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ポンコツ魔術師の凶運  作者: 池金啓太
十六話「本の中に収められた闇」
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悩みと相談

十一月も終わりに差し掛かり、十二月を目前に控えすでに気温は秋から冬のそれに変わり、息が白くなる日が増えてきたころ、文は部活動のテニスに打ち込みながらもどこか集中することができずにいた。


小さなミスを連発し、時折ボールを見落とすようなことまである始末。普段なら絶対ありえないようなことを最近は連発してしまっているために部内の仲間からも心配されてしまっていた。


その行動の不審さは顧問の耳にも届き、文の体調が悪いのか、あるいは何か悩みを抱えているというのは誰の目にも明白だった。


「ねぇ文、どうしたの?最近ちょっと変だよ?」


休憩時間、友人が話しかけに来ると文は努めて笑みを浮かべようとするが変だといわれてその笑みは陰りを見せてしまう。


「・・・やっぱりそう見える・・・?」


「見える。あからさまに悩んでるって感じ・・・ていうか心ここにあらずって感じ?」


「・・・集中しようとはしてるんだけどね・・・どうしても・・・なんていうか・・・ちょっと思うところがあってね・・・」


思うところがある。その原因について文は理解している。だがその解決方法に関しては全くと言っていいほど見当がつかなかった。


原因が分かったところでその解決のめどが立たないのであれば悩むほかない。なるべく別のことをしているときは考えないようにしても、どうしても脳裏に浮かんでしまうのだ。


それは暗闇の中でもはっきりと見える背中。夢にまで出てくるその背中。


そして毎回その光景が見えた後、あの時感じた体温が体の中にまだ残っているような感覚があるのだ。


それが忘れられない。あの時の感触、そして温度。忘れようにも忘れられなかった。いや忘れたくなかった。


「あ、文、最近大丈夫?なんかおかしいけど・・・」


話をしているときに何か悩みでもあるのではないかとやってきたのは以前康太に興味を持っていた森田茜だった。


康太へのアタック、というか積極的に話しかけることは変わっておらず、少しずつではあるが康太も心を開きつつあるのかちょっとした雑談をしている姿をよく見かける。


「茜・・・うん、まぁ大丈夫よ。あんまり大したことじゃないから」


「そうは見えないけど・・・体調が悪いとかそういうことじゃないのよね?」


「それはないわ。体調は万全よ。ただちょっと考えることが多くて、集中できないっていうか・・・」


考えることが多いというのは若干語弊がある。考えることは一つしかないのだ。ただその一つが強烈で、どんなときにも頭に浮かんできてしまう。そのせいで他のものが手につかないことがある。


特にこうして平和を享受するべき部活動などの体を動かすだけの行動だと考える余裕が出てきてしまうためどうしても集中力が乱される。


勉強の時はまだ頭を使うため集中が乱されることは少ないのだが、やはり余裕があると余計なことを考えてしまうものであるらしい。


「先生も最近心配してるよ?急に動きが悪くなったって・・・前に怪我した時からじゃない?なんかあるんじゃないかって・・・まだ治ってないなら無理しちゃだめだよ?」


「大丈夫、怪我自体はもう治ってるのよ。そこは問題ないの」


以前の魔術師が大量に集まっている事件にかかわったときに負った怪我に関しては文はすでに完治させていた。


結局打撲とほんのわずかではあるが筋を痛めたくらいでそこまで重傷というわけではなかった。真理のところに通い、魔術による治療を施してもらい通常よりもずっと早く治すことはできたのだがしばらく部活動はできず、文の怪我のことは部員も顧問も知っていることだった。


そして怪我がようやく治り、また部活動をできるようになったかと思えばこの不調、周りの部員や顧問は最初怪我を意識しすぎてのものであると思い軽く体を慣れさせるところから始め、徐々に元の調子を取り戻してくれればと思っていた。


だが怪我を治してからすでに一週間が経過しようとしている。未だ戻らない彼女の調子に周りも体が原因ではなく心の問題であると気付き始めているのだ。


一般人にまで気づかれるようでは自分はまだまだ未熟ものだなと文は自分を叱咤していたが、そんなことにも意味がないことはわかっていた。


「・・・ねぇ茜、最近康太とは話してるの?」


唐突に康太の話題に切り替えたことに違和感を覚えていた友人たちではあるが、文が自分の悩みにはあまり触れてほしくないからあえて話題を切り替えたのだなと考え、これ以上追及しても仕方がないと理解したのか文のその話に乗ることにした。


「・・・うん、割と話すようにしてるかな・・・なんかまた前とは雰囲気ちょっと変わってる感じがする・・・気のせいかもしれないけど」


「・・・あぁ、そうかも・・・あいつまたちょっといろいろあったからね・・・茜はまだ康太を狙ってるわけ?」


「んー・・・それがちょっとわからないのよね・・・話せば話すほど・・・なんていうかミステリアス?肝心なところがわからないと思えばすごくわかりやすいというか・・・でも同世代の男子よりずっとかっこいいと思う」


「かっこいいなら好きになるものじゃないの?」


「うん、でもなんかずっと壁を感じるの。なんていうか・・・これ以上近づいてくるなって言われてる感じがする」


「康太はそんなこと言わないでしょ?」


「うん、一度も言われたことないけど・・・何となくそんな感じがして・・・ひょっとして私嫌われてる?」


そんなことないわよと文は言いながらも、康太と彼女の間にある壁を理解できてしまう。それの原因が何なのかも、そしてそれが自分との間にはないということも。


「そういえば八篠君最近部活動あんまり出てないみたいだけど・・・何かあったの?たまに出るとすごく頑張ってるのは見かけるけど」


「あー・・・ちょっと親戚の子を預かってる関係でね・・・実際康太が預かってるわけじゃないんだけど、その子と遊んであげたりしてるみたい。私もたまに様子見に行くけど、まぁいいお兄さんしてるわよ・・・」


文は康太と口裏を合わせて神加のことを親戚から預かっている子供ということにしていた。


そのほうが文も神加とかかわりやすくなるし、部活動にたまに出られなくなる口実にもなる。


親戚同士の関係であれば周りが口出ししにくくなるというのも相まってそれ以上ほかの誰も何も言えなくなるのは目に見えていた。


こうすると親戚設定にして本当に良かったなと思うばかりである。


「へぇ・・・じゃあ妹ができたみたいなもの?」


「そうね。すごくかわいい子よ。素直だし優しいし、ちょっと甘え下手なところもあるけどそこは少しずつ慣らしていくしかないわね」


「ふぅん・・・一緒に子育てってなんか夫婦みたいね」


「・・・やめてよ、親戚同士でなんて面倒になるじゃないの」


何気なく言われた一言で文は激しく動揺したが、その動揺を表に出すことはかろうじてなかった。


長年演技をし続けたおかげというべきか、日常的な演技の経験に救われた形というべきか、少なくとも友人たちにはその動揺を悟られてはいないようだった。


とはいえ、動揺したという事実に最も驚いたのは文自身だった。康太と自分が夫婦などという想像をした瞬間、文字通り心臓が跳ね上がったのではないかと思えるほど強い衝撃が体の中を駆け巡ったのである。


いやな想像だと頭では思いつつも、そのことを想像するとなぜか悪い気はしなかった。自分の中で強い矛盾を感じながらも小さく息をついていた。


「それに子育てっていうけど、そこまで手間もかからないわよ?せいぜい一緒に遊んであげたりするくらいで・・・小さいけど来年から小学校に行くような歳だから、ある程度物は考えられるし」


「そうなんだ。ちょうどかわいい時期じゃない?男の子?女の子?」


「女の子よ。素直でいい子だからすごくかわいいけど・・・もうちょっとわがまま言ってもいいように思うのよね・・・しょうがないことだけど、私たちにすごく遠慮してるのがわかるから・・・」


「子供ってすごく感情に敏感だっていうもんね・・・預かって今どれくらいなんだっけ?」


「もうすぐ一カ月くらいかしら・・・少しずつ慣れてきてるとは思うんだけど・・・」


神加が康太たちのもとにやってきてからもう一カ月が経とうとしている。彼女は順調に魔術を覚えている。習得速度自体はあまり以前と変わらない。練度は徐々に上げ、すでに分解と遠隔動作の魔術は問題なく扱えるだけの実力を有している。


戦闘が行えるだけの実力はないが、それでもあの歳にしては十分すぎるだけの実力を有しているといえるだろう。


あと気がかりなのは彼女の精神状態だ。今も小百合による限界ぎりぎりまで続く修業は続いている。余計なことを考えないように、余計なことを考えるだけの余裕が生まれないように常に限界寸前まで訓練をし続けてる。


少し余裕があるときに文や康太がかばって休ませたり遊ばせたりしているが、その精神状態が回復しているかどうかは文たちにもわからない。


常にアリスが精神状態を落ち着かせるための魔術を使っているらしいが、それも本人曰く気休め程度でしかないという。


時折アリスが神加の記憶を読んだりその精神状態を確認したりしているが、やはりそれでも改善の度合いは本当にわずかでしかないという。


少しずつ、少しずつ彼女に安らぎを与える以外にあの崩壊寸前の精神状態を元に戻す術はないのだ。


「八篠君がちょっと変わったって思うのもそのせいかもね、子育てしてなんか変わったとか?」


「子育てって言っても小さい子と一緒に遊んでやるってだけよ?あいつ結構子供好きみたいだし」


「子供好きっていうとちょっと怪しく聞こえるけどね。そういう意味じゃないんでしょ?」


「そこまでは知らないわよ。たぶん違うと思うけど」


もし彼女たちが以前康太たちが教室でしていた話を聞いたらどう思うだろうか。この場の全員がそのことを知らないために康太のことを面倒見のいいただのお兄さんのように思えたかもしれない。


あの会話を聞かれていなかったのは僥倖というべきだろうか。


だが文は神加のことを思い出して一つ思いつく。彼女が今行っている修業、あれを真似ればいいのだと。


「・・・そっか・・・そうしたほうがよさそうね」


「ん?どうしたの?」


「ちょっと走ってくる。余計なことばっかり考えちゃうなら考えられなくなるくらい限界まで走りこんだほうがまだいいだろうし」


「なんか体育会系の考えね・・・あんまり根を詰めすぎないようにね?」


「わかってるわ。体の動きを確かめるついでよ」


ボールを追っていてもどうしても集中が乱れることがある。それならば常に体を動かして考えることができないくらい追い込んだほうがいいと思ったのだ。


せっかく部活動に精を出しているというのに一人不調なだけで周りの歩調を乱すわけにはいかない。

文は軽く屈伸をしてからゆっくりと走り出す。


動いていれば余計なことは考えなくて済む。体を常に動かして体に負荷をかけ続ければ必然的に思考能力は落ちていく。


酸素が常に必要となる運動は、肉体を動かすために必要な酸素を全身に巡らせることで脳の活動を一時的にではあるが低下させる。


そして思考が単純化していくことで、余計なことを考えないように考える余裕をなくそうとしていた。

文は走り続け、時折水分を補給しながらもその足を止めることはなかった。


もとより運動部に所属していることもあって体力には多少自信がある。魔術師としての活動も同時に行っているのだ。怪我によってブランクが生まれたこともあって体力が多少落ちているがそれでも文の体はしっかりと動いてくれた。


走れば体は温かくなる。周りの温度の低さによって文は自分の体温を実感しながら走り続ける。


「あれ?文じゃんか」


「・・・え?康太?」


走っているときに後方からやってきたのは今の文の悩みの種である康太だった。本人の気も知らずに軽々と走ってきた康太は一度速度を緩め文と並走し始める。


「お前テニス部だったよな?あれ?今日はランニングの日なのか?」


「違うわよ・・・その・・・ちょっと・・・ブランク明け・・・だから・・・体力戻しの・・・ランニング」


「なるほど、怪我してる間運動できなかったもんな。まだ調子戻ってないのか?」


「体・・・自体は・・・もう平気・・・ただやっぱり・・・ちょっと体力・・・落ちてるかも・・・」


落ちているのは体力だけではない。体を動かすときに集中力が一気に落ちる。頭を使う作業ならば余計なことは考えないが、体を動かすときに限って余計なことを考えてしまう。


魔術師として活動しているとき、特に修業の時などはフルで頭を使っているためにそんなことはありえないのだが、こうした部活、所謂本気にならなくてもいいようなときは余計なことを考えてしまう。


体の調子よりもむしろそっちのほうが文にとっては重要だった。


「まぁあれだな、怪我から治ったばっかだと変なところに力入ったりするからそこだけ注意しろよ?ねん挫とかしたら厄介だぞ?」


「わかってる・・・わよ・・・」


こちらの気も知らずにのんきな奴だと、文は荒く息をつきながら自分の額から垂れる汗を首からかけたタオルで拭う。


そんな何気ない動作をした瞬間、文は一つ思い当たる。そういえば自分は走り続けたことで今汗だくだったという事実に。


瞬間、文は康太と一時的に距離をとった。明らかに不自然な動きだったため康太も一体どうしたのだろうかと目を丸くしてしまう。


「どうした?なんかあったか?」


「な、何でもない!何でもないわ!気に・・・しないで!」


「ん・・・?あ、ひょっとして俺汗臭かった?おいおい汗臭さは男の勲章だぞ!そんな避けるなよ!」


康太は自分のジャージのにおいをかぎながら臭くないよなと自分のにおいを確認しているが自分の体臭というのはわかりにくいものなのだ。仮に康太が嗅覚強化の魔術を使ってもその匂いを把握できたかは怪しいものである。


いやそれ以前に文が康太を避けたのは康太が臭いからではなく、自分が臭いのではないかという疑念を捨てきれなかったからだ。


魔術師とは言え文だって思春期の女の子だ。異性に自分の汗のにおいをかいでほしいとは思わない。


「なんでも・・・ないから・・・!気にしないで!」


文は意図的に速度を上げて康太から離れようとするが、康太は悠々と速度を上げて文に追い付いてくる。


「おいおい、そこまで逃げられるとこっちとしても釈明せざるを得ないぞ。いいか、男子高校生の汗の香りは青春の香りなんだよ。それを臭いだとかなんだとか思われるのは心外だ。汗を流した分だけ青春はその色を濃くするといっても過言ではないんだよ」


康太がそんな持論を展開しているのを文はほとんど聞くことができていなかった。自分のにおいをかがれないように必死に速度を変えたり蛇行したりしているのに康太は余裕で文の動きについてくる。


ここで今更ながらに文は思い出す。康太はもともと陸上部なのだ。走ることに関しては文より圧倒的に優れている。


速力もそうだがその体力も文とは比べ物にならないほどあるのだ。仮に文が全力疾走しても、康太を振り切ろうと距離をとっても、康太がその気になればあっという間に追いつくことができるだろう。


「大体お前だって汗かいてるじゃんか、それに全然におわないぞ?」


康太が文の首筋に顔を寄せてにおいをかいだ瞬間、文は勢いよく飛びのく、走るのもやめて完全な警戒態勢に移行してしまっていた。


ほぼ無意識の反射に近い行動だったが、文の様子が何かおかしいということをようやく康太も理解したのだろう、不思議そうに文のほうを眺めながら目を丸くしていた。


「あ、あんたね・・・!お、女の子のにおいを・・・嗅ごうとしないで!デリ、デリカシーがないわよ!」


「・・・前ににおいでストッキングの行方を探させようとしたやつとは思えない発言だな・・・ていうかどうしたんだよ・・・なんかおかしいぞ?」


「そ、それと、これとは・・・話が別・・・!あぁもう・・・!」


荒く息をついて何とかまともな思考をさせようとしているのだが、走り続けたせいで頭がうまく回らない。康太が悪意がないのはわかっている。だが康太が意識をしなくても文自身が意識してしまうのだ。

こればかりは思考が正常でも正常でなくても仕方がないのである。



「あんまり体調良くないなら保健室行くか?肩貸すくらいならできるぞ?」


「だ、大丈夫だから!・・・私は私の・・・ペースで・・・走るから、あんたは先行ってて!」


「・・・そうか?厳しいようなら呼べよ?」


康太は文の体調を気遣いながらも自分のペースに変えて悠々と先を走り始める。徐々にその背中は遠くなっていき、文はようやく自分一人になったということを理解して走りながらではあるが大きく息をついて安堵していた。


自分が今おかしいのは理解している。明らかに必要ないほどに康太のことを意識してしまっている。


今までこんなことはなかったはずなのだ。こんなことはなかったはずなのになぜこんなことになってしまったのか。


窮地を助けられただけでなぜこうも変わってしまったのか。康太は何の気もなしに、ただ文が危なかったから助けただけだ。


文自身それを理解している。むしろそれ以外の意味を探すほうが難しかった。だがそれでも、そうだからこそ、文は康太のことを意識してしまっていた。


普段なら劣等感を抱えたり、対抗意識を向けたりするところのはずなのに今はそういった考えが全く浮かんでこない。


思い浮かぶのはあの時の康太の背中、そして思い出すのは抱き上げられた時の康太の体温だった。


今の自分は明らかにおかしくなってしまっている。何度深呼吸をしても何度心を落ち着けようとしても、康太のことを思い返すだけで、康太に少し会うだけで調子がくるってしまうのだ。


こんなことでは訓練もままならない。どうしたらいいのだろうかと文は割と本気で悩んでいた。


「はぁ・・・なんでこんなことに・・・」


自分の体の中にあった鈍い痛みはもうない。走っていてもどこか変なところに力がかかっているような節もない。


体はもう完全に治っている。さすがは真理というべきだろうか。治癒に関しては一家言持ちというところだろう。


体と一緒に心の変調も直してくれればよかったのにと文は大きくため息をついていた。


「おう文、ずいぶんゆっくり走ってるな!」


先ほど自分の先を走っていたはずの康太がもう外周部分を一周して自分を軽々と周回遅れにしていく。


体力には自信があるのか、さすがは陸上部だとほめてやるべきか、康太は再度文の先を走っていく。


文は自分と康太の走る速度を比べ、そして先を行く康太の背中を見て意を決する。


このまま康太を避けていても何も変わらないのだ。結局毎度毎度動揺して不審な行動や態度をとるよりもいっそのこと明らかにおかしい態度をとって自分の心を正しい状態に直そうと自棄になっていた。


笑いながら走り去ろうとする康太の背を見て文は意図的に走る速度を上げる。離れていった康太の背中は徐々に近づいていき、やがて並走する。


「お?なんだ?本気出したか?」


「・・・あんたにおいてかれてたまるもんですか・・・!」


おいていかれたくない。それは文の本心だ。


自分のほうが魔術師として優秀なはずなのに、戦闘面でも康太よりも優秀なはずなのに、自分は康太に助けられてばかり。文はそんなことを考えて康太より先を走ろうとするがそこは陸上部の康太、簡単に先に行かせてくれない。


魔術師として優秀でも、康太は文が持っていないものを持っている。もともと文はそれを知りたくて康太とともに行動している。


その根幹を思い出して文は全力疾走しながら康太と競っていた。


思えば、最初に出会ってから康太とは本気で競ってばかりだ。普段の訓練の時も康太は手加減というものをしてくれない。もちろん自分も手加減はしない。


一対一での勝負は文のほうが上なのだ。康太が文に勝つことができるパターンは限られているためそれさえさせなければいいだけなのだ。


魔術師としての戦闘能力は文のほうが上、だが魔術師としてではない部分、戦闘における総合的な能力に関しては康太のほうが上だ。


それはおそらく、技術もその理由に含まれるだろうがもっと別なところなのだ。もっと別の何か、康太の中に文の中にはない何かがある。


小百合のようにどこかが壊れているのかもしれない。人として必要な部分が欠損しているのかもしれない。


だがそれがあるからこそ、康太は文よりも実戦において成果を上げている。


それがいったい何なのか、文は知りたかった。


徐々に康太が文を置いていく。康太のほうが走る速度が上なのだから当然だろう。文が全力疾走を始めた時点で康太も長距離走の走りから短距離走の走りへと切り替えている。


完全に文を置いていく走りだ。その差は徐々に広がり、やがて文は康太の背中を再び見ていた。


大きな背中、太い腕、何度も見た黒い髪、わずかにのぞく汗がにじむ首筋。


文は康太のその背中を見ながら体力の限界まで使う勢いで全力疾走した。だがそれでも追いつけない。


悔しくはない。いや悔しくないことはないが、今は悔しさよりももっと別の感情を抱いていた。


その感情に文が気づくよりも早く、康太は一瞬文のほうを振り返り勝ち誇った顔をして見せた。


その笑顔を見て文は瞬間的に目を見開いて走る速度を緩めてしまう。


そしてそんな文を見て自らの勝利を確信したのか、康太は右腕を掲げながら同じように走る速度を緩める。



「はっはっは、走りでテニス部に負けるわけにはいかないな。瞬発力で負けても持続力なら負けないっての」


「・・・はぁ・・・はぁ・・・」


康太が再び長距離用の走りに切り替えている中、文はその場で立ち止まり中腰の体勢で荒く息をついていた。


全力疾走をしながら康太と張り合ったせいで足が言うことをきかなくなっているのだ。少し体力を回復しないと歩くことも難しそうである。


「っておいおい、大丈夫かよ。やっぱ病み上がりだときつかったか?」


「・・・そ・・・うね・・・きついわ・・・走るとき・・・は・・・もっと・・・計画的に・・・やらないと・・・」


息も絶え絶えの状態で文は何とか康太と会話するが、さすがに体力が若干落ちている状態でここまで康太に張り合ったのは我ながらバカらしかったなと自分の行動を強く反省していた。


だが、ようやくわかったこともある。気づけたこともある。


「こ、康太・・・ちょっといい?」


「なんだ?やっぱ保健室行くか?」


「保健室は・・・いいから・・・ちょっと肩貸して・・・水飲み場・・・行きたい」


「わかった。とりあえずほいっと」


康太は少し身をかがめて文の腕を掴むと自分の首に引っ掛けるような形にして軽く文の体を持ち上げる。

身長差のせいで少々姿勢がつらいようだが、康太は別段気にした様子はなかった。


「もうちょっと少しずつ体を戻さないとダメだって。いきなりやっても体がついていかないぞ?」


「・・・十分、学んだわ・・・プール行くとか、ジョギングとかしようかしら」


「そうしろそうしろ。テニスだって結構走ったりするだろうから体力必要だろ」


自分が怪我をして動けなかったのはほんの一週間程度だったはずなのに、これほど体力が落ちているとは思わなかった。


継続は力なりという言葉を文はこれほど強く実感したことはない。思えば康太は毎日のように小百合との訓練をしているのだ。


なるほど康太が強くなるわけだなとほんのわずかに康太のほうを見ると、その視線に気づいたのか康太は文のほうを見返す。


どうしたのだろうかと不思議そうな顔をしてから何か思いついたのか少し渋い顔になってしまう。


「臭いとかいうなよ?肩貸してやってるんだから男子高校生のスメルを堪能できると思ってくれ」


「・・・気にしないわよ・・・ていうか・・・においとか気にしすぎ」


「そうか?普通俺らの歳の女子ってにおいとか気にするんじゃないのか?」


「・・・まぁ、否定はしないけど・・・」


「ていうかお前だって気にしてるんじゃないのか?めっちゃいい匂いするけど」


そういって康太は文の体のにおいを一瞬嗅ぐ。康太にとっては文のにおいはいい匂いに感じられるのだろう。


そんなことを思われているのはうれしくもあり恥ずかしくもある。体力が残っていたのであれば過剰な反応をしたかもしれないが、体力の限界まで使いきっている状態ではほとんど反応することはできなかった。


まだ頭に酸素がきちんと巡っていないのか、そこまで鋭敏な反応ができない。だからというわけではないが、文はゆっくりと康太の鼻をつまんで思い切り引っ張る。


「あんたね、女子高生のにおいを勝手に嗅ぐんじゃないの。セクハラで訴えるわよ」


「何をいまさら・・・文のにおいなんて覚えちゃったよ。今なら簡単に追跡できるぜ?」


そういえばこいつは嗅覚強化の魔術を使えるのだったなと今更ながら康太のにおいに関する感覚が自分たちのそれとは若干違うのだということを思い出す。


「そういえばさ・・・前に私のにおいのこと言ってたわよね・・・」


「あぁ、文のにおいは文っぽいぞ」


「・・・その私っぽいってのが・・・よくわからないのよ・・・どうなの?甘そうなの?辛そうなの?それとも・・・すっぱそうなの?」


においといえどいろいろな種類がある。それぞれの種類によってさまざまな特徴を持っているものなのだ。


人間の体臭だって千差万別。人によっては多種多様なにおいを持っている。


年齢によっても変化するその匂い。康太が文のにおいをどのように感じているか文は気になっていた。


「んーとだな・・・まず甘そう、なんだけどちょっとしょっぱいようなにおいもする。炒め物っぽいようなにおいもするんだけど、ちょっとお菓子っぽい気もする。花?みたいな感じのにおいもする。それらを全部混ぜたような感じ」


「・・・何そのわけわからないにおい・・・ただの悪臭じゃない」


「何を言うか。これがまた絶妙なハーモニーを醸し出しているんだよ。少なくとも俺は結構好みのにおい。文の体臭香水とかあったら売れるぜきっと」


喜んでいいのか微妙なところだったが、文は康太が自分のにおいを好みだといった。そのことに少しだけだが頬がほころんでいた。


においというのは人間が有する五感の中でもかなり重要な器官だ。味覚と同様個人によって好みが大きく分かれる。


その好みに合っていたというのは素直に喜ぶべきことなのだろう。


そしてそんなことを考えた文は、自分の中に抱いていた感情を無意識のうちにまた一つ理解していた。


康太によって水飲み場まで連れてこられた文は自分の頭を蛇口の真下に突っ込むと思い切り水を出して頭から水をかぶっていた。


本当はやらないほうがいいのだが、熱くなった体を一気にクールダウンさせるためには必要不可欠な行動だった。


何より話している間に少し回復した体力と、脳に十分に回り始めた酸素のおかげでようやくまともに思考ができ始める。


冷静に考え、冷静に先ほどのことを思い返すと顔から火が出そうだった。それを冷ますためにも今は水をかぶるべきなのだ。


十一月も終わるというこの寒空の下、頭から水をかぶるという行為がいかに危険であるか文も理解している。


修行をする僧侶や坊主ではないのだからこんなことをすることはないのだ。だがそうせざるを得ない状況になってしまっているのも事実である。


「おいおい文、さすがにそれはやりすぎだって・・・病み上がりの状態のくせに今度は風邪ひくぞ?」


「・・・いいのよ・・・今はこうしてたほうが落ち着くわ・・・」


「いや見てるこっちが落ち着かねえよ。とりあえず顔上げろ。ほれタオル使え・・・ていうか髪もびちょびちょじゃんか・・・何がお前をそうまで駆り立てるんだよ・・・」


「・・・やんなきゃいけない時があんのよ・・・今がその時だったってだけ」


「・・・何がどういうことなのかわからんけど・・・時期を考えてやろうな?」


康太は自分の使っていたタオルを使って濡れた文の髪をふき始める。


もともと長い髪を持っていた文が思い切り頭から水をかぶったせいでジャージなどにも水が滴ってしまっているが文は気にした様子はない。


まるでいじめでもうけているのではないかと思えるほどの惨状だ。さすがの康太でもこの状態で文を放置することはできなかった。


「このまま放置すると割とマジで風邪ひくな・・・ちょい待ってろ・・・とりあえずこうしてっと・・・」


康太は文の頭に触れて肉体強化の魔術を発動すると、文の身体能力をまんべんなく高めていく。


どの程度効果があるかはわからないが少なくとも多少は抵抗力を高めてくれるだろう。


「あとは・・・ちょっと目立つかもしれないけど仕方ないな」


康太はそういってほんのわずかに文の髪めがけて微風の魔術を発動する。風によって濡れた文の髪を徐々に乾かそうとしているのだ。


これで温風などを吹かせることができたのであれば乾きも早かっただろうが、あいにく康太はそんな技術はない。


周囲が乾燥しているために比較的乾きが早いと思いたいが、いったいどれほどの時間がかかるかは分かったものではない。


「ていうか体力は大丈夫か?さすがにちょっとは戻っただろ」


「・・・まぁね・・・っていうか昼間っから堂々と魔術使わないでよ」


「状況が状況だろ?それにこの程度であれば気づかれてないって。ていうか普通にみて気づくほうがすごいわ」


康太が使っている魔術は肉体強化と微風の魔術。この二つは気づこうと思ってもなかなか気づけるものではない。


そもそも肉体強化はその変化を肉眼で確認することは難しく、微風の魔術に至っては自然発生する普通の風と見分けることそのものが難しい。


仮にこの学校の全員が魔術師でも康太が今魔術を発動していることを一見して見抜けるものはごくわずかだろう。


「よしよし、乾いてきた・・・ていうか文どうした?今日なんかいろいろおかしいような気がするけど」


その原因はあんたよと文は言いたかったが、いえるはずもなくのどまで出かかった言葉を強引に飲み込んだ。


康太も文の変調に気付いている。さすがに半年以上ほぼ毎日顔を突き合わせているのだから気づくのも仕方がないだろう。


康太にあまり心配はかけたくないなと文は小さくため息をついてそうねとつぶやく。


「実はちょっと悩んでるのよね・・・いろいろと」


「ほほう・・・俺でよければ相談に乗るぜ?」


「女の子のデリケートな話なの。男子はすっこんでなさい」


「・・・そうなのか・・・」


文の言葉に康太は目に見えてしょんぼりしてしまっていた。文の力になりたいと思っていたからなのだろう、その落胆は大きいように見えた。


「・・・とりあえず時期が来たらあんたにも話すわ。無関係ではないし。一応今日あたりアリスにでも相談してみるつもりよ」


「・・・アリスでいいのか?そこは姉さんとかのほうがいいんじゃねえの?」


ここで自分の師匠である小百合を引き合いに出さないあたり康太らしいなと文は苦笑してしまう。


小百合に女らしさを求めても仕方がないということを十分理解できているからこそ文は笑うだけでそれ以上言及はしなかった。


「そうね・・・でも真理さんはちょっと近すぎるというか・・・アリスは人生経験豊富だろうから相談に乗ってくれると思うのよ」


「・・・なるほど、何百年生きてるのは伊達じゃないからな」


康太は文の言い分に素直に納得しているようだった。女性としても人生の先輩としてもアリスは相談相手としてはうってつけかもしれない。


多少茶化されるかもしれないが、真剣に相談すればきっとアリスは真剣に答えてくれると文も康太も信じているのだ。













「というわけでアリスあと頼んだ」


その日の放課後、部活が終わった後に文と康太は小百合の店を訪れていた。そして康太は文をアリスが普段いる趣味のスペースに放り投げると自分は小百合との訓練を開始するべくその場を後にしていた。


いきなり何も説明せずに文を放り投げて去っていった康太を見てアリスはいったい何事だと眉をひそめていた。


「もう少しまともに説明というものができんのかあいつは・・・というかフミ、いったいどうした?コータから聞くに最近様子がおかしいようだが」


「ん・・・聞いてたのね・・・。うん・・・最近ちょっと悩んでて・・・アリスに相談に乗ってもらえればなって思って」


相談に乗ってほしいという申し出に、アリスは目を丸くしてしまっていた。自分が相談相手の選択肢の中に入っていたことそのものが驚きだったのだ。


明らかに相談相手を間違えているのではないかと思えてしまう。そしてその考えは決して間違ったものではないだろう。


普通もっと親密な間柄、例えば友人とか師匠とか家族とかそういう人物に相談するのが普通のように思えた。アリスのように出会ってそこまで時間も経っていない、ただの同盟相手に相談するということそのものが妙だとアリスは感じていた。


「相談・・・はいいのだが、いったいどんなことだ?悪いが将来の夢やら職業やらについての相談ならほかをあたってもらえると助かる。絶賛無職の身で相談に乗れるほど私は厚顔無恥ではない」


アリスは確かに今働いていない。というかおそらくここ数百年働いていないのではないかと、アリスは自分の記憶を思い返しながらかつて働いたことのある時間を思い出そうとするが、少なくとも百年近い単位で働いた記憶はない。


具体的に何かの職業に就いたことすらない気がする。時折戯れでどこかの店の手伝いをやったことがあった気がするが、その記憶もだいぶ薄れてしまっている。


もはや事実なのかすら定かではない。


「あんたを無職として定義していいのかはさておき、そういうのじゃないわ。なんていうんだろう・・・人生相談みたいな?」


「人生相談・・・か。このような幼子の姿をしたものにする相談か?それこそ親やお前の師匠にするべきではないのか?」


アリスは確かに何百年も生きていて人生経験は豊富だろう。おそらくというか確実にこの世界の誰よりも長く人生というものを味わってきている。


酸いも甘いも知り尽くした経験の塊だ。相談相手としては間違っていない気もするがアリスの言うように親や師匠である春奈に相談するのが普通だ。文は段階をいくつか飛ばしてアリスのもとに相談にやってきているのである。


この状況では康太が無理やりに置いていったように見えなくもないが、文が自分から相談を持ち掛けたことからそういうわけでもないのだろうとアリスは判断していた。


「なんていうか・・・師匠やうちの親は近すぎて・・・その・・・相談するのがちょっと恥ずかしくて・・・」


「・・・おぉう・・・なるほど・・・久しく接触していなかったが・・・これが思春期というものか・・・そうか・・・思春期か・・・」


アリスは誰に向かって言っているわけでもなく、何度か思春期という言葉を反芻すると小さくうなずいて小さくため息をつく。


「そういうことならば仕方がない。近すぎる相手よりも多少無関係・・・というか遠い存在だからこそ相談できることもあるだろう。存分に打ち明けるがよい」


「ありがと・・・最近ね、ちょっと変なのよ」


「変・・・とは?体調の話か?そういえば以前怪我をしていたな。マリに治してもらったのではなかったか?」


「真理さんのおかげで怪我も完治したわ。そっちじゃなくて・・・」


「なんだ、生理不順か?その歳には割とよくあることだろうに」


「そうじゃないわよ。とにかく体調面じゃなくて精神面でちょっと」


アリスの言うように体調面での不調だったらどれだけよかったことかと文は大きくため息をついてしまう。


なぜこんな遠回りをしなければいけないのだろうかとあきれてしまう。どうやらアリスも悩みを相談されるということはあまりないようで少しテンションが高い。


暇を持て余して趣味にいそしんでいる身としては、文のような思春期の女の子の相談事というのはある意味娯楽といえなくもないのだろうか。


あまり良い趣味とは言えないが相談に乗ってもらっている手前あまり強く言うことはできなかった。


「精神的に・・・か・・・鬱とかそういう話かの?」


「そういうのでもなくて、なんていえばいいのかしら・・・何度も何度も同じ光景が頭をよぎるというか・・・思い出しちゃうというか・・・そのせいで最近何やってても全然集中できなくて・・・」


同じ光景が頭をよぎる。その単語にアリスは眉をひそめた。それがどういう意味を持っているのかアリスの中にいくつか心当たりがあるのである。


そしてそれが精神的な一種の病であることも理解していた。だからこそこの相談が案外深刻なものなのではないかと思い込んでしまっていた。


少なくとも先ほどまでのテンションとは打って変わって、本気で文の相談に乗り解決策を模索しようとしているようだった。


さすがのアリスも深刻な症状に対して笑って対応するほどデリカシーは欠如していない。時と場所と状況を選べるだけの精神はあるつもりだった。


「特定の状況・・・というのは、ひょっとしてこの前フミが怪我をしたという戦闘の時の話か?」


「・・・うん、そうなの。夢にまで出てくる始末で・・・」


文の言葉にアリスは深刻な表情のまま口元に手を当てて悩み始める。かつて似たような症状の人間を見たことがある。


そしてアリスはその人物がどのような状態にあったかを知っているだけに、目の前の同盟相手が似たような状態になってしまっていることに少しだけ心を痛めていた。


「フミよ、考えるなというのは無理な話だろうし、何より勝手に思い出してしまうのも仕方のないことだ。一種のトラウマになってしまっているのだろう」


「トラウマ?」


「うむ・・・えぇと・・・現代では何というのだったか・・・あぁそうだ心的外傷ストレス障害だったか。おそらくフミはそれに近い状態になっているのだろう。


心的外傷ストレス障害。別名PTSDと呼ばれる精神疾患の一つだ。


文字通り心に強いストレスや外傷を受けたときにそれがのちの精神状態に、さらには肉体にまで影響を及ぼす症状を示す。


それは睡眠不足だったり食欲不振だったり、頭痛や腹痛、幻聴や幻覚、あるいは鬱だったりと個人やその程度によってその症状は異なる。


文の言うような物事に集中できないというのも立派な症状の一つだ。今はまだその程度で済んでいるが、今後その症状がさらに悪化する可能性もあるとアリスは文の様子をだいぶ深刻であると判断していた。


「私の昔の知り合いにもいた。多少状況は違うが戦闘の時の状態を何度も繰り返して思い出していたよ。夢と現実の区別がつかなくなっていたり、何も音がしていないのに銃の発砲音を聞いたりとひどいありさまだった」


「・・・そんなに?」


「フミよ、その光景というのは思い出すときにほかの情報もあるか?その程度によって深刻さがわかる。つらいとは思うが思い出してみてくれ」


「・・・んと・・・その時の光景と、その少し後の温度とか匂いとか・・・そういうのを思い出す・・・かな」


温度と匂い。その言葉にアリスは眉をひそめていた。


五感の中での触角と嗅覚にまで働きかけているとはなかなかに重傷であると考えているのだ。


よもやそこまで深刻なものだったとは思わなかっただけに文の精神状態を案じながらもなんとか治すことができないかと悩んでいた。


精神的な病を治す方法はいくつもある。投薬だったり日々の生活の改善だったりカウンセリングだったりとその手法は症状によって異なる。


小百合が今神加にやっているように、考える暇もなく常に忙しくさせ、なおかつ安心できる環境を整えるというのも一種の精神病の治療といえるだろう。


とはいえ文に対してどのような治療を施せばいいのか、アリスは今のところ一つか二つ程度しか思いついていなかった。


「・・・そういったトラウマに関しての対処法はいくつかあるが、一番楽なのは思い出せなくすること、つまりは忘れることだ。魔術を使えば記憶の消去も可能だが・・・その記憶はもうだいぶ前のことなのだろう?」


「うん、最後の調査の時のことだし・・・」


「となると記憶の消去は難しいな・・・すでに強く結びついてしまっているだろう・・・思い出しにくくすることはできても忘れることはできん・・・しかもそれだけ何度も思い出すとなると・・・」


魔術による記憶消去というのはある程度時間が経過すると正しく発動しなくなってしまう。


人間の脳というのは整合性を求めるもので、唐突にその記憶が消えるということはその前後の記憶とのつじつまが合わなくなるが、脳自体がそれを拒否するのだ。


以前にもあった補完ではないが、前後の記憶がその消去した記憶を補完する。そのためある程度時間が経ってしまうと脳の中でその記憶とその前後の記憶との結びつきが強くなってしまい消すことができなくなってしまうのだ。


「あとは・・・その記憶を操作することか・・・時間が経ってしまっているからだいぶ難儀するが・・・できないことはないぞ?」


アリスほどの実力をもってすれば、かなり時間が経っている記憶でも操作自体ならできなくもない。


消すのではなくその記憶を都合のいいように改竄するということだ。記憶の改竄というのはあまり聞いていてよいものではないし、アリスも解決方法としてはあまり推奨できないものだった。


こういうのはなるべく自然に自分自身で折り合いをつけるもの。そうでなければいつかどこかで矛盾やしっぺ返しを受けるものである。


「なるべく・・・記憶は消したり変えたりしたくはないのよ・・・それは・・・なんかいやなの・・・」


「ふむ・・・となるとやはり今は思い出さないようにするのが一番いいだろう・・・ちなみにだがどういった時に思い出すのだ?それがわかるといろいろと対応できるかもしれんのだが」


記憶というのは人間の脳の中に保管されているが、それを呼び起こすのは全く関係のないものやその状況に近しいものなど多岐にわたる。


だが特定の記憶を思い出す場合はたいていそのパターンがある。そのパターンを把握すればその記憶を思い出しにくくする程度ならばできるかもしれないとアリスは考えていたのだ。


誤字報告を50件分受けていた、そして話をまたいだので残りの八回分投稿


話をまたぐと地味に面倒ですね


これからもお楽しみいただければ幸いです

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