反省と後悔
「もしもしベル?聞こえてるな?」
『えぇ聞こえてるわよ。無事?』
先ほどの衝撃音と康太の悪態を聞いていたからか、文の声は僅かにではあるが不安そうである。
良い意味でも悪い意味でもその不安は的中していると言っていい。康太が負傷らしい負傷をしていないのは不幸中の幸いだっただろうか。
無論無傷というわけではない。氷の礫を強引に突破しようとしたこともあり体のところどころには打撲のような症状が出ている。早めに適切な処置をしないと青痣ができてしまうかもしれないが、康太は今そんなことを気にしているだけの余裕はなかった。
妙なことをしていた魔術師を逃がしてしまった、それだけで康太は大きく落ち込んでしまっていた。
「悪い・・・妙なことしてた魔術師を逃がした・・・仕留めきれなかったよ・・・」
康太の謝罪を聞いて、康太が何を言いたいのか、そして状況がどのようなものであるかを理解したのか文は携帯越しに小さく息を吐いた。
『そう・・・そっちはまぁいいわ。もう一度聞くわ、あんたは今無事?』
怪しい行動をしていた魔術師の動向よりもまず文は康太の無事を確認していた。今彼女にとってはそちらの方が重要なのだ。
二人しかいない状況でそのうちの一人が行動不能になるというのは大きな痛手である。彼女が想定した最悪の状況は康太が魔術師に返り討ちに遭う事だった。
どんな過程があったとしても康太は自分に勝って見せたのだ。そのような状況になるとは考えていなかったが万が一という事もある。
念を押すように聞いてきたその言葉に康太はばつが悪くなりながらも問題ないと答えた。
問題がないわけではない。体のところどころにはまだ鈍い痛みが残っている。威力が弱いとはいえそこは魔術の攻撃だ。普通に人間に殴られるのと同じかそれ以上の痛みを康太の中に残していた。
だがこの程度なら問題なく動ける。そう言う意味で康太は問題ないと告げた。
『そう、とりあえず無事でよかったわ。今からそっちに行くから現在位置を教えてくれる?今後の話もしたいし』
「わかった・・・ちょっと待ってくれ、位置情報をそっちに送るから。」
最近の携帯は本当に便利になった。地図アプリを用いて現在位置を把握し、そのデータを他人にも送ることができるようになっている。たとえここが山の中でも電波さえ届いていれば現在位置を正確に伝えることができる。
携帯電話としての機能として正しいかどうかはさておき、便利であることに変わりはない。現代に生きるのだからこれくらいは利用しなければ損だろうと思いながら康太は現在位置を文に転送していた。
『ん・・・了解、今から行くからちょっと待ってて。周囲を警戒しながらその場から動かないように、いいわね?』
「・・・了解、いい子で待ってるよ」
よろしいと告げた後で文は通話をつづけた状態でそのまま会話を中断した。恐らく今移動している最中なのだろう、彼女の息遣いに加えて衣擦れのような音も聞こえてくる。
彼女がこの場から離れないようにと告げたのは合流を容易にするためというのもあるだろうが、あの魔術師を追わないようにと釘を刺したのだ。
康太がどのように思っているかはさておき、取り逃がしてしまったことには変わりない。だがそれを追って今度こそ康太がやられてしまっては困るのだ。
生徒たちを守るという立場がある以上文はあの合宿所から極力離れたくはない。今康太を失うことは彼女にとって犯人を取り逃がす以上の深刻な痛手になってしまうのである。
康太はそのことを理解したうえでその場で待ち続けた。凍り付いたままの近くの空間と、それに巻き込まれた槍を横目で眺めながら小さくため息をついていた。
なんて様だと内心呆れてしまう。
今の状況だけ見れば、康太は十分大金星を挙げたと言っていいかもしれない。経験を積んだ魔術師に対してこちらはほぼ素人のポンコツ魔術師。相当な戦力差があるにもかかわらず康太は相手の防衛の姿勢を崩し、その場から撤退させるまでに至ったのだ。
この場に兄弟子の真理がいれば十分すぎる戦果だと褒めてくれるだろう。
だが自分の頭の中にいる師匠である小百合は全く褒めてくれないだろう。それどころか自分を叱咤するような光景しか思い浮かべることができなかった。
恐らくこんなことを言うだろう『詰めが甘い。あの状況で再現の魔術を使っていればもっと大きなダメージを与えられた。戦闘不能にすらできたかもしれん』と。
実際康太が悔いているのはそこだった。相手を殺さないようにすることに重点を置きすぎて、相手に致命傷を与えるのが恐ろしくて攻撃の手を緩めてしまったのだ。
あの場で止まることなく一気に距離をつめ、槍の射程距離の中にとらえさえすれば康太は確実にあの魔術師を倒すことができただろう。それをしなかったのは偏に康太の甘さゆえだ。
初めて他人の血を見た。槍を使って誰かを傷つけたということに心の中のどこかで動揺したのかもしれない。これ以上やってはいけない、これ以上傷つけたら死んでしまう。そんな考えが頭のどこかにあったのかもしれない。槍ではなく再現の魔術を使えば確実に倒すことができていたかもしれないのに康太はそれをしなかった。
戦闘時はそれほど動揺はしなかった。だが今になって槍に僅かに残る血の痕跡を見て康太は身震いしていた。これを自分がやったのかと。
殺すつもりは勿論なかった。だが万が一当たり所が悪ければ死んでいた。そんな考えが頭の中に過るのだ。いつもの訓練のような調子で槍を振った。その結果がこの槍に残る血痕だ。
まだまだ自分は魔術師になり切れない。生き死にをそんなに簡単に考えられるほど康太は魔術師としての経験を積んでいない。本来ならばやらなければならないところで無意識のうちにブレーキを踏んでしまった。
勝負時にそれを行えないのは優しさなどではない。単に康太が甘かっただけなのだ。
実戦経験の薄さが招いた失態と言えばいいだろうか。目の前の状況だけを見ていたせいで大局を見誤ったとでもいうべきだろうか。康太があの魔術師を逃がしたせいでさらに厄介なことになったのは言うまでもない。
本当に経験を積んだ普通の魔術師ならばこんなことはないだろう。無駄口を叩かず、徹底的に相手を追い詰め叩き潰す。自分の師匠や兄弟子ならきっとそうした。康太にはその確信があった。
やるべき時にするべきことをする。当たり前にやるべき事、それをする事さえもできない自分はまだまだ未熟者だなと康太は地面に体育座りしながら文を待つことにした。