勝敗に至るまで
スポーツなどでもあることだが、基本的にプロと素人が戦えば普通はプロが勝つ。スポーツの本来の戦いを行えば当然プロが勝つ。それは至極当たり前のことだ。なにせそれを生業にしているのがプロというものなのだから。
だがその勝負の内容を限定した場合、その当然の結果は、当たり前の勝利は覆ることがある。
例えばサッカーを例に挙げてみよう。前半後半すべて合わせた九十分、さらにロスタイムを含めた完全にルール通りのサッカーを行えばプロと素人ならばプロが大差をつけて勝利するのは明白である。
恐らくこの世界上で誰もが理解でき、なおかつ納得できる結果だろう。その結果は下馬評通りと言えるもので決して覆ることはない。
だがここで勝負の内容をPKに限定し、さらに先にゴールを入れたほうが勝ちというものに変更したらどうなるだろうか。
そうなると素人が先行していた場合、万が一にも勝てないという事は無くなる。
運が良ければ勝つことができるのだ。もちろんその可能性はかなり低いが。
スポーツなどは可能な限り運による勝敗の変化が介在しないようにルールを定めている。あらゆるルールを敷くことによって総合的な実力によって勝利を得られるように考えられている。
それは魔術師の戦いにも同じことが言える。
魔術師としての素質、そして戦いにおけるセンス、魔術師として過ごした時間、それら全てをぶつけられるのが魔術師たちにとっての正攻法であり戦いの基本なのだ。
だが戦いである以上別に厳格なルールがあるわけではない。スポーツのそれと違ってそこにあるのは厳格なルールではなく暗黙の了解なのだ。
互いが勝手にあると錯覚している架空のルール。互いが相手に勝手に求めている魔術師としての矜持なのだ。
だが当然別に決め事として存在しているわけでもなければそれを破ったところで別に何か罰則があるわけではない。それ故に小百合はその決まりを守らない。そして康太もそれと同じだ。
何故ならそれを守れば康太は確実に勝てないからだ。
そもそも素質の時点で平均以下、さらに言えば経験でさえもかなり劣る康太が勝つことができると言えば魔術師らしくない戦いをする以外に方法がないのである。
「ライリーベル、お前は何故ビーに負けたと思う?」
小百合の言葉に文は眉を顰めながら床に倒れたままの康太を見下ろしていた。
康太の魔術師としての実力は下の下、まだまだ駆け出しの部類である彼に何故自分は負けたのか。
ここ数日の訓練で文は徐々にではあるがそれを学びつつあった。
「・・・経験不足・・・ですか?」
「それももちろんある。では何の経験が足りないと思う?」
偏に経験不足と言ってもその種類は数多く存在する。魔術師としての経験であれば文は康太よりも何倍も積んでいる。
だが実際に文は康太に負けた。経験不足であることは間違いない。だが一体何が不足していたのか。
「・・・戦いの経験ですか?」
「・・・随分とあいまいな言い方をするな。お前に足りないのは殺し合いの経験だ」
殺し合い
その言葉に文は口をつぐんでいた。どんなに魔術師同士の戦いを高尚なものであると捉えようとその根底にあるのは闘争だ。
相手よりも上である、相手よりも優れている、それを突き付けるための戦いと言っても相違ない。
その先にどのような結末が待っているかを想像するのは難しくない。
「どんな言葉で取り繕おうと、結局のところ魔術師の戦いは殺し合いだ。魔術を受ければ最悪死ぬ。魔術を当てれば最悪殺す。お前にはその気構えが圧倒的に足りない」
「・・・康太は・・・ビーはそれを備えていると?」
「いや、こいつもまだそこまでの気構えは持っていないだろう・・・だがやらなければやられるという考えは持っている」
それは弱者の思考。圧倒的強者を前に追い詰められた生物がもつ究極の思考とでもいえばいいだろうか。
窮鼠猫を噛むという言葉がある通り、極限まで追い詰められた生物は何をするかわからない。
あの戦いの時、康太は限りなくその状態に近くなっていた。弱者であるが故に強者に立ち向かう際の最適な思考が、それすなわち魔術師が本来有しておくべき思考のそれにシンクロしたと言えるだろう。
「お前は才能も素質もセンスもある。だが追い詰められるということに慣れていない。まずはそこに慣れる事から始めるべきだ。そうしなければお前はいつまで経っても駆け出し以下の魔術師だろうな」
自分の師匠とは違って歯に衣着せない物言いに、文は反論することができずにいた。
確かに彼女のいうことは事実だ。自分の魔術の訓練は常に安全な状態で行っていた。基本的に危険と隣り合わせな状態ではない以上追い詰められるような状況などあり得ない。
それに対して康太は常に危険と隣り合わせの状態での訓練を強いられている。それ故に危機的状況にも強いし、常に追いつめられているからこそそう言う状態でも常に平静を保っていることができる。
逆に言えばその状態でも平静を保ち、常に冷静に対処できるようになれば自分はまた一つレベルアップすることができるという事でもある。
「わかりました・・・もう一度お願いします」
「一度などと水臭いことを言うな。二度でも三度でも何度でもやってやる。こい」
この人のこういうところは自分の師匠とは違う。だがこれは非常にありがたい指導でもある。
温室育ちの花よりも、野原で生き抜く雑草の方が強く育つ。過酷な指導は弟子を想ってこそのものなのだと文は再び小百合に向かっていった。




