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魔法使いのナイフ  作者: okera
2/2

ナイフ―下

 十月二十日 木曜日


 跳ね起きた。全身に汗をかいていた。気持ち悪い。

「はぁ……はぁ……」

 動悸がなかなか収まらない。枕は水を掛けたように濡れている。泣いていたらしい。

 何の夢を見ていたか思い出せなかった。ただ、もう目を瞑りたくない。

 時計の針は午前四時半。一時間は眠ったか。

 ベッドから降りて立ち上がった。

 軽くふらつき壁に手をつく。

 携帯で日付を確認した。

「十月……二十日……。あれから一週間。もう、一週間。くそっ……何も決められていないじゃないか」

 胃が痛む。異物が体の中を這いずり回っているようだ。

 あの自称魔法使いは一週間後の同じ時間、午後六時にくると言っていた。

 どうする。俺は本当に人を殺せるのか? そんな事出来るはずがない……。

 沙奈の顔がちらついた。

「無理だ……俺には……」

 座り込んだ。絨毯を引いておらず、フローリングの床は冷たい。

 正直、学校へ行きたくなかった。だが塞ぎ込んでいてもしかたない。

 立ち上がりシャワーを浴びに行った。


     ○


「顔色悪いけど大丈夫?」

 昼休み、沙奈と図書室で貸し出し当番をしていた。

「ちょっと寝不足で……」

「どうして?」

「本をさ……読み始めたら止まらなくなって、結局最後まで読んじゃったよ。で、朝になってたんだ」

 用意していた言葉をそのまま言う。

「あー私もたまにやっちゃう。きりの良い所で読むの止めようと思うんだけれど、先が気になるんだよね」

 沙奈は悪戯っぽく笑い、今日はちゃんと眠ってね、と優しく言ってくれた。

 素直に沙奈は信じてくれたようだ。嘘をつくのは心苦しい。

 この日、目に映るものすべてはただの映像のようだった。

 学校への道があって、学校の校舎が見えて、そして生徒玄関。来る途中に猫を二匹見かけて空は薄く雲がかかっているだけだった。

 沙奈はすでに席についていて空也は遅刻ギリギリでやってきた。教師の言葉は頭上高くを飛行してどこかへ行き、ノートをとっていた気がするが何を書いていたか忘れた。

 何の気なしに読み返していると


『今日の午後六時に』


 俺の字で書きつけてあった。そこだけ破ってゴミ箱に捨てた。

 昼休みに食べた物は何だったろう。沙奈と貸し出し当番をしている間に思い出せなくなり、そもそも食べたのかさえ疑わしい。

 午後の授業は受けたのかさえ分からず、だんだんと日が沈み暗くなっていく様子しか頭にない。

 時間の概念はどこに行ったのか。俺から逃げ出してしまったのか。あまりに考える間を欲したから。

 気が付くと俺は生徒玄関で靴を履きかえようとしていた。隣には誰もいなかった。一人だった。沙奈はどこだろうか。昼休みは一緒にいたのに。

 携帯の時計は午後四時五十分を示していた。

 手がかじかんだ。どのくらい突っ立っていたのだろう。


「そうだ。蓮君、ごめんね。今日は一緒に帰れないの。部活に出ないといけなくて。最近、全然顔を出していなかったから。だからね、蓮君は先に帰っていいよ」

「ううん、待ってるよ。部活に出ても五時前には帰るんでしょ?」

「そうだけど……。でも悪いよ」

「一緒に帰りたいんだよ」


 そう言えば、そんな事を言った気がする。だからこうやって待っていたのか。

 廊下から足音が響いてきた。

「あ、ごめんね。遅くなって」

「大丈夫。さ、帰ろう」

 沙奈は笑った。

 また時間が消えた。

 駅までの道で沙奈は何を話していたろう。よく笑っていたけれど内容が分からない。

 微笑んで、口元を隠して笑って、頬を赤らめて、俺の手を握って、駅で小さく手を振っていた。いつもの仕草。

 よく見ておこう。これが見納めになるのかもしれない。

 かなりの遠回りをして帰った。どこをどう通ったのか曖昧なまま。

 暮れかかる中の家々は不気味だった。窓から影がこっちを見ているみたいで怖い。

 今にも奴が飛び掛かってきて、また俺を殺そうとしているのではないかと疑心暗鬼になる。自然、歩調も速くなる。

 背中に何かを感じた。べったりとしている。素肌に生暖かい息を吐きかけられているようだ。

「はっ……はっ……はっ」

 駆けた。

 捕えられないように、引き込まれないように、連れ去られないように。正体の分からない何かから逃れようとする。

 気が付けばあの公園の前を通りかかろうとしていた。

「どうしたんだい? 蓮。そんなに急いで。トイレにでも行きたいのかい?」

 栄治さんがいた。シンプルなショルダーバッグを掛けて缶コーヒーを持っている。

 栄治さんが息を吐くと白くなり、やがて消えた。

「栄治さんこそ、どうして」

「僕はいつもの通りだよ。大学から帰ってきて散歩がてら立ち寄っただけ。ここ、落ち着くんだよね。一日の締めくくりみたいに大抵帰りに寄るんだ」

 栄治さんは微笑んでいる。

 俺はそれだけで涙が溢れそうになった。鼻がつんと痛くなって目が熱くなる。息を止めて堪えた。

 この人ならどうするんだろう。俺と同じ境遇なら。自分が生き残るために誰かを犠牲にするのだろうか。

「……栄治さん」

「何だい?」

 乾燥した唇を擦り合せて濡らした。

「もし……もしですよ。自分は死んでしまったけれど、誰かを殺す事で生き残れるのなら……どうしますか? 栄治さんなら」

「心理テストか何かかな?」

「……みたいなものです」

 顎に手を当てて栄治さんは考え始める。

 この人に訊いてどうするつもりなのだ?

 それで俺のこの先の結末が変わるわけでもない。栄治さんがどう答えても、俺には二択しか残されていない。

 俺はこの人にどんな答えを期待している? 同意か? 肯定か? 誰かを踏み台にして生き残る事への許しか? これから起こる事を正当化してもらうためか?

 それとも大人しく死ぬ事の良さを説いてもらいたいのか? 聖人の如く、恨まずに死ぬ事を勇気づけてもらおうとしているのか?

 怖いんだろう? 自分の事なのに一人では決められないから栄治さんに縋ろうとしているんだ。

 情けない。

 でも、無理なんだ。どうしようもなく怖いんだ。これから俺が選択する事がどういうことなのか、考えれば考えるほど怖いんだ。

 自分が死ぬか、誰かが死ぬか。

 その先にあるのは結局、死だけなのだ。俺が死ねば全てを無くして、あの自分が消えていく感覚をまた味わう事になる。

 でも、でもさ、誰かを殺す事になれば、その人も同じものを感じさせてしまう。出来ない。

 選べない……選ぶ事が出来ない。

 こうしている内に時間は過ぎて俺は何も決められない。

 普段からそうだったんだ。進路も同じではないか。優柔不断さにあきれる。

 背中を押してもらわなければどの道へも進めないとは……。

「僕なら……」

 栄治さんは一分も経たずに答えた。

「僕なら誰かを殺してでも生き残ろうとするかもね」

 心のどこかで栄治さんなら死を選ぶだろうと思っていた。

 思慮深く落ち着いた雰囲気のある彼は、我を無理矢理通そうとする人間には見えなかったからだ。

 だから意外な回答に俺は驚きを隠せなかった。

「どうして、ですか?」

「だって、ほら僕には美耶子がいるだろ。死にたくはないさ」

 栄治さんは照れ隠しなのか鼻を擦り、顔を背けた。

 あまり知らない表情だった。

「でも、僕一人だった違ったかもなぁ。美耶子と付き合いだす前なら……僕は迷わず死んでいたと思うよ」

「……」

「だってねぇ、僕はすごく空しくなる時があったんだ。あれは何なのだろうね。思春期特有の何かかな? 今もたまになるんだけれど美耶子がいるから気がまぎれる。けど、いなかったら……。僕はその空しさに耐えられなかっただろう。悲しくて、不安で、それでいて空虚。怖かったんだよ、僕は。だから逃げるように死を選ぶだろう」

「……」

「ま、そんな感じかな。美耶子がいるから僕は逃げないし、逃げようとも思わない。……何を言ってるんだろう。恥ずかしいな。美耶子には言わないでくれよ。一生ネタにされそうだ」

「……」

 苦笑した栄治さんだったが、何も言わない俺に異変を察知したのか笑みを消した。

 栄治さんの瞳には親しみや優しさは映っていない。ただ真剣に俺の話を聞こうとしている。

「何かあったのかい? 僕で良いなら話を聞くよ」

 冷えた空気を栄治さんの声が揺らした。重く響いた。抱えていたものが崩れた。

「実は……」

 口を開いた。白い息が漏れた。

 相談してどうなる訳ではないが、一人ではもう耐えられなくなっていた。ひたすら自分の弱さが悲しかった。


 ――時間だ。


 頭上から少年の声が降り注いだ。

「待って、まだっ」

「蓮?」

 携帯で時刻を見ると六時になろうとしていた。


 ――僕も、もう限界なんだよね。だから早々に決めてもらわないと君が死んでしまう。


「あと一日、いや一時間。五分だけでも良い」


 ――そうしてあげたいけれど、こればっかりは僕もどうしようもない事なんだ。


「そんな……」

「蓮、さっきから誰と話しているんだい?」

 不審に思った栄治さんが近付いてくる。


 ――あぁ、ダメだ。早くして。


 体が痙攣し始めた。吸っても吸っても空気が肺に入ってこない。切られた箇所が赤みを増して充血していた。

 視界が真っ白になって自分がどこを向いているのか分からず膝をついた。

 喉の奥に塊が詰まっているようで、吐き出そうとするが一向に何も出てこない。

 肉が裂けて血が滲み、血だまりが……。

「蓮っ、どうした蓮っ」

 栄治さんの声が間近でした。取り乱している。

 こんな栄治さん初めてだ。

「ぐっ……ごふっ」

 喉の傷口が本格的に開いた。

 血の量が尋常ではない。抑えても、抑えても止まらない。

「待ってろ、今救急車を呼ぶから」

 栄治さんは携帯を取り出した。

 ふいに時間が止まった。首や胸から滴る血が空中で静止する。それだけを見れば宝石のようだった。

 指先が次第に煙のように消えていき周りにあるものすべて、栄治さん、塀、家々、電柱、手をついている地面、雲、空……何もかもが溶けた。

 俺の意識だけがさまよい、やがてあの白い空間に来ていた。

 体が無いので痛みも無い。

 ――決めるんだ。君がまた死んでしまう前に。ここにはもう五分もいられない。

 ――どうすれば……。

 ――とりあえず、説明はしておくね。もし君が生きたいと望むのなら、このナイフを誰かの胸へ突き刺すんだ。

 ――これで?

 ――そう。このナイフはね、命を吸い込めるんだ。そして、その吸った命を君の物にすればいい。

 ――殺された人はどうなるんだ?

 ――君の死んだ事実は消えて、代わりにこのナイフで刺された人の事実になる。死が代替されるんだ。

 ――代替って……。

 ――やってみれば分かるよ。とにかく君が殺したという事実は残らないし、君が死んでしまったという事実も残らない。問題ないよ。だから君は気兼ねすることはないんだ。

 ――そんなの……。

 ――信じられない? でも、本当なんだ。僕は魔法使いだからね。

 ――そうじゃない、そうじゃないんだ……。信じるとか信じないとかの話じゃない。俺は……俺は生きて良いのか? 人を殺しまで生きていいのか?

 ――生きていいのか……か。僕はそんな事を訊いていないよ。君が生きたいかどうかを訊いているんだ。

 ――俺が生きたいか……。

 ――君は生きたいのかい? 死にたいのかい?

 ――生きたいに決まっているだろ!

 ――なら、生きれば良い。僕はその方法を提示しているじゃないか。

 ――だからって人を殺すのは。

 ――じゃあ死ぬかい? 正直もう限界だ。

 ――くそっ……どうしてこんな事に……。

 ――もう時間は待ってくれないよ。君はどちらかを選ばなければいけない。ちょうど良いじゃないか。君の隣にはすぐにでもナイフを使える人がいる。

 ――栄治さんは殺せないっ。

 ――でも、もう他の人を探している時間も無いよ。それに君は全く関係ない人なら良いっていうの?

 ――違うっ違うっ。

 ――あ、ごめん。終わりだ。君の意識を体に戻すよ。

 はるか上空から叩きつけられたような衝撃が襲いかかる。

 胃が圧迫され、酸味と苦みが織り交ざったものが逆流してきた。口からそのまま流れ出し激しい水音を立て不快な臭気が立ち込める。血が混じっていた。

「あっ……に、げ……え……」

 声が出ない。

 だめだ、栄治さん。俺から離れて。逃げて。じゃないと……。

「どうしたっ、蓮」

 栄治さんは嘔吐したものを気にする素振りもせず、俺の話を聞こうとしてくれた。

「はっ……や……」

 懸命に伝えようとするが言葉にならない。


 ――とにかくナイフは預けておくよ。と言ってもすぐに回収する事になりそうだけど。その気があるなら、君の手にあるナイフで胸を一突きして。僕は暫く静観しているから。


「無理に喋らなくていい。とにかく落ち着くんだ」

 右手に固く氷のように冷たいものを握っていた。銀色に鈍く光るナイフだった。栄治さんは気が付いていない。

 俺はうつ伏せに倒れ込む。血や嘔吐物に顔面から突っ込む。窒息しそうだった。

 栄治さん、俺は……。

 苦しい、早く楽になりたい。苦しい。早く。死んでしまいたい。

 本当に? 死んでしまいたい? 俺は死にたい? いや、死にたくない。

 このまま何もかもを失いたくない。そんなのは嫌だ。嫌だ。嫌だ。

 でも、俺に人が殺せるのか? こんな俺に。他に手段はないのか? 違うな。そもそも選択筋を与えられている事自体が逸脱しているのだ。人は死んだら生き返らない。それを魔法などというもので捻じ曲げているだけなんだ。本来、俺はとっくの昔に死んでいるはずなんだ。


『君が殺したという事実は残らない』


 うるさい! うるさい! うるさい!

 だからやって良い事にはならないじゃないか!


『死にたいのかい?』


 死にたくない!


『このナイフを胸に突き刺すんだ』


 それは……。


 あれ? あれは沙奈? どうしてこんな所に。

 そんな遠くにいないでもっとこっちに来てよ。

 沙奈、沙奈、沙奈。

 あぁ、好きだ。もっと、もっと、もっと色々な顔が見たい。一緒にいたい。触れたい。沢山の事を知りたい。

 好きな食べ物は? 落ち着ける場所はどこ? 得意な教科は国語で苦手なのは数学だったよね。苦手っていっても俺は敵わないんだけどさ。

 そういえば沙奈はよく本を読んでいたけれど、どんなジャンルが好きなのか聞いたことがなかったな。

 気に入っている作家さんは誰? 貸してもらいたいな。俺も小説なら少しは読むんだ。共通の趣味があったのにあまり話した事がなかったね。

 映画も好きらしいけれど、おすすめの映画を教えてよ。俺は普段あまり観ないからさ。

 逆に嫌いなものは何かな? 沙奈には嫌な思いはしてほしくないからちゃんと知っておきたいんだ。されて嫌な事は? 言われたくない事は? 嫌いな食べ物とか、苦手な人とか。

 小さい頃はどんな子だった? きっと可愛かったんだろうね。アルバムとか見たいよ。

 あ、小学校と中学校の卒業アルバムも見せ合いたいな。いつか沙奈の家に遊びに言ったときとか。俺の部屋は散らかっているからまず片付けないと呼べないな。

 沙奈の事は好きだけれど、何も知らなかったんだなぁ。

 だめだな、俺は。

 これから、これからなんだ。楽しい事はこれから始まるんだ。

 そうだろう? 沙奈。

 どうして悲しそうな顔をしているの? 笑ってよ、俺は沙奈の笑った顔が好き。

 それだけじゃない。艶のあるその黒髪も。たれ目がちな目元も。小さくて形の良い鼻も。薄い唇も。すごく好きだ。

 どうして手を振っているの? お別れみたいじゃないか。

 待って、置いていかないで。俺も行くから。

 ……あれ、おかしいな。立ち上がれない。

 足がないじゃないか。これじゃ、立ち上がれない。

 手もないし、腹も背も……。何もかもが無いじゃないか。

 そうだ。俺は死ぬんだ。

 こうやって最後には俺の何もかもが消え去ってしまう。

 死のは嫌だ、死にたくない、死んでたまるか。


『僕なら誰かを殺してでも生き残ろうとするかもね』


 止めてくれ。


『僕なら誰かを殺してでも生き残ろうとするかもね』


 止めろ。


 僕なら――




「気をしっかり持て!」

 栄治さん。

 沙奈。

 沙奈。

 栄治さん。

「くそっ。救急車はまだか」

 沙奈。

 栄治さん。

 栄治さん。

 沙奈。

「僕が早く気付いていれば……」

 沙奈。

 栄治さん。

 沙奈。

 沙奈。

「血が止まらない……」

 沙奈。

 沙奈。

 沙奈。

「う……あ……」

 沙奈。沙奈。沙奈。沙奈。沙奈。沙奈。沙奈。

「それにしても……どうしてこんな傷が」

 遠くに行かないで、沙奈。

 すぐに追いつくから待っていてくれ。

 今すぐに立ち上がるから。

 大丈夫、一人で立てるから。

 でも、手を伸ばしたら掴んでくれないかな。

 正直、ふらふらなんだ。

 沙奈がいなくなってしまう前に急がないと。

 まず、両腕をついて上半身を起こすことから始めよう。

「おい、無理するな」

 誰だ、邪魔をするのは。止めてくれ。

 ほら、手をどけて。無理矢理寝かせようとするな。

「ぁあああ」

 言葉にならないな。

 まあ、いいか。

 膝を立てて四つん這い。ゆっくりと立膝の姿勢へ。

「はぁぐっはぁあ」

 風が気持ちいい。

「動いちゃいけない!」

 頭に響くから大きな声は出してほしくないな。

 息を吐きながら立ち上がる。ちょっとふらつく。

「どこ行く気なんだ? おいって………………っ!」

 うるさい声のする方へ振り向きそのまま腕を突出した。

 妙な感触がした。突き飛ばそうとしただけなのに。どうしてだ?

 伸ばした腕を引く。

 手を見た。刃物を握っていた。銀色のナイフだった。

 暗い中、刃は深い青色に変わっていた。黒い液体が付いている。

 これは……?

 これはナイフ。これは刃物。これは人を殺すもの。

 俺は自然な動作で彼に突き刺している。

 どういうこと? 殺したということ。

 目の前の人が倒れる。

 魔法使いは胸に突き刺せと言った。

 突き刺した。軽く、豆腐でも切ったような容易さ。忘れていた。刃物を持っていたことを。

 本当か? 俺は自分の意志でやったのではないのか? 死にたくないから。

 俺は何をしていたんだ? 追いかけようとしていたんだ、沙奈を。沙奈はどこだ?

 いるわけがなかったのか。

 近所の公園なのだもの。沙奈とは駅で別れたじゃないか。人ごみに紛れる背中を見送ったではないか。

 幻? 考えている場合じゃない。

 やってしまった。俺がやってしまった。

「栄治さん! 栄治さん!」


 ――どうやら決まったみたいだね。君は生き返ったよ。


 魔法使いの声。

「俺は、どうして、なんてことを、俺はっ」

 抜け殻になった栄治さんの体が黒く溶け始めた。泥のようにまとわりつく。


 ――受け取って。君が得た命だよ。


「何だよこれ! ああっ栄治さん! 栄治さん! 体が、戻らない。くそっ。戻れ戻れ」

 必死に崩れて行く栄治さんをかき集める。


 ――ちょっと苦しいかもしれないけれど我慢してね。


 泥が俺の口めがけて流れ込み始めた。

 昆虫が全身をはい回っているような悪寒。

「ぐぼっごっぐごぼぼぐぇ」

 胃が拒絶し吐き出させようとするが流れには逆らえず痙攣しているだけだった。破裂してしまいそうだ。

 発狂しそうな苦しみの中、五感が震えた。

 一度に大量の感覚が機関銃のように撃ち込まれる。

 栄治さんの視覚、嗅覚、味覚、聴覚、触覚。それらから生み出される感情。積み上げた記憶……。


     ○


 公園の片隅。小学生の背丈に合わせた低い鉄棒の傍。二つの人影があった。

 一人は倒れ伏し、もう一人は寄り添っていた。遠くから切り裂くようなサイレンがけたたましく鳴り響いている。

 前日の雨によりぬかるんだ地面には、倒れている少年から流れ出した血液が溜まっていく。少年は自分の血で溺れかけていた。

 寄り添っている彼は気づいていなかった。倒れている少年の手にはナイフがある事を。

 少年は血を滴らせながら立ち上がった。何かを呟いているが上手く聞き取れない。

 歩き出す少年を止めようと彼は肩を掴む。

 少年は振り向き様にナイフを彼の胸へ刺した。流れるような動作だった。ためらうことなく、単に邪魔だったから刺したかのようだ。

 彼は最初の数秒、何が起こったのか全く把握していなかった。

 胸の中に異物を感じ視線を下げて、初めて自分に何が起こっているかに気づいた。

 彼は少年の血だまりに倒れる。

 少年は我に返った。自分のした事を知り取り乱す。

 はた目から見ても痛々しいほど錯乱していた。


     ○


 空を見上げていた。薄く伸ばした小さな雲が一つあった。ゆっくりと流れていく。

 首が疲れてきた。ベンチに横になった。

 どれだけ時間が過ぎようとも、この空だけは変わらない。

 小さな頃から比べれば公園はだいぶ寂れてしまった。遊具も子供も少なくなった。いずれ消えてしまうのかもしれない。

 悲しい気もする。けど、それは仕方ない事なのだ。変わらないものはないのだから。

 だから、このベンチから眺める空の景色に安心感を覚え、何度も飽きることなく見上げている理由なのだろう。

 近所に年の近い男の子がいた。

 母親同士が、仲が良いので自然と一緒に遊んでいた。

 もっぱら公園で遊んでいたけれど、互いの家に行っておやつをもらったりもしていた。

 僕は本が好きだったから、その男の子に読み聞かせた事もあった。僕はお兄さん気分で接していた。

 歩く時は手を引いて歩調を合わせて、ゆっくり歩いていたし、おやつもたまに分けてあげた。

 ケンカというケンカをした事がない。自分で言うのもなんだけど気性が穏やかだったし、その子も我があまり強くなかったから角が立たなかった。

 小学校に入学し学年が上がるにつれて彼と遊ぶ時間は減っていった。仲が悪くなったわけではない。それぞれの人間関係が出来始めたからだ。でも会ったら話もしたし遊んだりもした。

 僕は誰かと仲良くなるのがあまり得意ではなかったから、人で本を読んでいることが多かった。

 そこが僕と彼の違いだった。彼も少し内気だったけれど遊びまわる友人がいたし、昼休みに一人でいることはなかったようだ。

 寂しくなかったと言えば嘘になるが、そこまで誰かと一緒にいたかったわけではなかった。

 外に行って駆け回るよりも、一人でぼーっとしている方がずっと好きだった。

 小学校の時や、もっと前の思い出は波打つプールのように覚束ない。

 幼児用の浅いプールが今でも思い出せる。揺れる水は夏の照り付けを反射して輝いていた。細部は忘れて綺麗なものと切なさとを残している。

 中学になり、部活というものに入った。

 僕の性格からみても、趣味からみても、入るなら文化部だったろうに、何を思ったのか陸上部に入部した。

 体を動かすのは、嫌いではなかったから苦しくなかった。むしろ好きだったのだろう。

 種目は長距離。景色の変化を楽しんでいた。

 早くなることは目指していない。ただそれ自体が好きだった。

 でも、中学はそれで終わらない。小学生とは違い、ずっと人間関係が複雑になったからだ。

 誰かと協力して何かをする事はそれ以前に親交を深めていないと難しい場面がある。

 僕は人と仲良くなるコツを習得するのに、かなり苦労した。慣れない事をしていたのでかなり疲れ始めていた。

 それが原因か分からないが、急に嵐が起こるように僕は暗い気持ちなった。本当に唐突にやって来るのだ。

 眠っても、眠っても疲労が取れずに全身がだるくて、ついにはシャーペンを持っているのも辛くなる。

 果てしない自己嫌悪を繰り返し、その先には何もないと分かっていても、ブレーキが壊れたまま自転車で坂を下るように加速して止まる事が出来なかった。

 中学二年の夏休みが終わった頃だったろうか。

 ある女の子が転校してきた。僕の家から結構近い場所だった。

 いつも笑顔で周囲の人間も明るくさせる子だった。

 かなりの天然で授業や普段の会話では、よく見当違いな答え方をして笑いを誘っていた。

 綺麗な子だった。皆の中で一際輝いている。特に髪の毛が美しかった。

 まだこの時は彼女に特別な感情を抱いていなかった。特別興味もなかったし、目先の事で精一杯だった。

 状況が変わったのはいつだったろう。

 そう、あれは部活も引退してこれから受験勉強という時期。

 八月。夏休み。塾に行く子もいたが、学校でも特別課外をやっていたので僕はそれに参加した。彼女もそうだった。自然と登下校が重なる。志望校も同じだった。

 彼女は僕へ積極的に話しかけてきてくれた。最初は正直に言って鬱陶しかった。

 でも、彼女を知れば知るほど心ひかれた。知らず知らずの内に彼女と歩調を合わせ、かつてあの近所の子と歩いていたようにゆっくりと歩いた。

 いつも笑ってボケをかますところが彼女のすべてではない。彼女は言葉数が少ない僕の話を真剣に聞いてくれて、尚且つ真剣に答えてくれる。

 見当違いな事を言うが、基本的に聞き上手で話し上手。僕には無いものが彼女にはあった。

 高校には二人とも受かった。クラスは違ったが委員会が同じで顔を合わせる機会はあったし、通学路も同じだったから繋がりが絶えることはなかった。

 しかし、僕の症状が悪化した。毎日塞ぎ込み、入部した陸上部も一年の秋口に退部した。

 僕自身がいることを責められている気がしたからだ。事実は違うのだろう。けれど、僕は馴染めなかった。

 彼女は人が落ち込んでいたり、体調が悪かったりというのに敏感で、僕の事も見抜くのは時間の問題だった。僕は悟られないように表情を取り繕い、彼女とだけは明るくふるまった。

 委員会は三年間変える事がなかった。今思えば僕の事を悟られたくないのだったら、委員会を変えればよかったのだし、登下校も一緒にしなければ良かったのだ。

 けど、僕はしなかった。きっと、彼女の事が好きだったからだ。僕が唯一安心する時間だった。

 二年生に上がると僕は取り繕えない程酷く疲弊していた。

 起きる度に憂鬱で頭痛がし、登校すれば腹痛でトイレにこもり、体を動かしているわけでもないのに動悸が激しくなった。眩暈も頻発した。限界が近付いていた。

 彼女は会うたびに僕の体調が悪そうだと心配してくれたが、僕は彼女に何も打ち明けなかった。それどころか、気のせいだと笑い飛ばしていた。

 限界を迎えたのは二年生の秋。文化祭の少し前だった。

 僕は数日間、まともに眠っていなかった。寝ようとすればするほどネガティブな思考に陥り寝つけず、寝入ったかと思えば悪夢で飛び起きる。それの繰り返し。

 学校では授業中でも構わずトイレに駆け込み、何か食べればすぐに戻してしまう。

 誰かと話すこともままならず、次第にクラスでも孤立した。

 僕は倒れた。昼休み、教室は騒がしかったので、図書室で休もうと廊下を歩いている時だった。

 普段の眩暈よりも一層酷かった。天井と廊下が逆転した。僕は顔面から倒れ込み額を切った。

 病院に担ぎ込まれ、幾つか脳の検査をしたが特に異常もなく何針か縫い一晩入院して帰った。

 親や教師、医者にどうして倒れたのかと聞かれたが、寝不足で眩暈を起こしたと言った。

 寝不足の理由は本を読んでいたら朝になっていた。特に疑われはしなかった。実際、本当の事なのだ。寝つけないから本を読んで朝を待っている生活なのだ。

 しかし、彼女は誤魔化せなかった。

 文化祭当日、僕は図書室の資料室にこもっていた。来たくなかったが、来なければ欠席扱いになるのでしかたがない。

 僕も彼女も図書委員会なので出入りは自由だった。

「栄治君……今、良いかな?」

「良いけど、どうしたの? 柴田さん」

「……栄治君……無理しないで」

「いきなりどうしたの?」

「いきなりじゃないよ。栄治君、私に嘘ついてる。全然大丈夫じゃないでしょ。いつも笑ってごまかすけど、具合悪いはずだよ。この間だって……」

「寝不足だっただけだよ。本を読んでいたら朝になっていたから」

「眠れないんでしょ? それにあれは転んだんじゃない。栄治君、かなりふらついてた。私、見ていたんだから」

「見間違いじゃない? 僕は何ともない」

「嘘。栄治君、辛そう」

「別に……辛くない」

 突き放すように言った。彼女に自分の弱いところを見せたくなかった。

「うっ……ぐっえぐっ……どうして……私……私」

 彼女が泣いていた。

 僕はわけが分からなかった。

「えっ、ちょっと……」

 慌てて僕は彼女に近づく。

「栄治君!」

 彼女が僕に抱き着いた。

「うわっ」

 彼女は僕に覆いかぶさるように倒れた。

 涙が僕の頬を伝った。彼女の温かい涙。うるんだ瞳が今でも忘れられない。こぼれ落ちる彼女の髪が頬にかかりくすぐったい。

「……」

 文化祭の喧騒。その対比で資料室の静寂が際立つ。

 僕らは暫く見つめ合った。

「私、栄治君の事が好きだよ」

 沈黙を破ったのは彼女だった。

「好きな人が苦しそうだったら力になってあげたい。栄治君、顔は笑っていても心は泣いている。ねぇ、聞かせてくれない? 私じゃ役に立たないかもしれないけど」

 彼女は泣きじゃくった。

 こんな僕のために泣いてくれた。

「一つ、訊かせて。……どうして僕の事好きなの?」

「……一緒にいると安心するの。栄治君、いっつも空見上げて、ゆったりしていて……すごくまったりです」

「……雰囲気だけは伝わった。でも、ごめん。全然気が付かなかった」

「私、アピールしてたよ。栄治君が鈍感なんだよ……。栄治君が好きだから一緒に帰ろって誘ったんだよ」



 僕らは付き合うことになった。

 休日に会う事以外はあまり変わらなかったけれど、僕は彼女に悩みを打ち明けるようになった。彼女は真剣に聞いてくれたし、時には泣きながら相槌を打ってくれた。

 あの資料室は僕らにとって忘れられない場所になった。今でもあのままだろうか。

 近所の男の子、彼も僕と同じ高校に入り図書委員になった。

 彼に恋人が出来たらしいけど、どこで告白したんだろう。あの資料室だろうか。

 大学は二人で同じ学校を受けた。もちろん受かった。

 僕はしばらく安定した日々を送っていた。彼女がいれば僕は明るく生きていけるのだと思っていた。

 だが、どうやら違うらしい。

 大学一年の秋、僕はまたも精神的に病んだ。

 僕は秋がだめなようだ。日照不足が原因というのを聞いたことがあるけれど、詳しい事は知らない。

 この時も彼女に支えられて何とか乗り切った。

 彼女には悪いと思っている。毎回、僕の弱音を聞かせて、正体の分からない不安を押し付けて、ずっとうじうじとしている。部屋の隅に生えたカビのようだ。

 僕は果たして彼女に相応しい人間なのだろうか。こんなダメな人間ではなくもっと頼りになる男がいるのではないだろうか。彼女は僕に縛られているのではなかろうか。彼女は素晴らしい女性だから、きっとすぐに良い人に巡り合える。

 最近はそればかり考えている。

 彼女の笑顔を見る度に心が締め付けられる。

 僕らは四年間付き合っているのだけれど、彼女とはキスで止まっていた。その先に興味が無かったわけではない。でも、彼女の唇に触れた途端、怖くなった。

 僕が彼女を汚してしまう。僕が彼女を壊してしまう。

 彼女のために僕は消えてしまいたい。


     ○


「栄治さん……」

「そんな苦しそうな顔をするなよ、蓮」

 栄治さんと俺はあの白い空間で向き合っていた。

「僕はね、少しも恨んでなんかいない」

 言葉が出なかった。

 さっきまで頭に流れ込んできたのは栄治さんの記憶。

 どこか悟ったような人だと思っていたから少なからずショックを受けた。あんなに悩んでいたなんて想像もしていなかった。

「僕は死にたかったんだろう。自殺ではない方法で。自殺は美耶子を否定する事になる。美耶子がいた事で、僕が救われていたのは事実なんだから」

「……」

「蓮に嘘をついてしまった。あの質問、僕は人を殺してまで生きようとは思わない。……違うか。僕は死ぬ絶好の機会だと思って死を選ぶ。自分が生きるために誰かを犠牲にしたくないから、という理由なんかじゃない。ただ死にたいから死ぬんだ」

「……」

「僕はどこまでもダメな奴だ。自殺は嫌だから、他の何かで死ぬ事を待っているんだから。……どうしようもない……」

 栄治さんの言葉は悲痛に満ちていた。

 やりきれない辛さが俺を追い詰め、栄治さんは殺した事を責めようともしない。

「負い目を感じるな、と言っても無理なんだろうね。でも、あまり気に病まないでくれ。蓮を責める気なんかない」

 栄治さんは肩の荷が下りたような、安らかな笑顔だ。

 そんなにも生きる事が苦痛だったのだろうか。

「さりげなく伝えてくれないかな。君と出会えて良かったって。こんな僕を好きになってくれてありがとうって。出会っていなかったら、僕の見るものはずっと灰色のままだった。美耶子が色をくれたんだ。ちょっとくさいかな。ま、もし良かったら頼むよ。……そろそろか」

 すっと栄治さんが薄くなる。

「蓮」

 俯いていた俺は顔を上げた。

「ごめん……ありがとう」

 栄治さんはいなくなった。


 ――これで君は生き残ったんだ。


 少年の声が降ってくる。

 「何だよ……これは」

 

 ――彼の命が君に入ってくる時に、記憶もセットで入ってくるんだ。魂に染みついたものだからね。


「……元には戻せないのか?」


 ――無理。君と同化してしまった。仮に君がまた他の誰かを殺して、彼を生き返らせようと思っても不可能なんだ。

 

「俺は……これからどうなる」


 ――普通の日常を生きられるよ。彼の死は自然な形で偽装される。


「お前は……何なんだよ! どうしてそんな事が出来るんだ? おかしいじゃないか。死んだ人間を生き返らせたり、偽ったりするなんて!」

 俺は叫んでいた。


 ――そう言われてもなぁ。僕はただの魔法使いだから。だから出来るとしか言いようがない。何故、を問われても答えられない。たまたま君の元に来たのが僕だったんだ。

 

 抽象的で理解できなかった。けれど、理論的に言われても今の俺には何も受け入れられなかったのだろう。


 ――君はこの先、殺されずに生きただろう時間を生きる。不老でもなければ不死でもない。もっとも、そのナイフでまた同じことをすれば、事故とかの不慮の死は回避可能だけれどね。

 

「もう眠らせてくれないか」


 ――分かった。今は何も頭に入らないだろうからね。僕はもう少し君の近くに留まっているつもりだから、何かあれば呼んでくれ。それと、彼も言っていたようにあまり気に病まない事だよ。

 

 気に病むなだって?

 無理に決まっているだろ。

 俺は殺してしまったんだ、栄治さんを。

「栄治さん……俺はどうすれば……」

 胸が苦しくなった。唇や手先足先が痺れてくる。息を吸っても楽にならない。酸素が脳に回らずぼんやりとする。

 目の前が暗くなった。


 十月二十二日 土曜日


 木曜日、俺は気が付くと自室のベッドに横たわっていた。

 時刻は午後六時十分。

 栄治さんを殺したことで俺の命は繋ぎ止められたらしい。奴につけられた傷が無くなっていた。

 ぼんやりと蘇ってくる、あの感触。柔らかいような硬いような。栄治さんの生命を断ちきる感触。

「栄治君が……」

 母さんが入ってきた。顔面蒼白だった。

 俺はその先、母さんが何を言うかを知っていた。だから、もうそれ以上は言って欲しくなかった。だが、事実として母さんは俺に伝えた。

「亡くなったって……」

 知っていた。全部。犯人は、俺なのだから。


     ○


 棺に入った栄治さんは死に化粧を施され、穏やかな死に顔になっている。傷一つない、まるで人形のよう。

 微笑んでいるように見えるのは俺がこの人の最後を見送ったからなのか? 死ぬのにあんな安らかな顔をするなんて……。

 栄治さんは交通事故で死んだ事になっていた。横断歩道を渡っていると車が栄治さんめがけて突っ込み、病院に搬送されるも治療もむなしく死亡。ひき逃げで犯人は捕まっていない。不意の事故。

 死の偽装とはこういうことか。俺が殺したのではなく代用の原因が作られるのか。これでは、罪を償う事さえ出来ない。


『ありがとう』


 栄治さんは最後にそう言った。穏やかな顔で。

 あれが不条理に死のうとしている人間の顔なのだろうか。どうしてああも落ち着いていられたのか、俺には分からない。

 どれだけ栄治さんの記憶や葛藤が流れ込んできても、理解できるかは別の問題だ。俺は十年以上の付き合いなのに、何もあの人の事を分かっていなかったんだ。上辺しか知らなかったんだ。

 俺を責めてくれれば良いのに。もっと、恨んでくれれば良かったのに……。

 葬式が始まり経が唱えられても、お焼香を上げる時でも、火葬場での最後の別れになっても、美耶子さんは涙を流すことはなかった。

 心ここに非ず。

 美耶子さんの魂は、栄治さんを追いかけているのではないだろうか。声を掛けられても、ええ、とか、はい、しか言わず目は焦点が合っていない。未だ栄治さんの死を受け入れられず、彼の姿を探し求めているようだ。

 坊さんが上下自在に流れる川のように経を唱える。

 これで栄治さんの魂は救われるのか? 彼の魂はきっと俺の中にある。俺が殺し、奪った。彼の魂が解放されるとするなら、俺が死んだときなのか?

 葬式も佳境を迎えると親族から順々に焼香を上げていく。

 焼香の煙は目に染みた。煙に顔を包み込まれ、せき込まないように堪え手を合わせる。

 俺は何を祈るつもりなんだ? 彼は殺された、この俺に。犯人が何を祈れる?

 栄治さんの遺影が笑っている。強烈な夏の太陽のような笑い方ではない。月明かりのような優しい笑み。

 写真を入れた額の周りには香りの強い花が飾られている。

 栄治さんには合わない。もっと、さりげない種類が良いと思う。と、言っても花に詳しくないので具体的な種類は思いつかなかった。

 金や赤の装飾品で飾られた祭壇が毒々しい。何もかもがあの人に合わない。

 背後で誰かが泣いている。俺が泣かせた。俺が殺した。

 正直に告白すべきなのか?


 ――やめておいた方が良いよ。余計に混乱させるだけだから。もう彼は事故で死んだんだ。

 ――けど、俺が殺したんだよ……。

 ――違うよ。彼は車に引かれて死んだんだ。君がなんと思ってもなんと言っても、現実は彼がひき逃げされたんだ。

 ――……。

 ――僕はそうやって考え込むより、やっぱりこれから楽しく生きる事を考えた方が賢明だと思うよ。君には恋人がいるんだろう? なら、その子にそんな暗い顔を見せるの?

 ――今、そんな事考えられないだろ……。

 ――うーん、困ったな。でもさ、自殺とかはしないで欲しいんだ。結局、どっちの命も無駄になるんだから。

 ――少し、そっとしておいてくれないか。

 ――分かったよ。僕で良いならいつでも話し相手になるから。だから、死なないでね。


 棺が閉じられる。町はずれにある火葬場で栄治さんが焼かれようとしていた。

 朝露に濡れた落ち葉。痩せた木々。そこにある灰色の火葬場。自然と建物が調和していた。人工物があっても違和感がない。

 喪服を着た人々が狭い空間に押し込められている。俺は囲まれている。防虫剤の匂いだろうか。嗅ぎ慣れない匂いがする。樟脳だったか。

 突然の事で慌てて出した人が大勢いるんだろう。栄治さんの両親は息子のために着るとは思いもしなかったろう。

 読経の後の最後の焼香が終わり、余韻が残る。一瞬だけ、この場に沈黙が流れた。それを火葬炉の蓋を開ける音が断ち切った。

 焼かれる。栄治さんの体が焼かれる。骨になる。灰になる。消える。消えてしまう。

「えいじっ、ああっ」

 栄治さんの母親が棺にしがみついた。

 泣き叫び、気絶したように崩れ落ちる。栄治さんの父親が寄り添い、そっと肩を抱いた。

 これが生き残った結果だ。一人が生き残り、数多くを悲しませている。生きる事が罪なのか。罪の上に成り立っている生なのか。

 重い。俺には重すぎる。受け継いだ二度目の命に潰されてしまいそうだ。

 棺は炉の中に入れられ、扉が閉められた。順々に人がいなくなる。焼きあがるまで、別の部屋で待っているのだろう。



 外に出た。清々しい土の匂いがした。地面には砂利が引いてあり、その上に枯葉が積もっている。歩いた感触は柔らかく、少し滑りやすかった。

 多くの人たちと同じ場所で待っている気分になれなく、焼きあがるまでの間、散歩している事にした。

 他にも煙草を吸いに何人か出ている。知らない人たちばかりだった。親戚関係だろうか。

 頭上では葉が落ちた枝が絡み合う様に伸びている。血管のようだった。雪が降ればきっと白い花が咲いたようになる。栄治さんはその景色が好きだった。

 雪は一か月もすれば降るだろう。

「何を見ているの?」

 美耶子さんが後ろにいた。いつでも綺麗だった髪は心なしか輝きが失せているようだった。

 罪悪感でまともに顔が見られない。

「いえ、すぐに冬がくるなって思って」

「……。栄治君、雪好きだったもんね」

「はい。よく雪だるまを作っていました」

 去年も公園で一緒に幾つも作った。

「私ね……」

 美耶子さんが上に羽織っている紺色のコートが揺れ、彼女は俺の一歩前へ出た。頭も肩も背も小さい。

「栄治君、まだ生きている気がするの。どこかへふらりと出かけて、またふらりと帰ってきそうなの。変だよね。棺の中で起きない栄治君を見たのに。おかしいよね。でもね、やっぱり実感がないの。あの人はいつも空を見上げて、ぼーっとして、私はそういうところが好きだったんだけれど……」

 美耶子さんの告白。栄治さんの記憶が蘇ってきた。

 俺が持っていて良いものではない。出来れば栄治さんに返したいけれど、もう彼はいない。

「でも、本当に栄治君が思っている事は全然分かっていなかったのかもな。だから、もっと、もっと一緒にお散歩して栄治君の気持ちを聞かせて欲しかった。最近、また悩んでいるみたいだったし……」

 美耶子さんは寂しそうに呟いた。

「あっごめんね。急に変な事言って。忘れて。ただの独り言だから」

 伝えなければいけない。栄治さんの言葉を。

「少し前に栄治さん言っていたんですよ」

 消える間際の言葉。俺には伝える義務がある。

「美耶子さんに出会えて良かったって。出会っていなかったら、ずっと灰色の世界だった。美耶子さんが色をくれたって」

 栄治さんの苦しみや葛藤は分からない。けれど、あの穏やかな表情は、美耶子さんが傍にいたからこそのものだったのだ。

 俺は本当にあの人の子を知らなかった。

「……栄治さん、美耶子さんがいて救われていたと思います」

「へ、へー。栄治君、そんな事言ったんだ……」

 美耶子さんの目から涙があふれ出した。

 やっぱり、栄治さんは生きるべきだった。

 俺が死ねばよかった。

 でも、俺が死んだらきっと同じ事になっているのではないか? こんな俺でも悲しんでくれる人はいるだろう。

 目の前の美耶子さんは俺が死んでいた場合の沙奈なんだ。

 誰も悲しませたくなかった。

 俺はどうすれば良かったんだ?

 どちらを選択しても悲しむ人がいる。別の方法はなかったのか? 誰もが悲しまないそんな方法が。

「ごめん、泣くつもりはなかったのに……」

 美耶子さんの頭に手が載せられた。栄治さんの手だった。

「え?」

「ん? どしたの?」

 栄治さんが美耶子さんの後ろにいる。そっと抱きしめている。

 その事に美耶子さんは気づいていない。

「……なんでもありません」



 一時間もすると栄治さんの体が焼きあがった。

 少しずつ、箸で拾っていく。乾燥し崩れやすい。

 美耶子さんの目は泣きはらし赤くなっている。

 御骨を拾う箸は太くて持ちにくい。美耶子さんの細くて綺麗な手には不恰好だった。そっと慎重に栄治さんの欠片を拾い終えると、静かに後ろに下がり美耶子さんは放心している。

 その横には栄治さんがいた。やはり誰も栄治さんが見えていない。


 ――魔法使い。いる?

 ――何?

 ――聞きたいんだけど、栄治さんがいるんだ。

 ――骨になってかい?

 ――違う。ほら、美耶子さんの隣。

 ――美耶子さん? ……ああ、彼女か。いや、僕には何も見えないけれど。見間違いじゃない?

 ――そんなことはない。現に今も見えている。ほら、あんな鮮明に。栄治さん、笑っている。

 ――疲れているんだよ、きっと。僕には誰も見えない。

 ――そんな……。


 栄治さんが微笑んで、美耶子さんの傍にいて俺を見ていた。

 正直、不気味だった。

 解き放たれたような、開放的な笑み。楽しいとか、嬉しいとかじゃない。悟りの境地に到ったかのような、仏のような表情。

 火葬が終わり、慣例として精進落としなどがあったけれども、俺は殆ど顔を出さずに帰ってきた。

 常に一定の距離で栄治さんが俺を見ているのだ。車で移動している時も、誰かと話している時も、どこでも。彼はこっちを見ている。

「栄治さん……。やっぱり、あなたは……」

 家の外に栄治さんが立っていた。俺の部屋を見上げている。

 カーテンを閉めても視線が俺を圧迫する。

 俺はどこかほっとしていなかったろうか。結局、俺は死ぬ事はなかったのだし、栄治さんも気にするなと言ってきたから。

 悩んでいるふりだったのではないか? だから、栄治さんが現れているのではないか?

 俺に与えられたせめてもの罰として。犠牲にした人をずっと胸に刻んでおくために、俺だけに見える姿。

「ごめんなさい……」

 布団に包まり、一人呟いた。


 十月二十三日 日曜日


 朝から雨が降っていた。

 部屋の窓から外を見るとやはり栄治さんは表情を崩すことなく立っていた。

「うあああっ!…………はぁ……はぁ……」

 その場にへたり込み、荒くなった呼吸を落ち着ける。

 このところ動悸が激しい。

「栄治さん、俺に、どうしろって言うんですか……」

 

 ――眠っていないみたいだね。顔色酷いよ。

 ――眠れるわけないだろう……。

 ――まだ彼はいるのかい?

 ――ああ……外に立っている。

 ――変だねぇ。僕には何も見えないよ。

 ――俺にしか現れないんじゃないか?

 ――そうなのかなぁ。

 ――……今からでも……戻せないのか。栄治さんを、また生き返らせることは。

 ――前も言ったろう? 無理なんだ。彼の命は君と一つだ。

 ――くそっ。

 ――君に必要なのは休む事だ。気にしないのは難しいだろうけれど、下ばかり見ていても始まらないよ。

 ――ほっておいてくれ。

 ――なら、そうさせてもらうよ。……そうだ。一つ忠告しておくね。

 ――なに?

 ――前に行ったよね。君を殺した通り魔がまた君を狙うかもって。

 ――そういえば言っていたな。

 ――本気で用心した方が良い。

 ――どういうこと?

 ――仮に君を殺した奴が無差別で人殺しをするとしよう。奴は君を殺して殺人衝動を晴らした。けれど、君が生き返った事で君を殺した記憶が無くなっている。という事は奴の欲求はそのままなんだ。そしてこの何日間、通り魔事件は起きていない。

 ――だから、また俺が狙われる可能性があるって事だろ? 分かっているよ。危ない奴を野放しにしておくのは嫌だけれど、俺は探し出す気にはなれない。精々、気を付けるよ。もう、人気のない道は通らないし、暗くなったらなるべく出歩かない。

 ――うん、そうした方が良い。けど、君はもう一つの可能性を見落としているよ。

 ――もう一つ?

 ――特定の人間を狙っているってことだよ。要するに君を狙って奴がまた来るってこと。

 ――俺を? どうして俺が狙われるんだ? 恨みを買う事をした覚えは……。

 ――勝手な逆恨みという事もあるし。だからまた殺されないように。運悪く奴が来た時は全力で逃げて。

 ――……やってられない……。

 ――まぁまぁ。もしもの時は僕も少なからず手助けをさせてもらうよ。ちょっとした対価はもらうけど。ああ、あまり期待しないでよ。呪いとかは専門外だから。だから、僕が直接手を下す事は出来ない。

 ――……覚えておくよ。

 ――それじゃあ。


 もう一度、外を見た。

 雨がさっきよりも激しくなっていた。雨粒が屋根を打ち付けている。窓ガラスから冷気が漂ってきた。

 栄治さんはいない。

 ベッドに倒れ込んだ。

 俺が狙われている? 何故?

 もう考えたくない。

 けど、元々奴がいなかったら俺は栄治さんを殺す事がなかったのは確かだ。

 何だって俺なんかに……。


 十月二十四日 月曜日


 長い夜が明けた。雨はすっかり上がっている。

 寝入っては悪夢で飛び起き殆ど眠れず、抜けきれない疲労で全身が起きる事を拒否している。

 夢の中で俺は栄治さんの胸にナイフを叩きこんでいた。俺は狂ったように泣いているのに栄治さんは表情を崩さない。刺して、刺して栄治さんの体が原型を留めていなくなった頃、俺は誰かに肩を掴まれた。奴だった。真っ黒の塊に包丁が光っている。奴に容赦なくなぶられ、止めに心臓を一突きされる。そんな夢だった。

 恐る恐る窓を開け、顔を出した。肺一杯に新鮮な空気が流れ込む。

 町は朝もやがかかり白くなっていた。

 今になって強烈に眠気が襲ってくる。寒さで眠気が晴れてくれない。

 視界の隅に人影を見た気がした。しかし、振り向いても誰もいない。見間違いだった。神経が過敏になっている。

 二日間、まともに眠っていないから体力的に厳しいが学校に行かなければならい。頭痛がし、めまいもするがしかたない。沙奈に会いたくてしかたがなかった。

 家族に心配されても困るので無理矢理朝食を押し込み、胃もたれを起こしながら家を出た。


     ○


 視線を感じ後ろを振り返り左右を見回す。見慣れた登校風景が異界に思えた。朝日を避けて落ちた影がいつの間にか拡大し、呑み込んでしまうのではないかと突拍子もない妄想に駆られた。

「……」

 誰もいない。

 くすんだ塀に囲まれた家々、一定間隔にある電柱や街灯。張られた電線の上にカラスが二羽止まっている。じっと見つめていると錆び付いた声で鳴いた。

 寒気がするのは冷え込んでいるだけではないはずだ。

 角を曲がった先に栄治さんが立っていそうで気が気でない。

 一歩、歩くごとに汗が噴き出す。

「……はぁ……はぁ……すー……はー」

 学校へ行くだけなのにこんな苦労するとは。

 何故こうも怯えている?

 栄治さんがいるはずがない。

 だって、栄治さんは俺が殺してしまったんだから。

「おはよう蓮君、また寝不足なの? かなり疲れた顔しているよ?」

 校門の辺りで沙奈と空也に出会った。

 空也には栄治さんの事を伝えてある。顔を合わせると一瞬表情が曇った。

「浅野……蓮は……」

 自分が言って良いものなのかと口ごもる。

「気にしないで、空也」

「何かあったの?」

 雰囲気を察したのか、沙奈は心配そうな眼差しを向ける。

「ちょっと色々あって……。幼馴染のお兄さんが急に事故で亡くなってね。週末は忙しかったから」

 呼吸するように嘘をついた。

 事故で死んだのだと思い始めている自分が嫌になる。

 栄治さんは俺が殺したのに。

「ご、ごめんね。私……何も知らずに……」

 しゅんとする沙奈。

「気にしないで。俺も言っていなかったし。それより、ほら、暗い顔しないで」

 無理に俺は笑って見せた。頬や口角が硬くなり、かなりぎこちないものになった。

「さ、教室に行こう」

「うん……」

 それが余計に沙奈を不安にさせてしまったようだった。



「蓮、宿題やった?」

 教室に行くとよく宿題を見せている奴が駆け寄ってきた。

「ああ、うん」

「ごめん、見してくれない?」

「自分でやってよ」

 いつもなら軽く注意してノートを貸すのだけれど、今日は妙に鬱陶しく感じる。

「いや、ほら、頼むよ」

「……はい。早くしてよ」

「悪いっ。今度、絶対におごるからな」

 手を合わせ拝まれた。

「……ふぅ」

 座った途端に机へ突っ伏す。

 黙っていると知らず知らずに貧乏ゆすりをしていた。

 胸の辺りがざわつく。気が立っている。いらいらとする。

 言葉尻がどうしてもきつくなってしまうようだった。沙奈の前では取り繕えたものが早々と剥がれていた。

「おい、本当に大丈夫か?」

「うん」

「そうは見えないが。休んだ方が良さそうだぞ」

「大丈夫だって言っているだろ……。少しだけ疲れているだけなんだから」

「そんな様子で言われても説得力ないぞ」

「うるさいな! 空也には関係ないだろ!」

 俺は顔を上げ、空也を睨みながらそう言った。

 思わず大きな声で言ってしまった。周囲がしんと静まる。気まずい沈黙が流れた。

「……ごめん、空也。けど、大丈夫だから。少しほっておいて」

 空也は何かを言おうと口を開きかけたが、担任の先生が入って来たので自分の席に戻った。

 何をしているんだ、俺は。ただのやつあたりじゃないか。

 沙奈も不安げにしている。空也の言う通り、説得力は皆無だ。昼休みにでも空也にちゃんと謝っておかないと。

 担任が出席を取り始め、俺は名前を呼ばれると生返事をしてまた顔を伏せた。連絡事項をいくつか言っていたけれど、殆どを取りこぼしてしまって覚えていない。

 唯一聞いていたことは一時間目が自習だという事だ。担当教師が病欠らしい。病気の先生には気の毒だけれど、ありがたく休ませてもらう事にした。

 自習プリントを配布された途端に畳んで机に押し込んだ。

 この時間は睡眠時間に充てる。プリントは明日の授業で回収するらしいから帰ったらやっておけば良い。

 腕を枕に顔を隠すようにして眠る。息苦しいが眠気の方が勝って五分もしない内にまどろみ始めた。


 ――蓮。


 名前を呼ばれた。聞き覚えのある懐かしい声。


 ――蓮。


 不審に思い顔を上げ、教室全体を見渡すが皆プリントをやるか喋っているかで俺を呼んでいるような人はいない。

 窓際の席に座っているので外を見た。

 霧が濃く正面にある校庭から先は乳白色の壁に囲まれている。

 校庭には点々と雑草が生え閑散とし凍りついているようだ。

 中心に誰かいた。

「あ……」

 栄治さんが笑っている。何の悪意も感じ取れなく、純真で善意に溢れひたすら穏やかな表情だ。

 後光が差し俺の視力を奪った。何も見えない。


 ――蓮。


「なんで……。あなたは……もう……俺が……」

 声が近付いてくる。

 生暖かい吐息が頬に当たった。


 ――蓮、蓮、蓮。


「止めて……ごめんなさい、殺してしまってごめんなさいっ」

 唇を噛みしめ、異常なほど震える。噛みすぎ口の中が血の味になった。

 視界を奪われ、音のする方向を探すが四方八方から栄治さんが俺を呼んでいる。


 ――蓮、蓮、蓮、蓮蓮蓮蓮蓮。


 そして栄治さんの優しい呼び声が雪崩のように押し寄せ、押し寄せ、押し寄せ、押し寄せ――


 弾かれたように飛び起きた。

 シャツが汗を吸収し、じっとりとしている。

「っ……夢?」

 心臓は隣の席まで聞こえそうな程、早鐘を打っていた。口が妙に渇き喉の奥につっかえを感じた。

 外を見ると霧はかかっていない。

 やはり夢だった。校庭には人っ子一人いない。栄治さんがいるはずがない。

 首筋に汗が伝った。

 教室は押し殺した話し声と、シャーペンを動かす音が入り混じっている。

 始まってから二十分が過ぎていた。

「蓮」

 顔を上げる。

 まだ夢を見ているのだろうか?

 頭の中が混線し火花を散らし、思考が停止した。

 彼以外は全て背景となり、しかもその背景はうねっている。教室全体が絵具を厚く塗ったようになった。

 見ていると情緒不安定になりそうな抽象画のようだった。生徒や机、椅子が水飴を垂らしたように混ざり合っている。

 俺は勢いよく立ち上がり、その勢いで椅子が後ろに倒れけたたましい音を立てた。

 栄治さんが教卓の上に立っていた。俺を見下ろし微笑んでいる。

「はっ……はっ……はっ」

 百mを全力で走りきったかのように息が切れる。

「――い、――した?」

 雑音が聞こえる。チューニングの合わないラジオを耳に押し付けられているのではと錯覚する。頭を激しく左右に振られているようだ。

「――ん――かおい――ほけ――」

 肩に何か触れた。

 子供が描いたそこなれの怪物みたいなのが横にいた。輪郭が崩れ極彩色の生き物。

「あああああっ」

 どろどろに溶けたような腕を振り払い、後ろに飛び退く。

 見た目とは裏腹に人の手で触れられたようだ。

「蓮。怖がることはないんだ」

 栄治さんは身軽に飛び上がるとふわりと宙に浮き、天井に張り付いた。

「怖がることはないんだ。受け入れるんだ。そうすれば、皆も蓮を受け入れてくれる」

 栄治さんが分裂した。一人が二人に、二人が四人に、四人が八人に。どんどん増えていく。

「――ん――ちつけ――」

 怪物が近付いてきた。目玉が飛び出している。

「れ――だい――こ――」

 新しい怪物が現れた。最初のよりは小柄だった。

「わ――つい――こわ――」

 小柄の方が俺の手を包み込むように掴んだ。

 何故だろうすごく心地が良い。

「その感覚を受け入れるんだ。僕には無理だったけれど、蓮になら出来る。拒む必要がないんだよ。それは自然な事なんだからね。身を任せてしまえば良いのさ」

 天井を埋め尽くした栄治さん達が一斉に微笑む。

「俺はっ……うっ……」

 胸が苦しい。このまま死んでしまうのではないだろうか。そしたら栄治さんの命を二度も殺してしまう。なんて罪深い事なのだろう。

「僕は死んでいない。蓮の中で生き続けている」

 ああ、栄治さんが一杯だ。教室が溢れてしまう。圧迫される。

 怪物もさらに輪郭が崩れただの塊になった。

 回っている。ぐるぐる、回っている。

 天井が床で床が天井で。

 わけの分からない塊と、増殖した栄治さんが両側から俺を押しつぶそうとする。

 もう、無理だ。

 体が潰れる。

「安心しな。これから蓮は新しい蓮になるんだから」


     ○


 まず先に目に入ったのは白い天井だった。次に薬の匂いが鼻をつく。柔らかい感触が体を包み込み、さらさらとした手触りだ。

 俺はどうやら保健室にいるらしい。カーテンで囲われ白さで目がちかちかする。

 耳を澄ませているとボールペンを走らせる音がした。保健の先生かもしれない。

 俺はどうしてここにいるんだろう。

 確か、一時間目が自習で眠っていたら栄治さんに呼ばれて……。

 廊下からくぐもったチャイム音がした。これはどのチャイムだろう。

 カーテンがゆっくりと開けられた。

「どうする? 今、二時間目が終わったけれど、早退する?」

 二十代後半か三十代前半と思われる先生が入ってくる。男子生徒に人気があるらしい。

 上半身を起こす。

「……っ」

 不快なものがせりあがってくる。喉の奥が酸っぱい。

 とっさに口を押える。

「ちょっと待って」

 慣れた手つきでビニール袋が手渡された。

 消化されかけた今朝の朝食が袋に溜まっていく。

 背中をさすられ胃の中を全部出し切った。

 先生はいくつか優しい言葉をかけてくれ、なぜ人気があるのか分かった気がした。

「あの……帰ります」

 一通り収まってからそう言った。

「その方が良さそうね」

「先生、俺はいつから保健室に来ていましたか?」

「覚えていないの?」

「はい」

「自分で来たじゃない。一時間目の途中で。浅野さんの付き添いで」

「……そう、でしたね。ちょっと寝ぼけていたみたいです」

 全く思い出せなかった。

「お家の方に連絡して迎えに来てもらう?」

 恐らく家には誰もいない。仕事に行っているだろう。

「大丈夫です。そんなに遠くないので歩いて帰ります」

「失礼します」

 沙奈が入ってきた。

「あら、浅野さん。お見舞いかしら?」

 先生が微笑む。

「あ、あのえっと……そうです」

 沙奈の顔がみるみる赤くなる。

「佐久間君が帰る前で良かったね」

「蓮君帰るの?」

 心配そうに近づいてくる沙奈。

「うん。だいぶ良くなったけれど、授業には出られなさそうだから帰るよ」

 体がだるく、軽い頭痛がした。

「そっか……。じゃあ私、蓮君の鞄持ってくるね」

「いいよ、自分で持ってくるから」

「ううん、蓮君はまだ寝ていて」

 沙奈は小さく手を振って教室に行った。


 次の授業が始まっているのに、沙奈は玄関先で見送ってくれた。

 悪くないな、と思いながら校門を過ぎる。校舎は授業中なので教師の声が小さく響いていた。


 ――気分はどうだい?

 ――あまり良くない。俺はどんな感じだった? どうせ見ていたんだろ。

 ――急に立ち上がって、そのままうずくまったんだよ。どうにか支えられて保健室に行ったんだ。後は眠っていた。そんな感じだよ。顔色が良くない。病院に行った方が良いんじゃない?

 ――寝ていれば治るよ。


 頭を振り、魔法使いの言葉を消す。

 姿が見えないのに声は聞こえるという奇妙な現象にすっかり慣れてしまっていた。

 それにしても、どうやら俺の見ていたものと実際の出来事は違ったようだ。

 校庭に立っている栄治さん。天井に張り付いていた栄治さん。増殖する栄治さん。それと落書きのような怪物。

 俺の夢だったのだろうか? 妙に生々しい夢だった。栄治さんの声や息遣い、汗を吸ったシャツの不快さ、怪物の手の感触。鮮明に思い出せる。あの感触は沙奈の手の温かみ。

「栄治さん……」

 コンビニの駐輪場に栄治さんがいた気がした。

 しかし、自転車が一台止められているだけだった。

 寒気がするから何か温かい飲み物でも買っていこう。そして早く帰って休もう。

 半ば気絶のように眠っていたからか、今朝よりも気が立っていない。空也には謝れなかった。明日、一番で空也に合わないと。


 十月二十五日 火曜日


 熱が上がり学校を休んだ。

 体温を測ると三十八度五分。

 午前中の内に診療所に行き、薬をもらってきた。平日なので時間がかからなかったのは良かった。

 軽い昼食を食べてベッドに横になっている。うどんを食べた。冷凍のものが一つ残っていたのだ。

 家は静まり返っている。たまに家が軋み小さな音を立てた。両親ともに仕事だし妹も学校へ行っていて俺しかいない。

 学校に行っていればちょうど昼休みだろう。沙奈は普通に学校へ行っているだろうか。昨日は心配をかけたから何ともないところを見せたかったかけれど。

 メールを何度か送ろうと思ったが迷惑かもしれないので止めた。

 空也とは会えないので謝れてもいない。

 熱が今日中に下がってくれれば良いけれど。


 ――やあ。

 ――ああ……。

 ――やっぱり疲れていたんだよ。ゆっくり休んで。

 ――分かっている。

 ――あとさ。まだ彼は見えるのかい?


 カーテンを開けて外を覗く。

 猫一匹いない。


 ――見えない。

 ――ふうん。神経張りつめていたからかな。

 ――知らない。

 ――ま、お大事に。


 魔法使いは消えた。

「うどんは美味しかったかい? 蓮は小さい頃からうどんがすきだったからな」

「……栄治さん。どうして俺の前に現れるんですか?」

 椅子に栄治さんが座っていた。

 もう栄治さんを見ても驚きはない。慣れてしまった。魔法使いが頭の中に入ってくるように。

「別に良いじゃないか。僕は心配だったんだよ、蓮が。あれから蓮はずっと暗い顔をしているから、自殺でもしてしまうんじゃないかと思ってね。だから励ましに来たんだ」

「励ます? 俺はかなり怖かったですよ」

「それは蓮がまだ罪悪感に支配されているからだ。蓮は気に病む事も、新しく得た命を重いと思う事もないんだ。蓮は被害者なんだから。不当に殺されたんだから、蓮はまだまだ生きる権利がある」

「それは栄治さんも同じでしょ」

「僕には生きる権利がない」

「意味が分かりません。生きる権利は誰もが持っているものでは?」

「違うよ。僕には無い」

 栄治さんは悲しそうに頭を振った。

「僕は自分から捨てたんだ」

「捨てた?」

「生きる権利は生きようとする人だけが持てる。僕はずっと死のうとしていたんだ。なら、生きる権利を持っていないのも道理だろ? 僕は自分を諦めた。だから死んだ」

「……やっぱり分からないですよ」

「それで良い。蓮は僕の事を理解しなくて良い。むしろ、否定し続けて欲しいんだ。僕を否定する事は生きるということ。死にたいという欲求を否定すること」

 栄治さんは立ち上がり俺の横に座った。

「もしもの話をするよ。蓮が僕を殺さず、かつ僕が自動車事故に合ったとしよう。僕は避けられる事故を避けないだろう。一瞬だけ体が固まって逃げ遅れてしまう。蓮が何もしなくても起こり得た事なんだよ。単に僕の死が書き換えられたんじゃない。いつかやって来る事が早まっただけさ」

「そんな事分からないでしょ。事故に合ったとしても生き残るかもしれないし、もっと時間が経てば栄治さんの心が変わったかもしれない。俺が栄治さんから時間を奪った事には変わらないです」

 怒りに似たものが湧き、顔を背けた。

 こんなことは一度もなかったのに。

 栄治さんの言う事に一々反発したくなり、結局それが栄治さんを否定し生きようとする事なのだろうか。

「沙奈ちゃんもいるんだから。蓮は生きていなければならない」

「美耶子さんはどうなるんです?」

「美耶子は……」

 一瞬、戸惑いが見えた。

「僕なりの彼女への救いだよ。僕に捕らわれていてはいけない。彼女が僕といる限り、彼女は一生幸せになれやしない」

「そんなの栄治さんの勝手な思い込みじゃないですか。美耶子さんの幸せが何か知らないでしょ……。栄治さんの考えを押し付けているようにしか思えません」

「うん。僕の独り善がりさ。でも、僕は僕が美耶子といる事を許せない」

「許すとか許さないとか……」

 俺は魔法使いに訊かれた。

 生きたいか、生きたくないのかと。俺は生きる事を選んだ。だから、栄治さんを殺した。

 そうか。目の前にいる栄治さんは俺自身なんだ。

 俺は俺のした行為を許さず前に進めていないんだ。

「とにかく蓮は生きるんだ。生き続けて僕を否定してくれ」

 栄治さんは背を向け立ち上がり、音もなく消えた。

 行き場を失った熱い感情が体中を暴走する。

 枕を鷲掴み、そのまま栄治さんのいた所へ投げつけた。

「なんなんだよ……」

 枕は壁に当たり力なく落ちた。

「こうなったのも全部……」

 全部奴のせいじゃないか。

 いなければ俺は殺されなかった。俺が栄治さんを殺す事も無かった。奴が全部悪いんだ。奴が全ての始まりだ。奴さえいなければ。


     ○


「体調はどうだ?」

 夕方、空也が来た。

 どうやら今日配られたプリントを、持ってきてくれたらしい。

 空也は目の下に濃い隈が出来ていた。はた目からみても疲労が溜まっているのが分かる。俺よりも空也の方がずっと悪そうだ。

「あまり」

「起こしたな。ごめん」

「いや、寝てばかりいても気が滅入るから」

「そうか。じゃあ、俺は帰るよ。早く治せよ。浅野も心配していたぞ」

「ありがとう。なるだけ早く学校へ行くよ。それとさ……昨日はごめん。気使って声を掛けてくれたのにあんな事を言って」

「なんだよ、いきなり。俺は気にしていないぞ。とにかくお前は治すことを考えろ」

「ああ……ありがとう。空也こそちゃんと眠っているの? かなり疲れているみたいだけれど」

 立っているだけで相当に辛そうだ。

「なんでもない。少し寝不足なだけだ。もう帰って寝るよ。じゃあな。よかったら浅野にメールでもしてやれ」

「うん。それじゃあ」

 玄関の戸が閉められた。

 空也の足音が次第に遠くなる。

 濃い影が玄関を埋め尽くし、廊下は靴下越しにでも冷たい。

 体が火照る。

 奴を殺さないと収まりそうにない。奴の命を奪わなければこの熱は取れない。

 奴を殺すなら俺にしたように、簡単には息の根を止めるつもりはない。時間をかけてやらないと。

 奴がいつ襲ってくるのか、そもそもまた来るのだろうか? けれどもしもの時のために手段はあった方が良い。

 刃物。

 あのナイフを使えば奴を殺しても俺のせいにはならない。

 魔法使いを呼んで貸してもらおう。

 いや、俺は何を考えているんだ。どうして殺す事を前提に考えているんだ。これじゃあ、奴と同じだ。あくまで武器を持つのは自衛のためだ。

 部屋に戻り携帯を開いた。

『蓮君具合どう?』

 沙奈からメールが来ていた。

『まだ少し熱があるよ。でも、だいぶ良くなったから』

 手早く返信しベッドに寝転ぶ。

 電気を付けない部屋は暗い。天井が見えず吹き抜けのようになっている。

 吸い込まれそうだ。吸い込まれて正気を失ってしまいそう。狂って殺す事に、何のためらいも無くなってしまうではないだろうか。

 思わず奴を殺す自分を想像してしまった。浮かんできた映像は奴を切り付けながら微笑む自分。

 止めろ。俺は奴とは違う。

 でも、もう一人殺しているじゃないか。栄治さんを殺しているじゃないか。殺しは殺し、同じだろ?

 それは……。

「ああああああっ!」

 額を壁に打ち付けた。鈍い痛みが広がった。熱い。

 無限に続きそうな思考を断ち切った。

「ああっ、ぐあ、ああっ」

 床を殴る。拳がぶっ壊れそうだ。

「ああ……う、が……」

 涙が一粒落ちた。

 擦りむけた手の甲にも何滴か溜まっていく。

「……人殺し……」

 自分自身に向けて言い放つ。

 こんなんじゃ、やっぱり沙奈には会えない。

 俺はドブのように汚れているんだ。こんなんで沙奈に触れたら沙奈を穢してしまう。

「人殺し……人殺し……」

 栄治さんは否定しろと言った。否定はするさ。

 けど、それは生きる事に関してだ。その生きる権利どうのこうのは否定する。

 しかし、俺は自分のした事を否定するわけにはいかない。どんな理由があったって殺した事には変わらないんだ。

「あああっ、ああぅ、がっ、はっ、はぁ、ああ、ぐっ」

 涙が止まらない。息が出来ない。鼻水が口の中に入った。

 苦しい。死にたい。楽になりたい。こんなことになるなら、あの時死んでいれば良かったんだ。


 十月二十七日 木曜日


 熱はすっかり下がっていた。体調は良い。

 ベッドにもぐり、学校へは行っていない。何とか親を誤魔化しているがもう限界だろう。

 さすがに明日は行こうか。けれど、沙奈に会って良いのか?

 携帯に何通かメールが来ていた。沙奈だった。どれも体調を気遣うものだ。返信はしていない。

 一日中何もしない俺は何なのだろう。親にも友人にも恋人にも迷惑をかけている俺は何なのだろう。ダメな人間なんだろう。


 ――いけないと思うな。心配しているよ、きっと。二日間僕以外とまともに話していないじゃないか。外に出てみたら? ちょうど今日は晴れているみたいだし。

 ――やだよ。眠たいんだ。もう少し眠ったら学校に行ける。

 ――何度目? それを言うの。日の光を浴びないと身体的にも精神的にも良くない。

 ――でも、俺が出歩いて良いのか?

 ――どういうこと?

 ――俺は殺人犯だ。

 ――また同じ事で悩んでいるの?

 ――だって……。

 ――何もかも忘れてしまえば? 全部押し流してしまおうよ。友達と恋人と遊んで暗い気持ちを打ち消してしまえばいいよ。ほら、外に行こう。

 ――……。

 ――ふぅ。困ったなぁ。おや、誰か来たようだ。出た方が良いんじゃないかな。


 家の呼び鈴が鳴った。出たくないが重要な事だったらどうしようか。

 時間帯的に空也ということもあるが、昨日、一昨日と来ていない。火曜に来たのはプリントを持ってきてくれたというより、俺の様子を見に来たのだろう。かなり疲れていたが空也も大丈夫だろうか。


 ――あの子みたいだよ。出るべきだ。連絡もしていないんだろ? 絶対に心配しているから。

 ――なんだって? 沙奈が……。家の住所はどうやって。

 ――さあ。あの顔に傷がある奴から聞いたんじゃないかな。

 ――空也か。ならあり得る。


 二回目の呼び鈴が鳴らされた。空しくその音は吸い込まれた。


 ――出ないのかい?

 ――こんな姿見せられない。

 ――僕としては安心させてあげて欲しいな。彼女もかなり思いつめた顔をしているよ。何も事情を知らないで放置されるのはすごく辛いと思うんだ。

 ――……かもしれないな。

 ――ほら決まったよ。玄関へ行って。


 ドアスコープを覗くと沙奈が所在なげに立っていた。

 二、三日会っていないだけなのに懐かしく感じた。

「あっ」

 戸を開けると、俺が出てきたのが意外だったのか、驚いているようだ。

「蓮君、起きていて大丈夫なの?」

「うん……。家に誰もいないから。それより、家の場所よく分かったね。空也に訊いたの?」

「うん、そう」

 沙奈はこくりと頷き、何か言いたそうにもじもじとしている。

「あ、入って。立ち話もなんだから」

「あ、でも迷惑じゃ……」

「気にしないで。誰もいないし、俺も沙奈と話したいからさ」

「そ、そっか。じゃあ、お言葉に甘えてお邪魔します」

「どうぞ」


 居間に通し、適当にお菓子やお茶を出す。

 沙奈はテレビの前に置かれたソファーに座ってもらった。

 俺は手早く顔と歯を磨き、多少ましになった姿で隣に腰を下ろした。

「ごめん。メール返信しなくて」

「あ、いえ、私こそ具合悪いのに送っちゃって……。ごめんなさい」

 沙奈は深々と頭を下げた。

「それにこうやって押しかけちゃって。本当に私……」

 今にも泣きだしそうな沙奈の顔に胸が痛くなった。

 俺は自分の事ばかり考え、彼女がどう思っているかなんて一度も思いを巡らせていなかったんだ。

 栄治さんに何も言えないじゃないか。同じだ。

「今日来たのはね、栄治君の机の中、配られたもので一杯になっていたから持ってきたの」

 沙奈は鞄から紙の束を取り出した。かなり厚い。

「吉田君も今日は休んでいてね」

「空也も?」

「そうなの……」

 俯き、指をせわしなく組んだり遊ばせたりしている沙奈の顔は、いつもの明るい笑顔がない。

「二人ともいないから、私心配で……」

 小さな肩がそっと揺れ、息を吐くたび、この部屋が沙奈に染められていくようだ。

 甘い香りが鼻をくすぐり、温もりが空気を伝って俺までやってくる。熱い衝動を呼び起こす温もりが。

「具合はどう? 明日は学校に来られるかな? あ、無理はしないでね」

 ふと微笑む沙奈。

「沙奈……」

 手を握った。暖房で温められた手は柔らかく心地よい。荒んでいた心に染み入る。


『その感覚を受け入れるんだ』


 この感覚? 栄治さんが言っていたのはこれのこと?

 熱く、優しく、切なく、このあふれ出しそうな温もり。受け入れる事が出来るだろうか。

「どうしたの? 蓮君」

 頬を赤らめ上目づかいで見つめられる。告白した時みたいだ。

「……」

 見つめ合い、鼓動が早まる。

 この感覚。津波のように押し寄せてくる。受け入れるのではなく染められる。目の前の沙奈しか考えられなくなる。

 次第に二人の距離は縮まって行った。沙奈のまつ毛、緊張と恥じらいを浮かべた瞳、熱い吐息。

 瞼を閉じた沙奈。

 震える肩にそっと手を置く。

 良いのか? 本当にこのまま受け入れて良いのか?

「蓮君……いいよ」

 沙奈が呟く。

 情けないな、俺は。言われなければ何も決断出来ないなんて。

「ごめん……ありがとう」

 顔にかかる息が一層熱くなり、そして唇が重なり合った。互いの呼吸が溶け合い、感覚が共有される。

 中に浮くような不思議な心地。気を抜けば一瞬でどこかへ行ってしまうような不安定さを抱え、俺は離さないように抱き寄せた。

「んっ……蓮君?」

 戸惑う沙奈。

「泣いているの?」

「……いや……」

 壊さないように、しかし強く小さな背中を抱いた。

 甘い香りがより鮮明になり、めまいを起こしそうだ。首元に顔をうずめ、しばらくそのままじっとしていた。

「辛いなら……私でいいなら話聞くよ」

 沙奈も抱き返してくる。

 ああ、これが栄治さんの言っていた感覚。支えられている実感。隣に誰かがいるという安心感。熱く切ない包容感。

 これを栄治さんは受け入れられなかったのか。

「うん……でも、もう一度……」

 くすりと沙奈は笑った。

「しょうがないな……」

 またゆっくりと唇を近づける。

 沙奈の後ろに栄治さんがいた。

 栄治さん、俺は受け入れるよ。

 違う。俺は自分から求める。受け身ではなく、自身で決めて。怖いなんて思わない。俺はこの子を悲しませたくはない。

 栄治さんが頷いた気がした。



「時間は大丈夫?」

「そろそろ帰らないとちょっと危ないかも」

 赤みが引かない沙奈はそう言い立ち上がった。

「でも、蓮君……」

「送っていくよ。少し話そう」

 何日かぶりの外は新鮮な空気で満ちていた。

 手を繋ぎ、駅までゆっくり歩いていく。

 俺は小さい頃から親しかった栄治さんが死んでしまった事、それがショックで引きこもっていた事を話した。俺が殺したのではなく事故で死んでしまったのだ。

 沙奈は熱心に聞いてくれ、罪悪感を覚えなかったわけではなかったが、それは俺が決めた事なのだから後悔はない。俺は生きる。栄治さんを犠牲にして生きる。

 駅に入っていく沙奈を見送り、寒いので速足で家へ帰った。その途中、魔法使いに話しかけた。


 ――魔法使い。

 ――なに?

 ――頼みがあるんだけど。

 ――なんだい?

 ――俺を殺した奴をおびき寄せる事は出来る?

 ――んー出来ない事はない。

 ――お願いするよ。

 ――でも、僕の知っているやり方は一つだけ。確実にあっちからやって来るとは限らないし、間違って別の人間がやって来る事もある。それでも良いのかい?

 ――いいよ。

 ――では早速。

 ――俺は何かする事はあるか?

 ――君がする事はただ一つ。普通に生活して。朝起きて、学校に行って、ご飯食べて、眠る。それだけ。

 ――それだけ?

 ――うん。君に香水のような物を付ける。それを振りまくために外に出る必要があるんだ。その香水は人の恨む気持ちや殺人衝動を誘発させる。一応、無差別で襲われるのを避けるためにほんのちょっとだけにするよ。本気で君を殺したい人間しかやって来ない。

 ――分かった。もし、奴が来たらあのナイフを貸してくれ。

 ――本気なの?

 ――本気だよ。

 ――なら、確かに手伝わせてもらうよ。


 俺はやらなければならない。奴を殺して、栄治さんの事故死を本物にしなければならない。


 十月二十八日 金曜日


 三日ぶりに登校した。

 こんなことで本当におびき寄せられるのか疑問だが、今は信じるしかない。

 空也は沙奈の言った通り休んでいる。誰もいない美術室に行っても意味がないので、図書室にある資料室にいた。変わらず古びた本の匂いがする。窓から日が差し込み、空気中に舞う埃が輝いていた。

 ここに栄治さんと美耶子さんがいた。けれど、二人はもう離れ離れになってしまった。栄治さんは死んでしまったから。高校生の二人はこうなる事を少しでも想像していたろうか。

 美耶子さんはこれからどうするのだろう。栄治さんを亡くし、新しい恋人を作る事が出来るのだろうか。しばらくは立ち直れないだろう。

「蓮君ここにいたんだ」

 沙奈が入ってきた。

 昨日の事を思い出し顔が熱くなった。それは沙奈も同じだった。

「空也もいないし。何かやる事はないかと思って」

「そっか。でも、特に仕事はないよ。吉田君、早く良くなればいいね」

 空也は風邪をこじらせて休んでいる。俺からうつったのかもしれない。それなら悪い事をした。

 空也が来てくれたように俺もお見舞いに行きたいのだけれど、空也の施設の場所を知らないし何となく行きにくい。

 空也の母親は死んでしまったと言っていたが、父親はどうしているのだろう。

「ね、蓮君」

 沙奈が手近にあった椅子に座った。

「蓮君が告白してくれた時、かなり思いつめた顔していたよ」

 悪戯っぽく笑う沙奈。

「い、いや、あの時はかなり必死だったから……」

 沙奈は微笑み、

「嬉しかったよ」

 そう言い、じっとこちらを見つめた。

「でもね、あまり思いつめないでね」

「……気を付けるよ」

「約束だよ」

 沙奈は笑みの中に不安を押し隠しているように思えた。

 無理もない。学校でいきなり倒れ、そのまま何日か学校に来なくなったら心配にもなる。

 沙奈の元へ行きそっと抱き寄せた。

「ちょ、ちょっと蓮君……。こんな所で」

「ごめん。けど、約束するよ」

 受け入れたこの感覚。栄治さんが手放してしまった感覚。離したくない。絶対に。


     ○


 放課後、久しぶりにあの堤防の上を歩いた。通り魔に襲われてから避けていたけれど、奴を誘い出すために忌々しい記憶を振り払って進んだ。

 特に風景は変わっていない。川から吹いてくる風は清々しく冷たいし、山並みも夕闇を帯びている。


 ――効果はどれくらいで現れるんだ?

 ――早くて来週の月曜かな。

 ――またここへ来れば奴は来るのか?

 ――たぶん。僕もどうなるか分からない。けれど、気配を感じたらすぐにナイフを君に渡すよ。

 ――頼むよ。……ところで、魔法使いはずっとここにいるつもりなの?

 ――いいや。君の生活が軌道に乗り始めたら出ていくよ。

 ――旅をしているのか?

 ――そうだよ。

 ――どうして?

 ――理由はない。ただ、ふらりと。

 ――俺みたいなことは前にもあった?

 ――あるよ。何度も。僕はほっとけなくなって、ついつい手をだしちゃうんだ。僕の助けがその人の助けになるとは限らないけれど。僕が手を出した事でもっと状況が悪くなってしまった人もいた。

 ――俺はどっちなんだろうな。

 ――君はどう思う?

 ――まだ、分からない。

 ――良い方向に転ぶことを願うよ。……もしかすると、僕はそれが目的なのかもしれない。誰かを助けるために放浪しているんだ。

 ――救えなかったとしても?

 ――うん。救えなかったとしても、今度こそは、って心の奥底で思ってまた旅に出るのかもね。


 一度家へ帰り鞄をおいて公園へ行った。公園には一人、ブランコに乗る美耶子さんが空を見上げていた。

「あら、蓮君。お散歩?」

「はい。美耶子さんも?」

「ええ。習慣になっていたのかしらね。栄治君とよく歩いていたから」

 美耶子さんがブランコをこぎ始めると、錆びた金具が軋んでいた。

「私さー、これからどうすれば良いんだろう」

「……」

 返答に窮した。俺がかけられる言葉は何もない。

「ごめんね。聞かれても困るよね」

 美耶子さんがこぐブランコは、次第に大きく揺れ始め風を切っている。悔しそうに唇を噛み、必死に前に進もうとしているようだ。

「あまり激しくこぐと危ないですよ」

「いいのー」

 駄々っ子のように言う美耶子さん。

「とりあえず、大学にいこうかな。今週全然行っていないし。……えいっ」

 美耶子さんは一番高くなった所で飛び出し、そのまま綺麗に着地した。

「蓮君は学校行った?」

「月曜と今日だけ」

「私も来週からいこっと」

「あまり無理しないでくださいね」

「ありがと。それじゃ」

 美耶子さんは手を振り、公園を出て行った。その背中は頼りなく彼女は未だに悲しみを背負っていた。

 俺が選択し、得たものと失ったもの。どちらかを手に入れればもう一方はこぼれ落ちてしまった。

 だからこそ、俺は進まなければならない。手の中にあるものを無くさないように、消えてしまったものを無駄にしないために。


 十月三十一日 月曜日


「熱がなかなか引かなくてな」

 空也は眠気でぼんやりすると言って美術室の窓を開けた。冷たく新鮮な冬の空気が流れ込んできた。絵具の匂いが一瞬だけ消える。昼食後の眠気が吹き飛んだ。

「俺からうつったのかな。なんか、ごめん」

「別にそんな事は思っていない。……なぁ蓮」

「ん? 何?」

 言おうか言わないか迷っているような表情で窓辺に立つ空也。

 開きっ放しの窓からは、風がどんどん入り込んでくるのでそろそろ閉めて欲しい。今日は晴れてはいるが一段と冷え込んでいる。

「すごいリアルって言うかさ、現実味のある夢って見た事あるか? 妙に生々しくて、目、覚めても手に感触が残っている。そんな事、あるか?」

「現実味って言うか、気持ちの悪い夢なら見た事あるよ。起きても嫌な感じが残っている夢。内容は忘れるんだけどさ。空也は見るの? リアルな夢」

「……最近のそればかりで少し疲れていたところだ」

「どんな夢?」

「くだらないから言わない」

「え、教えてくれても良いじゃん」

「やめとくよ。ほら、時間も時間だ」

 空也は窓を閉めると同時に予鈴が鳴った。

 眠気はすっかり消えて午後からの授業は集中して迎えられそうだ。

 俺は朝から背中を気にしていた。早ければ今日中に奴がまた襲ってくるかもしれない。覚悟を決めていなければ。俺は奴を殺さなければならない。

 空也の言うリアルな夢も気になったが、それ以上に奴と対峙して体が硬直しないように気持ちを落ち着ける方が重要だった。

 授業中、何度か外を見て奴が待ち伏せていないか確認するが、そもそも教室の窓からは校門が見えないので誰がいるか分からない。

 そう言えば奴はいつから俺の後ろにいたのだろう。どこからついてきたのだろう。たまたま、俺を襲ったのがあの堤防だったのだろうか。それとも人気のない所まで行くのを待っていたのだろうか。

 とにかくまた何もせずにやられたくはない。


     ○


 帰りの道は防寒具が何もない事が悔やまれるほど寒い。マフラーは痒いから好きではないし、制服の上から羽織るコートのような物はしまいっ放しで出さなければ着られない。短い間に色々な事があってすっかり冬物を出すのが遅れてしまった。

 沙奈は部活に行ったので一緒ではなかった。待っていても良かったのだが、奴が二人でいるところに襲ってきて沙奈を傷つけるかもしれない。そんなのはごめんだ。

 帰る道は駅の方を通って遠回りをしている。なるべく同じ場面を準備したかった。その方が奴と遭遇する確率が高まりそうだからだ。

 堤防を渡り、そして俺が殺された所まで行き立ち止まった。日は暮れていた。手がかじかむ。しっかりとナイフを握れるように息を吹きかけて手を温めた。


 ――何も今日現れると決まっているんじゃないんだから、そんなに気を張り詰めなくても。疲れちゃうよ? 君にかけたのは本当に極少量なんだから。

 ――何となく今日来る気がするんだ。

 ――根拠は?

 ――無い。

 ――……君の感は当たるのかい?

 ――あまり。

 ――ほら、なら帰ろう。また熱がぶり返すよ。


 人影が近付いていた。擦るような足音が迫ってくる。

 なるべく気付かれないようにしているようだ。


 ――あれ? 君の感も捨てたものじゃないね。

 ――ナイフ、頼むよ。

 ――はい、どうぞ。


 氷を握ったようだった。その冷たさで心まで凍り付きそうだ。


 ――もし必要ならもっと手を貸すけど?

 ――例えば?

 ――一時的に君の身体能力を上げるとか。それ相応の対価はもらうけれど。君は元々の体が出来ていないから、かなり貰う事になるね。もうちょっと運動した方が良いんじゃない?

 ――うるさいな。いらないよ。俺が自分の力でやらなければならないんだよ。

 ――分かった。さすがに君が死にそうになったら手を出すけれどね。せっかく助けたのにまた死なれたら寝覚めが悪い。


 深呼吸をし、ナイフを握りなおす。後ろを振り返った。

 奴は俺が気付いていた事に動揺したのか立ち止まる。

 しかし、懐から包丁を取り出した。どこの家庭にでもあるようなものだ。刃渡りも刃の形状も一般的な物。

 背丈は俺より頭一つか二つ分高いだろうか。もっとあるのか? 背景の黒と奴の着ている服との色が溶け合って全体像が分かりにくい。ロングコートが風ではためく。フードを目深に被っているので顔が見えない。

 奴が地を蹴り、距離を縮めた。迫りくる。

 俺は特別な技術など持ち合わせていないので、とにかく避ける事に徹する。奴は首を狙っているようで、腕を大きく横に振り小さな風切り音を発している。

 逃げず、とにかくこのナイフを胸に刺せば勝ちだ。だが、奴の胸が異常に遠い。

 包丁を握っていない空いた手で殴ろうとしている。

 息はすぐに上がり、魔法使いの言う様に少しは体を動かしおくべきだった。

「うぐっ」

 奴の拳が俺の右ほほを捉えた。

 鈍い痛みとめまいでふらつく。

 後ろへ下がろうとするが、右肩を掴まれ動けない。奴の指が肩に食い込み痛む。

 奴が腕を振り上げた。

 殺される。このナイフを使わないと。一瞬、栄治さんの姿が浮かんだが振り払い、息を止めた。

 ナイフを奴の腕へ突き刺す。

 しかし、手ごたえはない。かすっただけだった。

 ナイフでまた人を切る事に躊躇してしまい、その隙に奴が離れてしまった。

 にらみ合う。

 奴は誰だ? どうして俺を狙う?

「おい……お前はどうしてこんな事をするんだ?」

 問いかけるが反応はない。

 奴はまた距離を詰め、包丁を振り回す。

 このままだと俺が先にやられるだろう。息が上がって動きが鈍ったところをぐさりと。

「このっ」

 ナイフを振るう。銀色の尾をひいた。

 奴は後ろへ下がりつつ上手くかわし、一つも当たらない。

「はぁ、はぁ」

 いつまでも腕を振り上げていられない。

「ふっ……わっ」

 激しく金属がぶつかるような音が響いたと同時に、手が痺れ俺はたたらを踏んだ。

 俺の振ったナイフに合わせて、奴が払ったらしい。

「ぐ、うっ」

 無防備な俺を奴はすかさず攻めてくる。

 拳と蹴りが俺を捉え、馬鹿みたいに殴られた。

 前回のように、すぐには俺を殺さず十分にいたぶってから止めをさすつもりなのだ。

 そんなこと、また同じように、俺は何も出来ないのか。

 膝は笑い、腹部が苦しくて息が吸えない。

「ああああっ」

 必死にナイフを振るう。

「うるさい」

 初めて奴が声を出した。布越しなのかくぐもっている。低い男の声だった。殆ど聞き取れないような小ささ。

 俺は勢い余って前のめりに倒れ込んだ。

 奴は俺のナイフを握った手を踏みつけ、手から離れたナイフを川の方に投げてしまった。微かに水を跳ね上げる音がした。

「うるさい、うるさい、うるさい」

 奴がそう呟く度、俺の背を踏みつける。

「このっ、俺が何したって言うんだっ」

 奴の足を取り、そのまま川側へ無理矢理落とした。案外あっさりと倒れてくれた。

 俺がうつ伏せになっていたから油断していたのだろう。

 音もなく転げ落ちていった。


 ――ナイフ、はい。

 ――ごめん。早速、助けてもらった。

 ――これくらい、なんてことはないよ。


 また、手に冷たい感触。

 奴はうずくまったままだ。

 そろりと奴から少し離れた場所に降りた。

 確信の持てない不透明な何かが心の底で引っかかった。何か、不安な、無意識に否定してしまうような奴に対する違和感。

「……くそっ……くそっ……」

 奴はぶつぶつと毒づいていた。

 もどかしく、考え込みたかったが、早くやってしまわねばならない。動かない今がチャンスだ。

 奴の脇へ回り込み、タイミングを計る。

 いざ、やるとなると心臓がはち切れそうだった。人、一人を殺すとはどういう事か。身を以て体験した。肉に刺さる感触も、死んだ人の過去を背負う重さも、俺の中には納まりきらない。

 後ろでは川が絶えず流れている。少しの間、耳を傾け気持ちを落ち着かせた。

 やらなければ、俺が殺される。それとも、今からでも誰かを呼んで警察に突き出せば良いんじゃないか? 何も俺が人殺しになる必要はないんだ。でも、奴が元凶なんだ。俺も栄治さんもこいつの為に狂わされた。

「やらないと……やらないと」

 自分に言い聞かせ、一歩踏み出そうとしたその時だった。

「早くやれよ、蓮」

 聞き慣れた声だった。奴が立ち上がる。

「俺を殺さないと、俺がお前を殺してしまうぞ?」

 奴がフードを取った。目だし帽を被り、目だけが覗いている。

 見覚えのある目元だ。

「暑いな。蒸れるんだよ、これ」

 目だし帽を脱ぐ。

「そんな……どうして」

「分かっていたんじゃないか? 俺だって」

 空也が口元の傷を歪ませて微笑んでいた。

「俺はお前を殺したいんだ。嫌なら、俺を殺せ」

「待ってよ。どうしてそうなるんだよ」

「うるさい。俺はお前がずっと嫌だった。だから、殺したいんだ。それ以外に理由はいらないんだ。ほら、お前がやらないと俺がやってしまいぞ」

 空也がゆっくりと歩いてくる。

 何故? 空也が、どうして。俺を殺そうとしている。空也が。刃物で、俺を。

 だったら、あの時の犯人も空也だったのか? 俺を何度も殴り飛ばし、切り刻んだ張本人なのか?

「蓮……ごめん」

 空也はそう言うと駆け出し体当たりをかました。

 状況を把握する事に手一杯で反応が遅れ、肩がみぞおちに叩き込まれた。

「がはっ……」

 骨が折れたのではないかと思うほど河原の丸石で打ち付けられた。

 まずい、本気で殺されかねない。

「空也、止めてくれ!」

「うるさい! 俺はな、お前を殺さないと落ち着かないんだよ。殺したくて、殺したくて堪らない」

 空也は俺の胸ぐらを掴み、引きずられるようにして川の方へ引っ張っていく。

 些細な抵抗をするが、友人に対して非情になりきれず、されるがまま、空也に身動きを奪われていた。

「なぁ、どうしたんだよ、空也。どうしてこんな事をするんだ。放してくれ」

 強靭に胸元を掴んでいる手から逃れようとするがびくともしない。一回りも大きい空也の手は万力のように俺を締め付けていた。

 俺は空也にナイフを向ける事は出来なかった。


 ――何やっているんだよ。君、本気で危ない。彼の目を見てよ。君を殺す気だ。

 ――うるさい! 空也は……空也は。


「せめて、せめて、理由を聞かせてくれないか?」

「黙れ」

 俺は川へと投げ込まれた。顔面から石に突っ込み、鼻が嫌な音を立て激痛が走った。涙がにじんだが、即座に川の水で押し流されてしまった。

「一年から……ずっと……嫌だったんだ」

 後頭部を押さえつけられ、川底から顔を上げられない。

「ごぼっ、やめ」

「毎晩、毎晩、もう疲れたんだよ。お前を殺す夢ばかり見て。俺は終わりにしたいんだ。こんな生活を」

 息が、空気が、一気に消費される。

 容赦ない水流が口から胃へと水を叩き込み、空也は俺の頭を川底へ打ち付ける。額が切れ、明るかったならば鮮やかな赤い流れとなっていたろう。

 俺の言葉は一切届かない。空也は手を休める事無く、俺の体力だけが一方的に奪われる。

 これが本当の殺意か。俺の覚悟なんて笑わせる。親しい友人を見ただけで足が竦んでしまっているじゃないか。

 なぁ、空也。俺だけだったのか? 仲が良いと思っていたの。空也は俺の事がずっと嫌いだったのか? だったら、なんで俺とよく喋ったり遊んだりしたんだ?

「あああああっ。もう、見せるな。止めろ、止めてくれ!」

 空也が頭を抱え、苦しそうに身をよじる。

「くそ、くそ、くそっ」

 全身が痺れて動けない俺を仰向けにし、空也は俺へ馬乗りになった。空也の瞳には色濃い憎悪が宿っていた。

「空也……」

 もうろうとする意識で呼びかけた。

「俺を呼ぶな」

 高く振り上げられた硬い拳が降ってきた。

 半狂乱状態の空也の狙いは不正確で、的確に頬を殴る事もあれば丸石を殴ったりもしている。馬鹿力に俺はなす術なくサンドバックと化していた。

「……」

 不意に空也が止まり、おもむろに俺の頭よりでかい丸石を持ち上げた。

「終わりだ、蓮。終わりにしよう。俺もお前も、全部」

 ぐっと背を反らし、後は振り下ろすだけとなった。

 あんな石、当てられたら死んでしまうだろ。

 片手にはナイフが握られていた。

 だが、両腕もろとも馬乗りになられているから身動きが取れない。耳鳴りが酷く、奥底から金づちで連打されているような頭痛がした。

 その時、時間が止まった。空也の振りかぶった腕も、川の流れも、俺の呼吸もあらゆるもの全てが。


 ――限界だ。これ以上は僕も手出しさせてもらう。

 ――待ってくれ、お願いだから。

 ――この状況を黙ってみていられると思うのかい?

 ――話せば、話せば……。

 ――君は話せる状態ではないし、彼も耳を貸さないだろう。君は覚悟を決めたはずだよね。

 ――そうだけど……。

 ――なら、彼を殺さないと。君が殺されるよ。

 ――殺される……。

 ――ああ、確実にね。


 殺される。そう思った時、やはり沙奈の顔が浮かんだ。彼女にまた生きて会いたいし、もっと生きたい。

 俺はすでに一人を踏み台にして立っている。栄治さんの死を克服した俺にとって二人目も同じだと思っていた。けれど、空也だと知った途端、無抵抗に殺されかけている。人を自分の意志で殺すんだと思ったら震えてしまっている。結局、俺の覚悟は虚勢だったのかもしれない。

 俺はどっちを取るんだ? 沙奈か、空也か。前は、他人を犠牲にしてまで生きるか、それとも大人しく死ぬか、だったな。おかしいだろ、この短い間に極端な二択を迫られるなんて。

 でも、選択する事でしか前に進めない。迷っている間にも時間は流れる。選択筋は減る。俺は選ばなければならない。

 どれか一つを選べば、他のものは選べない。何もかもを得ようとする事は体が一つの俺には無理なんだ。ならば、せめて一つだけでも、どれだけ小さくても決して離さないものがなければ、俺は薄っぺらく重みのない人間になってしまう。


 ――魔法使い。

 ――決めたのかい?

 ――決めた。やるよ。

 ――分かった。では、君の体をもっと動けるようにするね。対価は、そうだな……声を一か月分貰うよ。一番手ごろじゃないかな。他に要望があるなら聞くけれど。

 ――いや、それで頼む。

 ――そう。じゃあ、行くよ。時間が動き出したらすぐに彼を弾き飛ばすんだよ。声は君にかけた魔法が切れた頃に無くなるから覚えておいてね。


 時が動き出す。

 空也の振りかぶった石が顔面めがけて振り下ろされた。

 いやに体が軽い。少し力を入れただけで空也が持ち上がった。

「おわっ」

 重心がぐらついて空也は後ろへ倒れ込んだ。

 気分が良い。爽快で叫び出したいくらいだ。

「空也……」

 俺は今、どんな顔をしているのだろう。笑っているのか、泣いているのか、分からない。様々な感情が入り乱れている。爆発して心など無くなってしまいそうだ。

「蓮……」

 空也を見下ろした。驚いているようだが、憎しみが消えていない表情。

 やっぱり、だめなのか。

 空也が立ち上がる。

 俺はそれを許さず、空也の胸を蹴り上げた。

「ぐ、がっ」

 うめき、苦悶を浮かべる空也。

 躊躇いが無くなっていた。容易く人を殺してしまえそうだ。越えてはならないものを、越えてしまった気分だ。

 だが、後悔は一片も無かった。魔法使いの魔法には抗不安作用も含まれているのかもしれない。

 空也の持っていた包丁が足元に落ちていた。俺を殴る時に、置いたのだろう。

 拾い上げ、逆手に持つ。

 うずくまる空也へ蹴りをあびせ、殆ど抵抗が無くなったところで仰向けにした。

 目には閉じられ、呼吸は浅い。

「……やれ。早く」

 空也はそう呟いた。

 友達を殺そうとしているのに、俺の中には何の未練もなかった。ただ、ひたすらに目の前の敵を消したい。それだけだ。

「空也……じゃあね」

 心臓めがけてナイフを振り下ろした。が、空也は飛び退きナイフは川砂へ刺さった。

「蓮、大人しく殺される気はない」

 拳を放つ空也。

 はっきりと、止まっているように空也の動きが見えた。

 俺は難なくそれを交わし、逆手に持った包丁を空也の肩へ突き立てる。空也は膝をついた。

「があああっ」

 続けざまに無防備な胸へナイフを刺し込んだ。軽く、バターでも切るかのような手ごたえ。いとも簡単に人の命を奪ってしまう。

 空也は立膝のまま俺を見上げていた。

 すぐに、また栄治さんのように真っ黒く溶けて俺の中に入り込むのだろう。

「なあ」

 空也は口を開いた。

「なに?」

「すまなかったな」

 空也の輪郭が溶け始め、それは重油のようだった。生きているかのようにうごめき、俺の口から入ってくる。

 空也の過去や感情の激流が押し寄せた。胃がはち切れるのではないか心配になるほど無理矢理ねじ込まれた。


     ○


 母さんはユリの花が好きだった。真っ白いユリの花。よく花屋で買ってきては花瓶に活けていた。

 父さんは……あの人はいつも酒を飲むと暴れていた。一応は仕事をやっていたらしいけれど詳しい事は知らない。

 俺の家庭は絵に描いたような家庭崩壊の状態で、今にして思えば全てが作り物、例えば小さい頃に見た二時間ドラマを自分の家族なんだと思い込んでいたのではないか、と疑いたくなる。

 だが、紛れもなくあれは俺の家族だった。酒乱で暴力的な父親と、家計を助けるために昼夜働いた母親。そして、非力で小さな俺の三人家族。


 物心ついた頃から、暴れるあの人を必死になって止める母さんの姿が日常的だった。よく俺にまで飛び火してきて、殴る蹴るは当たり前になっていた。

 その度に母さんは泣きながら止めてくれ、俺はその表情が世界で一番強いものだと思っていた。

 一番美しいものは何なのかと言えば、あの人のいない間に母さんがユリの花を見て、微かに微笑んでいる事だ。元々花が好きだったのだろう。とりわけ白のユリはお気に入りだったようだ。

 理由は知らない。むしろどうでも良かった。俺は母さんの安らかな表情で安心できたのだから。

 母さんは俺が絵を描くとよく褒めてくれて、俺はますます得意になってたくさん描いた。俺が高校生になっても絵を描いているのはそのためだ。上手く書くほど母さんの喜ぶ顔が見れる気がするのだ。

 俺が小学校に上がった時、あの人は仕事を止めた。同僚を殴り飛ばしたのだそうだ。

 家計は火の車になった。見ていればわかる。母さんは日々その小さな背に溜まって行く疲れをものともせず、気丈に働いていた。

 あの人はもう働く気がないようで、新しい職探しをしようとはしなく、毎日ふらふらしては母さんに金をせびっていた。

 どうしてあんな人間と結婚したのだろう。直接、母さんに尋ねる事はなかったのだけれど俺の中ではずっと疑問だった。結局、最後まで知る事は出来なかった。

 小学校三年の秋のある日。

 母さんがいつになく声を荒げてあの人を責めていた。しかし、あの人も負けずに怒鳴り散らしている。

 俺はいつもと違う空気に恐れながらも二人の言葉に耳を傾けていた。

 どうやらあの人が、俺の学費に貯めていた貯金をすっかり使い込んでしまったらしい。母さんはその事を責めていた。

 あの人が言うには上手い話があって、それに乗ったらまんまと騙されたと唾を飛ばして言っている。馬鹿だ。本当に馬鹿な人だ。

 母さんはこの時ばかりは離婚すると言い、俺を連れて出て行こうとした。

 だが、あの人が阻んだ。

 当たり前だ。あの人は半ばアルコール中毒で真面に稼げない。金はないから生活出来なくなる。金づるであった母さんを離すわけがない。

 あの人はまた暴力を振るい始めた。一方的に殴られる母さんを見ていられなくて、俺は止めに入った。

 しかし、力の弱い子供だ。すぐに跳ね飛ばされる。果敢に何度も飛び掛かるが結果は同じで、次第にあの人もイラついたのだろう、手近にあった花瓶で俺を殴ったのだ。

 破片で左のこめかみから頬にかけて切れ、血が流れだし、殴られた衝撃で気絶した。

 何もかもがめちゃくちゃだった。あの人への恨みだけが募り、ひたすら母さんが大好きだった。俺は早く大きくなって母さんを助けたかった。それは叶わぬ夢となったのだが。

 目を覚ますと母さんはぐったりとして動かなかった。元の顔が分からない程に腫れ上がって全身が痣だらけだった。

 俺は気が動転しながらも急いで救急車を呼んだ。あの時は、我ながらよく電話をかけられたものだ。きっと、取り乱す事より母さんを救う方が優先したのだろう。

 だが、母さんはすでに死んでいた。

 あの人は逃げたらしいが、その二日後に逮捕された。果てしなくどうしようもない人間だ。

 こびり付いて離れない母さんの姿。ユリの花は無残にも踏みにじられ、花瓶は粉々だ。母さんを奪われ打ち砕かれた。

 この時から、俺は奪われるという事が異常に恐ろしく許せなくなった。

 その後、俺は児童養護施設に入れられた。頼れる親戚がいなかったのだ。

 葬式にいた事はいたのだが、俺は心神喪失状態だったから覚えていない。俺の処遇を巡っていさかいを起こしていたのは何となく記憶にある。誰も引き取りたがらなかったから、俺は施設に入れられたのだ。

 でも、それで良かった。よく知りもしない人たちと一緒に暮らしたいとは思わない。施設に入っても同じだろうが、少なくともたらい回しにされる事はない。

 中学生になるまで俺は死んだような生活をしていた。母さんを失った悲しみで感情が失われてしまった。

 変化が訪れたのは中学一年の夏休みだった。

 俺は絵だけは描き続けていた。

 文化祭に展示する作品を制作する為、頻繁に休みでも美術室に入り浸っていた。それは俺だけではなく、何人かいた。その中で浅野沙奈という同じクラスの子も一緒だった。

 彼女の話では、自分は描くのが遅いから他の人よりも時間をかけないといけないらしい。

 最初の内はあまり話さなかった。クラスでも席が近く、部活中でも割と近くで描いていたのに。

 気恥ずかしかったのだろうか。それとも、単に興味が無かったのだろうか。あまり覚えていない。

 けれど、彼女がクラスの女子の中でも綺麗な顔立ちだった事は確かだ。それは高校生になっても変わらない。いや、むしろさらに目立つようになっている。

 彼女と交わした初めての言葉は何だったろう。

「あ、消しゴム落としたよ」

 そんな些細な事だった気がする。言葉数は日を追うごとに増えた。

 彼女は顔の傷を見ても笑顔を向けてくれ、俺の描くユリの花を綺麗だと言ってくれた。

 灰色を厚く塗った紙に少しずつ色が蘇った。毎日が輝いて見え、母さんの死を乗り越えようとしていた。

 中学三年生になり受験シーズンを迎えた頃、その平穏な日常を壊しかねない事が起こった。

 彼女は気の弱いところがあり、そこを狙って成績が上がらず、気が立っている奴らの格好の標的となった。表面的に分かるほどいじめられたりしていたわけではない。だが、雰囲気でだいたい伝わってくる。

 俺は我慢ならなかった。彼女の顔が日々曇っていくのが。

 居ても立っても居られない。彼女と話している時は顔には出さないが、寝られない日が続き、疲れがたまった。奴らを懲らしめたい。

 俺はある計画を立てた。奴らの内のリーダーに脅しをかけるのだ。彼女に嫌がらせをするな、などと直接的な事ではない。それでは彼女の被害が増大するかもしれない。

 少し怖い思いをしてもらえば良いのだ。ちょっとの間、学校に来られないくらいに。

 とりあえずリーダー格を二人に絞った。

 後は脅しのやり方だが、暗闇に紛れて通り魔の真似事でもやればいいだろう。下手な小細工をするより、そっちの方がずっと楽だ。

 二人が人気のない所に行く時間帯を調べ、そして決行。予想以上に上手くいった。二人は暫く学校に来なかったし、中心人物を失った奴らは勢いを失った。

 二人を刃物で切り付けた感触がありありと残っている。世間は一時騒然としたがそれも収まっていった頃、俺は気付いてしまった。

 俺はあの人の血が流れている。切り付ける事を何とも思っていない。それどころか、やった事に対して喜びさえ覚えてはいなかったろうか。

 暴力の血が流れている。

 彼女と同じ高校に入学すると新たなる脅威が現れた。佐久間蓮という奴だ。蓮は彼女と同じ図書委員で、時間が経つにつれて彼女と仲良くなっていた。

 彼女がどうやら俺の事を良い人だと言ったらしいので、蓮はすんなり俺ともよく話すようになった。

 仲良くなる気はなかった。だが、彼女と会うためによく図書室に行っていたら、自然と顔を合わせる機会も増えたのだ。

 なんてことだろう。敵と親交を持ってしまうとは。

 始末の悪い事に俺は蓮といる時間も嫌いではなかった。友人そのものが少なかった俺はやはり嬉しかったのだろうか。

 二人ははた目からも分かるほどお互いを好いていた。付き合いだすのは時間の問題だった。

 俺は体の疼きを押さえる事に必死になり、また中学の時のように襲ってしまおうかとも考えた。

 だめだ、と言い聞かせる。彼女が悲しむ。あの陰険な奴らとは違い、彼女は蓮の事を思っている。

 ついにその日はやって来た。蓮が彼女に告白した。

 俺は俺の中にある怪物が抑えられなくなった。俺から奪う奴は誰であろうと許せない。自分でも狂っていると思っている。だが、一度暴れ出したら止まらない。

 蓮を親しく思う気持ちと、憎む気持ちの中で緊張の糸が切れた時、蓮が一人になる時を狙い殺してしまった、夢を見た。

 異様に現実味のある生々しい夢だった。俺に殴られてうずくまる蓮や包丁で切られて苦しむ蓮。

 まるで現実のようだった。その夢は俺を毎晩のように苦しめる。

 寝不足が続いたある日、蓮の幼馴染の大学生が事故で亡くなった。酷く蓮は落ち込み、何やらうわ言のように呟いていたのだが、蓮は死んだ大学生のお兄さんが見えているらしい。まあ、何日か休んだら回復したようだが。

 俺は蓮が休んでいる間、俺も風邪を装い必死に自分を抑え込もうとした。が、努力も虚しく日曜には襲おうと決心していたんだ。

 腐ったものが俺の中を流れている。こんな人間生きていてはいけない。いるだけで、周囲の人間を不幸にしてしまう。誰かが止めてくれる事を切に願う。

 ああ、あの人のせいで狂ってしまったんだ。

 違う。そもそもあの人がいなかったら俺は生まれなかった。なら、俺は生まれながらにして狂っていたんじゃないか?


     ○


「見えたか? 俺の中身が」

 白い空間で空也と向き合っていた。お互い、傷一つない。

「分かっただろ。俺は化け物だ。見た目通りの、恐ろしい奴なんだ」

 腕を広げ、天を仰ぐ空也。

「悪かったな。お前を殺そうとして。もっと俺が正常な人間だったなら違ったのにな。ごめん」

 俺は声が出なかった。魔法の力も無くなったのだ。

 でも、喋れたとして何を言ったら良いんだ? 俺はどんな言葉をかけてられる? 誰が悪いんだ? 俺が沙奈を好きになったから歯車が狂ったのか? それとも空也の家庭環境のせいなのか? どこに責任を持って行ったらいいんだ?

 俺には分からない事だらけだ。

 けれど進まなければならない。選択した事を悔やんではいられない。止まってしまえば身動きが取れなくなる。だから、少しでも前へ行かなければ。

「蓮」

 薄れゆく空也。頬の傷を歪ませて笑っていた。

「ありがとう。俺を止めてくれて」

 そう言い残し、空也は消えた。


 ――さあ、帰ろう。

 ――なあ、これが最良だったのか?

 ――それは僕が決める事じゃない。

 ――空也の死因は何なんだ?

 ――僕にもまだ分からない。ナイフが決める事だ。

 ――俺は二人も親しい人を殺してしまった。

 ――仕方ないさ。

 ――そこまでして俺は生きる価値があるのか?

 ――それも僕が決める事じゃない。これからの君の生き方で決まる事だ。

 ――帰ろうか。

 ――うん。どこに送ればいい?

 ――俺の部屋に頼む。

 ――了解。


 十一月四日 金曜日


 葬式場の雰囲気とは裏腹に、空は一片の雲も無い快晴だった。

 声が出ないのはあまり苦労していない。風邪で声が出なくなったと言えば良いし、ここ数日は軽快に話すような雰囲気ではなかった。担任の先生は忙しそうに走り回っていたし、教室はひそひそと噂話がなされていた。

「蓮君……。私吉田君が悩んでいる事に気付いてあげられなかった」

 涙声で話す沙奈。

 告別式が終わり、出棺が済むと現地解散となった。クラス全員で空也の葬式に出席していたのだ。

 読経の間、沙奈だけでなく数人、一緒になって涙を流していた。非常に故人には失礼な事なのだが、俺はクラスの中で泣くのは沙奈くらいだろうと勝手に思っていたのだ。空也は浮きがちで、人を遠ざけていたから。

 しかし、事実は違うらしい。空也がいた施設の人たちも多くいて、話によると空也は下の子ども達の面倒見が良く、職員の人達からも信頼されていたのだそうだ。

 少数のクラスメイトの間でも、空也は怖いけど親切な人という印象だったらしい。

「吉田君には色々話を聞いて貰ったのに……」

 俺は沙奈の肩に触れた。俯いていた顔をさっと上げる。


『少し、散歩してから帰らない?』


 声が出ない俺の会話方法。携帯のメモ帳に打ち込んで、コミュニケ―ションを成立させているのだ。

「うん。私も同じ事、言おうと思ってた」

 悲しみの表情が幾分か薄れた。


 空也の死因は自殺だった。遺書も見つかっている。内容は知らされていない。

 だが、予想は出来た。俺は空也と直接話したのだ。何に悩んでいたのかも知っている。俺には到底理解しきれない事だけど、その片鱗は受け取った。


 俺と沙奈は目的地も決めずに気の赴くままに歩いた。

 空也と沙奈の住んでいる町なので、沙奈がいれば迷う事はないだろう。

 駅周辺にはビルが建っていたが、基本的には俺の住んでいる町と大差なかった。山並みは見えるし、商店街もあった。

 風は冷たいが日差しは柔らかい。冬は寂しいイメージがあるけれど、こんな日もあるのだ。


 三月二十五日 日曜日


 魔法使いの言っていたように声は一か月で回復した。

 俺と沙奈はたまに散歩をするようになった。かつて栄治さんと美耶子さんがしていたように。

 美耶子さんはあれから少しでも立ち直れたのだろうか。会う機会が無いので、どういう生活を送っているのか分からない。近くに住んでいるらしいから、その内どこかでばったり会うかもしれない。


 雪がまだまだ残っていて、日差しを反射し眩しい。

 沙奈は紺色の厚手のコートを着て俺の横で川を眺めていた。

 二人であの堤防に来ている。俺が殺され、空也を殺した場所。

「蓮君はここで泳いだ事ある?」

「あるよ。小学校の頃だけどね」

 川の中州に雪が積もっていて白い小島が浮かんでいるようだった。


 ――君の生活もだいぶ安定してきたね。

 ――おかげさまで。

 ――なら、僕はもうこの町を出ていくよ。

 ――そっか。じゃあ、元気で。

 ――うん、君もね。

 ――最後までどんな姿なのか見れなかったな。

 ――そう言えばそうだね。

 ――見せてくれないの?

 ――見せない。

 ――どうして?

 ――魔法使いだから正体をばらすわけにはいかないんだ。

 ――ふーん。

 ――じゃ、本当にさよならだよ。あ、最後に。君の中には命のストックが一つある事になっているからね。

 ――なら、事故とかでは一度だけ生き返るのか?

 ――そうだよ。でも、自然の寿命には抗えないからね。じゃあ、僕は行くよ。なるべくそのストック、使わない事を祈っているよ。


 体から何かが抜けるような心地がした。

 これで魔法使いはいなくなったのだ。

 俺のおかしな日々は終わりを告げた。

「蓮君? ぼーっとしてどうしたの?」

「ちょっとね。昔を思い出して」

「そっか」

 俺は沙奈をじっと見つめた。すると、意図を察してくれたのか静かに目を瞑る沙奈。

 ゆっくりと顔を近づける。

 周囲には人はいない。だから空也もここで俺を狙ったのだ。

 心地よい感触が唇に当たる。

 ふと目を開けると、沙奈の背後に栄治さんと空也がいた。二人とも微笑んでいた。


 ――栄治さん、空也。ありがとう。


 二人は消えた。

 後に残ったのは川のせせらぎと、沙奈の息遣いだけだった。

特にテーマはありません。


この時は、悲惨な話を書きたかったのでしょう。

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