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ポンコツ魔術師の凶運  作者: 池金啓太
四話「未熟な二人と試練」
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訓練の違い

鐘子文の修業は、主に三段階に分けられる。


一つは新しい魔術の習得。これは康太とほとんど変わりはない。ただ彼女の場合魔術師としての五感を有しているために『伝授』のために記された魔術の術式、所謂魔導書を読み取ることでその術式を理解することができるため師匠が手助けする手間が一つ省ける。


自分の覚えたい魔術を探し、それを見つけたら魔導書を探し、その魔導書から術式を読み取って自分で発動する。新しい魔術を覚えるという事は彼女にとっては自主学習のそれに等しい行為だった。


もう一つは修得した魔術の応用。いや応用というのは適切ではないかもしれない。正確に表現するのであれば複数の魔術を同時に使用することで新しい効果を発揮させようとしていると言ったほうがいいだろう。


彼女の有する二つの魔術を例に挙げてみよう。


一つは自身の周りに電撃を発生させる魔術。これは高い威力を有する代わりにその射程が短く、なおかつ近接戦闘では自分も巻き込まれるという地味に使いにくい魔術である。


もう一つは水蒸気を発生させる魔術。より正確に言うなら水を発現し操作する魔術だ。霧のようにすることもできるし、水蒸気のように噴出することもできる。液体状で宙に浮かせることもできるがそこまで早く動かせないのが欠点である。

この二つを同時に使用することで、彼女は自身の周囲に発現させた電撃を遠距離でも使えるようにしたのである。


このように複数の魔術を組み合わせることで、本来できないことをする。あるいは一つ一つの魔術の性能を上げることができる。


この修業は師匠であるエアリス・ロゥ監修の下、万が一にも暴発したり暴走したりしないように互いに案を出し合いながらあれやこれやといろいろと試すことが多い。


組み合わせやその性質を確認しながらの試行錯誤を繰り返す実験と称したほうがより正確かもしれない。


そして修業の段階の三つめは覚えた魔術やその応用、複合術を狙った用途で扱えるようにする訓練である。


例えば先の例で言うのであれば電撃を狙った的に当てられるようにするなど、複数の魔術を同時に扱う事でさらに難しくなるその制御を確実にものにできるようにするという修業である。


いくら高い威力を持っていたとしても、利便性があったとしてもその成功率が低ければ意味がない。だからこそ何度も練習して彼女はその成功率を限りなく高くしたうえで実戦に投入していた。


それぞれの複合魔術の成功率を十割にしたところでようやく実戦投入が許される。複数の系統の異なる魔術を同時に操るという事を容易にやってのけるのは、彼女自身の才能というのもあるだろうが、それ以上に彼女の長年に及ぶ修業と彼女の真面目さによって勝ち得たものだと言っても過言ではない。


才能だけではなく彼女は努力によってその精密な魔術の操作を会得したのだ。もっとも初の実戦に当たってその精密さが逆に康太に攻撃を防がれる要因にもなってしまったのは言うまでもないことだが。


二人の修業は似ているようで異なる。いや対極と言ってもいいかもしれない。


康太の修業はあくまで実戦を想定したものだ。他のものに意識を奪われていても魔術だけは発動できるようにする訓練。そして魔術を実戦でも発動できるように限りなく実戦に近い形での戦闘訓練。


対して文の修業は魔術の精度を上げ、その性能や効果を向上させるためのものだ。単純な魔術の発動ではなく複数の魔術を発動することによって得られる相乗効果を得ようとする魔術そのものの訓練。


魔術師としては恐らく文の行っている修業の方が正しいだろう。なにせ魔術師のほとんどは肉弾戦など想定していないのだから。


ほとんどが魔術の撃ち合い、中距離における射撃にも近い魔術の早撃ちやそれに対する対応が本来の魔術師における戦いだ。


常に集中を保ち、高い精度と威力を持った魔術を発動する、それこそが魔術師における戦いの本質なのである。


そう言う意味では康太の行っている修業は魔術師のそれとは異なる。というか師匠である小百合がそう言う戦い方を好んでいるというのもあるだろう。圧倒的な日々の戦闘訓練が康太の思考を一時的に加速させるような効果を及ぼしたのは言うまでもない。


相手の攻撃に対してどうすれば対処できるか、どうすれば回避できるか。魔術だけではなく周囲にあるものを使って常に思考を巡らせたうえで行動する。


小百合との訓練で求められるのはそう言う泥臭い戦い方だった。文が考えているような魔術師同士の決闘に近い神聖性さえある戦いとは対極にあるものである。


だがその泥くさい戦い方に自分は負けたのだ。


魔術師としての戦いよりも、ただの闘争という形に引きずられるようにして自分は負けたのだ。


この訓練にも意味がある。そして文は訓練を数回見ただけでその訓練の意味をほぼ正確に理解していた。


だがやはりというべきか当然というべきか、人間というのは理解しただけでそれをすぐに実践できるわけではないのである。


それを理解し、実践し、何度も繰り返すことで自分のものにすることができる。そこに至るまでに必要なのは時間と鍛錬だ。


理解していても、体が動かない。そしてそれに加えて魔術を同時に使用しようと思うとどうしても体が疎かになる。


体を動かすと同時に魔術を発動するというのは実はかなり高度な技術なのだ。康太はそれを少しずつ段階をあげることで修得した。毎回行われる訓練とコツコツと積み重ねる地道な努力で会得したのである。


もっとも、それも小百合から言わせるとまだまだ荒削りであるらしいのだが。


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