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魔法使いのナイフ  作者: okera
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ナイフ―上

何年か前に書いたもの。


たぶん、そのまま忘れてどこにも送らなかったのかな?

 月は厚い雲に隠れ、点々と街灯が歩道を照らす。

 肺に流れ込んだ空気は突き刺さるように冷たい。目が乾燥して痛む。走りっぱなしで息が切れていた。顔を覆っている目だし帽が蒸れて頬が痒い。

 せき込んだ。一気に冷たい空気を吸い込んだのでむせたのだ。

 速度を緩める事はなかった。

 そろそろ時間が迫っている。遅れるわけにはいかない。急がなければならない。

 入り組んだビル街を突き進む。駅一帯に広がるこのビル街は廃れてしまっているので今の時間帯の人通りは少ない。

 大丈夫。見つかる事はない。

 足音をなるべく殺し、かつ素早く進む。

 ああ、二人分の声が聞こえてきた。不満を言い合っている。気が強そうな声質だ。

「ほんとイラつくよね」

「あの講師、目つきやらしいし」

 愚痴を言い合っていた。

 嬉々として語っているように思える。まるでそれが唯一の楽しみであるような。

 自分の事は棚に上げて不平不満を他人に押し付けている。

 二人の話題が転換した。

「それにさぁ、あいつも、うぜぇし」

「ああ、ね。気、弱いふりして男子に媚びてるよね」

 まだ気づかれていない。

 息を殺す。

 握りしめていた包丁を掴みなおし、タイミングを計る。

 あと五歩、四歩、三歩、二歩、一歩……。

「でさぁ……」

 背の高い方を先に狙い、その薄手のコートに包まれた背中を切り付けた。

 悲鳴が上がる。しかし、止まっている暇はない。あと一人。

 切った方は前のめりに倒れ、片方はこっちを見るとしりもちをつき震え始めた。

 二人は足腰に力が入らないようだ。這いつくばって何かを言っているのだが耳に入らない。もとより聞く気も無い。関係ない。切ってしまおう。

 無傷な方は少しずつ後退し、包丁を持った腕を振り上げると両腕で頭を覆った。甲高い悲鳴が耳障りで、一瞬止まってしまったが気を取り直し、ナイフを横に振った。

 感触はあまりない。撫でるように腕の表面を切り付けただけだ。

 殺しはしない。そうやって泣いていればいい。

 止めていた息をすべて吐き出した。口元についている水滴が不快だった。

 涙にぬれ、鼻水を垂らしているその表情は醜い。もう良いだろう。十分に恐怖を感じているようなので目標は達成された。用は済んだのだ。

 パニックに陥っている彼女らに背を向けてまた走り出す。口の中は血の味がした。知らず知らずの内に切れていたらしい。歯を噛みしめていたせいだろう。 

 十五分ほど走ったろうか。あの二人からかなり距離をとった。

 今頃彼女らは警察にでも駆け込んでいるだろう。

 顔は見られていないはずだ。街灯があったがぼんやりとしていたろうし、何より目だし帽を被って顔を隠していた。

 呼吸が整ってくると高揚していた気持ちが冷めてくる。

 一歩間違えば殺してしまっていた。自分のやった事が怖くなった。すべてが真っ白になって彼女らを襲った時の記憶が曖昧だった。

 自分が自分でなくなるような……。

 目だし帽を取った。

 風が心地よい。湿っていた顔が急速に冷える。

 さて、帰ろう。

 ゆっくりと人気のない道を歩き出した。


 十月十一日 火曜日


 浅い息遣いが伝わってきた。

 柔らかい空気がこの部屋を満たし、曇りガラスの窓からは暮れ始めた淡い光が入り込んでくる。シャーペンで書きつける音が際立って聞こえ、紙をめくる音はすぐに吸い込まれてしまった。

 時刻は午後四時半。

 この資料室には俺と浅野さんの二人がいた。

 図書室の貸出カウンターの背後にある資料室は、読まれなくなった本や、図書館の備品が置かれている。微かにかび臭く、しかしその匂いが不快ではなかった。

 週に最低二回は訪れるので高校二年の秋にもなるとすっかり馴染のものとなった。

 壁面に本棚が四つに戸棚が二つ、隅に段ボールが幾つかまとめられ五、六歩で端から端まで移動できる程度の広さ。多少手狭だが静かに何かをやるには適していた。と言っても利用するのは図書委員の仕事をする時だけなのだが。

「私はこれで終わりかな」

 ぱたりと帳簿を閉じてこちらを向いた浅野さん。彼女は今度購入する本のリストを作成し、俺は貸出カードの整理をしていた。

「こっちもだいたい良いかな」

 手早く机の上を片付ける。

 大抵こうやって仕事を終えた後は各々帰ることになるのだが、今日は心に決めた事があった。

 資料室には他に誰もいない。貸出カウンターで貸し出し作業をしている一年生にはこちらの音は聞こえないはずだ。

 何度もこのような機会は得ていたが中々踏み出せないでいた。

 しかし、もう気持ちを抑えられない。

「前も言ったけど、仕事がある時は遠慮しないで言ってね。あまり一人で抱え込みすぎるのは良くないよ」

「あぁ、うん。そうするよ」

「佐久間君、前と同じことを言ってる」

 浅野さんはクスクスと笑った。

 意を決し、深く息を吸い込んだ。

「……浅野さん……」

 多少声が震えた。

「なに?」

 頭の中でこの時のために考えた言葉を反芻する。まあ、あまり複雑な言葉ではないのだけれど。

 浅野さんはじっとこちらを見ている。

 肩口までに伸ばした黒髪に白い肌。頬が桜色に染まり、薄い唇は湿らすように時折甘噛みされる。頭一つ分背が低いのでやや上目づかいで見つめられていた。

 気恥ずかしくなり、視線を反らすと壁掛け時計が音もなく秒針を揺らしていた。

「聞いて貰いたい事があるんだけど」

「……うん」

 雰囲気を察したのか、浅野さんは俯きながら頷いた。

「俺さ……」

 口が渇いて舌が上手くまわらない。大事な場面で噛まないようにしなければ。

「浅野さんの事が」

 一言、一言、絞り出すように言う。

 手には汗をかいているし、緊張で今にも声が消えてしまいそうだ。だが、決めたのだから最後まで言い切ろう。

「……好きなんだ。だからさ、付き合ってくれないかな」

 まともに浅野さんの事を見られない。目線は浅野さんのつま先に向けられていた。もじもじとつま先が動かしている。

 浅野さんの返答を待っている間、時間そのものが消えてしまったようだった。進んでいて、止まっている。矛盾しているようだが確かにそう感じていた。

「……私も、佐久間君のこと好きだよ」

 蚊の鳴くような声で浅野さんはそう言った。

 瞬間、高鳴っていた胸がより一層心拍数を上げた。もうめまいを起こしてしまいそうだ。

 浅野さんの言葉が聞き違いではないかと疑いもしたが、顔全体を赤くしている彼女の恥ずかしげな様子から幻聴ではないらしい。

 一気に体が熱くなった。

「本当に?」

「うん……本当だよ」

 うるんだ瞳に目を奪われた。

 何度か落ち着きなく視線をさまよわせ、浅野さんは手を擦り合せた。

「ありがと」

 呟き、実感が徐々にわいてきた。

 浅野さんと向かい合ったまま時間が過ぎて行く。互いに黙りこくってしまい、この後どうしようか悩んでいると、浅野さんはチラチラと壁掛け時計を見ていた。

 確か、門限があると以前言っていた気がする。

「一緒に、帰ろっか。駅までだけど」

「うん」

 こくりと頷く浅野さん。

 作業の後片付けをして資料室を出る。貸出カウンターでは一年生の女子二人が静かに座って役割をこなしていた。

「私たちは帰るから、五時になったら戸締りを確認して閉めてね」

 浅野さんは微笑みながら二人に言った。

 俺は下級生の女子とは接し方がいまいち掴めないから、そういった事は浅野さんの役割だった。

 三年生が受験シーズンとなり、実質の委員長は浅野さんとなっていた。

 俺は仕事をやることは出来るが、委員会をまとめることには向いていないので委員長は浅野さんがやった方が良い。そう言うと、彼女は謙遜して否定するけど。

 今日も浅野さんが委員会をまとめている分、俺は雑務をしなければと思い、一人で作業しようとしたら逆に気を使われてしまって、分担作業をすることになったのだ。

 そのおかげでこうやって告白できたのだけれど、やっぱり同じ事を繰り返してしまう気がした。



「日が暮れるの早くなったね」

 学校を後にし、田んぼを横目に歩く。

 浅野さんは電車通いで学校から最寄りの駅近くには商店街がある。学校から駅へは直線で十分。田畑が多いこの田舎町は目立った建物も無く住宅地が軒を並べるくらいで高校生が遊ぶような所は皆無だった。

 ただ、山並みを眺めながら散歩をするなら適しているだろう。それに電車で三十分も乗っていれば、賑わっている繁華街へも行くことが出来るので、遊びたい奴はそこへ行く。

 俺はさほど不自由は感じていなかった。帰りに空腹なら帰路の途中である商店街で適当にパンでも買えば良いし、誰かと遊びたいわけでもないし。

 静かな場所なので割とこの町が好きだった。

「あの……佐久間君」

 おずおずと浅野さんが話し出す。

「名前で呼んでも良いかな?」

「良いよ」

 唾を呑み込む。

「俺も沙奈って呼ぶから」

 何だろう、この恥ずかしい空気は。

 はたからだと見るに堪えないものなのだろう。

「ありがとう……」

 会話が途切れる。さて、どうしよう。

「……沙奈はさ、門限があるって言ってたよね。時間大丈夫?」

 苦し紛れの話題。

「うん、まだ大丈夫。お父さんも心配しすぎだよね、六時までに帰って来いって」

「まあ、確かに部活も遅くまでいられないからね」

 沙奈は美術部だった。

 うちの学校の美術部は原則美術室での活動だが、毎日は来なくても良いらしい。最低文化祭の展示品と年に一回あるコンクール出品が部員に課せられたルールだと聞いている。

「でもさ、心配にもなるよ。……沙奈は……可愛いんだし」

 馬鹿ではないだろうか、俺は。歯の浮くようなセリフをよく言えたものだ。

 気分が高揚していたとはいえ、後から思い返えして恥ずかしくなるようなことは控えるべきなのに。

「そ、そんなこと……ないよ……」

 萎んでいく沙奈の声。

「あと、二年くらい前に通り魔があったよね。たぶん俺らが高校受験シーズンの頃だと思ったけど。それの事もあるんだと思うよ」

 恥ずかしさを紛らわすために一言付け加えた。

「うん……そうだね。確かにその頃から門限を付けられた気がするよ」

 何だか歯切れが悪い。この手の話題は苦手なのだろうか。

 楽しい話ではないのは明らかだよな。今後は気を付けよう。

 二年ほど前、隣町で女子中学生二人が刃物で切りつけられる事件が起きた。一時騒然とし、俺の通っていた中学でも下校時間がかなり早められた記憶がある。二人とも命に別状はなかったが、犯人は未だ捕まっていない。 

 隣町と言えば沙奈の住んでいる場所もその町ではなかったろうか。

「蓮君」

 名前を呼ばれ、どきりとして通り魔のことはふっとんだ。

「蓮君は……いつから私のことが……その……好きだったの?」

 頬を赤らめ俯き気味な沙奈。

 いつからと問われれば、それは出会った瞬間と言わざるを得ない。入学した当初、沙奈は一人で本を読んでいることが多かった。涼しげな表情で、控えめに粛々とした姿に惹かれた。

「一年のころから、かな。図書委員の顔合わせの時にはすでに……好きだったよ」

「えっ……そっか。ありがとう」

「沙奈は?」

「わ、私は、二年生の春くらいかな。なんか、ごめんね」

「どうして?」

「そんな前から好きでいて貰ったのに、私気づかなくて」

「いや、気にしないでよ。ほら、もう沙奈は……彼女なんだし」

 また気恥ずかしい空気を作ってしまう。自分の短絡さにうんざりした。



「じゃあ、明日ね」

 沙奈は手を振って駅の中へ入っていく。周辺は帰宅してきた人がまばらに歩いていた。

 薄暗くなり、構内から漏れる光が一層際立つ。向かいにある商店街からは夕飯の買い物客が四方に流れていた。

 俺の家はここから二十分くらい歩く。本来ならばもっと早く帰れる道順があるのだが、一緒に帰れるのであれば十分二十分の違いは気にならなかった。

「よっ」

 後ろから声を掛けられた。

 振り向くと友人である空也がいた。

 背が高く体育会系の体つきだが沙奈と同じ美術部だった。左のこめかみから頬にかけて傷跡があり、大柄な体格も相まって誤解をされるのだが穏やかで話しやすい。

 見た目とは裏腹に絵が驚くほどに上手い。たまにぼーっと空を見上げて何を考えているのだろう。

 傷については聞いたことがなかった。お互い触れないようにしているといえば良いだろうか。暗黙の了解がなりたっていた。

 沙奈とは同じ中学で部活も同じだったことから割と仲が良い。だから、俺は沙奈が空也のことを好きなのではとも思っていたが、玉砕覚悟で突入してみれば結果は良好だ。どう転ぶか分からない。

「どうしたんだ? 買い物か? 浅野とも一緒だったみたいだけれど」

「ああ、それは」

 知らない仲ではないので隠す必要はないがどう切り出したものか。

「その……付き合うことになったんだ」

 率直に事実を伝える。

 すると空也は別段驚きもせず、いつものように落ち着いた態度で口を開いた。頬まで伸びた傷跡が少し歪む。

「分かっていたよ、浅野もお前も両想いなのは。もっと早くに付き合いだすと思っていたんだが」

 にやりと笑う空也。

 そんなに感情がだだ漏れだったのだろうか。

「良かったじゃないか。でも俺の話し相手がいなくなるな」

「いや、今まで通りでいいよ」

「そうか?」

 なら良かったと冗談めかしに言う空也は俺の反応を楽しんでいるようだった。

 空也は教室で浮いていた。話しかける人は少なく、何か伝言がある時は俺が代わりに伝えることも少なくない。寡黙で言葉足らずな面もあるので付き合いにくいのだろうが、俺は何度か話しているうちに慣れてしまった。

「先に取られなくて良かったな。密かに人気なんだぞ、浅野」

「だよな。本当に良かった」

 と、俺が真面目に返したことが面白かったのか空也はクスクスと笑った。

「な、何だよ」

「ああ、本当に良かったな」

 何故か負けたような気分になり視線を外す。

 すると空也の右手には小さなレジ袋が握られていることに気が付いた。

「空也は絵具でも買いにきたの?」

 このままだとずっと笑われていそうなので無理矢理話を変える。

「うん? これか。そうだよ、不足している色を買い足した。描きかけのがあるからな」

「へー、明日にでも見に行くよ」

「構わないけど、遊びで描いているものだから期待しないでくれ」

「良いよ。空也の絵、上手いからさ」

 きっと部の中では一番だろう。

「ん、じゃあ気が向いたら来てくれ。じゃあ、そろそろ帰るよ」

「また明日」

 空也は軽く手を上げてすっと駅中へ入った。人ごみに紛れても空也は背が高いので目立っていた。



 商店街を抜けてから急速に日は沈んでいった。

 この町は盆地になっているので山並みがあり、日が傾くと空との境界は淡い紫色に変わる。ふもとには濃い影を落とし、こちらまで迫ってくるようだ。

 遠回りの道は閑散としていて人気がない。車が一台ぎりぎり通れるくらいの堤防の上を一人軽快な足取りで進んでいた。

 気を抜けば鼻歌が漏れそうになる。あまり音感に自信がないので誰かに聞かれては困る。

 頭の中が花畑になりながら沙奈の言葉を反芻した。


 ――私も、佐久間君のこと好きだよ。

 

 口元が緩むのを感じで慌てて止める。人前でなくて良かった。空也の前でにやついたらまた笑われるだろう。


 ――分かっていたよ、浅野もお前も両想いなのは。


 ふと空也の言葉を思い出す。

 両想い。

 はた目にはそう映っていたのだろうか。自覚はなかったんだけれど。告白も何か確信めいたものがあったわけではないし。

 なんのことはない、気持ちが抑えられなかったことが理由だった。上手くいったから良かったものの、失敗していたら残りの一年を気まずいまま図書委員として活動していたろう。

 心底思う、良かったと。

 自宅まで近づくと、とっぷり日が暮れてしまった。街路灯の明かりに照らされながら秋の冷たい風を受けた。

 毎年この町は雪が多く降り、秋になると一気に気温が下がる。朝方は寒さで布団から出たくなくなるのが常だった。

「今帰り?」

 ぽんと右肩に手が置かれる。

「あ、栄治さん。そうですよ。栄治さんもですか?」

「うん。それにしても急に冷えてきたね。もう、小学生の頃みたいに、はしゃげないよ」

「ですよね」

 栄治さんは近所に住んでいる幼馴染だった。

 大学三年生で帰りに顔を合わせる事が多い。互いの母親は同じ職場なので良く話をするらしい。

 元々丁寧な言葉使いな栄治さんなので、いつの間にか敬語を使うようになっていた。

「みんな元気かい?」

「はい。なんら変わりなく過ごしています」

「そっか。蓮は高二だっけ。早いなぁ。友香ちゃんも中二だったよね。時間の流れを感じるよ」

 昔から栄治さんは年寄くさいところがあった。

「僕も三年生だし、あっというまだ」

「まだまだ若いじゃないですか」

「いやいや、すぐに体にガタがくるよ」

 つい笑ってしまう。

「ねぇ、蓮。何か良い事あった?」

「え? いきなりどうしました?」

「いやね、嬉しそうだから。よく笑うし」

 顔に出ないようにしていても、どうやらにじみ出てしまったようだ。慌てて平常心を取り戻そうとする。

「なんだい? 彼女でもできたのか」

 楽しげな眼差しを投げかけられる。

「あの……はい……」

「おぉ、おめでとう」

 あっさりと白状した。口が緩くなっている。

「どんな子なの?」

「よく本を読んでいる子です。静かな感じの」

「へー」

 そうえば、栄治さんにも彼女がいたはずだ。

 それを知った時、妹の友香かなり落ち込んでいたのを思い出した。

「栄治さんはどうなんですか?」

「僕? まあ相変わらず」

「高校から付き合っていましたよね」

「……あぁそういえばそっか」

 本気で忘れているように答えた栄治さんは目を細めた。

「やっぱり、早いなぁ」

 しみじみと懐かしげな口ぶりは、ほんの少しの哀愁を含んでいて、自然とその空気が伝染してきた。

 ここからほど近い公園で遊んでもらった記憶が蘇ってくる。芋づる式に幾つも追随してきた。

 例えば飼っていた昆虫が死んでしまったこととか。あれはコガネムシだったろうか。公園で見つけた気がする。日に照らされ七色に輝く背中。持って帰っていつの間にか死んでいた。もうあの光は戻ることはなかった。悲しい思い出。それが一番印象に残っていた。

 小さな頃の話をしていると、いつの間にか家の玄関前に着いていた。

「さようなら」

「うん。仲良くね」

 軽く手を振って別れる。

 栄治さんは振り返る事なく夕闇に消えた。


 十月十二日 水曜日


 いつもの起床時刻よりも一時間早く目覚めた朝。

 天井を見つめながら昨日のことを思い出す。胸が熱くなった。寝起きなのに妙に頭が冴え気分が良い。

 ベッドの上でごろごろすること三十分、駅まで行って一緒に登校しようと考えたがいつ来るのか分からないので止めた。

 グダグダしている内にセットした目覚まし時計がけたたましく鳴った。学校へ行く準備をしよう。

 外は綺麗な秋晴れだった。

 ちょうど生徒玄関で空也と会った。

「おはよう」

「おう。よく眠れたか?」

「どういうこと?」

「興奮して眠れなかったかと思って」

 にやにやとしている空也。からかわれているのか。

「俺はどんだけ舞い上がっているんだよ」

「お、来たぞ」

 空也が玄関口を視線で指し示す。

「おはよう……」

 沙奈が友人二人と共にそばに寄ってきて遠慮がちに口を開いた。

 俯き気味なその表情はやはり可愛かった。

「お、おはよう」

 じゃあ教室でね、と沙奈の友人たちは行ってしまった。空也も音を立てずに消えていた。

「行こうか」

「うん」

 同じく教室に行く生徒の喧騒に紛れ、黙りこくったまま会話の糸口を掴めない。

「……」

 隣にいるだけで緊張している。昨日までとはまた違った緊張感だった。

 好きな人は誰だろうかという不安感ではなく、両想いだったのかと安心する気持ち。慣れていないからぎこちなさが出てしまうのだろう。元々、お互いお喋りな性格ではないし。ゆったりとした沈黙を共有する感じ。

 移動教室の時や体育の時など、たまに目が合ったりしたが何とも言えない幸福感が湧き上がってくる。その度に呆けてしまうので空也にあきれられた。体育でサッカーをやったのだが、飛んでくるボールに気づかず直撃したのは自分でも悲しかった。

 昼休みは昼食を一緒に食べなかった。さすがに皆の前でというのは恥ずかしい。後々実践していこう。

 手早く具がツナマヨのおにぎりを緑茶で流し込み、すでに教室からいなくなった空也の後を追った。大抵空也は昼休みに美術室へ行き、何かを黙々と描いている。

 教室を出る時に沙奈を横目で見ると、数人と笑い合いながら食事をしていた。



 美術室の前は古びた絵具の匂いが微かに流れ出ている。引き戸の窓から中を覗くと、空也がパンを片手に窓辺に立っていた。

 毎度のことながら何を思っているのだろう。遠い目をしてどこかへふらりといなくなってしまいそうだった。

「絵は描かないの?」

 美術室に入ると空也はゆっくり振り返った。

 絵具の匂いがより強くなる。

 ぐるりと壁には色とりどりの作品が貼られている。作業用の机が幾つかあり、隅にはカンバスやイーゼルが立てかけてあった。床の所々に絵具が点々としている。

「何となく描く気分じゃないな。ほら、綺麗に晴れているから」

「空が高くなったよね。寒いし。もうすぐに冬だよ」

 音を立ててパックの野菜ジュースを飲む空也。

 静かな場所を好むようでよく資料を探しに図書室にも来る。

「なぁ」

「ん?」

「どっか行かないのか?」

「どっか?」

「浅野と、デートとか」

 無表情に変わらず空を見上げている。

「い、いきなりなんだよ」

「……別に。付き合っているなら自然だと思うが」

 たまに感情が読めない。ただの気まぐれなのだろうが、空也の言う事にも一理ある。

 しかし、あまりにも知識が乏しい。普段、遊びに行く事がないのでどうしたら良いのか分からない。

「空也」

「何だ?」

「どこに行ったら良いと思う?」

「……知らん」

「だよね」

 空也とは何となく馬が合うが、お互い遊び歩く性格ではないので尋ねても助言が得られるとは思わなかった。そして、やはり予想通りの答えが返ってきた。

「蓮、あの大学生の人はどうだ?」

「名案だね。帰ったら聞いてみるよ」

 空也は何度か家に遊びに来た事があった。その時に栄治さんとは顔を合わせている。彼女がいる事も知っている。というか、栄治さんとその彼女さんが散歩しているところに直接出くわしたのだ。

「あの彼女さん、綺麗だよな」

「そうだね。若干天然だけど」

「へー」

 空也はまたパックジュースを、音を立てて吸った。最後の一吸いのようで一際乾いた大きな音が響いた。

「さて、教室に帰るか」

 片手でパックを握り潰し、隅にあった青色のゴミ箱に投げ入れた。

「野球部に入れるんじゃない?」

「いつもやっているからな。最近やっと一回で入るようになった」

 毎日そんな事をしていたのか、と言いながら美術室を出た。

 空也は鍵をかけてそのまま職員室に返しに行った。



 放課後、図書委員の仕事がないのでさっさと家に帰る。沙奈も一緒だった。

「部活は良いの?」

「うん。まだ何を描くか決まってないから」

 こっちもまだどこへ行くか決めていないので誘うのはよしておく。無計画に電車で繁華街の方に行っても慣れていないため迷う事必至だ。別にかっちりと計画を立てたいわけではないが、あまりにも考えなしに行動するのは避けたい。

 なので、まだだ。帰ったら栄治さんに相談してみよう。とりあえず、メールで聞いてみるか。

「どうしたの? 蓮君。ぼーっとして」

「あ、いや何でもないよ」

 忘れていたが沙奈とはアドレスを交換していなかった。

「……沙奈」

 内面ではためらいなく呼べるのだが、いざ口に出すとなると呼び捨ては中々に緊張した。

「なに?」

 嬉しそうにはにかみながら沙奈は微笑む。

「アドレス、交換してなかったよね」

「あ! そうだね」

 沙奈はさっと鞄から携帯電話を取り出すはずだったが……。

「うーん、ごめんね。忘れてきちゃった」

 がっくりと肩を落とし、申し訳なさそうに言った。

「私よく忘れるんだ。お父さんにも怒られるの。携帯するんだから、携帯電話なんだろって」

 ふっと笑ってしまった。

「蓮君に笑われた」

 はぁ、とため息をつく沙奈。

「ごめん、ごめん。じゃあ、また明日お願いするよ」

「うん。明日は忘れないから」

 ボールペンを取り出して手のひらに書きつけている。

 同年代の子なら何よりもまず携帯を大事にしそうなのに。

 そこが魅力の一つだった。携帯よりも文庫本を持ち歩き、はでな化粧よりも絵を描くことを好む子だった。全く興味が無い訳ではないのだろうけれど。

 帰る途中で栄治さんに会えるかと思ったが影も形も見当たらなかった。会いたい時に中々会えないのはどうしてなのだろうか?

「さて……」

 ベッドに横になり、文面を考える。

『相談があるのですが。今、いいですか?』

 とりあえず、これを送信した。すると、五分も経たない内に返信が来る。

『良いよ。今、家にいる? それなら散歩しながら話そうよ』

 と、返ってきた。

『はい、いいですよ』

 すぐに返信し、家を出る。栄治さんはすぐに見つかった。どうやら今日は半日で講義が終わりで家に居たらしい。頭には小さな寝癖が付いていた。

「本を読んでいたら、いつの間にか眠っていてね。目覚ましに散歩したかったんだ」

 栄治さんはあくびをしながらそう言った。

「行先は公園にしようか」

「懐かしいですね」

「僕はそうでもないかな。よく散歩がてら寄るんだ。でも二人で行くのは久しぶりだ。小学校に上がってからは別々に遊ぶことが多くなったしな」

 近くに公園があった。小学校の低学年くらいまで遊んだ場所だ。栄治さんや、他の同年代の子と遊んだ記憶がある。ほど近い河原でも遊んだが、その公園で走り回った事も印象が深かった。

 日は暮れ始め少し寒かった。このところあまり運動をしていないから体を動かすのに丁度良い。

「相談って何?」

 栄治さんの足取りはゆっくりとしていた。いつもそうだった。栄治さんの歩調は速くないのだ。

「栄治さんは、普段どこに行きますか? その、彼女さんと」

 考えるように上を向く。腕を組み、悩む事数分。

「僕さぁ、遊びに行ったりしないなぁ」

「え? じゃあ何しているんですか」

「何って……何しているんだろう」

 悩み始める。

「そうだなぁ。散歩とか。ああ、うん、だね。話をして、ふらふらして日が暮れたら帰る。高校の時から同じだね」

 これでは参考にならない。いや、一日中散歩をしているのもありか。でも、それで良いのか?

「僕も相談に乗ってほしいよ。どうしたらいいんだろうね?」

 逆に聞き返された。

「そうだ。ほら何だっけ、先月出来た所。映画館とか入っていて」

「ありましたね」

「ありがちだけど、映画でも見てきたら?」

 確かにそれは無難だが良い提案だった。他に思いつかないし、明日にでも沙奈に聞いてみよう。

 公園には十分くらいで着いた。幼い頃の記憶よりも遊具が減っているような気もするし、ペンキも剥げて色あせているようだ。

 誰もいなかった。砂場には子供が忘れたのか緑色のゴムボールが転がっている。古びたベンチが二つあり、上には枯葉が乗っていた。

「ブランコに乗ろうか」

 栄治さんがブランコの元へ行き、座った。小さい。窮屈そうにしながらも懐かしさをゆっくりと味わうように漕ぎ始める。

「ほら、蓮もおいで」

 動くたびに軋み、苦しそうな音を上げている。

 二人して漕いだら壊れそうなので、そっと遠慮がちに腰かけ貧乏ゆすり程度に静かにしていた。

「子供の頃は大きく感じていたけどな」

 ぽつりと栄治さんが言う。

「それだけ自分が大きくなったって事か。蓮にも彼女が出来るわけだ」

「栄治さん、それはあまり関係ないと思う」

「あれ、そうかい」

 栄治さんは楽しそうに笑った。

 冷たい風が吹いた。夜が忍び寄ってくる。家々からは晩御飯の匂いが漏れ出ていた。

 そろそろ何か食べたくなってきた。

「帰ろうか」

「はい」

 ブランコから立ち上がる。体が引っかかって大きくブランコが揺れた。


 十月十三日 木曜日


 その日、登校すると沙奈はすでに教室にいた。普段通りに登校したつもりだったが、すれ違いになったらしい。そのかわり空也とは校門前で会った。授業の話をしたり、課題の話をしたり。別段変わった話題はなかった。

 栄治さんが言っていた映画館だが、繁華街がある駅の一つ前の駅にあり、すぐ近くらしいので迷うことはなさそうだった。

 後は誘うだけなのだが何となく学校では話しづらく、機会を逃していた。付き合う前ならどうという事はなかったろうが、変に意識してしまい身構えていた。

 結局、放課後になった。

「蓮君、帰ろう」

 沙奈から声を掛けてきた。それが何だか妙に嬉しかった。

 道端に影が二つ。それを見ていると何故だか幸せな気分になった。

「曇っていると余計に寒くなるね」

「うん。私はもう冬物出したんだ」

 灰色の空は冬の到来を感じせた。肌が乾燥して風が吹くと身が切れたかと錯覚する。

「今日も部活は大丈夫?」

「うん、別に締め切りとかないしゆっくり題材を決めるよ。あ、そうだ。今日はちゃんと携帯を持ってきました。……ほら」

 手には白い携帯が収まっていた。

 歩きながらメールアドレスと電話番号を交換する。

 あまりメールには慣れていないので送る時は緊張しそうだ。

「夜に送っても良いかな?」

 沙奈がおずおずと尋ねる。

「同じ事聞こうと思ってた。良いよ。こちらこそ、お願するよ。……あっ」

 アドレスを交換して舞い上がり、本題を半ば忘れかけていた。

「どうしたの? 蓮君」

 沙奈が小首をかしげる。

「今度の日曜日、何かあるかな」

「特にないよ」

 ぐっと拳を握りしめる。

「だったらさ……映画でも見に行かない? ほら、新しく出来た映画館。色々な店も入っているらしいし……どうかな?」

 一気に言葉を並べた。早口気味だったので伝わったのか若干の不安が残る。

「うん、いいよ。うれしい……。た、楽しみにしているね」

 沙奈は微笑んだ。頬が赤くなっているようにも見え、勘違いかもしれないが足取りが軽快になっていた。

 細かな日程は帰ってからメールで決める事にして駅で沙奈を見送った。



 堤防の上を歩いていた。対岸は暗くてぼんやりとしている。

 まだこの時間なら明るいのに曇っている事が原因なのか見えにくい。川の流れる音は冷たくなった指先に響いてくる。

 足音がした。

 ジョギングのような軽快なテンポ。

 タッタッタッ。

 こっちへやってくる。気に留めていなかった。

 この道はたまに走っている人を見かけるのだ。だから、振り返る事をしなかった。それよりも日曜の事で気にする暇がない。

 タッタッタッ。

 通りやすいように脇に避ける。川側の方に。

 下は河原になっていて丸石が転がっていた。川幅は広くないし深くもない。泳いだ事があるから知っている。

 川とは反対に降りていくと道路がある。農道だった。端々のアスファルトはひび割れていた。民家が所々に点在しているが基本は田畑。

 タッタッ。

 背後で止まった。不審に思い振り返る。

「――っ」

 途端、痛みが走った。

 背中だ。熱くなる。

 声が出ない。突然の事で息が詰まってしまった。体が硬くなった。血が流れて、シャツに

染み始める。

 後を振り返るとそこには黒い誰かがいた。

 手には銀色の刃物が握られている。通り魔という単語が頭をよぎった。

 とにかくこの場から離れないといけない。ふらついた足腰に力を込める。

 が、奴は逃げる事を許さなかった。

 鋭利な痛みの次は鈍痛。傷口の辺りを固いものが殴りつけた。

「くっ……あ」

 地面に倒れ込み、激しく胸を打って肺から空気が漏れた。まともに息が出来ない。

 しかし地面のアスファルトの冷たさがいやに鮮明だった。

「はっ……あっ……ぐ」

 顔を上げられない。

 うつ伏せのまま全身を殴打されているからだ。素手なのだろう。拳の形、足裏の形が分かった。身を丸めて頭を抱え込む。切られた傷が広がった。

 衝撃の度に肺がつぶれてまともに呼吸が出来ない。次第にぼんやりとしてきて意識が途切れそうだ。

 頭の中は恐怖だけが支配していた。いきなり攻撃された怒りなどなかった。ただひたすらにこの場からいなくなりたかった。

 心臓は馬鹿みたいに動いている。吐きそうだ。

 痛みで脳が潰れそうだった。

 口の中は切れて血の味がする。もう、どこがどう痛いのか分からない。

 悲鳴を漏らしていたかもしれない。波に呑まれたかのように、自分の状況が把握しきれなかった。丸まることで身を守っているとただの塊になったかのように思えてくる。

 打撃が繰り出される度にすべてが真っ白になり、思考が飛んだ。瞑った瞼の裏が強烈にフラッシュし、目の前に置かれた電球が高速で点滅しているようだった。

「はぁ、はぁ」

 奴は息が荒くなっていた。疲れたのか動きが止まる。

 今しかない。奴は気が済んだのか、憐れんだのか知らない。知ってたまるか。とにかく何が何でも逃げるんだ。

 わけが分からなくても、混乱していても、逃げる事だけは覚えていた。

 腰を浮かせ立ち上がる。全身が悲鳴を上げた。

 通学に使っていた鞄を落としていたが、そんな物はどうでも良い。助かりたい一心で前へ踏み出した。

「うぐっ」

 甘かった。

 脇腹を蹴られ、斜面を転げ落ちる。汚く塗られたペンキみたいに何もかもがうねった。

「げほっ……げほっ」

 斜面はコンクリートで塗り固められ、いたる所に擦り傷が出来た。

 河原の丸石が食い込み、肘が痺れた。

 とにかく距離が取れた。

 逃げろっ、逃げろっ、逃げろっ。前へ進まないと。

 数歩遅れて奴も降りてきた。立ち上がろうにも平衡感覚がなくなって酔っぱらった人のように足取りが覚束ない。

 もうそこまで迫っている。殺意しか感じられない。金品目当てではないのは確かだ。スリだったならどれだけ良かったろう。財布の一つや二つ、なぶり殺されるよりはずっとましだ。

 視界は歪んで息は切れている。足を引きずりながら距離をとろうとするが、一メートルも進めない。

「た、たすけ……たす」

 舌が上手く回らない。息は漏れるばかりで叫びにもならなかった。

 奴はさっと目の前まで近付く。

 全く反応出来ずに左の太ももを深々とえぐるように切られた。

「ああああっ……」

 うずくまる。もう立つこともままならない。あっという間に片足は血だらけになり、足元の石を赤く染める。

 手が小刻みに震えていた。傷口は熱いのに、体の芯は冷え切っていた。

 奴の足が飛んでくる。顎を馬鹿みたいな勢いで蹴られ、口を開いていたならば舌を噛み切っていたろう。そうでなくても血だらけになったのに。

 きっと弧を描いて宙を舞っている。それくらいに浮遊感があった。

 上か下か右か左か。方向感覚は既に無くなり、感覚が遠くなっていった。時間はゆっくりと流れていた。

 奴の姿はどうも見えない。

 殴られている内にすっかり日は暮れてしまっていた。奴は黒い服装なのかもしれない。だから暗闇に溶けてしまって捉えられないのだ。

 夢であれば。

 後ろへ倒れ、頭を強かに打ち付けるまでの数秒間、どんなにこの状況を否定してもあるのは無情な現実だった。

 仰向けになる。晴れていれば星が見えたはずだ。

 死ぬ、確実に一片の狂いもなく死ぬ。痛い。脳細胞が一つ残らず死滅するのではないかと思うほど、痛い。光が点滅して、内側から鈍器で殴られているような頭痛がする。耳鳴りが酷くて吐き気がする。全身が異常を訴えているのに抵抗は出来なかった。

 足音が耳元まで近付く。

 奴は静かに見下ろしていた。包丁のような刃物を逆手に持っている。

 そのまま振りかぶり刃先は喉を切り裂く。異物が通り抜ける奇妙な感覚。顔に血液がかかり片目に入った。

 奴は止まらない。

「ごひゅ……あ……ひゅ……」

 空気が漏れて呼吸もままならない。

 ああ、死ぬんだ……。

 さらに大きな動作で奴は何をするのかと思ったが、別に何てことはない、止めを刺そうとしているのだ。

 銀色の刃先は小さく風切り音を発しながら胸へと吸い込まれた。

 麻痺しているのか痛みはない。

 何が何だか分からない。

 ナイフは抜かれ、傷口という傷口から血を垂れ流し、真っ赤な円を形作っていく。

 どうしてこうなった。天罰か? 何をしたんだ? それとも、ここ数日上手くいきすぎていたのか?

 考えがまとまらない。とっくに脳は消化不良を起こして活動を拒否している。

 浮遊感が体を包み込み、末端から自分が消えていくようだった。

 次第に浮かんでくる思い出と言う思い出は時間系列がなくなり、昨日の事かと思ったら小学校三年の時の記憶が押し入ってくる。走馬灯なのか、幾つもの光景が過ぎて行った。悲しいものも楽しいものも一緒くたになって――


     ○


 そして河原には一つの死体が出来上がった。無残にもいたる所を切り裂かれたその死体の脇には、闇に溶けた何かが立っていた。それは死体の胸に刺さった刃物を抜き、じっと血に濡れた刃を見つめる。黒のコートを着ていて死神のようだった。

 ゆっくりと刃物を川へ投げ入れ、もう一度死体となった少年の顔を見てから去って行った。

 少年の髪を風が揺らす。体温は既に奪われ、見開かれた目は何も映ってはいない。


     ○


 ――起きて。

 

 声がした。小学生の男の子のような声だ。


 ――起きて、起きて。


 肩を揺すられた。

「ん?」

 瞼をゆっくりと開ける。飛び込んできたのは光。眩しさで顔をしかめた。息苦しささえ覚えるその輝きにたじろぎ、目が慣れるまでの間、じっとしていた。


 ――やっと起きたね。


 白い空間だった。ただただ白い空間だった。影はなく、遠近感がつかめない。どれほど広いのか見当もつかない。

 誰一人おらず、声の主は見当たらない。


 ――気分はどう?


「……頭がぼーっとする」

 すっきりとしない。吐き気がした。体のあちこちが痛む。特にのど元と胸の辺りが酷かった。


 ――顔色が良くないね。でも、それも当たり前か。君は死んじゃったんだから。


「死んだ?」


 ――そう。君は殺されたんだよ。刃物で喉を切り裂かれ、胸を一突きされた。


 首筋、胸を触ってみる。切れてはいない。だが、さっきから頭の隅にひっかかりを感じる。必死にその原因を追い求め、今日何があったのかを思い出す。

 普通に登校して、放課後は沙奈とデートの約束をし駅前で別れた。そして、一人帰路をたどって……。

「そっか」

 奴が来たのか。

 まともに姿も見られなかった。何が何だかわからない内に背中を切られ、殴られ、転げ落ちて止めを刺された。逃げたかったが逃げられず、無残にも殺された。

 薄ら寒い恐怖がなだれ込んできた。痛む箇所を擦って紛らわせようとするが、あまり効果はなかった。

 奴の殺意そのものがこびり付いているようで落ち着かない。また後ろからやられるのではないかと疑心暗鬼に陥った。


 ――大丈夫。君はもう死んだから殺されないよ。それにここには誰も入ってこれない。


 なんだ安心したと胸をなでおろすが、そもそも死んでいるから安心するとはおかしな話だ。

 というか、さっきからこの声は何なんだ。それに、ここはどこなんだ。

「あの、質問していい?」


 ――どうぞ。


「ここはどこで、あなたは誰ですか?」

 声からして年下に思えるが、初対面でしかも姿が見えないので念のため丁寧な言葉づかいにしておく。


 ――僕かい? 僕はね、魔法使いさ。


「……」


 ――あれ? 信じてないね。でも本当だよ。僕は通りがかりの魔法使いなんだ。


 甚だ怪しい。そもそも姿を見せないのがどうも不安感をあおる。

「……じゃあ、まあ魔法使いだとする。どうして魔法使いさんはこんな所に俺を連れて来たんですか?」


 ――そこが僕の話そうとしていた事なんだよ。ちょっと分からない事があっても静かに聞いてくれるかい?


 魔法使いの事もこの状況も分からない事だらけだった。

 だが、少なくとも落ち着いて話は出来そうだ。ならば大人しく聞いているのが得策ではないだろうか。話すたびに胸も痛むし。

 無言で頷いた。


 ――じゃあ、話すね。さっきも言った通り、僕は魔法使いなんだけれどね、たまたま君が倒れている所に通りがかったんだ。呼ばれている気がしてね。きっと君が呼んだんだろう。

 でも、君はすでに死んでいた。ここからが本題なんだけど、僕は魔法が使えるから君を生き返らせられる。僕が君の所に来たのも、きっと君が生きたいと望んだからだと思うよ。


 本当に死んでしまったのか。あの記憶はやはり本物のようだ。

 ならばどうして生きているのだろう。いや生きているのか?


 ――でね、生き返りたくないかい?


「生き返る?」

 実感がなかった。体は痛むが呼吸をしている。心臓も動いている。話している。考えている。生き返る必要があるのだろうか。


 ――ぴんと来ないみたいだね。無理もないか。ここについても言ってないし。ここは君を死から繋ぎ止めている場所だよ。ここから出たら君はたちまちこと切れてしまう。

 実際にはどうなっているか見せようか。


 すると景色が変わった。川の流れる音が聞こえる。辺りは暗い。下には丸石が転がっていた。

「これは……」


 ――君の現状だよ。


 そこには切り裂かれた自分がいた。血だまりを作り、目を見開いて倒れている。一目見ただけで分かる。死んでいる。

 奥から酸っぱいものがせりあがってきた。一度深呼吸をして喉もとで押し留める。


 ――戻すよ。気分悪そうだし。


 すっとまた白い空間に戻った。じっとりと汗ばんでいた。

 悪夢だ。それは覚めない悪夢。自分の死が焼き付けられる。


 ――相当堪えているみたいだね。でも分かったでしょ。


「……で、これからどうなるんだ?」


 ――君は選ぶ事が出来る。このまま死ぬか、生き残るか。


「……生き返る……」


 ――僕なら出来る。それ相応の対価は必要だけれどね。


「対価?」

 沙奈の顔が浮かんできた。死にたくなかった。まだ付き合って日が浅すぎる。もっと、話したいし一緒にいたい。


 ――誰か別の命を一つもらう。それで君は助かる。


「え?」


 ――どうする? 対価を誰にするか君に選んでもらうけど。


 命を犠牲にする。生き残るために犠牲にする。誰かを犠牲にする。そうすれば、また沙奈と会える。だが……。


 ――答えはすぐに出さなくてもいいよ。少しの間なら、僕の力で何事もなかったようにするから。だから君はその間にじっくり考えればいい。そうだな、一週間が限度かな。どう?


 一週間。決められるだろうか。沙奈と付き合う前なら断っていたかもしれない。だが、今はどうしても生きていたかった。

「分かった。一週間後までに答えを決めておくよ」


 ――了解。なら、一週間後の同じ時間に。体は痛むかもしれないけれど、我慢してね。僕には傷口を塞いで、君が殺された事実そのものをなかった事にするのが精一杯なんだ。


「なんか、神様みたいだな」


 ――ああよく言われる。でも結局は神様の真似事でしかないんだ。ほら、君を生き返らせるのに対価が必要なのがその証拠だよ。万能ではないんだ。


「ふーん」

 そういえば、結局誰に殺されたのだろう。

「ねぇ、俺を殺した奴は見た?」


 ――見てない。でも、その人が君を殺した記憶は消えていると思うよ。現実が変わったから。君が殺されたこと自体がなくなっている。だから、またその人に襲われるかもしれないから気を付けてね。


 何てことだろう。また襲われる危険性があるなんて。


 ――では、また一週間後に会おう。


 自称魔法使いがそう言うと寝入るように意識が途切れた。

 対価。誰かの命。余命は一週間。


     ○


 河原で座り込み、携帯の画面を見つめていた。手元がおぼろげに照らされている。

 時刻は午後六時ちょうどだった。

 メールが来ている。沙奈からだ。

『送れているかな?』

「はぁ」

 ため息をついた。気持ちは温かくなっているのに、どうしようもなく戸惑いを覚えている。

 体が痛んだ。傷口だった所は痣になっているに違いない。だが、切られた事を思えば繋がっているだけましなのか。

 一週間後までに身の振り方を決めなければならない。決められるのか甚だ不安だ。全部冗談みたいだ。

『届いたよ』

 短くそれだけを打って返信する。

 頭が一杯一杯で他の文面を考える余裕がなかった。帰ったらとにかく眠ろう。

 立ち上がると左の太ももに力が入りにくかった。かなり深く切られた場所だからだろうか。

 それから苦労して斜面を登り、ふらつきながらも家へ無事にたどり着いた。制服が汚れているのでどうしたのかと母に聞かれたが、間違って河原に落ちたと言ったら笑われた。妹にまで馬鹿にされる始末である。

 本当の事を言っても荒唐無稽な出来事だったので信じてはもらえないだろう。自分でさえ半信半疑なのに。魔法使いがどうのと言い出したらちょっと危ない人と思われそうだ。


 十月十四日 金曜日


 翌朝目を覚ましてから体を見回す。風呂に入ったときは赤くなっていただけだったが、一晩経つと内出血を起こし紫色に変色していた。首は絞められたように一筋の線となっている。

 切られたのが嘘のようだ。間抜けに斜面を転がって付いた傷ならどれだけ良かったろう。

 だが、違う。あの恐怖も痛みも鮮明に思い出せる。一度死んだのだ。

 それを自称魔法使いによって繋ぎ止めてもらった。ファンタジーの世界に迷い込んだのか? ファンシーな方ではなく、ダークファンタジー。勘弁してほしい。

 そして、生き残るためには誰かを犠牲にしなければならないとは。やってられない。理不尽に殺されたのに、今度は自分も同じことをしようとしている。

 ここは大人しく死ぬべき……。



 どうにか傷を隠そうとしていたら家を出るのが遅れ、遅刻ギリギリで到着した。

 登校してすぐ沙奈と顔を合わせることはなかったが、一限目が始まる十分前に捕まってしまった。トイレに行こうとしたら廊下ですれ違ったのだ。

「蓮君おはよう」

「おはよう」

 さりげなく首元を隠す。

「どうしたの? 首に痣が出来てるし、顔にも擦り傷があるけど」

 効果はなかった。

 沙奈は心配そうな顔をした。苦労の割にほとんど隠れてくれていなかった。

「昨日、ちょっと転んだんだよ」

 間抜けな言い訳だ。だから見られたくなかったのに。

「えっ、大丈夫だったの?」

「うん。擦り傷とか、痣になった所はあるけど大きな怪我はないから」

「そっか、良かった。でも、どうして転んだの?」

「堤防を歩いていたんだけど、暗くてね。間違って落ちちゃったんだ。馬鹿だよね」

 笑ってごまかす。しかし、沙奈はなおも心配そうにしていた。

 身を案じてくれるのはありがたいのだが、あまり深く追及されたくはない。つい本当の事を話してしまいそうになる。殺すか殺さないかの判断をゆだねたくなってしまう。沙奈なら信じてくれそうだった。

 だめだ、そんな事をしてはならない。責任を押し付ける事になってしまう。

 しかし、仮に対価として誰かを殺したとして、その後は沙奈と向き合えるだろうか。引け目を感じないだろうか。

 それから二言三言、言葉を交わして沙奈は職員室に用事があると言って別れた。

 後姿を見送った。急に沙奈の背中に抱き着きたくなった。これは不安からなのか、それとも単純にくっ付きたいだけなのか。どちらでも良いが、一目のある所でそんな事をすればひんしゅくを買うだろう。自制、自制。

 さて、トイレに行こう。



 授業は身が入らなかった。うわの空で自称魔法使いの問いを幾度となく繰り返す。

 袋小路になっていた。進歩はない。他人を踏み台にしてまで生き残りたいのかと考え込んでしまった。

 昼休み、廊下をぶらついていた。意味はない。黙って座っているのが落ち着かなかったのだ。

 自然と足は美術室に向く。空也は窓辺で眠っていた。

 戸を開ける音で起こすのも悪いので入らずにまたそっと廊下を戻った。

 行く当てがなくなった。ひたすら歩く事にした。気付けば一階から四階までを何度も往復していた。困った。変な人だ。しかも予鈴が鳴るまで練り歩いていたのだ。なんの修行だ?



「蓮君、いつもごめんね」

「気にしないで」

 放課後、貸し出し当番だった。沙奈も当番なのだが、門限があるために早めに帰ってしまう。

 カウンターにぽつりと一人座る。図書室には何人かいた。

 時刻は午後四時半少し前。五時ごろになったら閉める。いつもの事だ。

 じっくり考えるにはありがたい。沙奈が隣にいると、どうしても口数が減ってしまう。話しているとぼろが出そうだ。日曜は出かけるのだから元気のない姿を見せるわけにはいかない。帰りは秋風に吹かれながら頭を冷やそう。

 シャーペンを転がして時間をつぶしていた。この時のための文庫本を持っているのだが活字が入ってこない。数行読んで投げ出した。

「疲れているのか?」

 ふと頭上で声がした。空也だった。図書室には絵に使う資料を探しに来たりする。

「疲れてないよ。空也こそ、美術室で眠っていたけど疲れているんじゃない?」

「なんだよ、見ていたのか。だったら起こしてくれれば良かったのに。おかげで授業に遅れた」

 あの後、空也は十分ほど遅れて教室に入ってきた。

「ごめん、なんか起こすのも悪かったしさ」

 シャーペンをしまった。

「ま、いいか。いつ帰りだ?」

「いつもと同じだよ。五時」

「それじゃあ、一緒に帰ろう。だいたいの時間になったらまた来るからな」

 空也は植物図鑑を持って出て行った。

 何度か空也とは帰った事があった。下校時間が重なることが多いのだ。

 放課後に本を借りに来ていたというのも大きいだろう。良く話すようになったのも、それがきっかけだった。

 沙奈と打ち解けてきた時期に空也をそれとなく紹介されたのだが確か、ちょっと怖いけど本当は優しい人なんだよ、だったかな。必死に説明しようとする沙奈が可愛かったのを覚えている。

 五時になると言った通り、空也が図書館にやってきた。それを合図に、窓の鍵が閉まっているかを確認し、照明を消して扉に鍵をかけた。

 生徒玄関の蛍光灯の光は無骨だった。外が薄暗いので余計にそう感じた。床には砂が落ちていた。陸上部か野球部が散らばしたのだろう。靴を履きかえる時、靴下越しにざらざらした。

 校舎にはまだ明かりがついている教室があった。校門を抜けてからでは中にいる人が見えない。遠くなるごとにその光景は青白くなった。

「来年から受験か」

 呟いた。何か別の話題で気を紛らわしたかった。受験も十分に重い話だが目先の事よりは良かった。

「そうだな」

 素っ気ない。しかし続ける。

「空也はさ、やっぱり美大に行くの?」

「どうだろうな。決まっていない。絵を描くのは好きだが、本気で勉強したいのかは自分でも分からない。お前はどうなんだ?」

「……何も決まってない」

「やりたい事とかは?」

「とくに」

「そう言えば、そうだったな。前も聞いた気がする。でも、困るだろう? 進路選びで」

「だね。一応、大学進学希望だけど学部とかは全く。空也もしかして就職したいと思っている?」

 計画性のなさにほとほと呆れた。これでは沙奈に愛想を尽かされてしまう。

 だが進路について話したのは正解だ。悩みの矛先を変えられた。

「施設の人がな」

 おもむろに空也は話し始めた。

「学費の事は色々な制度があるから進学しろと言うんだ。だがぴんと来ない。結局、お前と同じだよ」

 にやりと笑った。顔の傷がわずかに歪んでいる。

 空也は児童養護施設で生活していた。

 以前、遊びに行こうとしたらそれを理由に断られた。顔についている傷と同じで深くは触れない。気にならないと言えば嘘になるが、別に友人として付き合うのに必要な事ではないので、尋ねたことはなかった。

「浅野はどうなんだろうな」

「……」

 知らなかった。

「同じ大学に行きたいとか思わないのか?」

「今思い始めた。……盲点だったな。でも、沙奈は勉強出来るしな。志望校のレベル高そうだ」

 沙奈は学年のトップ集団に入っていた。対して俺は中間を揺れ動いている。

「教えてもらえよ。二人で勉強なんて楽しそうだろ」

 からかう様に空也は笑った。

 名案だ。例えば休日に図書館で隣り合って座り、苦手な数学を教えてもらい緊張しつつ問題を解いていく。

 たまに肩が触れ合ったりしてドギマギする。その内、互いの家に行ったりもする可能性がある……。

「また真面目に考えているよ。本当に面白いな」

「べ、別にいいだろ」

 顔が熱くなった。

「明るくなったよな、浅野」

 空也が何気なく言った。

「……そう?」

「ああ、そうだ。中学から比べたら段違いに」

 沙奈の中学時代か。同じ学校だから色々知っているだろう。しかし、空也の口から沙奈の事を聞いたことは殆どなかった。

「どんな感じだった? 中学の時」

「基本的なところは変わってないな。勉強は出来たし、図書委員だったし。けど、正直言うと目立たなかったかな。よく隅の方で本を読んでいた」

 なるほど。今の沙奈も似たところはあるが、性格が穏やかな女友達が割と多く、人当たりの良さから男子にも人気があった。

 だが想像できないというわけではない。

「やっぱりお前がいたからかな。クラスの連中が良い奴なのもあるだろうけれど、とにかく良くなった」

「中学の時の学級は良くなかったの?」

「あんまし。特に受験の期間はな。その点で言えば今のクラスもこれからどうなるのか分からないが」

 含みのある言い方だった。

「いじめとまではいかないが、浅野は気が強い方じゃなかったから、少しちょっかいをかけられたんだよ。成績が思うように上がらなかった奴らがひがんでな」

 似たような事ならうちの中学でもあった。相応にして誰でも神経質になりがちだ。だからって他人に八つ当たりをして良い理由にはならない。

 俺はそもそも人に構っていられる程、成績の具合が良くなく、目の前の数学の問題で頭が破裂しそうだった。

「あ、そう言えば通り魔の事件はどうだった。確か、空也たちの学区で起こったんだよね」

「……ああ、そういう事もあったな」

 はるか昔の事を思い出すように空也は言った。

「もう時間も経ったし、お前が言いふらすように思わないから言うけれど、被害にあった女子生の二人、あれ同じクラスだったんだ」

「えっ……そうだったんだ」

「それに……」

 空也は急に口をつぐんだ。

「どうしたの?」

「いや、何でもない」

「気になるな」

「気にするな」

 一瞬、視線を落とした空也だったがまた元に戻した。相変わらず大股で進むので付いていくのに一苦労だった。

 駅で別れてから俺はどのルートを行くか悩んだ。殺された場所はあまり通りたくない。ならばさらに遠回りをしなければならなかった。日は落ちて、どうしたって足取りは早くなる。気が付けば全力で駆けていた。


 十月十五日 土曜日


 そわそわと落ち着かない。予定を確認するのはこれで何度目か忘れてしまった。

 明日は駅のホームで十時半頃待ち合わせ。沙奈の乗る電車が、俺の家の最寄り駅を通過するのでそうなった。

 到着したら早めの昼食をとり、一時ころの映画を観る。沙奈の希望でパニックホラーものになった。どうやら好きらしい。見かけによらない意外な趣味だ。後は適当にぶらぶらして帰る。

 というなんとも無難な予定。だが初めての事なのですでに緊張していた。自称魔法使いとの約束の日は着実に近付いていたが、今日と明日くらいは考えないでいたかった。

 部屋にいても落ち着かないので外に出た。晴れていた。秋の空は淡く、そして高い。秋風はさっと足元を通り過ぎた。

 公園へ行くとブランコで遊ぶ二人組がいた。体型が合っていない。誰かと思えば栄治さんとその彼女さんだった。

 楽しそうに笑っている。子供たちはいなかった。

「おや、蓮じゃないか」

 気づかれた。

「あ、どうも」

 邪魔したくなかったので、そっと立ち去るつもりだったが見つかってしまった。

「天気が良いから散歩かい?」

「はい、まぁ」

 彼女さんはこの近くに住んでいるのだろうか、前から何度か一人で歩いているのを見かけていた。

 大抵いつもロングスカート姿だった。美しい黒髪で長く伸ばしている。名前は……柴田美耶子さんだったか。

「どうだい? 彼女とは上手くいっている?」

「ええ。明日栄治さんが言っていた映画館に行ってきます」

「おお。気を付けてね」

 彼女さんがブランコに腰かけたままにじり寄ってきた。

「蓮君の彼女ってどんな子なの?」

「僕も詳しく訊きたいな」

 二人して寄ってくる。

「どういう子……物静かで奥ゆかしい子です」

「蓮君好きそう」

「だね」

 二人にとってのイメージはそうなのか。

 その後、何故か、だるまさんが転んだ、をする事になった。美耶子さんが発案者だ。

 最初は真昼間からいい歳をした男女が、何をしているのだろうと乗り気でなかったが以外にも楽しい。体を動かすと明日の心配も来週の憂鬱も消えてしまった。


 六月十六日 日曜日


 午前五時起床。体を動かした分寝つきが良かった。

 何を着ていくか迷うくらい服を持っていないため、せめて清潔感があるように心がける。

 とりあえずシャワーを浴びた。

 妹は部活があるらしく早めに起きている。なんでこんな時間に起きているのと驚かれたが適当にあしらい、八時頃部活に行く妹を玄関先で見送った。意外と時間がある。

 駅へは十分ほど歩けば付いてしまうため、三十分も前に出れば十分であり、気を付けなければならないのは二度寝をしない事だ。

 秋晴れの穏やかな日差しに包まれてベッドに寝転べば、そのまま夢の中へ没入してしまう。

 十時になったので家を出る。所持金は一万円。全財産。五千円札一枚に千円札五枚。どこかのポイントカードで厚くなった財布を携帯と共にショルダーバッグに入れていた。

 ゆっくりと歩いたので十時十五分に着いた。そのまま切符を買ってホームにあるベンチに座った。数人の利用客がいた。もたれかかって上を見上げる。蜘蛛の巣が屋根にかかっていた。ホームの四方に壁が無いので風が糸を揺らす。

 どうも空き時間があると考えてしまう。

 死ぬべきか、人を殺してまで生きるべきか。自分が殺されたから、同じことをしていいのか。生きたいのならば殺すしかないのか。


――他に方法はないんだよ。


 声がした。隣にはおばあさんが座っているだけでそれらしき人物はいない。

 頭の中に直接響くような感覚がして話しにくい。言葉に出せば独り言をしているのだと思われそうだ。


――本当に?

――うん。等価交換なんだ。喜ぶ人がいれば必ず悲しむ人が出る。

――どうして俺を助けたんだ?

――前にも言ったけれど、本当にただ通りがかっただけなんだ。魔法使いはいつでも突然現れる。そこに意味はないよ。だから、君はどうするかを決めて。生きるか、死ぬか。どちらにするか君の自由だ。

――俺は……。



 電車が来た。三十分に一本の割合で来る。

 携帯を見ると沙奈からメールがあった。

『もうすぐ着きます』

 ゆっくりと電車は停車した。

 ちょうど目の前に止まった車両には沙奈が乗っていた。胸の高さまで手を上げて小さく降っている。少し頬を赤くしてはにかんだ笑顔が眩しく、視線を反らした。

 電車に乗った。

 人はまばらだった。隣り合って座ったが五センチほど感覚を開けた。くっ付くというのがどうも気恥ずかしい。揺れるたびに肩が触れ合って緊張しっぱなしだ。

 これでは三十分弱持たないので口を開く。

「この前さ、空也と進路の事を話したんだけれど、沙奈はどこに行くかもう決まっている?」

 進路の話題しか思いつかなかった。話の種が貧弱である。

「私はまだどこを受けるか決めていないけど、日本文学を勉強したいなと思っているの」

「そっか。美術系じゃないんだね」

「うん。絵は趣味だから。あまり上手くも描けないし」

「そんな事ないと思うけど。文化祭の時の風景画好きだけどな」

「あ、ありがと。でもやっぱり吉田君にはかなわないよ」

 文化祭は先月の終わりごろに開催された。

 俺はクラス企画もほどほどにして図書室で時間を潰していたが、美術部の展示は見に行った。一人二、三作出展していて特に空也の絵はとりわけ印象的だった。幾何学的な暗めの色合いで、正直に言って何を表しているのか分からなかったが胸に響いてきた。

 一つだけ、他の二つとは違いた教室を描いた絵があった。全体を後ろから眺めた構図で誰もいなく、すべてが灰色だった。窓際には花が一輪。ユリだったろうか。

「蓮君は進路、決まっているの?」

「うっ……まだ全然」

 この話題は墓穴を掘るという事を忘れていた。

「そうなんだ。焦らないでゆっくり考えた方が良いよ」

 ありがとう。でも、俺にはあまり時間がないようだ。進路よりも先に死期が迫っている。

「前々から聞きたかったんだけど」

 話題転換。

「空也と沙奈が仲良くなったきっかけはなんだったの? 美術部って事で接点はあったんだろうけれど」

 密かな疑問であった。

 あまり積極的に話さない空也がどうやって沙奈と仲良くなったのだろうか。中学の頃の沙奈も今よりもっと大人しかったと言っていたし。

「ああ、それはね、同じクラスで席も隣同士だったから自然と話すようになったの。ほら、席が近いと何か落としたら拾ってもらったりするでしょ。部も同じだったからお互い顔を覚えるのが早かったし」

 なるほど。確かにそうやって交友関係が膨らむことは多い。

 電車は徐々に人が増え始めていた。座席に空席がなくなると目的地が近づいている証拠だった。



 電車を降り、人の流れに従ってホームを出た。

 繁華街の一歩手前と言っても、駅の周囲にはビルや各店舗があるので人通りは少なくない。

 駅の中は混雑しているわけではないが、大手を振って歩けるほど閑散とはしていなかった。

 慣れない駅構内の出口を求めて歩いていると、ふと手にひんやりとした柔らかい感触が。

 後ろを振り返る。

「あ……ごめんね……」

 沙奈が俺の指先を掴んでいた。いや、これはつまんでいるがただしい表現だろう。

 深く沙奈の手を握った。肩と肩が触れ合った。指先は冷たいが、沙奈の体は温かかった。

 シネマコンプレックス、ファッションビル、ショッピングモール、アウトレットモール……。数々の呼び方があり、それぞれ特徴があるらしいが区別がつくほど詳しくないので、とにもかくにも映画を観られる階に行くためエレベーターに乗った。

 暖房が利いていて乾燥している。

 休日という事もあってか親子連れがよく目についた。

 オープンして間もない事もあって賑わっていて逸れそうになるため、より一層沙奈と密着していた。

 手に汗をかいているのだが、不快な思いはさせていないだろうか不安になった。

 映画の時間を確認し先に一時ころのチケットを買っておいた。

 そのままエスカレータで降りて飲食店がある階まで行く。

 食事時なのですぐに入れる店は少なそうだ。どこも並んでいるようだった。

「どこで食べる?」

 特に希望も無いので沙奈へ尋ねる。

「蓮君は?」

「沙奈が好きなところで良いよ」

「え、でも映画も私が選んじゃったし……。蓮君が選んで」

「そう? ……じゃあ、ほらあそこにしようか」

 ふと目についた店を指さす。

 パスタの店だった。何となく食べたくなった。

「いや?」

「ううん。私、ナポリタン大好きなの」

 思いがけず沙奈の好物が知れたのが嬉しい。

 店の入り口には四、五人の人が並んでいた。

 店員さんが、お名前を書いてお待ちください、と言うので大人しく従い、外に置いてあった椅子に座った。案外店の回転は早いようで、十分も待たずに入れた。

 沙奈は言った通りナポリタンを頼み、最初は何もかけずに食べていたが半分くらい無くなるとタバスコと粉チーズを薄く降りかけた。俺はカルボナーラにしたのだが意外と量が多く、食べ終わってもしばらく苦しかった。



「蓮君はポップコーンいる?」

「え……飲み物だけでいいかな。食べたばっかりだし。沙奈は食べたいの?」

 映画が始まる少し前、沙奈は当然の事のように言った。沙奈の頼んでいたナポリタンも量があるように見えたが足りなかったのだろうか。

「あ……ううん。ただ蓮君は食べたいかなぁと思って聞いただけだよ。そうだよね、お昼食べたばっかりだしね」

 そう言うと沙奈はぎこちなく笑った。嘘をついているのが丸わかりだった。

「……やっぱり食べようかな。二人で一つで良いよね」

「……でも」

「映画館といったらやっぱりポップコーン、みたいな感じがするからさ」

 何か言いたそうにもじもじとしているが、映画も始まりそうなので売店へ向かう。

「飲み物は何が良い?」

「じゃあコーラで」

 手ごろなサイズのポップコーンとコーラを二つ買い、まだ出来て間もない劇場へ入る。指定席にしていたので席探しには苦労しなかった。

「沙奈はよく映画観に行くの?」

「うん。家からあまり遠くない所に映画館があって、小さい頃から連れて行ってもらってたの。今も月に一度は行くかな」

 早速沙奈は一粒食べ、おいしい、と呟いていた。

 開演の時刻となり照明が落とされる。暗闇に包まれて、隣にいる沙奈の顔がぼんやりとしか見えなくなった。

 何故か胸が高鳴る。

 沙奈の輪郭が消えて直接触れ合っているような。

 目が慣れてくるとこっそり横顔を盗み見ていたが、沙奈はスクリーンに釘づけで気づく様子がなかった。

 内容はあまり入ってこない。隣にいて息遣いを感じる度に緊張しっぱなしだったからだ。

 いやに喉が渇き、映画が半分も終わっていないのに無くなってしまった。ポップコーンの入れ物は終始沙奈の手の中にあり、俺も少し食べたがほぼ沙奈が食べきった。



「面白かったね」

「あ、ああうん」

 かなり暗い展開だったはずだったが、沙奈は好きなのだろうか。

「ほとんど私が食べちゃったね……ごめんね」

 しゅんとした沙奈。

「俺も結構食べたけど」

「ほんと?」

「うん、ほんと」

 三時を少し過ぎていた。これからあとはぶらぶらして適当な時間に帰る。

 たまたま通りかかった雑貨屋に入った。

 可愛らしいガラスの小物が並んでいた。沙奈は目を輝かせている。中でもガラスペンに興味があるらしく、しげしげと眺めていた。

「あれ、蓮じゃないか」

 栄治さんと美耶子さんがいた。

「やっぱり来ていたね」

 二人ともにこにことしている。

「僕らも行ってみようって事になってうろうろしてたんだ」

 沙奈が後ろからこっそりと、知り合いの方? と訊いてくる。

「俺の家の近所に住んでいる栄治さんと、その彼女さんの美耶子さん」

 人見知り気味の沙奈だが、初めましてと言い礼をした。

「へぇ蓮君の彼女ちゃん可愛い」

 美耶子さんがぺたぺたと触り始める。

「まだ名前を訊いていなかったね。教えてくれる?」

「浅野沙奈です」

 ものの十分ほどで二人は仲がよさそうに談笑し始めた。

 気が合うようだ。女の子二人が並んでいるとそれだけで心が洗われる。



 栄治さんの提案でケーキを食べに行く事になった。

 沙奈は流石に無理なのではと思ったが、問題ないらしくチーズケーキを頼んでいた。甘いものは別腹らしい。

「蓮は何にする? 僕はこのチョコレートのやつにするけれど」

「じゃあ俺も同じので」

 落ち着いた感じの店内だった。

 出てきたケーキは甘すぎず美味しかった。別に甘いものは苦手ではないのだけれど。

「蓮君は沙奈ちゃんのどこら辺が好きなの?」

 美耶子さんがフォークを舐めながら言った。

 沙奈の手が止まりじっと俺を見つめる。栄治さんも面白そうに、にやついていた。

「そ、それはですね……」

 三人の視線を感じる。

「清楚なところと言いますか……真面目ですし……人の話もちゃんと聞いてくれますし……その……本を読んでいる表情が涼しげで……好きです」

 顔が熱くなり背筋を汗が伝った。

 途切れ途切れになりながらも言い切ったが、どうしてこういう状況になっているのだろう。

「ふえー本当に言ってくれるとは……何だかこっちが恥ずかしくなっちゃうね」

 と、美耶子さんは言った。

 沙奈は俯いて耳まで赤くなっていた。余計に恥ずかしくなった。

「沙奈ちゃんは?」

「わ、私ですか……」

 美耶子さんが沙奈に尋ねる。

 訊いてみたいけれど、こそばゆくて耳を塞ぎたいような複雑な気持ちになった。

「…………私も蓮君の真面目なところが……それにとっても優しい……」

 沙奈は紅茶で口を濡らした。

「何より私を好きになってくれたのが……一番嬉しい……」

「ひゃー栄治君すごいね」

 美耶子さんは栄治さんの袖をひっぱり、楽しげな様子。

「確かにそうだね。でも、落ち着いて美耶子」

 栄治さんがなだめる。

「さて、そろそろ出ようか」

 逆に栄治さん達の事を聞き返そうと思っていると。立ち上がりそう言った。もしかすると先読みされたのかもしれない。

 栄治さんは美耶子さんの手を取って立ち上がらせる。

 俺も真似をして沙奈の手を取った。包み込むような温かさと何よりその柔らかさがたまらない。ありがと、と沙奈は口先を動かした。

 そろそろ帰るのにちょうどいい時間になったので駅へ向かったが、栄治さん達はまだ残るらしく別れた。

 外は暗くなり始めていた。

 手は繋いだままだった。行きの電車にはあった隙間が帰りの電車では埋まっていた。

「綺麗な人だったね」

 沙奈は美耶子さんの事を言っているのだろう。

「そうだね。でも、沙奈も……」

「ん?」

「いや、何でもない」

 すごく恥ずかしい事を言おうとしたが止めた。

 言ってあげた方が良いのかもしれないが口に出せなかった。

「今日は楽しかったよ。誘ってくれてありがと」

「俺も楽しかった」

 沙奈の横顔を見た。

 映画館では薄暗くてよく見えなかった細部まで見える。まつ毛が長い。奥二重で目じりが少し垂れていた。唇は薄く小さい。

「どうしたの?」

 気づかれた。

「何でもない」

 さっと顔を反らす。

 考えてみると、しっかりと沙奈の顔を見たことはなかった。そもそもこんなに近付くことがなかったのだ。



 駅に着いた。俺の降りる駅だ。

 分かれるのは名残惜しく、一抹の寂しさがあった。

「また明日」

 俺はそう言って手を振った。

「うん、学校でね」

 扉が閉まる。ゆっくりと電車は動き出した。沙奈の姿が遠くなっていく。風が吹き抜けて、やがて電車も見えなくなった。

 温かい場所に居たので寒さが身にしみた。

 帰ろう。

 駅を出ると見慣れた光景が現実へと引き戻した。


 十月十九日 水曜日


 何の答えも出せずに二日が過ぎた。約束は翌日に迫っている。

 映画を観に行ってから沙奈とは一層仲良くなれた気がするし、空也にも日曜の事を訊かれて楽しげに話した。気分が高揚していた。

 だが、それは不安の裏返しなのだ。自分でもおかしいと感じている。馬鹿げた事だと投げ捨ててしまいたいが、鮮明なあの痛みの記憶がそれをさせない。

 日にちが近付くにつれて、切られたり殴られたりした箇所が疼きだした。薄っすらと赤くなっている。指で押すと痛痒い。


     ○


 目を覚ますと体が重く吐き気がした。

 カーテンを開けると空はどんよりと曇っている。

 窓ガラスに触れると冷たくて指を引っ込めた。小雨が降っていた。傘を差さないと。

 何も食べたくなかったが無理矢理に白米を味噌汁で流し込み、おかずの目玉焼きをろくに噛みもせず呑み込んだ。

 通学路を歩いていると水たまりに足を突っ込んでしまった。呆けているからこうなる。靴も靴下も濡れてしまった。足が不快な水音を立てた。

 学校へ着き、上履きに履き替えても濡れた靴下が気持ち悪い事この上ない。

「蓮君、おはよう」

 沙奈が生徒玄関から入ってくる。水色の傘をたたんで傘立てに入れた。髪が湿気でいつもより若干広がっていた。

「おはよう。濡れなかった?」

「うん。でも、髪が上手くまとまらなくて家を出るのちょっと遅れちゃった」

 そう言い、前髪をなでつける沙奈。

「俺は水たまりに片足突っ込んじゃったよ」

「あー、それは大変だったね」

 沙奈の声を聴くと幾分か安心した。

 しかし、時間の進み方が異常に早い。

 苦手なはずの英語も普段なら二倍に引き伸ばされて感じていたが、今日はかなり圧縮され落ち着いて考えられない。



 昼休みに美術室へ行く。

 廊下が暗い影を落としていた。床に冷気が流れ脛の辺りが冷える。指の関節が曲がりにくい。

 空也は美術室の隅で絵を描いていた。久しぶりに見る姿だった。手に持っているのは鉛筆だろうか。机に座り、A四の紙に慣れた手つきで撫でるように鉛筆を動かしている。

 頬杖をつき手首だけを動かしている。暇つぶしで描いているようだった。

 なるだけ音をたてないようにドアを開けた。空也はその音でこちらに気が付いた。古い絵の具の匂いは相変わらずだ。

「よぉ」

 気だるそうに空也が言った。

「だるそうだね」

「曇っているだろ。気分が憂鬱にならないか?」

「……何となく分かる」

「それにこのところ寝不足だしな」

 大きくあくびをする空也。目じりに涙が浮かんでいた。頭を掻いてまたゆっくりと絵に手を加えていく。

「どうして?」

「寝つきが悪い。恐らく、この昼休みに眠りすぎていたからかもな。だからこうやって落書きをして眠らないようにしている」

 机に目を向ける。描きかけの絵と、その隣にはティッシュが敷かれ削った黒い芯が振り掛けられていた。

「これ、落書きじゃないでしょ」

 それは風景画のようだった。

 杉のような針葉樹の林の開けた場所、その広場には右上から左下に小川が流れていた。区切るように流れる小川の手前側にある陸地には小石が二、三個あるだけだった。

 対岸には一輪の花。ユリの花だった。すべて黒で描かれているその世界でひっそりと佇むその花は何となく心ひかれた。

「空也ってさ、ユリの花好きなの? 何枚か空也の絵を見た事あるけど、ユリの花が描かれているの多いよね」

 空也は顔の高さまで紙を持ち上げ、しげしげと眺めた。

「そうだな。俺はよくユリを描きいれるな」

 物思いにふけるように空也はじっと動かなくなった。目は絵を捉えているのに別のものを見ているように思える。

 何かに憑りつかれているような、不穏な空気が流れた。

「ユリはな……」

 空也の低い声が沈黙を破る。

「俺の母さんが好きだったんだ」

「そうだったんだ。空也が家族の事を話すのは珍しいね」

「だな。まぁ、特別に好きだから描いているんじゃない。絵を描き始めたのは母さんが喜ぶからなんだ。花の絵を沢山描いたな。もうどっかにいってしまったけれど」

 絵をおいて空也は椅子の背に寄り掛かった。

「それに母さんも死んでしまったし」

「……」

「お前は俺が施設に入っている事を知っているから、大体の想像はしていただろうけどな」

「それは……うん、ごめん」

「気にするな。もうかなり前の話だし」

 予鈴が鳴った。

「さ、教室に戻ろう」

 空也が立ち上がる。

「余計に暗くなったな。すまん」

「大丈夫だよ。それに空也が悪いわけじゃないだろ」

「そうか」

 鍵を閉めて空也は鍵を返しに行った。

 空也から珍しい話だった。自分の事を話すなんて思いもよらない事だ。

 廊下の窓から外を見た。

 雨はまだ降っているし鉛色の雲も厚く日が入ってこない。濃淡のある灰色は絶えず流動している。ずっと張り付いているようだが刻一刻と変化していた。



 その夜、俺はベッドの上で寝つけないでいた。

 雨は止んで家の中はひっそりと静まり返っている。時計の音や寝返りをする度にするベッドの軋む音が耳障りだ。

「……」

 時刻は午前三時を過ぎようとしていた。

 天井には暗闇が張り付いていた。ぼんやりと壁紙の白さが分かる。

 浅く息を吸ってまた吐き出す。

 どんなに良い方向に考えを持っていこうとしても頭の中は暗い想像ばかりが膨らみ収集が付かない。思考が駆け巡って、それは速度を増して最後は訳が分からなくなった。めちゃくちゃに絵具を塗りたくったものや、雑音ばかりを集めた曲を聞かされているようだ。叫びたいような衝動が胸を叩く。

 悲しくなり、そして沙奈に会いたくなった。

 携帯を手に取ったが、時刻を思い出しまた手放す。いくらなんでも非常識だ。

 目を瞑った。瞼の裏で光が点滅していた。たまに迫ってくるので体がびくりと動く。

 最初はただの光だったが、だんだん鮮明になってゆき、気が付けば刃物になっていた。

 刃物が瞼の裏に映りこんでいる。おかしな光景だ。

 刃物はゆっくり浮いているだけだった。だが、次第にその動きは速くなっていた。残像が尾を引いている。

 風切り音がし始めたころ、急に刃物が止まった。刃物はどこにでもありそうな包丁だった。

 誰かがいた。あの黒い奴だ。俺を殺した犯人だ。包丁の持ち主はあいつだったのか。

 奴は影だった。形を持った影。輪郭がろうそくの炎のように揺らめく。もはや人の形をしていない。刃をもったおばけ。

 俺は逃げ出した。後ろを振り返らず走り続けた。

 周りは知らない場所だった。

 無機質なコンクリートの壁が両脇に並びその高さは終わりがない。

 たまに十字路があるのでかく乱する為に左右に曲がる。

 この先に何があるのか見当もつかない。

 背中には奴の気配がぴたりと張り付いていた。粘っこくおぞましい殺気。

 捕まったらまた同じように殺されるのだ。無残に切り裂かれ情けない声を出して息絶える。そんなのは嫌だ。

 どれくらい走ったろう? 広い場所にたどり着いた。円を描くように壁がぐるりと取り囲んでいる。

 行き止まりだった。

 恐る恐る後ろを振り返れば奴がいた。

 逃げ場がない。

 後ろへ下がっていると壁が背中を小突いた。

「はぁ……はぁ……」

 終わりが迫っている。

 奴は包丁を振り上げた。

 とっさに左へそれる。

「ああぁっ」

 右肩を裂かれた。血があふれ痛みが襲いかかる。

「ごめんなさいっ……ごめんなさいっ」

 無意識のうちに謝っていた。しかし奴には届かなかった。当たり前のことだ。奴には耳どころか顔も無いのだから。

「ぐっああああっ」

 傷口を足らしき影で踏みつけられる。

 ためらいもなく左肩を串刺しにされた。

 涙が頬を伝い、鼻水は垂れて涎が顎を汚した。

「ごめんなさいっ……ごめんなさいっ…………がっ……ぐっ」

 俺の声が鬱陶しかったのか喉を切られた。

 包丁は上下を繰り返し、俺の体には多くの穴が開いた。

 血があり得ないほどに流れだしこの空間を埋めていった。

 影は知らない間に消えて、ただ一人俺だけが残っている。

 もう自分の血で溺れそうだ。

 生臭くて、生臭くて吐きそうだ……。

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