先輩なんて、大嫌いです。
奈落に落下しながら考えます。
私、死ぬのでしょうか。
高さは二、三階程度。打ちどころが悪ければ、或いは。
けれど、私、運動神経良い方なんです。多分、落ちる過程であちこちに身体をぶつけて勢いを殺ぎつつ、頭を守って受け身を取れば。骨折で済むんじゃないでしょうか。
奈落。といっても、別にトロッコは漕いでませんよ? 落ちてます。一緒に漕ぐ相方も居ませんし。
ほら、呆けてる男子生徒なら、居ますけど。正にポカーンという感じで目も口も開けて。あれで先輩なんです。全く、しっかりして欲しいですよね。私が気に入らないにしても、後輩が目の前でステージの奈落に落ちてるのに、随分と呑気です。危機感無いんでしょうか。
あ。血の気が一気に引いたみたいですよ。真っ青です。貧血で倒れるんじゃないですかね。出来れば助けを呼んで来て欲しいんですが――。
「――アヤメっ!」
先輩が必死に私の左手首をつかみました。私の重さに引きずられ、先輩は肩口まで奈落に突っ込んで。
……止まりました。
私は痛む心臓を右手で押さえます。先輩に毛が生えてるんじゃないかと言われる丈夫さを誇る私の心臓も、流石に先輩を巻き添えにしての落下には、びっくりしてぎゅってなったみたいです。
それに。
勝手に名前で呼ばれて吃驚しました。苗字呼びから親しさがクラスチェンジですか、だが許可した覚えは無い。あんなかお、出来るんですね。覚えておきます、今後はもっと真面目にお仕事して頂きましょう。
申し遅れましたが、私は氷川アヤメ、二年の生徒会執行部員です。先輩も執行部員ですが、三年生ですので生徒会選挙が終わったらお役御免ですね。可愛くない後輩の面倒を見なくてよくなりますよ。清々するでしょうね。
今日も、午後の新歓レクリエーションの最終確認の後、一緒に組まされた私が忘れ物を取りに戻るのに付いて来て、挙げ句一緒に奈落に落ち掛けて。
お人好しな先輩ですね、他に私と組んでくれる人は居ませんよ。心臓に毛が生えてる、慇懃無礼、可愛くない。私は、自分が何ていわれてるか知ってます。でも、私は私ですから。
「先輩」
「何だ?」
その真剣な目、未来の彼女に取っておいて下さい。私に向けるな。
「離して下さいませんか。手汗が不快です」
右肩の痛みにしかめていた先輩の頬が引き攣り、目が据わりました。ええ、私に向ける目はそれで結構です。
「死んでも離さない」
殺伐とした声音は望むところですが、セリフが不適切です。リテイクを要求します。
ずるり。
引っ張り上げようと手繰り寄せる先輩の手が不意に滑り、私の手首が抜けます。
が、先輩は必死につかみ直しました。再びの加重に先輩は胸の辺りまで奈落に突っ込んでいます。それに。これではまるで、手を握っているみたいです。
手を繋いで奈落落ち。ロマンチックだとか思う感性は私にはありません。
「離して下さい」
「ったく、可愛くないな!」
絞り出す様な声でした。何で先輩が泣きそうなんですか。私の体重を支える肩が痛むんですか。
「気に入らないのなら、ただその手を離せばいいのですよ」
「無茶言うな」
お人好しな先輩。即答ですか。ですが、見くびって頂いては困ります。
「運動神経には自信があります」
この高さからでも打ち身とヒビ骨折で済ませる自信がありますよ。
「はあ!?」と言う様に先輩の痛みに歪むかおが驚きに染まる。
「この状況でキメ顔!? お前の無表情崩れんの初めて見た……」
それはそれは、無表情ですみません。これでも感情は豊かな筈ですよ。さあこの自信満々な表情を見て下さい。
「さあいつでも来い」
離して下さい。
「敬語キャラも崩れた?!」
注目して欲しいのはそこじゃありません。本当に、本当に、先輩ときたら!
離すかよ、なんてつかみ直さないで下さい。手が汗でぬるぬるします。不快です。不愉快です。
離す離さないで押し問答の末、インドア派で筋力も体力もない先輩は、ふと真面目なかおになった。
どきりとしたのは、あんまり真剣な目をして見下ろしてくる所為です。
「お前、懸垂出来る?」
……ええ、この状況をロマンチックだなどと言う感性なんて私にはありませんとも! 先輩もそうで安心しましたとも! 先輩のセリフをたっぷり数十秒理解できなかったなんて事も当然ありませんから! 少し面食らっただけですからね!
「ああ。成る程。先輩の手をツルに見立ててどこかの野生児の如く振り子の要領でステージ上に飛び上がれと仰るのですね」
「何そのアクロバティックショー!? お前そんなん出来るの?! どこの軽業師! ってか、今ノーブレス……」
動揺した事実など一切ありません、ただ先輩の提案に面食らっただけで。声がトゲトゲしい? 気の所為では?
「挑戦するのは構いませんが、先輩の腕が千切れる可能性が有ります。宜しいですか」
寧ろ千切りましょうか。
「淡々と怖い事言うな。大丈夫だ、千切れない」
やせ我慢ですね。無理に笑わないで下さい、一周回って面白いかおになってますよ? もういっぱいいっぱいでしょう? 私の手、離せば良いんですよ。事故なんです、誰も先輩を責めません。それに、私は大丈夫ですから。
お願いです。離して下さい。
「私は演台の中にスポッとはまりそうです。寧ろ激突しそうです」
奈落は演台の後ろにあります。飛び上がった勢いで、演台か、ステージ後方にぶつかる可能性は否定出来ません。先輩が私の手を持ち替えられない為、体勢を変えられないので対岸に行くのは無理でしょう。
この奈落、無駄に大きいですよね。無駄に深いですし。その上、メンテナンスが不十分で、何もない時に急にぽっかりと抜け落ちるとか、使えません。
「……もっと穏やかにいこう。なあ、お前って懸垂」
「人の頭は物理的衝撃を受けるとシナプスが死ぬらしいですね。中間テストで成績が下がったら春日井先輩の腕力が無かった所為です」
先輩の優しい声なんて聞きたくありません。まるで死亡フラグじゃないですか。
「懸垂嫌なの?」
「では今から先輩の腕と中間テストの成績を犠牲に私は地上に戻ります」
さっさと終わらせましょう。
「いけにえっておま」
「Fight!」
私はやる時にはやる女です。ブランコを漕ぐ様に身体を揺らして、――支点になるのは先輩の肩。早く、そして、出来るだけ先輩に負担を掛けないで。
振り子の要領で、ぽーんっと身体が宙に投げ出されました。
演台のギリギリ手前でストンと着地。
ふわりとスカートがそよぐ感覚に、しまった、と思いました。体育の授業ではないので、当然制服です。まさか。まさか、先輩は見てないと思いますが。
振り返ると、ぽかんと口を開けている先輩と目が合いました。
……。
冷静になりましょう、私。一応、助けてくれた相手ですし。先輩ですし。
……さて。先輩、先ずは起きましょうか。
手を貸して起こすと、悪いな、と謝られた。悪い? 助け起こした事ですか。それとも。
ああ、右手、庇ってますね。怪我をしたんですか。
「お前、ヒーローみたいだな」
ヒーロー?
……離れていく左手を、今度は私が捕まえた。
「え?」
面食らってるみたいですね、先輩。
「先輩、ありがとうございました」
ええ、先ずはお礼をしなくては。助けて頂いたのですし。
「あ、いや、結局おれは何も」
決まり悪げにする事なんてありません。
「格好良かったですよ」
最後まで、必死に私の手を握って下さった先輩、格好良かったです。
先輩は困った様に上を向きました。ええ、私に格好良いなんて言われても困りますよね、可愛くない後輩ですし。
ええ。解っています。先輩を困らせるつもりなんてありませんから。
ただ。一言言わせて頂くなら。
ヒーローとはどういう意味でしょうか。
いえ、後もう一つ。
「スカートの中を見てさえいなければ、危うく恋に落ちてしまいそうなくらい」
格好良かったと言ったのを取り消してもよろしいですか。
「痛っ」
握った手に力を込めると先輩は悲鳴を上げた。
「ちょ、あれは不可抗力! って、痛い痛い!」
ええ、事故だとは存じ上げております。ですが。
「紳士なら目を逸らすべきです」
恥を知りなさい。乙女心云々はともかく、私にも人並みの羞恥心はあります。スカートの中を見られて平然としてなんていられません!
「あんまり綺麗な着地で見とれてたんだよ!」
そのセリフに、思わず強く先輩の手を握り締めてしまったのは。
不覚にも、綺麗、という単語に動揺してしまったから、です。
悲鳴を上げる先輩の手をゆっくり放しました。
「……不覚でした」
本当に。
「初めて恋に落ちた人が、こんな人だなんて」
何で私の事を嫌いだと、面倒だと言いながら、構うんですか。一人でも大丈夫です、一緒に組んでくれなくて良いですから、放って置いて欲しかったです。
お人好しの先輩が誰にだって優しい事を知っています。私の事を嫌いだって事も、知っています。
ですから、今まで距離をちゃんと保ってたでしょう?
どうしてくれるんですか。
必死に目を逸らし続けて来た、殺した感情が、消えないじゃないですか。
大嫌いです、先輩。
私は呻く先輩を置いて、体育館を出ました。
出来るなら、うるさく鳴る胸の音も放り捨てて来たかった。