夢ではない
殺されるくらいなら。そう言う気持ちで康太は弟子になると告げた。
魔術を一つ修得すればいいのだ。それさえすれば自分は自由の身になる。まだ魔術という存在を認めたわけではないが、今はこういっておいた方が正しいだろう。
康太の返答にそうかそうかと嬉しそうに呟きながら仮面の女性は康太の口を無理やり開かせる。
「お前が私たちの事をしゃべらないようにちょっとした術をかけさせてもらう。もししゃべったら命はないと思え?」
女性が康太の舌に触れると、触れられた部分がまるで焼けるように熱くなる。悲鳴を上げることもできないような熱さの中、女性は一枚の紙を取り出して康太に手渡した。
「明日この場所に来い。明日から稽古をつけてやる・・・お前の運がどこまで持つか、楽しみにしているぞ」
熱さに悶えている康太の頭を軽く叩くと強い衝撃が走る。それと同時に康太は意識を喪失した。
まるで今までのやり取りがすべて夢だったのではないかと思えるほどの唐突な話の終わり方。そして体に残っている妙な倦怠感。一体なんだったのだろうかとまどろみの中で考えていると、康太は体を勢いよく起こした。
殺されるのではないか。
先程感じたその強烈な寒気はもうすでにない。そしていつの間にか既に夜から朝へと変わりつつある空模様を見ながら、先程のあれは夢だったのだろうかと康太は大きく欠伸をする。
だが、自分の寝間着代わりのTシャツの中に何かが入っているのに気が付くと、康太はそれを取り出してみる。
それは一枚の紙だった。そこには女性らしい字でとある住所が書かれている。
明日この場所に来い。
女性の声が頭の中で反芻される中、康太はめまいにも似た症状を起こしてしまっていた。
夢ではなかった。
そう確信するのに十分な材料。だが康太はまだ信じられず、部屋にある手鏡を掴んで自分の舌を見てみることにした。
そこには妙な文様が描かれていた。所謂魔法陣のようなものだろうか、あの夜のことが夢ではなかったのだという事を否応なしに突きつけられ、康太は強いめまいを感じていた。
魔術師
一体どんなファンタジーだと康太は呆れてしまう。何がどうなっているのか、そして自分は何に巻き込まれたのか。
さらに言えば自分はその魔術師の弟子になると言ってしまった。この舌の紋様は今日この場所に行かなければ殺すというそう言うマークなのだろうか。
寒気を覚えながらとりあえず今日の予定を確認する。
受験真っ只中という事もあって、授業は午前中で終わる。午後にはこの場所に向かえるだろう。
自分の受験がすでに終わっていてよかったと思いながら、康太はとりあえず起きることにした。
部屋の様子を確認してみるが、窓は閉まったままだ。どうやって部屋に入り込んだのかわからないが窓ガラスが割れた痕跡などは無い。
この紙が残っているという事は、この舌に妙な文様が浮かんでいるという事は確実にあの女性は自分の部屋に入り、なおかつ自分に何かをしたという事なのだ。
あの時寒気が入り込んできたという事は窓から入ったのは間違いないはずなのに窓は閉まったまま。
出ていくときにどうにかして閉めたのか、あるいは康太の親が様子を見に来た時に窓が開いていることに気付き閉めたのか。
そのことは後で確認してみる必要がありそうだった。
まだ朝も早く、家族も誰も起きていないようだった。これは幸運だったかもしれない。舌に刻まれたこの妙な文様のことを突っ込まれずに済む。
康太は手早く着替えると朝食を摂り学校に行くまでの間ネットニュースを見ることにした。
先日の事故二件のことについて調べようと思ったのである。
あの二つの事件はあの魔術師が起こしたと言っていた。一体どのようにして起こしたのか気になったのである。
二件目のあのフェンスの柱が落ちてきたのはまだ人の手で何とかなるかもしれない。フェンスを支えている柱を物理的に外して康太が歩いてくるのを見計らって落とせばいいのだ。
だが車が突っ込んだというのはどうやればいいのか全く分からない。ただの偶然を自分がやったという風に言っているだけの可能性もある。
康太はまだ魔術という存在を認めることはできなかった。
魔術などという非現実的なものがあるとは思えないのだ。ただ単にあの女が妄言を吐き散らしているようにしか思えない。
そして康太は昨日接触した二つの事件の記事を発見することができた。
被害者が少なかったという事もあり小さな記事だが、場所と時間から見て間違いなく昨晩康太が遭遇した事故である。
車の方に関しては運転手の操作ミスの可能性が大きいとのこと。フロント部分が大破しておりどうしてこれが起こったのかを説明することはできそうになかった。
鉄の柱に関しては不審な点が多いらしい。本来フェンスの柱というのは深く埋められているはずである。現場の写真を見ると他の柱はすべて異常なしなのにその鉄の柱だけがすっぽりと抜け落ちている。
強い力をかけたような痕跡もなく、ただ柱だけがその場から移動したような、そんな状態になっている。
少なくともフェンス自体も切断されたような形跡はないようだ。一体どのような手段でこれを行ったのか、康太の知る限りただの物理的な手段でこの二つを起こせたとは思えない。
車の方がただの偶然だったとしても、フェンスの柱の方に関しては説明がつかない何とも不思議な事件として取り扱われていた。