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「くそっ……アレスは何をやっておるのだ!?」
血を塗り込めた鏡の前で王冠を頭に載せた男が、苛々と口汚く罵っていた。
「陛下!」
「なんだ!?」
「ぐ、軍隊が国境へ押し寄せてきていると報告が……!」
「どこの国だ!? 分かるように報告せぬか、無能者め!」
報告に上がった男を、腹立ち紛れに蹴飛ばす王。
「も、申し訳ございません……ノーレとウギタとグリニジアが……」
王国――ガザルバニアを囲む三国が軍を進めてきたのだ。
「な、に……どういう、ことだ?」
訳が分からない突然の報告に愕然としていると、玉座の間の扉が開かれ見たことのない甲冑を身に纏う、兵たちが押し入ってきた。
「貴様ら、何者だ!?」
王が怒鳴り散らしていると、兵の群れが割れ、三人の上等な甲冑を身に纏った男が現れた。
「久しぶりだな、ガザルバニア王……我らが名乗るまでもないだろう」
見覚えのある三人に、王は唾を飛ばしながら詰め寄った。
「き、貴様ら……なぜ、軍を差し向けた!? 協定を破る気か!?」
「魔王を弑したことにより、魔物が怒り狂っている」
「貴様の独断で世界は混乱に陥る寸前でな」
「魔王を葬った者の首でも差し出すしかあるまい」
三人――三国の王の言い分にガザルバニア王は王冠を投げ付け威厳もなく怒鳴り散らす。
「わ、儂ではない! 儂が殺したのではない!」
「なに、貴方が殺したかどうかは然して問題ではないのだよ」
「くそっ……アレス、アレス! 助けに来ぬか!」
「鏡に向かって何を……気が触れたか?」
呆れた顔の三人に手に持っていた鏡を投げ付けるが、それは床に当たって砕け散った。
*
「切れたか……まぁ、あの王の行く末は決まりだな」
アレスが通信用に使っていた鏡に突然ヒビが入り、そこで映像は途絶えた。
ディリアの魔族、魔物は争いを好まない。彼らの王がそうだったからだ。
あの王の首一つで溜飲を下げてくれることを、魔王として信じるしかない。
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「アレスの脳波を調べたところ、催眠術で操られていたことが分かった」
おかしなところが全く見受けられなかったアレスの行動も、種を明かせば簡単なこと。
「催眠術ですか……」
ハナは納得したような顔で頷いている。魔術で操られていたら、即座にバレていたはずだ。
「ああ。アレスはハナの記憶を本当に自分のだと思い込んでいたのだ。ここへ来る前に術を掛けられたのであろうな……」
「じゃあ、あっちの世界と通信するときは催眠状態が解けてたってこと?」
「おそらく」
アレスは神の記憶に飲まれ、その世界を彷徨っている。もう、まともに口を利くこともできないから全て推測でしかない。
「すまぬ、ハナ。もはや、そなたに記憶を返すことはできん」
「いらないです」
皇帝が顔を歪めて言うと、ハナはきっぱり断った。
「……理由を聞いても良いか?」
「ん……だって、神様の知識とか記憶とか、そんな物騒なもの欲しくないもん」
歪めていた顔を嬉しそうに綻ばせた皇帝にハナも笑った。
魔物たちを殺したことは記憶になくても、事実として忘れないようにしなければならない。
そして、それ以上に神を屈服させる力や魔力は、ハナは欲しいなど思わない。
「そうか……」
それきり、どちらも口を開かなかった。
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「余は、何に目が眩んでおったのだろうな……」
初恋など己に不釣合いな言葉に踊らされて、とんだ道化だ。
だが、長い時を生きてきた彼にとって、初めて生きている実感を味あわせてくれる言葉でもあった。
言葉に踊らせれて、アレスこそが初恋の女性であると信じたかっただけだ。
今なら分かる。
その言葉は、メルカーノに収容されたハナを初めて見た時にこそ始まっていたことが。
「……もう、終わりだ」
やらなければならないことがある。
ハナを愛する者として。