最寄り駅のトイレでしてるけど…今日は家でして行こうかな。
…いや、もう行こう。
靴を履き、部屋の玄関を出た。
篠山えりかにとって素顔で外を出ることにあまり抵抗は感じられない。
アパレル店員をしているから、見た目に無頓着というわけではない。
アルバイトの時は、お客様に対し、恥ずかしくない程度の見てくれでいようという心構えではいる。
『見せる相手がいる』からである。
イヤホンを耳につけ、スマートフォンの音楽アプリを起動する。
篠山えりかは音楽機器を持っていないので、容量が大きい機種のスマートフォンに音楽を詰め込んでいる。
200曲ほど入った中で、シャッフルをかける。
♪〜〜
high estの『さくら』という曲がかかる。
篠山えりかのスマートフォンの中にはhigh estの曲は80曲弱入っているため、3回に1回はhigh estの曲が流れる。
この『さくら』は、大学も後期に入った今には季節外れだが、それでもメロディと歌詞が好きだから何度でも、ずっと、聴いていられる。
さくらの花びらが散るように、僕の恋までも何かを伝える前に散ってしまう。僕の好きな君が離れていってしまう。僕はどうしようもなくて、それでも君のことを忘れたくなくて。
そんなニュアンスの歌だ。
(あの時の…)
(昨日の夜の瑞樹と同じ。)
『別れようって切り出されたのが悔しくて、辛くて』
昨日の夜の清川瑞樹は、そう言いながら泣いていた。
何年も前からこの歌で、好きだったことを忘れられないと、言っていたのか。
それなのに私は、時間が経てば忘れちゃうんだからと言った。
あそこで慰めるべきだったのか、何が正解だったのかはわからない。彼にとっては辛辣だったのかな。
この歌の歌詞に、『次はもう離さないよ』とある。
この『次』とは、昨日のことを言っているのか、それともずっと前のことなのか。
もう離してしまったことに違いはないけど。
あたりまえだけど、清川瑞樹の人生経験からhigh estの曲が出来ているんだ。
私がこの曲に助けられている裏で、清川瑞樹は女性と関係を築き、傷付き、傷つけられてきたんだ。そりゃあ、彼の人生なのだから。
なんとなく、そんなことを考えていたら1人で気まずくなってしまった。
なんていうか、闇だな…
…って、なんで私が傷ついてんだろ。関係ない関係ない。
篠山えりかは考えるのをやめた。
そんなこんなで駅に到着し、駅のエスカレーターに乗り、改札を目指した。
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「はっ…」
目がさめると、アルバイトの最寄り駅で電車の扉が開く瞬間であった。
篠山えりかはさっと立ち上がり、流れに任せて電車を降りた。久々に通勤ラッシュの時間帯に席に座れたので、熟睡してしまった。
危ない危ない。
ホームの階段を下りつつ、彼女は女子トイレの鏡のあるスペースを目指した。
今日は時間があるから、丁寧に化粧をすることにした。
と言っても、大したものは持っておらず、手頃なメーカーが揃っている。
液体ファンデーションを塗って、あっ…粉忘れた。マスカラをいつもより丁寧に、顔がきついからアイラインをタレ目っぽく細く引いて、練りチークを頬の笑うと高い位置につけて、リップクリーム塗って…あとアイラインをシャドウでちょっとぼかして…
…お客様のための、最低限の身だしなみ。
この前、化粧濃いって言われたけど、
そんなに濃いのかな。
シャドウが濃いのかな。
老け顔やだなあ。
少しくらい可愛くなりたいなあ。
でも、そのための努力なんかしてなくて、だから特にかわいいというわけでもなくて、
丁寧に、と言ってもいつも5分以内で終わるところが10分弱になっただけで
鏡の前にいる自分が劇的に変わったとか、そんなわけはなくて
平凡な自分だ。
化粧道具をポーチに入れ、かばんにしまいこむ。
手を洗って、ハンドドライヤーの方にくるりと向きを変えたら
(うっわ、最悪)
故障中と封をされていた。
はぁ…今日ハンカチ忘れた…!
(はぁー頑張ろ…)
人並みにコンプレックスもあるし、自分のことが大嫌いで惨めになることもあるけど、それでも自分のことは大切だし、何を考えているのかわからないと言われても、他の人と似たような悩みや願望を持っているし…
特別なことなんて何もない。
心の奥底では信じていたいのかもしれないが、私はシンデレラじゃないし、白馬の王子様なんて迎えに来ない。
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改札を抜け、しばらく歩いたら、篠山えりかがアルバイトをしているデパートの従業員入口がある。
入館証を警備員に見せると入れる仕組みだ。
篠山は財布の中を探った。
大切なものはすべて財布に入れている。
レシート増えてきたからそろそろ整理しなきゃ…
ポイントカードに電子マネーに…
あった、入館証。
入館証を警備員に見せ、奥に進んだ。
今日は思ったより早く財布の中から見つけられた。
…あれ?
立ち止まり、入館証を財布の中にしまうのと一緒に再び中身を探った。
ポイントカードに電子マネーに、入館証に…
よく使うカードは小銭を入れるファスナーの中に入れているはずなのに。
それ以外のカードも全部見た。
学生証ない…???
なくしたの???
(最悪だ)
気分が最低まで落ち込んだが…
不思議と焦りがなかった。
(なんでこんなに冷静なんだろ)
休憩中に交番か駅行くかなぁ…最近家とバイト先しか往復してなかったし。
だめだったら大学の学生課で再発行…
ため息をついてから、タイミングよく来たエレベーターに乗り込んだ。
「はーあ。」
(貴重品をなくしたの、生まれて初めてだ。忘れないようにしなきゃ。)




